○覚えゲーと奴隷

私は先の話で「奴隷」という単語を使った事に対して、後悔はありません。逆にこの事は、今のゲーム界において言わなくてはならない事、だと私は認識していました、それも割と昔からです。(ちょっと口がすべった的に考えられてしまうのは、私にとって心外です)

ゲームがつまらなくなった、というのは割と良く聞く言葉です。その中にはなんだかすっとんきょうな内容もありますが、それでもこの私自身そう感じる事があります。それはシステムがマンネリだから?難し過ぎるから?いえ、私の考えは別で、私はこの「メーカーとユーザーの主従関係」に、ある種、潜在癌細胞的な危惧を、感じています。

(シューティングに限らず)

ちょっと方向を変えます。覚えゲームとパターンゲームについて考えてみましょう。

昔のグラシリーズやR−TYPEなどの復活、これらについて考えてみるとプレイヤーはその瞬間目にした「情報」(視覚だけでなく聴覚も)を頼りに、今出来る最善の行動、例えばアイテムを取る、より安全な場所に移動する敵の破壊により危機を減らす、等々を「考え」、それらの実行により死に「抵抗」します。(そしてその抵抗のすえパターンが出来上がります)

では別に、弾が速すぎor近すぎ(かつ狙ってない)等、とても避けられね〜ぞ、ど〜すんだ?的な場面を考えてみると(例は省略。該当作品の該当場面は御想像に...)それでもクリア出来る人はクリアしています。で、どうやっているかというと、なんと弾が放たれる前からことごとく安全な場所に位置しているのですね。

つまり撃つ前から避けてる、と... 同じ人間だと思っていたら、なんと予知能力者でいらっしゃいましたか!

というか、実際「予め知る」つまり文字通り「予知」が生きる上で必須条件として要求されているのです。これはつまり「予知なき者には抵抗を許さない」という事、私における覚えゲーの定義とは、まさにこの事です。

そう、覚えゲーの作者は、「抵抗」を許していません。まさに「取りあえず死ね」です。プレイヤーの抵抗力を過小評価しているのか、それともほんの一時でも無知者の生存が我慢ならないのか、それは分かりませんが、その攻撃には作者の

「どうせ死ぬんだから無駄な抵抗はするな」

的な意図が、含まれています、 確実に。

これは何も瞬速攻撃に限った事でなく、心理の不意をつく、直感の裏をかく、こういった攻撃全てに対していえる事です。それらを総じて、覚えゲーとは、「その場」の抵抗を否定しているのです。

失敗を重ねて成長する、これはこれで一つの真理ではあります。が、ことゲームにおいては、「感情」と「そのプレイでの満足」において、覚えゲーは巨大なハンデを背負っています。

感情の話、プレイヤーの抵抗への否定は「必死」である事の無意味さを意味し、必死さを欠くという事は「くやしさ」を捨てるという事。必死さに応じたショックのすえ、動揺、憤慨している暇があったら、さっさとその場面を頭にインプットしましょ、文句を言うよりもさくさく覚えた方が結局お得、賢明に効率良く、その場の感情は邪魔ものだ。

こういった能力も上手さのうち? 大概ゲーマーってのはこういった能力に長けているものです。もちろん長くゲームに触れているうちに自然と身につけた、という人も含めて。少なくとも私はそうですしね。

(そりゃぁ慣れるわな、私も随分ゲームやって来たし...)

しか〜し、人間ってのは感情ある生き物なんですよん。そして、感情に敏感である事に恥はないはず。全てのプレイヤー(ゲーマーもそうでない人も含めて)の内、大半の人間は、メーカーが思っているほど、感情制御が器用ではないはずです、多分きっと。従順である事への反抗心、省略出来るものではありません。

そして感情ってのは、プレイに対して「プラス」に なり得るはずなんですよ、決して不可能ではない一つの「理想」として。

次にプレイにおける満足の話。私もね〜、別に初めての場面、初めて会った敵に対して、そのまま死なずに済むとは思っていませんし、1度や2度のやり直しでクリア出来るようになるなんて思ってはいません。

でも抵抗は出来るじゃないですか。それが30秒でも10秒でも、たとえ5秒程度でも。そして人間集中してればたったその程度の時間の間にも、実に多くのものが脳みそを通過します。

その結果ミスったってそれは全然構わない。その抗った軌跡は、100%自分の力による成果なんですからね。

そして、そこにその1コイン分の満足がある。上手い下手、難しい簡単、なんてたいした問題ではない。クリアだけが歓びではないのだ。

私らが突っ込んだコインは決して軽くはないし、その1コインに歓び感じず去っていく人がいても、それを責める事なんて誰にも出来ません。前金定額制の家庭用ゲームならまだしも、従量制のアーケードゲームではこの事はとても重要です。

明日の歓びの為に今日の「生け贄」を差し出せる、それが出来ない人間に用はない。そんなメーカーの姿勢に憤りつつも私(ら?)の出来る選択は2つだけ、従うか、それともやめるか。

その覚悟の上での新場面への突入は、なんだかいつのまにか希望が持てなくなってしまいます。ゲームってさぁ、なんつ〜かもっとこう、「ワクワク」するものだったはず。このワクワクっての、陳腐な表現(笑)ですが、多分ゲームの魅力における一つの「真髄」です。進む事への「苦痛」とそれを緩和する「努力」って、なんか方向が正反対な気が...

ぶっちゃけた話、ある程度上手くなったプレイヤーがそのゲームを「面白い」と感じる事なんて、極めて「当たり前」な事です。ノーミスがなかなか面白いゲームなんて作れて当然、その上でそれを「凄く面白い」と思わせるように様々な努力をするのも一つの正解ですし、それを極めた結果ファンに傑作と言わしめたゲームも沢山あります。

その要素を限界まで高める糧には、作者の「作品」への情熱が必要ですし、その情熱量によって作品の質は更に高まります。ですが、下手なプレイヤーでもその1回のプレイにおいて「満足」を得られる、というこれは「作品への情熱」だけでは実現出来ません。そうではなく、必要なのは作者の「プレイヤーへの情熱」です。(作注:原文ではプレイヤーへの「愛」でした。が、恥ずい(笑)ので訂正してあります)

それは明らかに「奴隷」とは対極に位置するものですし、覚えゲーの作者がそれを備えているか?というと、わたしゃどうしても疑問です。

奴隷ってのはちょっと表現が極端なんで言い改めるとして、例えば「メーカーはファンがファンである事に寄りかかっていないか?」という問いに対し、きっぱり否定出来るメーカーの人間が、今果たしてどれくらいいるでしょうか?

かなり不安ですよ、わたしゃ...

奴隷危惧ってのは、今言った覚えゲー以外にも、「作業プレイの強要」や「必死さへの逆報酬」がありました。これらは読んだ通りなので略。で、前章の内容には、「嫌み」の部分以外にも、実は沢山これらに対する「逆主張」(アンチテーゼとゆ〜もの?)を含めまくってます。(図らずともそうなってしまった、と言った方が正確なんですが...)

さて、次章にて、「覚え必須」シーンの持つ危険性について、更に突っ込んでみましょう。

それでは!



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