Via Vino
No.16 “Wine & War”<ワインと戦争>
<日時・場所>
2008年4月19日(土)12:00〜15:00 丸の内「エスカール・アビタ」
参加者:22名
<今日のワイン>
シャンパーニュ「ローラン・ペリエ・ブリュット・NV」
フランス・アルザス・白「ユーゲル・アルザス・リースリング 2005年」
フランス・ロワール・白「ドメーヌ・ユエ ヴーヴレ・セック ル・クロ・デュ・ブール 2004年」
フランス・ブルゴーニュ・赤「ジョセフ・ドルーアン コート・ド・ボーヌ・ルージュ2004年」
フランス・ボルドー・赤「レゼルヴ・ド・ラ・コンテス2000年」
<今日のランチ>
【前菜】ワインにあうオードブル盛り合わせ
【魚】白身魚のグリル・ホワイトソース
【肉】豚肉のワイン煮
【チーズ】ロワール産シェーブル
1.はじめに
4月締め切りの課題論文がありまして、選んだテーマは「フランスワインの危機」。日本ではシャンパーニュもブルゴーニュもボルドーも、そこそこ高級品が売れているので、危機と言われてもあまりピンと来ないかも知れませんが、実際のところフランスワイン最大の輸出相手であるイギリスもアメリカも、今一番沢山買われているのはフランスワインではなくオーストラリアワインだったりするのです。
ではどうしたらフランスワインがもっと注目され、今そこにある危機を脱することができるのでしょう。規制緩和や資本投資、若者対策など、国内外でやらなければならないことは沢山あるようですが、私自身は「フランスワインの歴史をもっとアピールするために啓蒙活動に力を入れるべきだ」と書きました。人件費や土地代、企業力で上回る新世界ワインに対抗するには、千年近くにも及ぶ歴史というヨーロッパワインならではの付加価値を無視するべきではないでしょう。
論文の方はどういう評価に落ち着くか分かりませんが、私自身はやはり「ヨーロッパのワインを知るには、ヨーロッパの歴史を知る必要がある」と思い、このワイン会でも極力そのワインの生産国の歴史を紹介するようつとめてきました。ヨーロッパのワインはヨーロッパの歴史に密接な関係があり、ヨーロッパの歴史は絶え間ない戦争の歴史でもあります。ワインの歴史を語る時、戦争という歴史の大きな分岐点を避けて通
る訳にはいきません。
「古代ローマがポエニ戦争でカルタゴと戦った時、ギリシャの神々に祈ったおかげで勝利することができた。それ以来ローマはギリシャの神々を信仰するようになり、それと同時にワインがローマ世界に入り込んだ…」そんな逸話が残されているほど、ヨーロッパのワインの歴史と戦争の歴史は、その最初の段階から強く結び付いています。
ドイツがワインからビールへ切り替えざるを得なかったのは、三十年戦争による畑の荒廃が大きく影響していると言われていますし、イギリスとフランスの間で長く続いた百年戦争も、その始まりはボルドー地方の権利争いが発端とされています。アルザスは戦争のたびにドイツとフランスの間で奪い合いが起きていましたが、それによってドイツ系品種をフランスのテロワールの考え方で育てていくという独特のスタイルを確立しました。
このようにワイン文化は戦争と共に育まれていったとも言えるわけですが、現在流通
している多くのフランスワインの生産者達を深く知るには、20世紀の半ばにヨーロッパ全域で戦われた、第二次大戦の影響を無視するわけにはいかないでしょう。現在著名なブランドを持つ優秀な作り手は、ある意味みなこの難局を切り抜けてきた人々の子孫であると言えるでしょう。ドイツがフランスに侵攻した結果
、様々なドラマが生まれ、数多くの絵画や音楽、文学や映画の中でそれが語り継がれているのですが、ワインの世界でもそのようなエピソードが沢山あるのです。ワインを作った人々の苦しい経験と、歴史的な重みを知ることによって、ワインの味わいそのものもより深みのあるものになるような気がします。
