*** 登録作家による小説競作 *** 3 「都道府県名(地名)+?+謎」に挑戦 |
青森毒林檎の謎(1)
塩瀬絆斗
〜前編〜
(1)
まず言っておかなければならないのは、私はなにも崇高な(?)青森県民の方々に対しても、また美しい宝石のような果実の林檎に対しても如何なる恨みすら持っていないということである。何しろ事情が事情であるから、このような、ある人が見れば誹謗だ、中傷だと叫ばれても仕方のない題名を付けなければならなかったのである(これを読んでいる諸君にはこの言葉の意味がよくお分かりだろう)。しかし、この事情というのを差し置いても、今回私がここに紹介する事件において、この林檎というものがとても重要な役割を担っているのである。そしてこの事件というのが、とても不可解で、尚且つ(これは重大なことであるが)悲劇的な物語なのである。私は未だに多くのことを考えさせるこの事件に対し、ある種の敬意を表してもいる。更に、これほど恐ろしい出来事があるものなのか、と言わずにはいられない。これは意図せずして完全犯罪を成し遂げた者の話なのである。
さて、無駄な長話はたくさんだと読者諸君は憤慨しながらこれを読んでいるかもしれない。ただ、一つ言っておきたいのは、私はこの事件に一切関係を持っていないし、勿論犯人でもない。これから紹介する事件はある知人から聞いたものであり、実際にあったことなのである。これは読者諸君の疑いが無駄に私に注がれることを未然に防ぐものである。なお、物語の途中で問題提起をするかもしれないので、そのつもりで読んでいただければ、記述者兼作者冥利に尽きるものである(つまり、少しく小説風にしてあるということだ)。
これは想像してもらう他ないのだが、もしあなたの家のポストにこのような手紙が入っていたら、あなたはどうするだろうか? というのも、この手紙こそが今回の事件の始まりだからである。
『君は毒林檎を知っているかね? いかにも例の林檎だ。白雪姫がその命を悪い魔女から奪われかけた、あれだ。いや、多分眠りの薬が入っていたんだと思うね、あれには。……今聞くのは、天国へ(いや、地獄だろうが)連れて行くはずの毒林檎なんだがね。赤く、まさに非の打ち所なんかない林檎だ。ただ、
それは文字通り君の人生において、まさしく最後の晩餐となるだろうね!』
高田由梨絵はもう随分と寒くなってきた十月の朝の空気に震えながら、欠伸を噛み殺していた。今は自宅の門の横にあるポストへ向かっているところである。
(まったく、私ってただの召使みたい)
由梨絵は心の中で呟いた。無理もない。彼女は毎日毎日家事に追われているのだ。朝起きてまずするのは新聞を取って来ること。これくらい誰かやってほしいものだわ、と由梨絵は誰にも聞こえないくらいの舌打ちをする。彼女は「出来ればこのような召使的な生活に終止符を打てればそうしたい」と思っていた。
真っ直ぐで、長い黒髪。丸く大きな目で、少し茶色がかった瞳。顔も小さく、皺もなく(と彼女は主張している)とても四十過ぎには見えない。そんな彼女のあんな心の声を聞けば、おそらく誰でもが自らの耳を疑うだろう。それほどに彼女の外見と中身のギャップは凄まじいのである。勿論、由梨絵自身、自分の心の中を曝け出したことは殆どない。あっても一、二度である。一度は夫婦喧嘩、もう一度は……それは由梨絵も忘れていた。彼女自身、秘密を纏うことに特に抵抗があるというわけでもなく、どこか楽しんでいるふしがあった。
とにかく、色々な悪態を今日も心の中にぶちまけながら、ポストを開ける。いつものように――もう生活リズムに組み込まれてしまっている――新聞を取ると、その下になにやら白い封筒が目に飛び込んできた。思わぬところに非日常が顔を覗かせる。
(おかしいわね)
昨日は夕方に郵便を取ったし、夜には手紙など来ないはずである。由梨絵は訝しげにその封筒を手にした。こぎれいな白い物である。何の変哲もないが、封筒の表にも裏にも差出人の名はない。切手も貼られていない。口は糊付けがしてあったり、テープが張られているわけでもない。こういうとき、人間はえも知れぬ恐怖に襲われるものである。由梨絵も寒さのせいかは分からないが、ぶるっと身震いをして、家の中へと入った。
(なにかしら)
