Via Vino No. 101 "Wine & Hundred Years' War "   
<ワインと百年戦争>


<日時・場所>
2025年6月1日(日)19:00〜22:00 池袋「サンシャイン・クルーズ・クルーズ」 
参加者:13名
<今日のワイン>
 辛口・白・発「カナール・デュシェーヌ・シャンパーニュ・シャルル7世・グラン・キュヴェ・ブラン・ド・ブラン」
 辛口・白「クロ・サン・フィアクル・オルレアン・ブラン 2022年」
辛口・赤「フィリップ・ル・アルディ・ポマール2016年」 
辛口・赤「シャルル・ジョゲ・シノン・シレーヌ 2022年」
辛口・赤「シャトー・タルボ 2021年」
ブランデー「ジャンヌ・ダルク・ナポレオン・ブランデー」  
<今日のディナー>  
 
帆立のスモーク・春野菜のメリメロ 
タスマニアサーモンの柑橘マリネ・フロマージュ・紫蘇
鰆のブレゼ・菜の花と浅利のソースヴェール・海老ブーレット・レタスとオルツォ
牛タンと湯葉・プティポワのクレメ・サンジェルマン風

 

     


  フランスワインの神髄は、まさにフランスの歴史にあり!
 英仏百年戦争は、1337年から1453年までの長きにわたって、イングランドのプランタジネット朝と、フランスのヴァロワ朝との間で、フランスワインの三大産地、ブルゴーニュ、ボルドー、シャンパーニュを巡って繰り広げられた大戦です。
「アナーニの屈辱」で教皇を憤死させ、「教皇のアヴィニヨン捕囚」を実行し、テンプル騎士団を血祭りに上げたフィリップ4世の崩御の後、カペー朝の断絶と共にイングランドが王位継承を主張、
 戦禍の中フランスは内部分裂を起こし、「ブルゴーニュ」公がイングランドと同盟を結び、フランスは解体の危機に!  
 そこに現れたジャンヌ・ダルクは、「シャンパーニュ」のランスでシャルル7世を戴冠させ形勢逆転! 最期まで抵抗したのはイングランド領だった「ボルドー」だった……!
この激動の時代に、イギリスとフランスという国がまさに形作られ、それと共にワイン産地も定着したのだと言っても過言ではありません。

百年戦争ゆかりのワイン産地

 百年戦争のゆかりの地は、そのまま今もワインの銘醸地として知られています。
 1309年から教皇庁が置かれるようになったローヌのアヴィニヨンは、国際都市として空前の繁栄を迎え、教皇クレメンス6世はアヴィニヨンの北に葡萄園を作り、そのワインが有名になって「シャトーヌフ・デュ・パプ」(教皇の新城館)の名を頂くようになりました。
 ブルゴーニュ公国の繁栄はそのままワイン産業の発展へと繋がりました。フィリップ・ル・アルディ(豪胆公)は1395年にガメイの栽培を禁止します。
 1429年にジャンヌ・ダルクがシャルル7世と謁見したのは、ロワールシノン城でした。シノンのワインは今もロワールを代表する銘品となっています。そしてシャルル7世はシャンパーニュランスで戴冠式を行いました。
 フランス統一の波に最後まで抵抗したのはボルドーでした。1453年にカスティヨンの戦いでボルドーは降伏し、長い戦争は終結しますが、その後もイングランドとのワイン貿易は続いていくことになります。

