“オフ ロード(off Road)”

里の総合誌「まほろば」第2号へ原稿掲載

  田んぼに立って思うこと

                                     温泉人 鈴木和夫


東北に生まれ、四季折々田んぼの景色に親しみながら大人になっ
た。育った家は町中にあったので、身近に田んぼがあったわけでは
ないが、幼い頃から父が自転車に乗せ、そして一人で乗れるように
なってからは、自転車を連ねて田んぼが広がる道を走ってくれた。
それは、近くを流れる小川へ魚取りにつれて行ってくれるためだっ
た。
父は、勤めや家業のあい間を利用して田んぼの近くを流れる小川
で、私を楽しませてくれたのである。自転車のハンドルには、ミル
クの空き缶に針金で取っ手を付けてぶらさげていた。後方の荷台に
は半月型の魚取り網がひもで結んであった。

田んぼが広がるあちこちの草むらには何本もの小川があった。水
の流れに網を仕掛け、足で泥を探りながら網に小魚を追い込むと、
たくさんの小魚が飛び跳ねた。捕った魚は空き缶に入れる。魚のほ
かに、ゲンゴロウ、水カマキリ、タガメ、腹の赤いイモリなどがい
っしょに網に掛かってきた。また、網ですくった泥の中には無数の
小さな生き物が体を動かしていた。初夏の夕暮れどきなどには、月
見草が川沿いに咲きそろい、膝ほどの高さに育った稲の間や小川の
草むらには、ホタルも淡い光を点滅しながら飛んでいた。

 当時の我が家は、決して楽な暮らしではなく、一時は長屋住まい
を余儀なくされ、再起を計って父母は力を合わせて苦労に耐えてい
た。家族が多かったので両親にとっては並大抵の苦労ではなかった
はずだ。
 生活は苦しかったが、父母は常に明るく振る舞って、子供たちに
は少しも暗い影を見せず、幾多の困難がやってきても、常に前向き
に対処して、家族に明るい灯りをともし続けてくれた。

父は勤め人として働きながら、休日には家業の「最中の種屋」(
「最中」のかわを作る商売)を手伝っていた。少しの時間でも惜し
むかのように、畑に出てクワも持った。落ち葉などを集めて腐葉土
を作り、そこに種を蒔いていた。作業をしている父の姿は、いかに
も楽しみながら働いているといった様子であり、作物を慈しみ、育
てる父の姿は、いまでも私の脳裏に焼き付いている。土の中から這
い出てくるミミズ、コガネムシの幼虫、ハサミムシなど、何が出て
くるのかと、興味津々と見入っていた。

一方夏休みともなると、決まって母方の実家に泊まりに行った。
入り口の井戸には、冷たい水が満々と満ちていて透き通った水の底
には虹色に光るカラスガイが沈んでいた。農作業を終えた近所の人
が気軽に立ち寄っては、汗を拭きながら井戸水を飲み干した。
 井戸水の流れ落ちる後方には、奥羽山脈の蔵王連峰が連なり、手
前には、青々とした田んぼが広がっていた。
 田んぼのあぜ道を歩き、所々に立ち止まってしゃがんでは、稲の
根本に広がる浮き草の間からきょろっと覗いたカエルの目や、草わ
らの間にカサコソ動き回るコオロギなどを食い入るように見つめて
いた。
 また、藁葺きの家の中で、開け放たれた広い座敷に横になり、頭
の上に降るように響くセミの鳴き声、むせ返るような稲や草の薫り
の中で昼寝をした。

 このように、父や母とともに田んぼを身近に過ごした幼年期の体
験は、多くの生き物が自然とともに生きる時間感覚、そして自然の
懐に抱かれながら、心を解き放って過ごす手放しの安心感を十二分
に身につけさせた。

そして、小学校に入学し間もない授業で、担任の先生が「今日は
晴れているから、外に出ましょう」と田んぼに連れ出した。緊張し
ながら登校した最初の授業で、遊びとしてではなく正規の授業の場
が田んぼだったことは、とても驚かされた。

 近年になって、その時の担任の先生にお会いする機会があり、入
学時の驚きの気持ちを伝えたところ、ほほえみながら「私は何もあ
なた方に教えませんよ、連れ出しただけなのです」と返事が返って
きたのである。「教育とは決して一方的に教えるのではなく、自ら
感じ考えるよう啓発をするのだ」という確固たる理念に裏付けられ
たものだったのだ。

大人になった今も、小さい頃の記憶に突き動かされるかのように
、田んぼに出かけるのである。“自分も生き物の一つ”といった感
覚で心を解き放し、田んぼに立ち止まっている。
 小川の草むらから聞こえてくるコオロギの声、月に照らされた田
んぼの水面に響きわたるトノサマガエルやウシガエルの鳴き声など
、まさに“命の声”に聴き入っている。

