「準ひきこもり」という新概念とその実態についての若干の覚え書き
補遺:JR西日本福知山線脱線事故報道の恐怖(2005年5月)

2008/01/13公開 Agnus


 ネット上のとある場所にて、不定期に雑文を披露しています。

 私や私のようなタイプの人の目に周囲の人々の行動がどう映っているかを示す例になると考え、過去にそこに公開した文章を3回分再録します。




〜1回目。2005/05/08日公開〜


 世の中はわからないことだらけです。そう自覚していることこそが私がある程度は頭を使うことができる証拠であろう、とポジティブシンキングしているのですが、それにしてもJR西日本のあの脱線事故からこのかた、マスコミやネット上を流れる事故に関する情報やさまざまな個人の意見はわからないことだらけです。

 まず、事故車に同乗していたJR西日本の別の運転手さんが救出活動に参加するよりも自分の当日の業務の遂行を優先させたことが責められなければならない理由がわかりません。聞くところによれば上司に相談した上での行動ですらあったそうじゃありませんか。
 次に、事故直後や事故後の数日間に社内の他の部署の人が宴会やゴルフを行ったことがなぜ責められねばならないかがわかりません。社内の宴会や親睦会活動への参加なんか業務命令にようなものです(少なくとも私の勤め先では)。それに従わなければならなかったからといってあとから責められるのでは、一般の社員はたまったものではありません。

 この2例について「そんなこと常識でしょう」という意味のコメントをした人………街角でインタビューを受けてそう応えた人やニュース番組のアナウンサーや解説番組のコメンテーターなど………に問いたいものです。

 あなたがあの事故車に同乗していた運転手さんだったとして、自分の担当の列車を定刻通りに動かすという自分の職務をいったん棚に上げることが、本当に可能なのですか? 自分だったらできるさ、と思っているからこそ「常識でしょう」などと言えるのだと思いますが………私にはとてもそんな自信はありません。個人的な大事件でもなければ、目の前で何がおころうと自分がその時に行うことになっていた職務の予定通りの実行が優先します。上司の指示があったならなおさらです。そんなこと「(私にとっては)常識」です。(あ、これはもちろん「目の前で人が死にかかっていても無視する」ということではありませんよ。自分の職務の予定通りの実行に影響しない範囲で目前の事態に対処するということです。)

 次に、この事故のあと歌舞音曲を自粛しなければならなかった人の範囲はどうやって線引きされているのでしょう。同じJR西日本の社員すべてですか? JR西日本に出資している株主まででしょうか。それとも全国のJR関係者? JR西日本に運行制御システムを納入していたメーカの人まで? あるいは地元の住人すべて? ひょっとすると日本人全部とか………これらのどこかで線が引けるとするならば、その根拠は?
 このように誰もが自分の好みで恣意的に決めることの出来る境界線によって「あんたは不埒なことをしたから責められるべきだ」などと決めつけることができる、というこの状況が、私はものすごく怖い。この事件の報道に接するたびに、この恐怖はますます大きくなってきています。




〜2回目。2005/05/28日公開〜


 前回の(2005/05/08)本欄にはたくさんのコメントをありがとうございました。幸いなことに、(1)私の感覚の方が少数派である(あるいは「おかしい」)と指摘してくださるご意見をいくつかいただくことができました。(2)部分的に賛同してくださる方もいらっしゃいました。(3)全面的に私の感覚に同意してくださる方はいませんでしたが、そういう方はわざわざコメントをお送りしてくださるまでもない、とお考えなのに違いない、とこれまたポジティブシンキングしております^^。

 私にとってもっとも興味深く、面白い(←"interesting"です。"funny"ではありません、決して)のはやはり(1)のタイプのご意見です。自分の知らない感覚や物の見方に触れ、叶わないまでもそれを理解しようと足掻くのは、自分の世界がまさに広がりつつあるという心地よさを伴います。
 どのようなご意見をいただき、それを私がどう理解しようとしたか、近いうちにこの欄にて書かせていただくつもりでおります。(メールくださった方の個人情報がわかるような書き方はしません。当然ですが)

 ……(本ページの主題「準引きこもり」に関係しないので1段落省略)……

 ではでは。



〜3回目。2005/07/03日公開〜


 ……(本ページの主題「準引きこもり」に関係しないので2段落省略)……

2件め:
 前々回(2007/05/08)の本欄には多くのコメントをいただき、ありがとうございました。その後も、前回の本欄(2007/05/28)に対して、(3)特にコメントを送らなかったけれど私の感覚に共感してくださっているという方からメールをいただきました。(1)私の感覚の方が少数派である(あるいは「おかしい」)と指摘してくださるご意見や(2)部分的に賛同してくださるご意見をいただいていたことは前回書いた通りです。
 私は、特に(1)のタイプのご意見の中から、私にはよく見えない「社会性」や「常識」を得るためのヒントが得られるのではないか、と期待していました。結果として、残念ながらそのもくろみはうまく行きませんでした。

 たとえば、「今回の脱線事故に際して歌舞音曲を自粛しなければならない範囲の人がJR西日本社員までであることは世間的な基準に照らして明らか」、という内容のご意見をいただきました。せっかくご意見いただきながら申し訳ないのですが、残念ながらその「世間的な基準」がどこに書かれているのか、身の回りの何に注意していればわかるのか、という肝心なところは説明いただけませんでした。
 いまだにその基準がわからないためか、歌舞音曲自粛範囲に同じく当事者であるはずのJR西日本の株主はなぜ含まれないのか、あいかわらず私にはわかりません。株主たちが経営者の責任を追及する場面が先日マスコミに流されていましたが、それはJR西日本の内部の話。私からみれば、出資することによってあんな会社の活動を支えていた株主たちも同罪であり同じ穴のムジナです。恣意的に設ける以外の境界線を株主と従業員と経営者の間に引く根拠は、やはり存在しないように思えます。同じく、JR西日本と他のJRの間に引くべき理由もありません。そして私鉄との間に引くべき理由も………以下「数学的帰納法」的にどこまでも続きます。

 また、「鉄道会社として絶対にあってはならない人身事故を起こしたのだから全社をあげて救助活動にあたるべき」というルールを最初に設定し、それに基づいてJR西日本を構成する人々の動きを批判されるご意見もいただきました。このルールが、私にはどこからどのように導かれたものかわかりませんでした。
 まず「鉄道会社にとって人身事故は絶対にあってはならないことである」という前提が不思議です。以下に、私が感じている不思議さを説明するために極端な例を作ります:
 100人の犠牲者の出る事故の発生を100年に一度の割合にまで抑えることに成功した鉄道会社があるとします。この確率を1万年に一度にまで低くするのがその時点での技術の限界で、かつそれを実現するためには運賃を1000倍に上げる必要があるとします。もしも人身事故が「絶対にあってはならない」なら、鉄道会社は1000倍の料金を設定し、乗客は「犠牲者100人クラスの事故の発生確率が1万年に1回(従来の100分の1)にまで低められた安全性」の対価としてその1000倍の運賃を喜んで払うことになります。………が、現実はおそらくそうならないだろうと私は思います。少なくとも私だったら、1000倍の価格の鉄道会社よりも、妥当な安全性と妥当な移動速度を妥当な価格で供給してくれる鉄道会社の方を選ぶでしょう。何が「妥当」かはその時々の自分の状況に応じて自分で決めることにります。

 あの脱線事故に際してJR西日本の動きを批判していた人々………街角でインタビューを受けてそう応えた人やニュース番組のアナウンサーや解説番組のコメンテーターなど………の思考過程を理解しようと足掻く旅は、まだまだ続きそうです。



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