1.カペー朝断絶

 1285年に即位したフランス・カペー朝のフィリップ4世は、美男王(le Bel)の愛称で知られる容姿端麗な姿で知られていますが、イングランドとの戦費捻出のため、聖職者への課税問題でローマ教皇と対立、アナーニ事件で教皇が死ぬと、ボルドー司教が新教皇となり、南仏アヴィニヨンに教皇庁を移してしまいます。さらに豊富な資金を持つテンプル騎士団を異端の嫌疑で一斉逮捕し、その財産を没収して処刑してしまいます。1314年の火刑の際、ブルゴーニュ出身の騎士団総長ジャック・モレーは、フィリップ4世とクレメンス5世に呪いの言葉を残しますが、その呪いを受けてなのか、同じその年に、クレメンス5世も、そしてフィリップ4世も46歳の若さで死んでしまいます。しかも後を継ぐ多くの王子達がいたにも関わらず、次々と病死、ついにカペー朝は断絶してしまうのです。後を継いだのはフィリップ3世の孫に当たるヴァロワ伯フィリップ6世でしたが、イングランドに嫁いでいたフィリップ4世の娘イザベルは、息子のエドワード3世の王位継承権を主張、百年戦争が始まることになるのです。

当時のシャンパーニュ

 フランス王国の始祖、フランク王国建国者クローヴィス1世が、496年にシャンパーニュ・ランスの大聖堂で洗礼を受けました。 以後、フランス国王となるには、ランスのノートル・ダム大聖堂で戴冠式を行うことが必要となったのです。 ランスやエペルネのワインに関する最初の記述は9世紀頃見られるようになります。 14世紀頃には葡萄畑が拡大、フランドルやイングランドへのワイン輸出が始まりましたが、ブルゴーニュ公国の二つの領土に挟まれていたこともあり、当時はまだそれほど進展は見られませんでした。



「カナール・デュシェーヌ・シャンパーニュ・シャルル7世・グラン・キュヴェ・ブラン・ド・ブラン」  (タイプ:白・辛口・発泡性・NM、品種:シャルドネ 100%、産地:フランス/シャンパーニュ/ランス)
 樽職人のヴィクトル・カナールと葡萄栽培農家の娘、レオニー・デュシェーヌ、両家の名を冠した「マリッジ・シャンパーニュ」カナール・デュシェーヌの歴史は1868年に始まりました。1890年に二人の息子エドモンドが、ロシアへの販路を開拓。皇帝ニコライ2世の御用達となり、現在でもボトルにはロマノフ王朝の紋章「双頭の鷲と冠」が描かれています。「シャルル7世」は、創業100周年を記念して造られたスペシャル・キュヴェで、きめ細やかな酸と充分なミネラルがあり、きれいな透明感と伸びやかさを備えた個性が感じられ、ワイン評論家ヒュー・ジョンソン氏も、「カナールの切り札はシャルル7世!」と断言しています。


2.白百合と金の豹


 エドワード3世は「合弁王国」の紋章として、イングランドの豹のデザインにフランスの百合花ちらしを組み合わせたものを用いて、フランスの海軍基地エクリューズ港(英名:スロイス)を奇襲、フランス側は4倍近い兵力を投入しますが、イングランドは3千人の弓兵を使って太陽の光を背に矢を浴びせかけ、フランス艦隊を全滅させ、なだれのように大陸に攻め入ります。続くクレシーの戦いでは、フランス側も5千人の弓兵を導入しますが、イングランド側は連射可能な長弓で丘の上から攻撃、4倍近い兵力のフランス軍を壊滅させます。そしてこの後のポワティエの戦いでは、エドワード3世の長男であるエドワード黒太子(Black Prince)が、同様の戦法でフランス軍を破り、国王ジャン2世は捕虜となってしまいます。これらはイングランドがスコットランドやウェールズとの戦いで相手から導入した長弓(ロングボウ)が、フランス側の弩(クロスボウ)を圧倒した戦いだったとも言えます。 