キッチンに入っても家事をするでもなく、かといって手紙を開けられないまま時間がゆっくりと流れていく。テーブルの上に置かれた白い封筒とただ睨めっこをするばかりである。由梨絵は未だに勇気を振り絞れないでいたが、ふと時計を見ると、もう七時前である。
(いけない。朝ご飯だわ)
なんだかんだ言ってもやらねばならないのである。由梨絵は急いで支度をし始めた。封筒はテーブルの上で静かに横たわっている。
「おお、おはよう」
大口を開けて欠伸をしながらキッチンに入ってきたのは、由梨絵の夫、雅彦である。四角い顔にしっかりとした目鼻立ち。かといってうるさい顔ではない。オールバックにした髪はまだ整えられておらず、ぱらぱらと何本かの髪が額に掛かっている。本人は最近抜け毛を気にしているらしいが、そう心配したものではない。黒々とした髪は逞しささえ感じられる。だが、目はきょろきょろと落ち着きがない。どっか、と椅子につくと、その大きな体を目一杯伸ばす。雅彦はふとテーブルの上にあるあの封筒に目をとめた。
「母さん、なんだ、これは? お小遣い?」
雅彦は由梨絵を「母さん」と呼ぶ。もう二児の子を持つ夫婦である。二児の子、といっても二人とも学生である。家族四人でこの家に住んでいる。
「何言ってるのよ」由梨絵はその愛らしい笑顔を振りまいている。雅彦としてはたまらない。「朝ポストに入ってたの。差出人もないし、何なのかしら」
「なんだ、まだ見てないのか?」
「なんか気味悪くてね」
そうかそうか、と雅彦は封筒に手を伸ばす。触った感じ、中身はかなり薄い。取り出してみると折り畳まれたきれいな白い紙が一枚。それを広げて見てみようとしたその時、
「ふわぁぁ〜、おはよう」
父親に続き、欠伸をしながらキッチンに入ってきたのは亮輔である。短く黒い髪、はっきりした濃い眉毛、その下には鋭い目がある。顔の輪郭もすっきりとしており、見る者に、爽快なイメージを与える。実は彼は養子であり、十九年前に両親を亡くして身寄りのないところを雅彦に引き取られたのである(旧姓は岡田という)。夫婦は揃っておはようと言い、亮輔は父の手にある物に目をとめた。
「それは?」
雅彦はその手紙らしきものから目を離し、頷く。
「いやな、母さんが朝ポストに入っているのを見つけたんだってさ」
「それで、何なの?」
「待ってろ、今見てみるから」
ぱっと紙を広げ、少しの沈黙。
雅彦の目は真ん丸く見開かれている。
「どうしたの?」
由梨絵も包丁を動かす手を休めて近寄る。
「わ、分からん」
雅彦は首を傾げながらその紙をテーブルに置いた。それにはまさしく、先程紹介したあの文句が活字で書かれていたのである。亮輔も口をぽかんと開けている。
「な、何これ。気味悪い」
亮輔の言葉に皆頷く。気を取り直したような雅彦の言葉も震えていた。
「ただの悪戯だろ」
騒然とした空気もやがて去り、由梨絵の作った朝食を皆で食べ始めた頃、無言で入ってきたのは詩織である。挨拶をしたのは由梨絵と亮輔だけである。雅彦は見向きもしない。
キッチンにはちょっと重い空気。何を隠そう、詩織と雅彦は長い間非常に仲が悪いのだ。ある時など、ひどい諍いがあったものだ。詩織は母親に似てとても愛らしい顔立ちである。ショートカットの髪を暗い色で染めている。瞼だけは父親譲りなのか、一重である。本人はそれを嫌がっており、一時期は整形手術をしたいとも言っていたが、由梨絵の、
「なにもそこまでしなくてもいいじゃない。それにまだあなただけの体じゃないのよ。独立してお金が稼げるようになってからでもいいじゃない。お母さんは反対はしないわよ。でも、今は駄目。いつか自分でやりなさい」
という一言に沈黙させられた。
詩織が椅子につくのと同時に笑顔が消えてしまった雅彦は立ち上がり、
「じゃあ、もう行くから」
由梨絵も立ち上がり、玄関まで見送りである。靴箆を使い革靴を履く雅彦に向かって由梨絵は言う。
「あなた、もう詩織と仲直りしたらどう? 見てられないわよ」
暫くの沈黙のあと、雅彦は重く口にする。
「駄目だ。甘やかし過ぎだよ。だから最近の子供は――」
「いつもそう言うけど、それは……」
「じゃあ行ってくるから……」
いつもこれである。由梨絵は溜息をつき、キッチンへと重い足を運んだ。
「やっぱりお父さんと仲直りしたほうがいいんじゃないか?」