普段、都会の中では当たり前と思っていたものが、とても受け入
れ難いものに見えてきた。遠くを走っている車の強烈なライトの明
かり、人工的で規則的なエンジン音やタイヤの連続音、大音量のカ
ーステレオなど、なんとも不愉快であり、自然界に同居している他
の生き物の立場に立つと、何と身勝手なのかと思い知らされた。
 そこには、自然に共存している生き物の“命の声”を聴こうとす
る姿勢は全くない。無責任なニュースや番組が繰り返し流され続け
る社会に私たちは生きている。“言論の自由”と言うが、「受け手
は自立した正常な判断のできる人間である」との前提に立っている
のだろう。しかし、世の中は常に精神的に正常な人ばかりが生活し
ている訳では決してないと思う。このような精神が左右されやすい
生活者に対して、興味本位の番組や、人を殺したとか、盗まれたと
かの過激で目立ったことのみがニュースとして取り上げらる。毎日
毎日このような身勝手な情報が流され続け、受け取ることを拒否し
がたい社会にあって、人間として正常な精神を持ち続けることは大
変難しいことに思える。いつしか心に支障を来し、肉体の健康すら
も維持できない状態になってしまう。
 90歳を越えた祖母に「どうして長生きできたのか」と問いかけ
たところ、すぐに「ニュースは見ない。どうせ人を殺したとか盗ま
れたとかの繰り返しだから・・。90年間生きてきても、いつも内
容は変わらなかった」との返事が帰ってきた。人間が勝手に作り上
げた世の中の毒気から、自ら遠ざける工夫をしながら永らく生きて
きた、まさに人生の達人の言葉だった。

最近、未成年者が親や家族を殺害する事件が多発している。その
たびに、生身の人間に備わっている精神の強さは、どれほどのもの
か疑わしく思えてきた。どれが本物でどれがフィクションなのか、
どれがリアル(実体)でどれがバーチャル(仮想)なのか、まだ自
分の頭で考え判断することに慣れていない、いわば詰め込み式の教
育の最中にある我が国の未成年者にとっては、人間社会の生み出す
身勝手な情報は、濁流のようなものだ。しかも都会という人間の作
った限られた空間の中に押し込められている。社会に船出した成人
であれば、自分の意志と経済力で、そこから脱出する方法も見いだ
せるが、まだ社会的にも、経済的にも自立できない未成年者にとっ
て、社会の檻の中に閉じこめられたようなものだろう。このような
時期に、社会や自分自身を認識し、自らの意志で何に向かって生き
るかを決めようとするには、何と人間の身勝手な社会や情報に取り
囲まれているのかと恐ろしくなる。しかも、一筋の明かりを必死に
探そうとする善良な者を標的にした組織も、人間社会には多く存在
している。人間社会が作り出した濁流に飲み込まれたら最後、人間
のみの価値観で作られた檻から抜け出せない。

一方、成人した人々であっても決して“自立した市民”とは言え
ない。企業社会の中にあって多くの場合、立ち止まることは許さ
れず、そして何よりも効率性を求められる。それは、組織が継続し
て生き延びていくために必要なことであり、決してこのことを否定
するものではない。そして、企業人として求められる行動様式も、
これに合致した価値観が求められるのは当然である。
 ところが、企業にとって良いように育てられた行動様式が、知ら
ず知らずに、我々の暮らし全体に渡るものであるかのような錯覚を
自ら抱いてしまっていることが問題を生んでいる。我々人間の体は
、企業といった組織体は異なり、無限の時間を持ち続けることは絶
対に不可能である。“限りある命”の持つ有限な時間の中で、いか
に有効な時を過ごし、いかに社会に接し、次の命にバトンタッチす
るかを問われているのだ。

 都会を離れ、郊外に広がった田んぼに立ち止まってみることで、
自らも生き物の一つに過ぎないこと、そして自らが関わっている人
間社会が、どれほど人間にとって身勝手に作られてきたかを思い知
った。
 産業革命以来、技術・経済中心で突き進み、化石資源の枯渇や人
口増大、そして環境悪化、その結果ストレス社会が生まれるといっ
たひずみを生んだ。
このような絶望の淵から這い上がるには、すべての人間の生き方
が「地球そのものすら生き物ととらえ、地球上に存在を許されてい
る生き物と共存していくような「環境共生社会」の方向しかないこ
とを知るべきである。世の中にあるすべての組織活動(たとえば企
業は、すべての業種における商品やサービスの提供、そして我々のラ
イフスタイル)は、何らかの環境共生社会の方向を意識したものと
ならなければ生き残っていけない時代が、今まさに到来したのであ
る。

人間が生きていくためには、何らかの“生産”が必要である。空
腹を満たし、温度差や危険から体を守る衣服を作り、地球上に生き
てきた。しかし、生産の方法によっては、緑の地球環境を悪化させ
破壊し、ついには砂漠にしてしまうこともあり、また反対に緑の地
球環境を作り上げ、環境と上手に共生してきたことを教わった。

