===============>>>>> JPEG GRAPHIC DATA DOCUMENT <<<<<================ 【タイトル 】: 培養槽〜その2(永遠の成人式-抄録) 【初 出 】: 2002年07月20日、於「妖しい書庫」 【ファイル名】: ginb166.jpg & ginb166.htm 【使用ハード】: DOS/V(Celeron1GHz+512MB-RAM) + GT5000WINS + UD608R ===================================================================== この作品は、更科さんのページ「妖しい書庫」に掲載していただいている ものと、展示フォーマットを除いて同じです。
〜〜〜おはなし〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 「了子姉ちゃん!」 私の声は了子姉(ねえ)の意識に届いたのだ、と今でも信じている。初期化器の中に浮かぶ彼女はそれに応えるように恥ずかしそうに身もだえし、唯一動かせる素裸の上半身を捻って私に背を向けようとしたのだから。しかし私の思いを読みとった技師は言った。機械の冷たさで。 「インストールに失敗したアプレットが暴走しているだけです。いまだにスキャンを免れているオリジナルの回路の断片かもしれませんが」 * * * 人間は他の動物とは違う。自分で育てた作物から食料を作り、衣類を作り、恒久的に使える住居を作る。しかしなによりも特異な点は、人間は体の外に膨大な情報を蓄積し、その情報処理システムを個体の寿命を超えて発展させる能力を持っているところにある。似たような能力なら他にも持っている動植物や細菌類がいるかもしれない。しかしそれを意識的に利用している生き物は、今に至るまで人間しか知られていない。 従って、人間の子供は適切な訓練を受けてそのシステムの一翼を担う能力を引き継がなければ「人間」に育つことはできない。親による明示的暗示的な教育。兄弟姉妹間や同年代の子供たちとの相互作用。さまざまなメディアを通して降り注ぐ雑多な情報の奔流。長い人類史を通してこれらすべてが人間の幼生が人間になるために重要な入力だった。そして現代においてはさらにもうひとつの通過儀礼が加わる。それが「成人式」だ。 誰がいつ成人式を迎えるのか、それはその日の朝になるまで当人にすら教えられない。ある朝、いつものように喧噪に満ちた朝食の席で、なんの前触れもなく母が静かに宣告するのだ。 「恵子と佳久と浩之。あなたたち三人はきょう成人式よ。どこに行けばいいかは知ってるわね」 その言葉は食卓に群がる数十人の子供たちを一瞬の間静まらせるが、すぐに普段の大騒ぎが戻ってくる。そう。いつものことなのだ。こうやって兄や姉が少しずつ消えてゆき、それに合わせて母は次の赤ん坊を生む。その結果、家にはいつもほぼ一定の数の子供たちがあふれかえることになる。 成人式に向かった兄や姉たちは、その日の夕方には何事もなかったかのように帰宅する。しかし彼らはすでに子供ではない。なにしろ「成人」してしまったのだから。外見はちっとも変わっていないものの、彼らの変化は敏感な私たち、すなわち弟や妹たちにははっきりと感じ取れる。 まず目つきが違う。その日の朝までの、目前の楽しみを追い求めるキラキラしたまなざしは消え去り、どことなく遠くを見つめるような、常になにかに心を奪われているような、なんとなく深い目になって戻ってくる。 彼らはいつものように私たちと遊ぶ。しかしそれがすでに「遊ぶ」ではなく「幼い弟妹たちと遊んであげている」に変わっていることを隠そうとはしない。それがわからないのは5歳にもならない乳幼児たちくらいなものだ。そして就寝時刻が急に遅くなり、なにやら難しい勉強をはじめ、お互いにやたらと議論をするようになる。 成人したばかりの兄のひとりに聞いてみたことがある。そんな勉強、なにがおもしろいの? ………「面白い、というのとは少し違うな。でも大事なことなんだ。これが責任感って奴なのかな。大人になればサトシにもわかるよ」 やがて、たいていは数ヶ月以内に、成人した兄や姉は「俺の人生の目的を見つけたぜ」とか「もっと勉強しなきゃ」とかなんとか、なんとなく格好のよい台詞を残して家から出て行く。出て行く先がどこなのか、母も教えてくれないし、気にしたこともない。 * * * さて。了子姉(ねえ)のことだ。彼女は私たちの母の、たぶん70番目くらいの子だ。さらに5歳ほど年下の私はあまたの兄姉のなかで特に了子姉と相性がよかったらしく、体を動かして遊ぶときも算術や論理のゲームをするときもいつも彼女といっしょだった。 