今回のワイン会は、ドン&ペティ・クラドストラップ著「ワインと戦争」(飛鳥新社)をベースにしています。この本に載っている、第二次大戦を生き延びたフランスのワイン生産者達の作るワインを味わいながら、その物語を紹介していこうと思います。
2.シャンパーニュのテイスティング
●二つの大戦を生き抜いたド・ノナンクール家にとっての「偉大なる世紀」
まずはシャンパーニュで乾杯です。「ローラン・ペリエ・ブリュット・NV」を用意して頂きました。
ローラン・ペリエ社の創立は1812年ですが、1939年にノナンクール家の所有となっています。伝統あるシャンパーニュ・メーカー、ランソン社の一員だった夫を第一次大戦で亡くしたマリ・ルイーズ・ランソン・ド・ノナンクールは、困難な状況の下であえて勝負に出て、倒産寸前だった最低ランクのシャンパーニュハウスを買い取り、未来を三人の息子に託しました。しかし非情にも、その直後に大戦が始まります。長男のモーリスは、1943年にフランス人労働者を強制的にドイツへ送り込む強制労働プログラム(STO)が発動されると、殆どの社員の生年月日に細工をし、ごまかし切れない作業員達を南へ逃がそうとします。全て手はずは整い、貨物列車に皆が乗り込んでいざ出発という段階で、作業員の一人がパニックに陥り列車から飛び降りてしまい、計画は失敗に終わります。全ては発覚し、モーリスは強制収容所のガス室に送られてしまいました。
ド・ゴールに心酔する次男のベルナールは復讐を誓い、母親が泣いて止めるのも聞かずに単身レジスタンスに身を投じようとします。後にフランス軍に参加した彼は、ヒトラーがアルプスの山中に建てた別
荘の中で、自らワインセラーを開き、隠されていた数多くの貴重なワインを見つけ出すことになるのです。ローラン・ペリエのプレステージに、「グラン・シエクル(偉大なる世紀)」と名付けたのは、他ならぬ
ド・ゴール大統領でした。
ローラン・ペリエ社は、かつて最低ランクとされていたにも関わらず、戦後一気にトップクラスに登り詰めました。ベルナール・ノナンクールは、レジスタンス活動を通
じて、チームをまとめていく方法を学んだことにより、成功を収めることができたと語っています。ローラン・ペリエ社は、現在も自然を尊重しワインを尊重することを信条に、エレガントなスタイルのシャンパーニュを生み出しています。ブリュット・ノン・ビンテージは、シャープというよりはどこか穏やかな酸味が特徴的で、柑橘類と白い花の香りを備えた、バランスの良い味わいに仕上がっていました。
3.白ワインのテイスティング
●フランスとドイツに引き裂かれたアルザスのユーゲル家と、ロワールの造り手ガストン・ユエによる収容所のワインパーティ
白ワインはアルザスの「ユーゲル・アルザス・リースリング2005年」とロワールの「ドメーヌ・ユエ・ヴーヴレ・セック・ル・クロ・デュ・ブール2004年」を用意して頂きました。
ユーゲル社は、1639年からワイン造りを始めている歴史あるワイナリーです。化学肥料は一切使わず、常に手摘みで収穫するという徹底したこだわりを持っており、世界で最も名高い家族経営のワイナリー12家族からなる「プレマム・フミリア・ヴィニィ」のメンバーにも選ばれています。ユーゲル・アルザス・リースリングは、樽香がなく自然な風味で、きりりとした辛口に仕上がり、淡い色合いとは裏腹に、非常にエキス分の多い、ボディを感じさせる白ワインでした。
ユーゲル社は日本では多くの場合「ヒューゲル社」と表記されていることが多いようです。これはドイツ語読みで、通