3.ブルゴーニュ公国

 ジャン二世の息子シャルル5世は、王国の1/3の領土を割譲し、王の身代金金塊5トンを支払うことで休戦に持ち込みますが、財政改革とそれによる常備軍の導入で王国を持ちこたえ、領土の回復に成功します。しかし後を継いだシャルル6世は、即位後精神に異常をきたし発作を起こして護衛を殺害、以後断続的に錯乱状態を繰り返し政務が執れなくなってしまいます。脇を固める親戚筋のブルゴーニュ派とオルレアン派が対立、両派が互いにイングランドを巻き込むことで、王国は再び乱れ始めます。 特にブルゴーニュ公国は、シャルル5世の弟だったフィリップが初代公王となり、国王の摂政を務め、さらにフランドル伯領を継承することで、シャルル6世を補佐しつつ、フランドルにも関係が深いイングランドにも接近することとなりました。百年戦争の最中に、ブルゴーニュワインの品質を維持するために、コート・ドールの葡萄畑からガメイを引き抜く法令を出したことで、ワインの歴史においても重要な位置を占めています。 フィリップの息子ジャンがブルゴーニュ公国を引き継ぐと、ブルゴーニュ派はシャルル6世の弟オルレアン公ルイを暗殺、その息子シャルルは義父アルマニャック伯を頼り、アルマニャック派が台頭します。イングランドでは、ヘンリー5世が即位すると、直ちに1万2千の軍勢を率いてノルマンディーに上陸、アザンクールの戦いで再び長弓を駆使して3万のフランス軍を打ち破ります。そんな中、アルマニャック派はシャルル7世を担ぎつつ、復讐のためブルゴーニュ公ジャンを暗殺、後を継いだ三代目フィリップはイングランドとの同盟を締結、「アングロ・ブルギニヨン同盟」が成立し、トロワ条約によってシャルル6世の死後はヘンリー5世がその後を引き継ぐことが定められ、シャルル7世は廃嫡されてしまいます。 1422年に、ヘンリー5世が34歳の若さで病死。その直後にシャルル6世が亡くなったことで、からくもシャルル7世は引継に成功したものの、「アングロ・ブルギニヨン同盟」は健在で、首都パリを追われ、ロワールのシノン城へと追いやられてしまいます。  

当時のブルゴーニュ

 ブルゴーニュの名は、5世紀にこの地を征服したゲルマン人のブルグント族に由来しますが、葡萄栽培もローマ時代に始まりました。ベネディクト会のクリュニー修道院はクロ・ド・ベーズ等の畑を所有、サン・ヴィヴァン修道院もロマネ等の貴重な畑を所有していました。
1089年ニュイ・サン・ジョルジュ近くに住み着いたシトー会は、クロ・ド・ヴージョを開墾、当時最高の評価を得ていました。
 14世紀に始まるブルゴーニュ公国により、さらにこの地のワインは名声を高めていきます。ワイン好きにとっては有名ですが、ブルゴーニュ公国初代公王フィリップ・ル・アルディ(豪胆公)は、ピノ・ノワールを愛するあまり百年戦争のまっただ中で、ガメイを引き抜けという法令を出したことで知られています。
 ピノの名は、フィリップ・ル・アルディの治世の頃、1375年に初めて文献に登場するとされていますが、ピノが具体的に葡萄品種として認識されるのは、その20年前、なんとヨンヌ県サン・ブリで「ピノとその他の葡萄を分けなかったためにおきた殺人事件に対する特赦状に出てくる」のだそうです。2007年の酒販ニュースにさらりと記されているのですが、それ以上の情報が得られていません。なんかミステリーに使えそうで気になっています。

     

「フィリップ・ル・アルディ・ポマール2016年」  (タイプ:赤・辛口 品種:ピノ・ノワール100% 産地:フランス/コート・ド・ボーヌ/ポマール)
 サントネイを本拠地とし、その起源を9世紀まで遡ることのできる生産者「シャトー・ド・サントネイ」は、2021年から「フィリップ・ル・アルディ」の名を冠して、新たな歴史を歩み始めました。ブルゴーニュ公国の初代公王フィルップ・ル・アルディ(豪胆公)が所有していたとされる葡萄畑の区画を所有し、シャトーの城館も公王が保有・増改築したものです。所有する98haの畑全てにビオロジック農法を導入、良質な葡萄の収穫を進めています。ピノ・ノワールの豊かさと、赤系果実味と黒系果実味の広がりが見事に表現されていて、フレッシュさ、濃縮、美しい滑らかさ、エレガントなタンニンを全て備えたワインに仕上がっています。