ある日、了子姉が言った。話し始める前にあたりに誰もいないことを彼女が素早く確かめていたことを、私はずっと後になってから思い出した。 「たぶん、もうすぐ『成人式』に行くことになるわ」 「へえ。わかるんだね。おめでとう」 「サトシとはもう遊べなくなるのよ」 「そうやって大人になるんでしょ? でもみんなすぐに帰ってくるじゃない」 「………私は帰ってこない。大人になるっていうことはね、いまの私が居なくなって、人間の大人がひとり生まれる、ってことなんだから」 「そんなの知ってるよ。人間は他の動物と違うんだ。無節操に相手を選んで勝手に子供を作ったり、それが自然に育って『うまく大人になれた奴だけを社会の中枢に迎える』なんて危なっかしいことをしないのが人間なんだ」 「お母さんはそう言ってる。たぶんそれで正しいわ。確かに、大人になったからって今までの私の記憶が消えてしまうわけではない。赤ん坊みたいなまっさらな人間がひとり生まれるわけでもない………でも、もうサトシと本気で遊ぶことはできなくなるんだから、そんなのは、もう私の知ってる私ではないの」 * * * 了子姉はある意味で正しく、別の意味において間違っていた。次の成人式の日、夕食時までに戻ってきた兄姉たちの中には彼女の姿がなかったのだ。 「了子姉ちゃんはどうしたの?」 と尋ねる私に、いっしょに行ったはずの別の兄も姉も答えられなかった。成人式とは具体的にはいったいどんなものなのか、自分がいままでまったく気にしたことがなかったことにはじめて気づいた。だがそれについても兄も姉もなにも答えられなかった。子供には秘密にしておかなければならないという約束があるわけでもないらしい。彼らは首をかしげ、「そういえば何をしてきたんだっけ?」とお互いに顔を見合わせるばかりだったのだ。 了子姉になにか普通でないことが起こったらしい………不安にかられて騒ぐ私に、とうとう母が折れた。 * * * 「お母様から連絡はいただいてますよ」 成人式を司るというその技師は、私を安心させるように穏やかな機械の声で言った。技師は「機械の人」だった。町は機械人であふれているが、母と子供たちの家では機械人を見かけることはない。 「了子姉さんはまだここにいるんですか?」 機械人にどう話しかけたらよいのかわからずに戸惑った私は、いきなり核心を突いてみた。ふつうの人間に対するように挨拶すればよかったのでは、とすぐに思いついたがあとの祭だった。 「ええ、いらっしゃいますよ。こちらです」 私たちが会ったのは、成人式を迎える子供達が集まるという劇場の一角だった。前方の低いステージにむかって、ひとつひとつがかすかに青みを帯びた透明なカプセルに覆われた数千の椅子が階段状にそそり立っている。そのすべてが空席だった。きょうは式はないのだという。ステージの隅の小さな開口部へ、技師は私を導いた。 「目覚めたままでこの先に進む人間はめったにいません。人間用には作られていませんから、足もとや頭上に注意してついてきてください」 床には埃や錆びた金属屑が分厚く積もり、予備知識がなければ廃墟としか思えないような状態だった。技師は床に脚をつけていない。そもそも脚なんかないのだからあたりまえだ。床上1メートルほどのところに浮かんだまま私の歩調に合わせてふわふわと漂っていく。私の足跡だけが、細かい鉄錆の上にザクザクと刻まれていった。 「歩き」ながら技師が言った。 「サトシ様は9歳ですね。『成人式』とは何なのか、まだ細かいことは教えられていないはずです」 「うん。そうだと思います」 「今の了子様にお会いすると、本来はまだ知らないはずのことを知ることになります。それがあなたに悪い影響を残すことはないとお母様は判断されたわけですが、一時的なショックはあるかもしれません。いちおう心構えだけはしておいてください」 当時の私の腰ほどの高さのある太いパイプを乗り越え、巨大な機械の間の細い隙間を全身埃にまみれながら横這いに擦り抜け、曲がりくねった道ともいえない道を何時間も這い続けたように感じたが、実際には時間にして十数分、直線距離では数百メートルしか進んでいなかったろう。唐突に、薄暗く照らされた小さな円形の広場に出た。洞窟探検のように困難な歩行の後だったのでそれでも目が回るほど広く感じられた。 「これが『成人式』の司会室です」 司会室といっても別にボタンやスイッチの並ぶコンソールがあるわけではなかった。機械人たちは他の機械と声を使わずに直接会話ができる。てっきり了子姉が居るところにまっすぐに連れてこられたのだと思いこんでいた私はきょろきょろと周囲を見回し、隅の暗がりに目をこらしもしたが、動くものの影はどこにもなかった。 