人のよろこびが自分のよろこびと思える人
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 イメ−ジトレ−ニングという言葉を聞いたことがあることと思います。そうです、オ
リンピックに出場する選手が、筋力トレーニングやテクニックの練習はもとより、自分
の演技が本番で成功する場面を思い浮かべて、その成功の様子を良いイメージとして心
の中にしっかりと持つことで、精神的な強さを得るものです。

 たとえば、自分と接する相手が喜んでいる状況を思い浮かべてみてください。楽しい
ことです。そうすると、きっと相手に喜んでもらいたい一心で相手の気持ちをとらえよ
うと、相手の立場に立ってそうなるように物事を準備しつづけるようになってきます。
このことは、端からみると大変なことや面倒なことのように見えても、本人にとっては
その努力は心地好いものであることでしょう。

心の中に描くイメージは、正しいものでなければなりません。誤ったイメージを抱い
た結果は、想像するだけでもぞっとする結果を引き起こすことは、容易に想像できるこ
とです。私たち人間にとって、正しいイメージとはどのようなものであるべきなのでし
ょう。私は、きっと次のように思っています。地球上に生まれたいきものとして、地球
上の自然に直接ふれながら、自然の持っているありのままの動きを、自分の体の中に体
得していったもののみ、真にこの地球に生きるいきものとしての正しいイメージである
べきだと考えています。次の文を引用してみます。


原っぱで、一日中遊んでいたでしょう。どうでした、あなたもきっとそうしていませ
んでしたか?

町に住んで、近所の子どもたちが原っぱっに居ることは、誰でも認めていて、なぜか
安心して自然に触れられる場所だったように思う。住んでいる家から近くにあっても、
そこには本物の広い空があって、暑い太陽もあれば、どしゃ降りの雨も降る。そして本
物の土もあって、ボウボウの草も繁れば、季節ごとの虫も生きている。

ここは、季節を問わず居心地の良い所だったのだから。

原っぱの子どもたちは、この地球の縮図のような空間の中で多くのことを体験した。
雲と天候の移り変わりを感じていたし、朝露の降りた草の感触、カラカラに乾燥した土
ぼこりに耐える草のこわばり、やわらかくしなやかな春の草、一面真っ白に覆われた雪
の下でじっと次の命の再生を待ち構える草など、草はそのときどきで、さまざまに表情
を変えていった。

それらさまざまな草の表情について、触れた感触も含めて子どもの記憶の中に蓄積さ
れていったのだろう。考えてみるだけで、そのときの草の表情を色合いのみならず感触
までも思い出され、体が反応してくるのはおもしろい。

そうかもしれない。きっと。
自然の中に身を置いていることは、ただそれだけで自然そのものの自然な姿を、自分の
体の中に写し込むことになっているのだろう。体験というけど、まさに体の中にあるが
ままの自然の動き、感触が写し込まれていくように思えてならない。その証拠に、五感
と六感以降の感覚でとらえた自然との接触の体験は、生き物と接して生きていくための
ルールを誰から教わったわけでもなく、いとも自然に身についていて、生き物とともに
生きていくことを楽しむことができる力を与えてくれたのかもしれない。

原っぱで出会った草も、虫も、空の雲も、みんな生き物だったのだから。 そう、生き
物の気持ちがわかると、やさしくなれるから。人も生き物の一つだったのだから。

夕方家に戻ると、ズボンに原っぱでの遊びの勲章“ドロボウ草の種”がいっぱい。こ
んなにたくさんの生き物から好かれた証拠・・・だよね。きっと。
   (「心の風景のデッサン」より)


たしかに、人間が介在して生み出した成果は、人間が生きてきた時代ごとに蓄積され
てきたことは確かです。決して、このことを完全に否定しているのではありません。今
私たちがこうして出会っているのも、こうした過去の人々の成果のおかげだからです。
でも、次第に人間が作り出した多くの成果、つまり今私たちが生活しているほとんどの
環境(都会空間、交通網、通信網等)に囲まれて生きるようになっています。これも、
すべて否定しているわけではありません。これらの成果によって、さまざまに助けられ
て生活していけることも事実ですから。
でも、もう皆さんはお気づきですね。いくらこれまでの人間の歴史とともに成果を生
み出したといっても、いきものの一つに過ぎないのですから。いきものは、弱いもので
す。ちょっとした環境の変化、考え方の変化で精神的、肉体的に体調を崩すことにもな
りますし、元気にもなります。また、生まれた命は、必ずいつかは土に返ることですし
、次の命へと命を引き継ぎながら、この地球上にいきものとして生きていくのです。

人間だけがいきものとして特別なことではありません。正しいイメージは、この自然
から教わったものを蓄積して毎日を生きていくことが、最も自然な考えと行動になるも
のと思っています。

 毎日、ラジオや新聞で起こっている事件を考えてみると、人の作り出した社会のしく
みや、体制などは、ほどほどに捉えておくのが無難なように思えてきます。人の関与し
たものに完全はないのだなあと思います。
しかし、自然の営みには、なるべく素直に、あるがままにじっと立ち止まって教わる
必要がありそうです。きっと、無駄なのもはひとつとして無くて、実に巧みな仕掛けと
して生きているのだろうと思えるからです。

地球そのものを、いきものとして捉える「ガイア」という考え方があります。いきも
のが生きていくためには、各々の機関や細胞が有機的に結びついています。

心の中に、自然との触れ合いをなるべく多く抱きつつ、いきものとともに生きていく
道を歩みたいと考えます。きっと、こうすることで、人と自然とがじょうずに折り合い
をつけて生きていく“好循環“がきっとできることを信じたいものです。少なくとも、
自然にダメージを与えて生きていくしくみを作ることには、加担してはいけないことだ
と強く思うようになってきました。身近なこと、自分でできることから実践していきた
いと、次第に意識を変えようとしている自分に気づくことが多くなってきています。

 いきものたちの喜ぶ姿をいつも思っていたいと思います。そして、そのために今、自
分でできることに取り掛かりたいと考えています。