キッチンに戻ると亮輔が詩織に話していた。彼は養子とはいえ、詩織の八歳年上で二十三歳、立派に詩織の兄である。今現在大学生なのは一浪してしまったからである。一年間はバイトと勉強を両立させ、頑張っていた。父親は、この二人の兄妹の兄ばかりよく見ており、妹に説教する場合には常にその比較の対象にした。
「いや」
詩織は頑として動かない。お互い、相手が自分のことを嫌いだということを知っている故にこういうことになるのだろう。憎悪の螺旋である。由梨絵も亮輔も深い溜息をつく。そうして、一日は始まった。
ついにその日、あの不気味な手紙について深追いされることはなかった。結局何も起こらなかったためと、雅彦の悪戯説が濃厚だったため警察にも通報は控えた。あの手紙もゴミ箱行きとなり、高田家は無事に平穏な日々を取り戻した。
……かのように思われた。
しかし、翌日、奇妙なことが起こった。
昼間、漸く家事を一段落させた由梨絵はテレビを見ていた。
(テレビはつまらないけど、やっぱり一人でいると落ち着くわ)
何気のない日常である。兄妹は学校に、雅彦は会社に。実は雅彦は某会社の社長である。そう、由梨絵は社長婦人である。社長婦人であるが、特別何があるわけでもない。まあ、ちょっとはいい家に住み、ちょっとはいい暮らしができるというくらいのものである。雅彦の会社はあまり大きくないのであるが、この不況の世にも負けずに頑張っているようである。
十月の昼の日差しは寒々しい光の中に長閑な温かさを持っている。リビングには大きな窓があるが、そのそばで由梨絵はぼーっとしていた。テレビを消してその静けさに包まれると、ここが都会であるということも忘れさせてくれる。
と、その時、インターホンが鳴り、宅配便で荷物が届いたのであるが、小さなダンボールの箱の表面にはでかでかと、「青森りんご」と書かれていたのである。差出人は……田中太郎。由梨絵には初めて見る名前である。
「それでまた開けられなかったのか?」
「だって気味悪いんだもの」
雅彦は帰ってくるなり、由梨絵にキッチンに呼ばれたのである。昨日あんな手紙が来たばかりで、林檎とは……。確かに気味が悪い。夫婦ともテーブルの上の箱を見つめるばかりで、完全に黙ってしまった。
「田中太郎なんて名前は知らないし、この差出人のは青森の住所だけど、青森に知り合いなんていないしな」
由梨絵はせがむように雅彦の腕にしがみつく。
「ねぇ、警察に電話したほうがいいんじゃないかしら」
確かにそのほうがいいかもな……。雅彦は一人納得する。というより、由梨絵の怯えたような顔を前にしては反対など出来ないだろう。由梨絵は確かに心の中で悪態を吐く女性であるが、肝が据わっているというわけではない。ましてや、今は自分の家にこんなことが起こっているのである。すました顔で、それじゃいただきましょう、なんて言う人間がいるはずもないだろう。
かくして、警察が呼ばれ、その到着と時を同じくして亮輔、詩織たちが帰ってきたのである。最初、二人は何が起こったのか、分からない様子だったが、由梨絵の話を聞いて目を丸くしていた。
「つまり」通報を受けて駆けつけてきた制服警官である。「昨日その手紙が送られてきて、今日この林檎が送られてきた、ということですね」
既に箱は開けられており、中には九つの林檎が正方形に詰められていた。今では林檎のいい香りが鼻をくすぐるばかりである。
「はい、そうです」
皆一様に頷く。緊張のためかどこかぎこちないが、誰しもこうなるのであろう。一方警官はその特徴的な大きな鼻をこすっており、何か思案しているようであった。勿論、一会社の社長の家族に起こったことである。何もしないで帰るわけにはいかないであろう。それとも、何かの陰謀でもあると想像を膨らませているのだろうか。
「ところで、その手紙というのはどこに?」
「ああ、すみません。ゴミ箱に。あったほうがいいですよね」
「そうですね。申し訳ありませんが、ゴミ箱から出していただけます?」
由梨絵はキッチンの隅においてある、黒いアルミ製の円筒形のゴミ箱をひっくり返し、一枚の紙と封筒を手に取った。
「すいません。ぐちゃぐちゃになってしまって……」
「いえ、無いよりは。それにこれがあれば、調べることが出来ますし」