内向きに円弧を描く壁面の一部がぼんやりと光った。スクリーンになっている。そこに浮かび上がったのはあのホールだ。だが、さきほど私たちが出会った時と違い、ほとんどのカプセルに人がおさまっている。 「先日の『成人式』の記録です。まだはじまったばかりですね。何が起こっているか、見えますか?」 画像がズームインし、ひとつのカプセルが大映しになった。限りなく透明に近い青いカプセルの壁を通してはっきりわかった。了子姉だ。その左右はいっしょに行った別の兄と姉。カプセルの内側はちらちら明滅するさまざまな色彩の細かい光の粒で満たされている。大きく見開かれた了子姉の目にその光が小さく反射し、吹き出た汗の一粒一粒がそれを七色かそれ以上の数の色に分解していた。 「この画像だけではわかりませんが、光だけではなく音と嗅覚と触覚、あと電気的および力学的に与えられる深部感覚もすべて、およそ味覚以外のすべての感覚器官が使われています」 「使う? どういう意味ですか?」 「人間の体にはOSに直接アクセスするための電気的なインタフェースが備えられていません。私たち機械人のBIOSやモニターに相当する基幹システムを成人形式に再構成するには、ほとんどすべての感覚器官を入出力に使用してもなお、まるまる数時間を要するのです」 画面が早送りされた。了子姉と左右の兄姉の体がパタパタと細かく震え、また静かになった。映像の手前に時刻を表すらしい記号が控えめに浮かんでいる。しかしそれは私が見たこともない形のものばかりで、この早送りで何時間ぶんがスキップされたのかはまったくわからなかった。 「ここからです」 なにが「ここから」なの? 問い返そうとしたが、その問いを口にする前に私にも見えた。一瞬、了子姉の顔にかすかな翳りがさした。それはすぐに消えたがまもなく戻ってきた。明らかに苦悶の表情だ。その頻度がしだいに高まり、ついには持続する苦痛の嵐に翻弄されるまでになった。眼球が飛び出しそうなほど目を見開いたまま眉根を寄せ、額に無数の縦皺が走る。頬と顎の筋肉が痙攣しているが手足はピクリとも動かない。脊髄のどこかで運動神経がブロックされているのだろう。左右の兄姉は平穏なままだ。 私の動揺をなんらかの方法で検知したに違いない。技師の解説は私を落ち着かせる最適なタイミングで発せられた。 「決してめずらしいことではありません。十万人に一人程度というかなりの高率で起こる、ごく通常の事象に過ぎないのですから」 十万人に一例だろうとなんだろうと、了子姉は了子姉だ。だが私の声も、自分でも驚くほど平静だった。 「通常の事象? 少なくとも正常には見えませんが。何が起こっているんです?」 「通信プロトコルの齟齬です。血液型や組織適合抗原型と同じように、人間の脳には様々な『型』があります。ただしその型の数は血液型などよりも桁違いに多く、理論的には約10の2000乗通りあります」 「他の人たちはうまく行ってるみたいですよね」 「まず初めに各人の脳をおおざっぱにスキャンして、生得的に組み込まれているプロトコルを確認します。その後、脳内のシステム再構築作業が開始されるわけです」 「その確認に失敗したということ?」 「失敗ではありません。そもそも現実的な時間内に10の2000乗通りのパターンをすべて試みるなど不可能です。ですから、血液型ほどの単純さではありませんが、まず最初に脳を数千程度の代表的な『型』にカテゴライズし、各人がどの型に近いかを調べてそれを適用します。そして通信中に必要に応じて微調整します」 「ということは、プロトコルを確認したって言っても、結局は近似に過ぎないんじゃないですか……?」 「申し上げた通り、これは失敗ではありません。その近似的な『型』の微調整では対応しきれない個体がゼロよりも大きいある確率で現れるのは必然であり、あらかじめ予期されているのです」 了子姉がこうなることは予定通りだったということか? 了子姉は自分がそうなることを知っていたのか? まさか。あの時の彼女の言葉は、単に大人という未知のモードへ遷移することへの不安を吐露していたに過ぎない。 「じゃあ、了子姉さんじゃなくてもよかったわけですね。こうなるのは」 「了子様が該当してしまったのは偶然ですが、必然でもありました」 * * * 果てしなく伸びる垂直のシャフトの中を、技師は見えない力の場で私を抱きかかえてゆっくりと降下していく。機械の声が淡々と語り続けていた。 「最も怖く、そして発生確率をゼロにすることが理論上も決してできないのは、プロトコルに細かな齟齬が残っている段階で『ハンドシェイク完了』と『双方が』誤解してしまうことです」 「その場合、誤った………文字化けした………情報がチェック無しに脳内に書き込まれることになります」 直径10メートルほどの縦穴は、技師と私の浮かぶ付近の壁がリング状に発するかすかな青い光を除いて完全な暗黒に満たされていた。