常フランス語では「H」の文字は発音しません。フランスとドイツの国境近くにあるアルザスは、常に両国の奪い合いに巻き込まれてきましたが、アルザスの生産者ユーゲル家の運命はまさに象徴的でした。ドイツは真っ先にアルザスを併合し、最後まで手放そうとしなかったのです。1939年、当主ジャン・ユーゲルにより創立300周年を祝うパーティが開かれようとしたまさにその日、戦争が始まったのです。長男ジョルジュは当初ドイツ軍に徴兵されましたが、ロシア戦役で敗血症にかかり幸運にも送り返され、その後フランス軍に身を投じました。一方次男ジョニーは、終戦間際までドイツ軍の中にいたのです。オーストリア国境のコンスタンス湖付近での戦いで、ジョニーはフランス軍の戦車部隊が近付くのを見て軍を脱走しますが、兄のジョルジュもまさにそのコンスタンスの戦いに参加していました。兄弟同士の殺し合いは、まさにあと一歩というところで避けられたのです。一族は無事再会を果
たし、ヒューゲル・ウント・ゼーネ社は再びユーゲル・エ・フィス社に戻りました。1989年に、創業350周年を祝う盛大なパーティが催された時、まさに終戦の年の、1945年物のワイン、セレクシオン・ド・グラン・ノーブルが振る舞われましたが、そのテイスティングは当主のジャン・ユーゲルが定めた作法に従って行われました。すなわち「食事とは切り離し、ただそれだけを、最高のワイン好きの友人達と、礼儀正しい雰囲気の中で」味わったのです。しかし、ジャン・ユーゲルは既に1980年にこの世を去っており、この祭典に同席することはできませんでした……。
ドメーヌ・ユエ社の歴史は、1928年に創始者であるガストン・ユエが、まだ18歳の学生だった時に、第一次大戦でマスタード・ガスに肺をやられた父親の療養のために訪れたヴーヴレの地で、小さな畑を購入したことから始まります。1987年からビオデナミ農法を採用、今ではニコラ・ジョリーと並ぶロワールの三つ星生産者として、国際レベルの白ワインを造り上げています。ル・クロ・デュ・ブールは石灰岩の上に粘土石灰質の薄い層が重なる良質な畑で、その歴史は7世紀までさかのぼることができますが、ガストン・ユエが1953年にこの畑を購入しました。アンズに似たクリーンな香りがあり、シャープな酸味によって引き締められた骨格を持ちながら、後味にどこか蜂蜜を思わせるような甘さがかすかに残る見事なワインでした。
戦争当時、捕虜収容所にいたガストン・ユエは、大胆にも収容所所長を強請って、所内でワインパーティを開くことを認めさせます。それは食事も満足に与えられない状況のもとで、月一人1枚配られる荷物切符を使い、ワイン関連の仕事をしていた捕虜達に少しずつ故郷から送ってもらうというものでした。そもそも、配られる食事に南京虫が入っているような有様の中で、そのような計画は無謀にも近いもので、実際のところ調達する本数も開催する時期も全く予定通
りにはいきませんでした。しかし、様々なアクシデントを乗り越えて、ついに1943年1月、聖ヴァンサン(ワイン生産者の守護聖人)の日に、一人一杯のワインを味わうために、およそ六百本のワインを調達することに成功するのです。彼が手にしたのはロワールの白ワイン、おそらくはシュナン・ブラン種で、自分の畑の物ではなかったけれど、それでも故郷の味がしたと言います。彼は後年こう語っています。
「あのパーティがなかったら、私たちはどうなっていたか分からない。あれでしがみつくものができた。ワインについて語り合い、ワインを分かち合うことで、私たちは故郷に近づいた気になれたし、それで生きる力が湧いたんだ。それは実にすばらしかったし、私が今までに飲んだ最高のワインだった」
4.赤ワインのテイスティング
●硫酸銅を手に入れるために一人奮闘したボルドーのジャン・ミエールと、ブルゴーニュに派遣されたドイツ人「ワイン総統」セグニッツ
赤ワインはブルゴーニュの「ジョセフ・ドルーアン・コート・ド・ボーヌ・ルージュ2004年」とボルドーの「レゼルヴ・ド・ラ・コンテス2000年」を用意して頂きました。