4.小娘一人の命

 フランスを南北に分けるロワール河の北岸に沿う都市オルレアンは、フランスにおける戦略的要所でした。アングロ・ブルギニヨン勢はここを攻略して、一気にロワール以南へと攻め込もうとオルレアンを包囲、ここが陥落すれば、シャルル7世はスコットランドかカスティーリャに同盟するしかありませんでした。 1429年3月、ロレーヌのドンレミ村からシノン城を訪れた17歳の少女ジャンヌ・ダルクは、まさにこの時、起死回生の処方として、シャルル7世に対して、オルレアンの解放とランスでの戴冠を提案し、実行して見せたのです。5月には陥落寸前だったオルレアンを解放、6月にはパテーの戦いに勝利し、7月にはシャンパーニュまで北上して、イングランド占領地の中心部にあったランスでの戴冠式を成功させたのです。魔女の出現とばかり驚いたイングランド軍は、ついには大陸からすべて一掃されてしまいます。 しかしジャンヌの活躍はこの1年間のみ、翌年5月にはコンピエーニュでブルゴーニュ公国軍に捕らえられ、1年間監禁された後にノルマンディーのルーアンで、魔女として裁判を受け火刑に処せられました。大恩のあるシャルル7世は、「小娘一人の命で済めば安いものだ」とうそぶいたと言われています。 オルレアン市民は身代金を寄付していますが、この身代金はシャルル7世が没収したためジャンヌは釈放されず、イングランド側が身代金を払って身柄を引き取ったため、裁判自体はイングランドの意向に完全に従うものとなったのです。

当時のロワール

 ロワール渓谷にブドウ畑が拓かれたのは紀元後1世紀のことで、ガリア人の定住とともに行われたと考えられています。 11世紀まにでは、サンセールのワインはヨーロッパ中にその品質の高さを知られていました。中世盛期においては、ロワールワインはボルドーワインよりも評価が高かったと言われています。 15世紀初頭のフランス国王シャルル7世が、ロワールのシノン城に住まいを移したことをきっかけに、その後の歴代の国王もロワールに自分たちの城を築く文化が定着していきました。

    

「クロ・サン・フィアクル・オルレアン・ブラン 2022年」  (タイプ:白・辛口 品種:シャルドネ100%、産地:フフランス/ロワール/オルレアン)
 クロ・サン・フィアクルは、1635年以来ワイン造りを続け、オルレアンの原産地呼称の設立を大きく牽引した歴史あるワイナリーです。オルレアンは、ロワール川に沿った13市町村に認められた原産地呼称で、大陸性気候の影響を受け平均気温が低く、4つの独立した生産者と12の小規模生産者を集めた協同組合からワインが造られています。17haの畑を所有、6000本/haの密植栽培が行われており、除草剤や殺虫剤は使用しません。レモンやグレープフルーツ、リンゴなどのフレッシュな果実のアロマに、白い花やセージを想わせるハーブのニュアンスが重なり、芳醇な風味とともに訪れる深みある余韻も魅力です。

「シャルル・ジョゲ・シノン・シレーヌ 2022年」  (タイプ:赤・辛口、品種:カベルネ・フラン100%、産地:フランス/ロワール/シノン)
 シャルル・ジョゲは、あのロバート・パーカーが「シノン最上の生産者」と認めた、揺るぎない地位を築いた伝説の造り手です。ビオロジック栽培と極限まで収穫量を落とす栽培方法により、クリアで凝縮感溢れるブドウを獲得、そして当時ロワールでは斬新だった区画ごとの収穫・醸造・瓶詰を実践することで、テロワールを反映したワインを生み出しています。ロワール河とヴィエンヌ川の間に広がる砂質沖積土壌の畑から造られるカベルネ・フランから、赤いチェリーのような心地よいアロマとハーブのニュアンス、 のびのびとした味わいで、引き締まった重い赤ワインとは対極にある穏やかで深い旨味を堪能できるワインを造っています。