警官は手紙の文章を読んで眉をひそめていたが、
「では、この林檎は検査に出すようにしますので。何か分かりましたら、連絡を入れます」
と言って、小走りに高田家を後にした。
驚くことは無いだろうが、後日警察の調べによって、あの林檎の中に一つだけ青酸カリが注射されているのが発見された。これにより、警察は荷物を出したと思われる郵便局などを捜索したのだが、結局収穫はなかった。差出人の名前と住所は出鱈目だったという。郵便局では荷物を出した人物が目撃されていたものの、その人物は全身黒ずくめで、顔は分からなかったというし、あの手紙に関しては、紙のメーカーと、インクの成分から、その種類が判明しただけで、それに該当するものは日本全国にそれこそ溢れるほどに存在するという。捜査当局は何の証拠も見つけられなかったのである。毒物に関してはインターネットの普及するこの時代、簡単に誰でもが手に入れられるだろうという見解がなされた。
そしてこの事件に関しては、家族側の要請もあり、表沙汰にはならなかった。
* * *
(2)
それから一ヵ月後の十一月の半ば(正確には十一月十九日)、土手で一人のホームレスの死体が発見された。その通報を受けて、署の大山警部とその部下、吉田がその現場に駆けつけた。
「こんな寒い中で死んでしまうとは……。悲惨だな」
大山警部はその名が示すとおり、山のような巨躯の持ち主だった。そしてその独特の太い声も名が示すとおりだった。赤ら顔で、眉毛や頭髪には白いものが多く混じっている。彼は土手の下に横たわっている死体のそばにしゃがんでいた。まるで、熊である。しかしその目は実に優しそうなもので、実際彼の性格は大変温厚であった。
「発見したのは、近くの中学生だそうです」
一方、吉田はそんな感傷に浸っている場合ではないと、警部の言葉を意に介さないようにしていた。その行動が示すように、頬がこけた狡猾そうな顔と、落ち窪んだ冷徹そうな目がいかにも仕事人というイメージを醸し出していた。彼は目の前の巨大な塊に演説の練習をするようによく通る声で滔々と喋る。
「発見は今朝の六時四十五分頃のことで、発見者はいつもこの土手の道を通学路としていたようです」
高さもかなりある土手で、その上には舗装された細い道が走っていた。この土手は荒川に面しており、広い河原を持つ。
「被害者ですが、死因はどうやら、この階段から転がり落ちた際に一番下で頭を打ったことによる脳挫傷のようですね。話によれば、高さから視てかなり打ち所が悪かったようです。で、死亡推定時刻は今のところ昨晩の午後十一時から今日の午前一時までの間だそうです」
河原に生えている草は皆葉の先から雫を落としていた。というのも、日が変わる頃から朝の四時ごろまで雨がしとしとと降っていたからであるが、今はすっかり晴れており、河原は雫が反射する光で満ちていた。そんな素敵な風景に一つの汚点である。この土手には階段が何十メートルか毎についているのだが、その階段の下でホームレスの男は倒れていたのである。男が倒れていた地面は土で、彼の血が地面に数センチほど染み込んでいたことから現場はここに間違いはないという。今、大山の前では検視官やら鑑識やらが忙しなく動いている。それに対し、大山は微動だにすることなく、ところどころ泥まみれになった死体を見つめ、吉田の話に耳を傾けていた。
読者諸君は何故いきなりこの場面に飛んでしまったのか、戸惑っていることだろう。それに、大山警部の言葉を借りると、
「事故じゃないのか?」
とお思いになっていることだろう。しかし、ある一つのものが輝く太陽の黒点の如く、青空に一つの浮雲の如く、そして、美しい河原の風景に横たわる一つの死体の如く、見る者にある違和を与えていたのである。それは……。
「林檎?」
大山は語尾に金切り声とも取れる、彼が出すとは思えない高い声を付け足した。彼ほどその違和に敏感な人間はいないだろう。一方、吉田はまったくの平静を保っており、機械的に頷いていた。
「そうです。死体のすぐそばに落ちていたんです」
そういうと、彼は鑑識に、例の物を、と言付けて袋に入れられたそれを手に取った。大振りの林檎である。見事なまでに赤く、さながら赤い宝石のようであった(紅玉という品種があるのにも頷ける)。しかし、全体的にぽつぽつと泥が付着していた。