「レゼルヴ・ド・ラ・コンテス」は、メドック・ポイヤックの2級、シャトー・ピション・ロングヴィル・コンテス・ド・ラランドのセカンドワインです。「レゼルヴ・ド・ラ・コンテス」は「伯爵夫人のとっておき」を意味します。醸造・熟成は全てグラン・ヴァン同様に行われ、熟成は18ヶ月、新樽比率は25%です。特にボルドーの2000年ビンテージは、平均レベルをはるかに上回る評価を得ていますが、実際に飲んでみると、ブラックベリーやカシスを思わせるスパイシーな香りと、力強いタンニン、並外れたコクと複雑味が感じられ、8年近い熟成を経たにも関わらず、まだ活き活きとした若々しさが感じられました。
「コンテス」を経営するのは、ミエール家のランクサン夫人です。占領下時代に大きな被害を受けたこのシャトーは、彼女が引き継いだ時には殆ど破産寸前の有様でしたが、見事に持ち直し、今では1級クラスのワインと肩を並べるほどにまで高い評価を受けています。「基本的なことは全て戦争中に学んだ」と彼女は語っています。彼女の甥にあたるのが、ジャン・ミエールです。当時いくつかのボルドーの有名シャトーを抱えていたミエール家で、当時16才の化学の好きな少年ジャンは、父親に頼まれて学校を中退し、葡萄の病害を防ぐのに必要な硫酸銅の調達に奔走します。葡萄生産者達にとって、硫酸銅はベト病を防ぐために必須の薬剤でしたが、ドイツ軍は兵器に鋳造するために銅をはじめとするあらゆる金属類を没収していたのです。化学の専門知識を学んでいた彼は、よりにもよってドイツ軍から金属を盗んでいた屑鉄屋から、ワインと引き換えに銅を手に入れ、ドイツ軍部隊の目を盗んで夜中に立ち入り禁止区域に忍び込み、一人硫酸銅の合成に挑戦したのです。彼は敵の目と鼻の先で秘密裏に事を運ぶことに痛快さを覚えます。しかし、彼の果
敢な反逆行為は志半ばに終わりを告げます。ある日畑の真ん中にアメリカ軍の飛行機が墜落し、ドイツのパトロール部隊が続々と集まってきてしまいました。それを見た彼は、猛烈なスピードで装置を解体して間一髪でその場から脱出するしかありませんでした。
「メゾン・ジョセフ・ドルーアン」は、1880年創業の家族経営のメゾンで、所有する約70haの自社畑の90%以上が一級もしくは特級という、高品質なワインの作り手として知られています。ブルゴーニュには珍しく、アメリカのオレゴンにも進出し、「ドメーヌ・ドルーアン・オレゴン」を設立しています。代表作「クロ・デ・ムーシュ」の一部基準に満たなかった葡萄は「コート・ド・ボーヌ」として世に出していますが、2004年は天候の影響で全ての葡萄が「コート・ド・ボーヌ」に回されました。明るい色調で、ラズベリーのようなフルーツの香りがあり、柔らかいタンニンとエレガントな後味が心地良いワインでした。一切の無駄
を排した、雑味のない仕上がりでありながら、どこか優しく、暖かみを感じさせる味わいがありました。
ドイツ軍はフランスのワイン生産者を押さえつけるために、各地に「ワイン総統」と呼ばれるドイツ人の専門家達を派遣します。彼らの多くはもともとフランスのワイン生産者とつながりを持っていた人々で、それだけにワインの目利きとしても優れていました。実際、シャンパーニュに派遣されたオットー・クレービッシュなどは、中身を偽ったシャンパーニュをめざとく見つけています。一方で、ボルドーに派遣されたハインツ・ベーマースは、ゲーリングに対して反感を持っていて、わざと中身を入れ替えたシャトー・ワインを送ったりしていました。