底は見えない。はるか上方には、まだ光っているらしい司会室のスクリーンの散乱光が淡い点となって見えている。 「了子様の場合がまさにそれでした。しかも、部分的に動作できてしまう破損したIPLをそれと気づかずに起動するという、私達の知る限りにおいて最も面倒な事態になりました」 下から上へと流れる空気は寒くない。暑くもない。人間のための空間ではないが、完全に空調されている。私たちの降下に合わせてその前後のわずかな範囲の壁が光るのは、たぶんサービスだろう。しかしその時の私には、そんな気遣いは瑣事にすぎなかった。 「IPLの暴走によって、了子様の脳は一切の物理的な割り込みを受け付けなくなってしまいました」 「もういいよ! いま姉さんはどこにいるんです? 結論を先に言ってよ。説明はあとでいいですから。早く………早く会わせ………あっ」 言い終わる前に足が地を踏んだ。技師が場違いな台詞を吐いた。 「おまちどうさまでした」 自分の鼻も見えないほどの完全な暗黒だったが、着地と同時に空が燐光を放ちはじめた。空ではない。高い天井だ。色も影もない、明るさだけの光があたりに満ちた。 「申し訳ありません。みなさんの治療の障害になるのでこれ以上は明るくできないのです」 広大な直方体の空間。耳が痛くなるほどの静けさ。100メートルほどの高さの天井の中央にたったいま技師が私を抱えて降りてきた円形の孔がグリグリと塗ったように黒く貼りついている。直方体の水平方向の一辺は数百メートル程度だろうか。床一面に厚くつもっているのは地上階と同じ金属屑や埃だ。これが音を吸収するらしい。金属屑の中にはかなり大きくて元の姿の面影を残しているものが混ざっている。ぼんやり眺めているうちに、ほとんどの金属屑に共通する形があることに気づいた。これもこれも、あれもそれも、みんな機械人の破片じゃないか! そうか。この人たちは死ぬとこうなるのか。 この空間が「掃除」や「整理整頓」という概念から置き去りにされてから何十世紀が経ったのだろう。だが完全に放置されているわけではない。なぜなら、床一面に、一定間隔で、よく磨かれた鈍い銀色の円柱が置かれていたからだ。その直径は約1メートル。高さは30cmほど。 そう言えば聞いたことがある。機械人たちは本当に必要なところにしかエネルギーを費やさないが、必要とあればけっして出し惜しみをしない、のだそうだ。 「お墓みたいだ」 無意識に自分の口から漏れた言葉に私は衝撃を受けた。まさか……… 「なるほど、それはよい比喩だと思います。記憶させていただきます」 この日はじめて、この機械人を張り倒してやりたいと思った。 * * * 円柱の間を縫うように、もちろん迷うことなどなく、技師は私を導いた。ときおりいにしえの機械人の朽ちた外殻が私の足の下で砕ける。長い宙づりの下降の後だったのだ。その感触は無性に心地よかった。 目的地は円柱のひとつだった。私には他の円柱とまったく同じに見えた。 「これが、了子様の………その………お墓です」技師は言い、クスっという音をそれに続けた。笑ったつもりなのだろう。「もちろんまだ生きてらっしゃいますが」。クスクス。 空気が細い隙間を通る擦過音が聞こえたような気がした。目の前の円柱がゆっくりと浮き上がり、地面との間にできた隙間から鋭い光が円環状に広がった。目に何千本もの針が刺さるようなまぶしさだ。光を放っているのが金属の円柱の下に続く、それと同じ太さの透き通った筒であることを見て取るのにしばらく時間がかかった。床の上に現れていた銀色の円柱はこの筒の蓋のようなものだったのだ。だとすると、ここにある何万もの円柱の下にはみな……… 思索はそこで中断された。透明な筒の中にゆらゆらとうごめくものがある。少し濁った液体と強い光に満たされて初めはよく見えなかったがあれはやはり 「了子姉ちゃん!」 私の叫びは広大な矩形の空間を互いに垂直なみっつの方向に往復し、しだいに小さくなりながら三通りの時間間隔で何度も戻ってきた。反響が完全に消えるころには、私の目は円筒のまぶしさにすっかり慣れていた。 * * * 私は技師と一問一答を繰り返していた。いったいどれほどの時間そうしていたのだろう。その間にどんな情報をこの機械人から引き出していたのだろう。わからない。その間しゃべっていたのは本当に私なのか? 記憶にある私自身は、筒の中に浮かぶ了子姉の裸身にただただ見とれていただけなのに。 「外からはわかりませんが、筒の中はあのカプセルと同じく、さまざまな媒体に乗った情報で満ちあふれています。漏れ出てくる光はそのごく一部にすぎません。