「そうか……」大山はその林檎を眺めて言う。「もし、この男がホームレスの役者でなければ、これは尋常ならざる状態だということになるな」
彼の的を外していない推理を聞いても、吉田は眉毛一本動かさなかった。人は彼を陰ではこう呼ぶ。「仏頂面」と。
「そうです。解剖ではっきりするでしょうが、検視では栄養失調の症状が見られたそうです。つまり、もし彼が(この時死体は運ばれていった)林檎を持っていたなら、とっくに彼の胃袋の中にあるだろうということです。早合点かもしれませんが、この林檎は彼の死後にここに置かれた物ではないかということです」
「確かに、最初からここにあったということは可能性としては低そうだな。偶然にしてはおかしい」
大山はまわりの吉田に対する評価を知ってか知らぬか、彼には一目置いている。温厚な大山も仕事には意外と厳しい。警察官という仕事に彼ほどの誇りを持つ者はおらず(少なくとも私はそう感じている)、その彼に一目置かれている吉田は素晴らしい鑑定士に認められた絵画と同じである。
署に戻ると大山は残っていた書類を片付け始めた。豪快そうな見た目とは裏腹に机の上はきちんと整理されている。彼は午前中いっぱい、何も飲むことなく、煙草をくわえるでもなく、黙々と仕事をこなしていった。それでも完全に自分の殻に閉じ籠って仕事に没頭していたわけではなく、まだ若い刑事達に優しく指導をしていた。
一息つくついでに昼食でもとろうかと立ち上がりかけた大山の元に、吉田が駆け寄ってきた。捜査のほうは彼が行っている。
「どうした、何か見つかったか?」
軽く伸びをすると、大山はその大きな声で吉田に言った。
「いや、まだ手がかりというものは何も」
吉田はそうは言うものの、別段困っている様子ではない。
「一応、報告を、と思いまして」
大山は黙って頷き、先を促す。そのさまは秘密を共有するレジスタンスのようである。
「あのホームレスについてです。名前を岸谷幹夫といいまして、二年ほど前に勤めていた会社にリストラされ、その後仕事に復帰することができなくなったようです。それが原因で家族にも逃げられたようで、典型的な例ですね。それで、彼はあの付近を転々としていたそうです。現に、現場近くの土手の道で、不定期ですが、ホームレスの姿が目撃されていました。目撃証言の特徴と岸谷の特徴が一致していますから、彼に間違いないでしょう。おそらく今回も彼があの土手を通った際に何かの事件などに巻き込まれたかもしれませんね」
「うむ、そうかもしれない。一応その線でまずは調べてみてくれ。それと、何か似たような事件がないかも調べておいてくれ。無差別連続殺人の可能性も捨て切れん」
「分かりました。それと、司法解剖の結果です」
「おお、早いな」
死因はやはり脳挫傷であった。全身に軽い打撲痕が見られたが、階段を落ちる際についたものであろうと推測され、致命傷になったのは後頭部の脳挫傷だという。胃の内容物に関しては、何も出ず、血液検査などから栄養失調状態であるということが判明した。死亡推定時刻は降水などの気候の変化があったため特定は出来ないが、前述したように、昨晩午後十一時から今日の午前一時までの間であるということは言えるということである。
そして(この検査は後に行なわれたのだが)現場から発見された林檎からは毒物は検出されなかった。
このホームレスの事件と先の毒林檎事件が繋がるのに長くはかからなかった。というのも、高田家とホームレスの死体が発見された土手とは直線距離にして約三百メートルほどしか離れていないからである。同地区内の事件ということで、捜査員達は色めき立った。捜査員が高田家に踏み込んだのは、ホームレスの死体が発見された、実に翌日であった。
* * *
(3)
折りしも大山達が高田家の敷居を越えた日は土曜日であり、自宅に全員が揃っていた。その日は朝からはっきりしない天気が続き、雨も弱いものが降ったり止んだりしていた。高田邸は広い庭を持っており、あちらこちらで色とりどりの秋の草花が雨に濡れていた。雨に濡れたそれらはどれも濃い色を呈しており、はっきりした色彩は趣深さで満ちていた。邸の外観は和洋折衷が見事に完成しており、荘厳な雰囲気を醸し出していた。庭に入れば、どことなく張り詰めたいい緊張感が包み込む。邸自体が生きているような感覚さえ感じられた。