哲学者 梅原 猛さんは、「稲作の文化(東洋文化)こそが、い
つまでも自然とともに共生していくことができる文化である」「哲
学の構築方向は、西洋哲学だけでなく、東洋哲学と融合する方向に
向かうべきである」と述べている。
また、「一言でいうと、西洋は『小麦と牧畜』の文化であり、東
洋は『稲作と養蚕』の文化である」「言い換えると、西洋は『パン
とバター』の文化であり、東洋は『米とシルク』の文化と言えるだ
ろう。」
 「西洋(西アジアおよびヨーロッパの思想)は小麦栽培を行って
きたため(ほとんど水なしにできる、雨が降らない方が良い、だか
らどこでもできる、山の上まで畑がある、耕して天に至る。どうし
ても耕せないところには家畜を放牧すればいい)、徹底して自然は
痛めつけられた。だから歴史的な文明が発達したところ(中央アジ
アとか西アジア)は、現在ほとんどが砂漠と化してしまった。最初
から砂漠だったわけではなかった」
 「ところが東洋はちがう。やっぱり稲作にとってなくてはならな
い水を確保するために森が大事。森は水を蓄えている。水を重んじ
る。特に森を重んじる。日本は、山にたくさん木があり、田んぼに
水が引かれている豊かな自然がとても美しい。」

地球上を砂漠にしないのは、稲作文化の東洋だったという。これ
まで当たり前と思っていた田んぼを見る目が変わった。一粒のごは
んを口に運ぶことがとても嬉しくなった。そして、田んぼによって
米を生産し、緑の環境を維持しつづけている農家の方々に感謝する
とともに、私たちの食生活も見直していきたいと考えるようになっ
た。

ふと“自然の声を聞くことができる”という感性は、どのように
して育まれ、どのような意味を持つものなのか考えつづける中で、
その解の一つと言えるものに出会った。
 それは、環境問題を最初に問いかけた名著「沈黙の春」の著者で
あるレイチェル・カーソン、その最期の執筆となった「センス・オ
ブ・ワンダー」の一節に次のように述べられている。「小さい頃に
この『神秘さや不思議さに目を見はる感性』、この感性は、やがて
大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の
源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になること
などに対する、かわらぬ解毒剤になるのです」

自らの生き方に照らしながら、考えてみた。決して、一目散に駆
け抜けるのではなく、気にかかる所では積極的に“立ち止まる”こ
とを指向し、実行してきた。
 結婚し新しい家庭を持ち、家族子供が誕生してからというもの、
週末ともなると家族を連れ、山懐に“気配”を求めては各地の温泉
を訪ね歩いた。途中の道すがら、なぜか不思議に心に止まる景色に
出会うと、草むらに足を降ろし、五感のみならず六感以降の感覚を
とぎすまして、自然の声に聴き入っていた。

このような暮らしを続けるうちに、いつしかこれまで日本の季節
や自然と関わって生きてきた中で、忘れることのできない想いがあ
ることに気づき始めた。それから数年に渡り、仕事帰りの通勤電車
を利用して想いを書き止めた。そのことを通して、身近に自然に接
しながら幼年期を過ごしたことが、自らを生き物と自覚し、自然の
声を聞くことができる感覚を育てたのだと確信した。

「 原っぱの子どもたちは、この地球の縮図のような空間の中で多
くのことを体験した。雲と天候の移り変わりを感じていたし、朝露
の降りた草の感触、カラカラに乾燥した土ぼこりに耐える草のこわ
ばり、やわらかくしなやかな春の草、一面真っ白に覆われた雪の下
でじっと次の命の再生を待ち構える草など、草はそのときどきで、
さまざまに表情を変えていった。それらさまざまな草の表情につい
て、触れた感触も含めて子どもの記憶の中に蓄積されていったのだ
ろう。考えてみるだけで、そのときの草の表情を色合いのみならず
感触までも思い出され、体が反応してくるのはおもしろい。
 自然の中に身を置いていることは、ただそれだけで自然そのもの
の自然な姿を、自分の体の中に写し込むことになっているのだろう
。体験というけど、まさに体の中にあるがままの自然の動き、感触
が写し込まれていくように思えてならない。その証拠に、五感と六
感以降の感覚でとらえた自然との接触の体験は、生き物と接して生
きていくためのルールを誰から教わったわけでもなく自然に身につ
いていて、多くの生き物と、ともに生きていくことを楽しむ力を与
えてくれたのかもしれない。」(「心の風景のデッサン」より)

今でも、自らの心の中心に位置し続けている“心の風景”につい
て書き出したことで、自らが抱き続けている価値観が鮮明に浮き彫
りになった。そこには、田んぼに関わった光景がとても多く、我が
国に生まれ育ったものにとって、最も身近な自然であり、しかも、
多くの生き物と出会い、自然の声を受け止める感覚を育ててくれた
ところであった。

 田んぼに立ってみて、我々人間が作り出す社会のあり方や生き方
について考えさせられた。足下の虫やカエルなどの声、そして草の
擦れ合う風の音などが、我々に警鐘を打ち鳴らし、あるべき方向を
訴えかけている自然の声に聞こえてきた。
 その声は、社会のしくみや我々のライフスタイルの変革を迫って
いるものであることを人間社会に伝えていくことこそが、自らの命
を授かった自然への恩返しと思えてきた。今、仕事と暮らしの両面
で、手探りを始めている。
                                             
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