第一次大戦を無事生き抜いたモーリス・ドルーアンは、再び大戦が始まると秘密裏にレジスタンスを支援しました。ブルゴーニュにワイン総統として派遣されたアドルフ・セグニッツは、既に逮捕歴のあったモーリス・ドルーアンのために様々な便宜を図ります。1943年、オスピス・ド・ボーヌの500年祭が実施された時、代表者のドルーアンはセグニッツにドイツ人を祭りに招くことはできないことを伝えました。「君達は好きなように祭りを開いて構わない。ドイツ人は一人も出席しないだろう。私がそれを約束する」セグニッツがそう言うと、ドルーアンは答えます。「それは間違いだ。ドイツ人は一人だけ出席する」そして、ドルーアンは彼にチケットを渡しました。
「これはあなたの分です。あなたがこの祭りに参加するただ一人のドイツ人です」
5.第二次大戦とワインの歴史
1939年 ナチス、ポーランドを侵攻
1940年5月 ナチス、フランスを侵攻
1940年6月 ペタン元帥による新政府発足。ドイツとの休戦協定
1940年8月 ドイツ、アルザスを併合する
1940年10月 ワイン総統アドルフ・セグニッツ、ブルゴーニュのボーヌに到着する
1941年4月 シャンパーニュ生産同業者委員会(CIVC)発足
1942年 ドイツ軍、アルザスの葡萄畑の樹を切り落とし、この地の交配品種は一挙に姿を消す
1942年7月 ドイツ当局、フランス警察の協力のもと、パリでユダヤ人狩りを始める
1942年11月 ドイツ軍、境界線を突破してフランス全土を占領
1943年 強制労働プログラム(STO)発足
1943年11月 オスピス・ド・ボーヌの五百年祭。CICV代表のロベール・ジャン・ド・ヴォギュエ(モエ・シャンドン社)逮捕される
1944年6月6日 ノルマンディー上陸作戦
1944年8月27日 ドイツ軍、ボルドーから撤退
1944年9月 シャンパーニュ作戦
1945年5月4日 ベルナール・ド・ノナンクール、ヒトラーの山荘「鷲ノ巣」のワインセラー発見
1946年11月16日 タストヴァン・シュヴァリエ協会第32回大会「復活の大会」
1963年 パリにて仏大統領ド・ゴールと、独首相アデナウアーが握手を交わす
第二次大戦はワインの世界に多くの影響を与えました。その殆どが有望な人間の死と畑の破壊という形で後々まで爪痕を残すことになります。「ドン・ペリニヨン」で知られるモエ・シャンドン社のロベール・ド・ヴォギュエは、「NN(夜と霧)、死ぬ
まで酷使してよい囚人」として扱われ、殆ど半身不随の状態で帰国します。「シャトー・ムートン・ロッシルド」のバロン・フィリップの妻は、ユダヤ人ではなかったのに収容所に送られ、パリ解放の直前にガス室に送られてしまいます。
しかし、中には戦争によって状況が好転した例がないわけでもありません。アルザスでは普仏戦争の後、畑の7割以上が高収量
・低品質の高配品種で占められていました。第一次大戦後、フランス政府は伝統品種への植え替えを命じますが、多くの生産者は費用が掛かることを嫌って従いません。ドイツに併合された後、ヒトラー・ユーゲントの若者達が強制的に樹を切り倒して回りますが、その結果
アルザスの葡萄畑はその殆ど全てが伝統品種へと切り替えられたのです。また、1945年のグレート・ビンテージは、物資が不足し砂糖も薬剤も入手できなかったために、ワインがきわめて自然な形で作られたためだとも言われていますが、戦争を生き抜いたユエ、ユーゲル、ドルーアンといった生産者が、今や自然派ワインの第一人者となっていることも、ある意味当然のことなのかも知れません。ワインの歴史はやはり、戦争とは切っても切れない関係にあるようです。
ノルマンディー上陸作戦ほどには有名ではありませんが、ワインへの配慮が軍事作戦を左右したものとして、シャンパーニュ作戦が知られています。地中海から北上してローヌを進み、ノルマンディー上陸部隊と合流するというこの作戦は、上級の畑のある地域をフランス軍が、そうでない地域をアメリカ軍が進むというもので、結果
としてブルゴーニュの多くの畑が無傷のまま残されることになりました。感謝の意をこめて、フランス軍はアメリカ軍にジープ一台分の貴重なワインを渡しました。