二人(大山と吉田である)を出迎えたのは、由梨絵であった。大山達は和室に通され、由梨絵は暫くお持ちください、と言い残して退室していった。二人を包み込む静寂。
「いい家だ」
大山は背筋を伸ばして静かに気合を入れた。何か見つかるかもしれない、彼の刑事としての本能はそう感じていた。
「ええ」
吉田も静寂を乱さぬよう、空気に混じるような声で大山に答えた。
暫くの沈黙。
すると、何人かの足音が聞こえてきた。しゅっと襖が開けられ、雅彦と、亮輔、詩織が入ってきた。大山と吉田は立ち上がり一人一人に挨拶をした。いい家ですね、いやそれほどでも、奥さんは? お茶を入れています、もうすぐ来るんじゃないでしょうか。静かにやり取りが交わされた。
高田家の三人は一番奥に詩織、真ん中に亮輔、一番手前に(といってももう一人分空いていたが)雅彦が座り、ちょうど大山の向かいが雅彦となった。誰もが居心地悪そうに由梨絵を待つ。
暫くして静かに由梨絵が入ってきた。粗茶ですが、と大山達に、そして家族に配る。由梨絵が座布団につくと、大山はお茶を一口啜り、感想を述べてから切り出した。
「今回」その声は驚くほど静寂に染み渡った。「昨日起きたある事件に関連してこちらに参りました。その事件というのは皆さんも新聞で読んでご存知かと思いますが(実際その日の朝刊には小さくだが記事があった)、荒川の河川敷で一人のホームレスの死体が発見された事件です」
「ああ、近くであったという……」
由梨絵も青ざめた顔でいう。
「ええ。それで、これは一般には公開されていないはずなんですが、その死体のすぐ横に林檎が一つあったのです」
高田家の面々に戦慄が走ったのを、大山は目ざとく感じた。林檎! それはこの高田家の面々にとってはもう二度と聞きたくない言葉の第一位を飾るかもしれない。現に、この家ではもう林檎を食べなくなったという。大山は彼らの内なる動乱が鎮まったのを察知したかのように、暫くすると口を開いた。
「それで他に似たような事件がないかを、彼、吉田君に調べてもらったのです」
決して、“調べました”とは言わない。彼なりの拘りである。
「するとお宅で毒林檎の事件があったというので、もしやということで一応お邪魔させていただいたわけなのです」
「そうですか」
雅彦は沈黙が長く破られないように何かと努力をしているように見えた。しょっちゅう座り直していたし、空咳や咳払いなどをやっていたからである。聞くところによると、ただ落ち着きがないというだけのことらしい。一方、吉田はお茶に手を付けずに微動だにしなかった。まるで彼の周りだけ一瞬が永遠に続いているかのようだった。
「それでもしよろしければ、その時のことを詳しく教えていただきたいのです」
雅彦は自分より由梨絵が詳しいだろうと言い、由梨絵に話すように促した。亮輔と詩織はただ黙って事の成り行きに任せていた。自分達の出る幕ではないと確信していたのだろうが、それは当然のことと思われる。
「詳しくといっても、短い話ですが……」
由梨絵はゆっくりと、だがすらすらと当時のことについて話した。手紙のこと、林檎のこと……。
「そうでしたか」
「詩織さん」
雅彦がちょっとトイレに、と言って部屋を出ると、大山は早速詩織の態度の変化に気付いた。はい、と少し首を傾げながら言う彼女に対し、大山は、
「いえね、大きなお世話かもしれないが、詩織さんとお父さんの仲は険悪なのではないか、と」
大山が気付いた、彼女の態度の変化というのは、雅彦が部屋を出て行くのと同時に彼女の強張った表情が和らいでいったことである。言いよどむ詩織に対して、由梨絵は別段困った様子もなく言う。
「いえ、大したことではありません。確かに諍いがありはしましたが。ただ、二人とも素直になれないだけで……。昔は、この子が小さい時は、しょっちゅう一緒に遊んでいましたのに」
「亮輔君はずっと可愛がられているのに、女の子の詩織さんは違う。私の感覚からするとまったく逆のことが起こっているみたいですね」
苦笑いを抑え切れずに大山は言うが、一方の由梨絵は一筋の光すら差さない暗黒と同じように少しの笑みも見せない。
「いえ、亮輔は養子としてこの家にやって来ましたから、それもあるのかもしれません」