ただし、すべてヌル情報です」 「ヌル?」 「無意味ということです」 「それでどうなるんです?」 「人間の脳にはリセットスイッチがありません。しかし幸いなことにハードウェアレベルでかなりの可塑性を持っています。それに加えて、充分に長い期間にわたってすべての入力が無意味情報に晒されると活動が自発的に低下し、時には停止する性質があります」 「了子姉が消えてしまうのを待ってるってこと?」 「ある意味ではそうです。しかし成人式の開始時点に不完全ながらもバックアップを取ってあるのでこの宇宙から消えて無くなってしまうというわけではありません」 「でも、いまの了子姉さんは、それを知ってるんですか? ほら、また動いてます。僕を見てるし………了子姉ちゃん! 聞こえてる? サトシだよ」 「人間の言葉にはこれを表現するよい単位系がないのですが、現時点の了子様の意識のレベルは、マキシマムでもサトシ様が夢を見ている程度のものです。『知っている』と自覚するような再帰的な自己認識は形成できません。脳内の有意な回路網の残滓は、ぜんぶかき集めてもそのレベルにまで統合するには足りません」 * * * 私の報告を聞いて、母は言った。 「初期化器を見てきたの。いい経験をさせてもらったわね………私の子の中であれのお世話になるのは了子が初めてだったのよ」 それだけだった。しかも過去形だ。そう、あの技師とまったく同じ。母にとっても了子姉の『事象』は自分の職務の中にあらかじめ組み込まれていた統計的必然のひとつに過ぎなかったのだ。 * * * 「成人式」担当の機械人技師とはその後も連絡を取り続け、了子姉の容態は逐次私の知るところとなった。それは常に芳しくなかった。野生種だったころの人類にまで溯れるほど古いパターンの、なにか強固な意志のかけらのようなものが了子姉の脳のどこかに残り、それが従来有効性が知られているあらゆるタイプのヌル情報攻撃を受け付けないのだという。 10年間を費やしてもクリーンインストールが可能なレベルの初期化が完了しなければ、了子姉は人権を失う。正確に言えば了子姉の諸権利の主体が初期化器の中の肉体からメモりバンクに眠る彼女のバックアップに移されるのだが、成人しそこねた子供のバックアップが活性化される見込みはない。残るのは、「治療」の試みが放棄され、あとは法定寿命の120歳までただただ生理学的な意味において生かされることが決まっている肉体だけだ。 * * * 結局、10万分の99999という類い希なる幸運に恵まれて無事に………人格の連続性を主観的にはまったく損なうことなく………成人となり、自分の職業を獲得した私が、あの日からちょうど10年後に了子姉を、いや、法的には「かつて彼女だった人体」を引き取ることになった。 義務と責任に張り裂けそうな一日の仕事に区切りをつけて目を開くと、そこには了子姉がいる。初期化器よりひとまわり細い円筒容器の、初期化器の内容物と違って完全に無色透明な液体の中に、あの日の姿のまま浮かんでいる。万がいち暴走すると彼女にとって非常に危険なことになるのであいかわらず手足は厳重に固定しているが、実際上その必要はほとんどないはずだ。 10年間の初期化の試みの成果なのだろうか、かつてあの薄明の空間で見せた羞恥の表情のようなものがその顔に現れることはない。それでもしばしば大きく身をくねらせ、ときにはふたつの瞳が私の動きを追う。最近は私とそれ以外の人間とを区別している気配すら感じさせるようになってきた。 母も機械人技師も関心を持たないだろう。だが、成長を止められた肉体の中で、初期化しきれなかったあの小片を核として彼女は着実に再生しつつあるのだ。ひょっとすると太古の人間のようにこのまま大人にまで育つかもしれない………もちろん、たとえうまくいったとしてもそんな野蛮で「どんな精神が生まれてくるかわからない」危険を孕んだ行為が賞賛されることなどあり得ないし、公表するつもりもない。 私にとって了子姉であるところの了子姉の全てが、それがたとえ永遠に手の届かないものであろうともその全てが、私の両腕に抱えられるこの空間に入っている。それで充分だ。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜おはなしおわり〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 |
銀茄子(欧字形:Agnus) http://www2c.biglobe.ne.jp/~agnus/ =====================================================================