「貴重なワインです。大切に保管してください。それから、出す時は必ず室温に戻すのを忘れないように」「心配ご無用です」とアメリカ人大佐は答えましたが、戦勝祝いの場で出されたブルゴーニュワインのボトルは…何とかすかに泡立っていたのです。大佐は言いました。
「軍医が医療用アルコールで暖めてくれたんです!」
その場にいたフランス人達は、恐ろしい物を見たという顔をして、作戦の功労者であるフランスのモンサベール将軍を見つめました。
将軍は厳しい口調で言いました。「勇敢なるアメリカ人に乾杯!」
将軍の機転がなければ、仏米両国が築き上げた喜ばしい勝利があやうく水泡に帰するところでした。
6.おわりに
第二次大戦を生き抜いた生産者達は、戦後めざましい活躍を続けます。ベルナール・ノナンクールは、当時百社中98位
とまで言われたローラン・ペリエ社をトップ・テンにランク入りする大会社に育て上げました。ユーゲル社は今やアルザスワインのトップに君臨し、その黄色いラベルは世界中で愛されています。ガストン・ユエはヴーヴレの市長に選ばれ、四十年以上もその職務を果
たし、九十を超えても活動を続け、亡くなるまでワインの生産者達に伝統への回帰を説いて回りました。現在は娘婿のノエル・バンゲがドメーヌを継いでいます。モーリス・ドルーアンは1962年にこの世を去り、当時24才だった息子のロベール・ドルーアンが家業を継ぎました。ミエール家のド・ランクサン夫人は「シャトー・ピション・ロングヴィル・コンテス・ド・ラランド」を一級に匹敵する品質にまで高めました。
すでにその多くがこの世を去っていますが、その不屈の精神と、真摯な姿勢は、ワインの中に姿形を変えて今も生き残っているように思われます。モーリス・ドルーアンが1962年に亡くなってから数年後、息子のロベールは戦時中に父親が刑務所から母親宛に出した手紙を発見します。そこにはこう書かれていました。
「じっくり考えているうちに気付いたのだが、人生で何よりも重要なのは他人をどれだけ幸せにできるか、どれだけ良いことができるかということなのである」
フランスの農民達の間では、「戦争が始まる年は貧弱な収穫に終わり、戦争が終わる年は豊かな収穫を迎えることができる」というジンクスが昔から語られてきました。実際のところ、第二次大戦の始まった1939年の葡萄の収穫はひどいものでしたが、酷暑と寒波、雹に見舞われた1945年は記録に残る最良の年とされています。物資が不足し、ワインを詰める瓶さえ満足に調達できない状況の中で、わずかな収穫量
の中から、信じられないほど濃厚に仕上がったワインが生まれました。葡萄は雨が乏しく寒暖の差の激しい厳しい年に、最も良質な実を実らせますが、我々人間も、危機的な状況のもとでこそ真価を発揮できる存在なのだと言えるかも知れません。
<今回の1冊>
ドン&ペティ・クラドストラップ「ワインと戦争」飛鳥新社
「戦場のピアニスト」「ヒトラー最後の40日間」「ヒトラーの偽札」等々、第二次大戦のナチス・ドイツを扱った名作は次々と映画化されてそれなりに評判を呼んでいるようですが、この次に映画化されてもおかしくはないのがこの「ワインと戦争」ではないでしょうか。実際のところ、ワインに関する本はとりあえず何でも揃えておこうと、本屋でたまたま見つけてそれほど期待せずに買ったものなのですが、普通
に読んでいて面白いと思ったし、映像でも観てみたいと思わせるほど、人々の喜怒哀楽が活き活きと描写
されていました 。向こうではベストセラーになっているようですが、日本では在庫なしという状態のようで、何故かそれほど反響がなかったのかも知れません。ワイン本はまだまだ通
り一遍の銘柄解説書ばかりが幅をきかせているようですが、やはりこういう本が話題になるようでないと、ワイン文化の定着もまだまだかなあと思わざるを得ないのでした。