淡々と話す由梨絵を二人の子供はまるで他人事のように見つめている。大山は考えるところがあるのか、じっと黙り込んでいる。由梨絵は慌てて、
「勿論、今では血の繋がった家族です。身寄りがなかったこの子を雅彦は大事にしていますから」
「ほう?」
大山の好奇心の滲み出た視線に気付いたのか、由梨絵はちらと亮輔のほうを見て、言う。亮輔は面のように無表情である。
「この子のお父さんは自殺をしてしまったようなんです。その後、お母さんの方もあとを追う様に病気で亡くなったと聞いています」
亮輔は小さく「ええ」と言い、暗く重苦しい沈黙が訪れた。詩織も深く俯いていた。大山は首筋を指先で撫でるように触れると、申し訳なさそうな顔をして咳払いを一つした。
「失礼ですが、その当時あなたと雅彦さんはご結婚されていましたか? いや、お話の感じではそんな印象なので」
「ええ。結婚をしたのが十七年ほど前ですから。この子の両親が亡くなったのは確か、十九年前だったはずです。主人と会ったのはその一年後ですからね」
亮輔が弱々しく頷くと、再び居心地の悪くなるような空気が流れた。それも刹那のことで、雅彦が、
「そんな暗い話……、もういいじゃないか」
と言いながら戻ってきた。大山は気まずそうに頭を下げ、お茶をご馳走様でした、と言って、暇を告げた。結局吉田は始終無表情のまま、一言も発することがなかった。大山はこういうときの彼をよく知っているのだが……。
大山達が高田家を訪れたのは午後になってからだったが、高田家を後にした頃は一時間ほどしか経っていなかった。
署に戻ると、二人は自動販売機の前のベンチに座って、一服していた。といって、煙草を吹かしたわけではない。二人とも熱い缶コーヒーを手にとって話し合った。
「警部」珍しく吉田が口火を切る。「今日の訪問で何か掴めたと思いますか?」
「君にしてはやけに弱気な言葉だな。どうしたんだ?」
二人は互いの顔を見ずに話している。吉田はコーヒーを一口啜る。大山の奢りである。
「ええ。今日の訪問は無駄だったのではないかと思っていたんです」
彼の声には軽い憤りの調子が見えた。つまり、あの訪問で不本意に時間を過ごしていたことが彼を不機嫌にさせたのである。そして、大山はそんな場合の彼をしばしば見てきた。
「何故そう思う?」
大山は吉田の横顔に問いかけた。鷲鼻が印象的である。ただ、今日の彼はどこか疲れた表情を見せている。
「本質的に事件が違うと思ったのです。何故ホームレスの死体の横に置かれていた林檎には(これは先程調べさせたんですが)毒が仕込まれていなかったのか。彼が毒で死んだというのならまだ分かります。しかし、彼は突き落とされたのでしょう。林檎はもしかすると、偶然なのではないかと」
大山は大きく頷く。ベンチがぎしぎしと音を立て、辺りに響いた。
「なるほど。もっともな意見だ。確かに彼は犯人によって突き落とされた。しかし、“何故死体の横に林檎が置かれていたのか”という問題は、こうは考えられないか。犯人は毒林檎の事件と、今回のホームレスの殺人を結び付けたかった。林檎という手段を用いて」
「何のために?」
「例えば……、そう、“見せしめ”のため」
大山の太く大きいがゆったりとした声に吉田は大仰に振り向く。突拍子もないことである。再びベンチがきしんだ音を立てた。
「見せしめ? 一体何故犯人はそんなことをしなければならなかったのですか? それに一体誰に見せしめを?」
「……まず、今回のホームレスの事件について考えてみよう」
吉田の表情はまさに狐につままれた顔だと断言してもいいだろう。そのさまは滑稽であった。彼の普段を知るものなら尚更であろう。「仏頂面」にもそんな表情ができるものなのか、と。大山は大きな咳払いを一つした。
「まず被害者の死亡推定時刻だが、ここから一つ分かることがある」
「死亡推定時刻の枠が縮められるかもしれないということですか?」
「そうだ。君も同じ考えらしいな。死亡推定時刻は十八日の午後十一時から翌日の午前一時までの間となっている。同時に十九日の午前零時から雨が降っていた。まず考えられるのは少なくとも被害者は午前零時から出歩いていたはずがない。この時期に雨に濡れるのは多分彼らにとって危険なことだろう。ということは被害者が突き落とされた時点では雨は降っていなかったはずだ。相合傘、という可能性もあるが、その場合、その相手が犯人と考えられる。しかし、いくら夜中とはいえ、そう一緒に居たのでは怪しまれる。可能性としては低いだろう」
