「神崎志月の“アフタヌーンティを飲みながら”」 <問題篇>
九竜一三
「ちょっと困ったことになっちゃって……」
小栗葉子が、彼女には珍しく深刻な表情で口を開いたので、わたしは少々驚いた。今朝、彼女はいきなり「ランチでもどう?」と電話をかけてきた。軽い気持
ちでOKと答えたのだが、どうもランチの気分ではなかったようだ。葉子に会うのは約1年ぶりで、それを考えるならば、何か相談事があるのかと疑問を持って
しかるべきだったのだ。
まだまだ甘いなぁ……。
事務所にどう言い訳をしようかと考える。あくまで「友達と昼食に出てきます」としか報告していないのだ。ウチの食事休憩は1時間だから、葉子の相談がその時間で収まるかどうか……。
「えーっと、それって複雑?」
運ばれてきたペペロンチーノ(しまった……ニンニクキツイじゃない。あとで口臭防止のガム噛まないと……)をフォークに絡めながら、葉子をうかがう。彼
女の手元には、かつお風味和風スパが手をつけられないまま置かれている。ちっ、あっちの方がよかったぜぃ。
「そうだなぁ……複雑というか、わけがわからないというか。ね、聞いてくれる?」
うーん、「聞いてくれる?」と言われて「誰が聞くか、べらぼうめ!」と返す友達もいないんじゃないかと思うけど……。
「とりあえずは聞いてみないとね。でも、できれば手短にお願い」
「ありがとう。それじゃあ、どこから始めようか……。えーと、わたしが参照堂書店で働いてることは知ってたっけ?」
「ひらはい」
パスタをモグモグ頬張りながら“知らない”と答える。1年前は、まだフリーターだったはずだ。
「そう。そこも最初はアルバイトだったのよ。で、使い勝手がよかったのか、店長の岡田さんが『正社員にならないか?』って声をかけてくれたわけ」
葉子はわたしが羨ましいほど、どんな仕事でもテキパキとこなす。美人だし対人関係も要領よく対応するため、雇い主の評価も上々だった。だから、いろいろなバイト先で正社員への薦めもあったようだ。だが、今までは誘いをずっと断ってきたという。
「なんかね、誘いの向こうに雇い主の嫌らしさが透けて見えるのよ」
機を見るに敏、というかなんというか……。未だに見習い事務員のわたしとはえらい違いだ(ええい、落ち込んでどうする?)。
「今回に限ってお誘いを受けたって事は、それなりの理由があるわけね。店長さんがお気に入りの男だった?」
「あは、岡田さんは女性よ。岡田咲子さんって名前のお母さん。まあ、確かにそういう意味では純粋に誘ってくれたといえるかな。ホントはね、さすがに30も
手が届くようになってくると、定職についとかないとなって思って。結構、居心地の良い職場だったしね」
そんなものだろうか。わたしなんか、さんざん……いやいや、もう比べるのはやめておこう。
「ここのところはずっとレジに座ってるわけよ。そしたらね、奇妙な出来事に関わっちゃって……」
陽子が働いている参照堂書店は、古くからある都市型チェーン店だ。百貨店や地下街にある小店舗から郊外型の大型店まで、様々な形態の店舗が近隣に10店
ほど点在している。問題の三隈通り店は地上4階建ての独立店舗で、中型〜大型の中間タイプの店舗といえるだろう。
1階は雑誌・各種文芸書、2階は参考書・辞書・輸入書、3階がコミックやライトノベルという配置である。4階は事務所と倉庫になっていて、客は立入禁止となっている。葉子は、1階入口にあるレジ担当だそうだ。
「うーん、その店は行ったことないからなぁ……」
三隈通りは、事務所のあるところから電車で二駅先になる。書店は事務所の最寄り駅前にもあるから、本を買うために参照堂まで足を運ぶ機会は、なかなかない。
書店の構造をうまくイメージできないでいると、葉子はテーブルの上に紙ナプキンを広げ、そこに平面図を描いてくれた。
図面を見る限り、フロアは代わり映えのしない長方形だった。三隈通りに面した短い辺の中央に正面入口がある。入ってすぐ正面には書店各フロアの案内が書
かれた磨りガラス状のパーテーションがあって、客はそこで二方向に分かれる形で店内に入ることになる。パーテーションを左側に進むと、2階への上りエスカ
レータがある。右側は週刊誌・月刊誌の棚が並ぶ。パーテーションの裏側が、葉子の座っている1階のレジだ。基本的には、入口に近い部分に雑誌や新刊書が並