5.最終決戦


 1435年にヘンリー6世の摂政ベッドフォード公が死去すると、ブルゴーニュ公国との和睦が成立、翌年にはパリが奪還され、パテーの戦いでジャンヌと共に戦った大元帥リッシュモンが1450年にはノルマンディーを制圧、1453年にはカスティヨンの戦いでタルボットを討ち取り、ボルドー平定をもって百年戦争は終結します。 イングランドでは、シェイクスピアの史劇の影響もあり、今でも百年戦争はヘンリー5世が勝利を勝ち取ったところで終わったことになっているそうです。その後はヘンリー5世亡の後を継いだヘンリー6世が、イングランド内の不幸な内戦、すなわち薔薇戦争によって不幸にも廃位に追い込まれるのです。 またヴァロワ家のフランスとハプスブルク家のドイツとの間で独自路線を進もうとしたブルゴーニュ公国も、四代目シャルル突進公が1477年に戦死すると、南のブルゴーニュ領はヴァロワ家に、北のフランドル領はハプスブルク家に吸収されてしまいます。 まかり間違えば、アングロ・ブルギニヨン同盟によって、英仏にまたがる巨大な連合王国が誕生する可能性もあったのですが、これ以後は英仏共に国王主権、国民統一の近世国家へと姿を変えていくことになるのです。

当時のボルドー

 1152年、ルイ7世の妃だったエレオノールは、離婚後アンジュー伯アンリ・プランタジネと結婚、1154年には、アンリはイングランド王ヘンリー2世となり、エレオノールのアキテーヌ領(ボルドー)はイングランド領となります。 13世紀のボルドーは港町として発展、南のグラーヴやガスコーニュがワイン生産の中心でした。 エドワード3世がスロイスの海戦で史上初めて艦隊を組んだとき、200隻の船は殆どがワイン輸送船だったと言われています。

   

「シャトー・タルボ 2021年」  (タイプ:赤・辛口 品種:カベルネ・ソーヴィニヨン69%+メルロ26%+プティ・ヴェルド5% 産地:フランス/ボルドー/サン・ジュリアン)
 シャトー・グリュオー・ラローズの近くにあるサン・ジュリアン村の第4級格付けシャトーです。シャトー・タルボの名前は、1453年のカスティヨンの戦いに破れたイギリス軍指揮官、シュースベリー伯ジョン・トールボットにちなんだものです。所有する区画は約100haで、砂利混じりの土壌に、葡萄の樹がギヨー・ドゥーブル仕立てで栽培されています。平均樹齢は40年ほどで、全て手摘みにて収穫され、新樽率50〜60%のフレンチオーク樽にて約15カ月間熟成されます。華やかなベリーとハーブの香りが特徴で、しっかりとした骨格を備えており、クラシックなボルドースタイルがお好みの方に支持されるワインとなっています。

     

「ジャンヌ・ダルク・ナポレオン・ブランデー」  (タイプ:ブランデー・コニャック 品種:ユニ・ブラン主体 産地:フランス/コニャック/グランド・シャンパーニュ)
 製造元は1860年に創業。オーナーは、グランド・シャンパーニュ地区の中心にある町で、5世紀以上にわたってぶどう園を所有してきたマルタン家。それ以上の詳細は不明ですが、「ジャンヌ・ダルク」の名を広めたのがあのナポレオンだったことを思うと、なかなか感慨深いものがあります。


<今回の1冊>
   
【佐藤賢一「 英仏百年戦争」(集英社新社 )】
百年戦争やジャンヌ・ダルクを扱った書籍は沢山あると思うのですが、とりあえず手軽にかつ通しで知識を得たいなら、非常におすすめの本だと思います。百年戦争開戦の頃には、そもそも今のようなイギリス、フランスという国家の感覚がなかったということ、むしろジャンヌ・ダルクの登場が、そのままフランスやイギリスのナショナリズムと結びついて、終戦後に国家という意識が高まったのだという指摘は、非常に納得できるものがあります。宗教、経済、言語、そしてワイン……様々な観点からこの戦争を読み解くことで、ある意味ヨーロッパの歴史が俯瞰できる……そのことを教えてくれると言う意味で、非常に魅力的な著作です。

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