「たとえその相手もホームレスだとして、殺す動機がありませんからね。彼は栄養失調だった。つまり何も持っていない」
「うむ。そうなると、死亡時刻は十八日の午後十一時から翌午前零時までと見て大きな間違いはないだろう。といっても、このことは大したことじゃないのかもしれないな。さて、次に、この事件は計画殺人なのか、そうでないのかということだが……」
吉田はすぐさま口を開いた。
「計画殺人ではないでしょう。確かに、犯人があの近辺に住んでいたと仮定して、ホームレスがあの土手の道を通ることはわかっても、いつ通るか分からない。待ち伏せは不可能ですよ」
「うむ、そうだ。つまり犯人は衝動的に犯行を決行したことになる。しかし、ここで問題点が……」
吉田はぐいっとコーヒーを飲み干すと、缶を手で弄びながら言う。
「林檎、ですね」
「そう、何故あれがあそこに置かれたのか。そして何故衝動殺人の犯人がそのとき林檎を持っていたのか。しかしこれは大した問題じゃないかもしれない。容易に説明できる。つまり犯人があの現場の近辺に住んでいて、尚且つ現場に二度戻るというリスクを冒すことに何の抵抗もなかった、もしくはそうしなければならなかったという意図があった場合だ。ところで覚えているかね? あの林檎には“全体的に”泥が付いていたということを。あれが私には――大したことがないかもしれないが――不可解なのだ」
「何故ですか? あの林檎は土の地面に転がっていました。泥くらいなら付くのでは……?」
「違うのだ。大きく一点が泥で汚れていたのなら分かる。その一点で地面と接していたことが分かるからだ。つまり、たとえ地面と接していないところが泥で汚れていたとしても、雨で汚れが落ちるはずなんだ。殺人を犯した後で、林檎を置かなくてはならないと思うならば、善――こう言っていいものか分からないが――は急げというから、すぐに現場に戻って来たはずだ。しかし、あの林檎の状態から見ると、どうもそうではないらしい。つまり雨が既に止んでいる状態で林檎が置かれたはずなのだ。それが不可解なのだ。何故犯人はそんな時間を空けて現場に戻ったのか。もしかすると、既に死体は見つかってしまっているかもしれない。そうなると林檎は置きに行けなくなるではないか」
* * *
(4)
年の瀬も迫った十二月の二十五日。クリスマスである。しかしこの国ではその前夜祭が一番盛大である。それでもこの日、街には定番のクリスマスの曲が流れている。今年は雪も降らず、ホワイトクリスマスとはならなかった。
ここ、高田家でも昨日はクリスマスパーティーを家族で行なった。ところで、言わずもがな、日本にはクリスマス休暇というものがない。つまり二日酔いであろうがなかろうが、完全に骨休めが出来るのは正月からなのである。雅彦もその例には漏れず、二十五日は出勤しなければならない。しかし、出勤時間になっても自室から出てこない雅彦を不審に思い、由梨絵が彼の自室を覗くと……。
そこには首を吊った雅彦が変わり果てた姿で、ぶら下がっていたのである。
静寂を突き破る由梨絵の凄まじい絶叫。屋根の上ではしゃいでいた小鳥達は逃げ惑い、ガラスは割れんばかりに震え、空気も彼女の戦慄に呼応するかのように揺れていた。
雅彦は自殺であった。
そういえば、昨日のパーティーの間中、なにかそわそわしていました。いつも落ち着きがないので、構わなかったんですが、あの時気付いてあげられたら……。由梨絵は話し、悔し涙で頬を濡らした。愛する夫を失う悲しみは海より深く、山よりも大きいのである。彼女の悲しみの嘆きは宇宙に木霊するかのようであった。一方、亮輔にも驚きのあまりひどいショックが訪れた。いつもいがみ合っていた詩織もあまりの出来事に声すら出なかったという。そして皆は一様にこう言う。“何故自殺したのか?”
そう、雅彦の自殺に際して、彼の遺書は発見されなかった。何故か? あらゆる証拠が彼を自殺でしかあり得ないと判断しているのにも拘らず遺書がないのである。繰り返すが、彼の死は完全なる自殺であった。
後編へ