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30 バスタブ



        ちゃぽーん……

 静まりかえった深夜の浴室に水音が響き渡る。
 窓の外から射し込む月の光が、お湯の中で寛ぐ陽子の姿を朧に浮かび上がらせていた。
 少し温めの湯に香りのよい薬草を入れた浴槽は、政務に疲れた身体をリラックスさせてくれる。
 しかしいくら宮殿のそれも正寝とはいえ、王という立場である限り一人でこのような場所に居ることは許されない。当然、人目を盗んでのことになるので、真夜中過ぎという時間帯になってしまうのだった。
 誰も居ないたった一人だけの時間。
 目を閉じて頭の中を空にし、月の光を浴びる。
 昼間は日の光を浴びて真紅に輝く髪が今は鈍い銀色に見え、碧玉の瞳もまた蒼海の色に染まる。
 しなやかな手足を存分に伸ばし、体中の力を抜く。立ち上るハーブの香りが心地良い。
 ふと窓の外を見やれば、真円に近い月が雲海の果てに傾こうとしていた。

 月、Moon、Luna…
 様々な言い方があるが、ここ金波宮も【月光の宮】と呼ばれている。
 だが月といわれ一番しっくりくるのは、やはり此の国の麒麟である景麒だろう。
 津々と冷えた冬の月を思わせる冴えた容貌と、淡い光を集めたような金の髪は、輝く太陽のイメージを持つ陽子と見事な対をなしている。正しく太陽の王と月の宰輔だ。

「……月夜…か……」
 ぽつりと呟かれた言葉の端に、どこか切ない響きが見え隠れしている。何気ない一言なのに心の欠片がが零れたようだ。
 射し込む光が水面に揺れて銀の雫を落としていくその儚き美しさに、陽子は目を奪われた。
「……まるで……」
 月光のような…とくれば、己の半身である麒麟の姿しか思い浮かばない。常日頃は口煩いほどに生真面目で融通が利かないのに、時々フッと柔らかな表情をして見せることがある。それに気付いたのは一体いつ頃の事だろうか。
 最早空気のような存在となっている景麒を意識するなど今更なのだが、何故か頭に浮かんだ面影が消えてくれない。振り返ってみると官を巻き込んでの派手な言い合いもすれば(どちらかというと一方的に押しまくるのは陽子の方だ)、二人きりの親密さの増した雰囲気の中で語り合うこともある。付き合いも長くなればお互いの長所短所が見えてくるものだ。
 王と麒麟の関係など、所詮他人には窺い知れない。それ程に深い絆があるのだから。
 陽子はほうっと大きく息を付きながら立ち上がると、したたり落ちる雫を月の光に煌めかせながら露台の方へ近づいた。
 温まった身体を風に当て火照りを冷ましていると、遠い昔、家族で温泉に行ったことを思い出した。まだ小学生の頃、母親の実家へ遊びに行った時、従姉妹達と近くの町営温泉へ出かけたのだ。ローカルな場所にあるだけに、お湯だけが豊富というものだったがその分気兼ねせずに遊び回り、まるで温泉プールのように湯船で泳いだり、露天風呂に入ってはしゃぎ怒られたりもした。今となっては懐かしい思い出でもある。
「そういえばこちらには温泉というものは無いのだろうか…?」
 地中深くボーリングする技術があれば、何もないところでも千m以上掘ればぬるくても温泉は必ず出る。それがなければ自噴している場所を探すだけだが、そもそもこちらには活火山というものがないのでそれも望み薄だ。慶にあれば観光資源にしたものを…と少しばかり残念に思う。
 何をしていても国のことが一番にくる自分に小さく笑うと、再びお湯の中へと身体を沈めた。王として日々多忙を極める陽子は、一人きりで居られる時間というものが無いに等しい。必ず側に他人の気配がある。それは国主として当然な事かもしれないが、蓬莱育ちの陽子には時々息が詰まる。
 しかし唯一人、彼女の麒麟である景麒だけは違う。
 彼の気配はあって当然、無い方が不自然なのだ。