べられていて、奥に文芸関係のハードカバー・ノベルズ・文庫が並べられている。葉子の座っているレジからは、店内がざっと見渡せる感じだ。エスカレータは
登り専用で、降りる際には店の中程にある階段を使うことになる。一番奥にエレベータがあるが、これは「書籍運搬用」と書かれているから、従業員専用なのだ
ろう。
「ただ、男性向け雑誌の部分(エスカレータの裏側)と、ノベルズと文庫本の一部(階段の向こう側)が、ちょっとした死角になるのね」
特に、階段の向こう側は棚が二列ほど完全に死角になっているようだ。
「えと、ここにもレジがあるみたいなんだけど……」
平面図には、階段の向こう側、フロアの一番奥にもレジのようなものが描かれていたが、これは線で消してあった。すぐ横には、裏口らしきドアもある。
「予備のレジね。このレジも裏口も今は使ってないの。実は最近、ちょっと客足が減った関係で、閉めちゃったのよ」
「お客さんって、結構減ったの?」
「通りを挟んだ向かいに、コミック専門店ができたの。だから学生連中は、皆そっちに流れちゃった。まあ、向こうも立ち読みされるだけの客が多いんだろうけ
どね。そうそう、近々ちょっと離れたところにリターン・ブックスもオープンするの。信じられる? それほど大きくない駅前に、本屋が3店もあるなんて!」
うー、書店業界も大変そうだ。リターン・ブックスのような大手の古書専門チェーン店にオープンされたら、かなりの痛手があるのではないだろうか?
「あれ、ちょっと待って。奥のレジを閉めちゃってるってことは、階段の裏側で万引きでもされたらわからないんじゃないの?」
「一応、死角をカバーする位置に監視カメラを3つセットしてあるよ。まあ、あくまで抑止のためだから、事務所のモニタを常時見てる人はいないけどね。12
インチの小さいモノクロモニタだから、実は人の顔とかまではわからないしね。それに、入口のパーテーション両側にはちゃんとセンサーが設置されてるから、
万引きに関してはそれですぐわかる仕組み」
なるほど。確かにカメラがあるだけで、抑止力としては十分だろう。そういえば所長も言ってたっけ。
“転ばぬ先の杖とはよく言うが、これが杖ではなく、より安定した何かであれば安心感はさらに増すのは当然のことだ。常に集中力を欠き、見えているものも
見えない人間の目よりは、何の感情も示さぬ冷徹な機械の目の方が、盗みを働こうとする人間には怖いものだ。……もっとも、これには年齢差があって……”
その先もあったと思うのだが、はっきりとは憶えていない。高齢の人ほど機械に慣れ親しんでいないから、カメラをより怖がるんだったか……あれ、逆だっけ?
……今は、そんなことはどうでもいいんだった。
「わたしがレジに座っているのは、朝10時から15時30分まで。15時30分から閉店の21時までは、甲田久美さんていう先輩の女性が座るわけ」
「5時間半も? トイレとかはどうするの? まさか、じっと我慢?」
「んなわけないでしょ。店内で本の整理をしている人か事務所に内線電話を入れて、その間代わってもらうの。お昼もそう。わたしの場合は12時30分から1時間程度がランチタイム」
それで思い出したのか、ようやく葉子はパスタを口に運んだ。うー、カルボナーラだったら、塊になっているところだ。
「れも、ひょうはおやふみ。ひょっと、ほうらんごとがあるってことで、ね(でも、今日はお休み。ちょっと、相談事があるってことで、ね)」
う……そんな理由で休ませてくれるの? なんて羨ましい職場。わたしなんて38度の熱があっても……それとも、葉子が美人だから? じゃあ、わたしはどうなのよ?
……いかん、一人で取り乱してしまった。まともな書店と、まともじゃない探偵事務所を同等に比べようとする時点で間違っているのだ。
わたしは気を取り直して「それで、肝心の困ったことっていうのは?」と尋ねた。
「実はね、変なお客が来たのよ。一人じゃないから、お客たち、かな?」
その男は、月曜日の開店直後に現れたという。
別段、取り立てた特徴らしきもののない中肉中背の中年男で、銀フレームのメガネをかけていたと思う、と葉子は告げた。鞄などの荷物は持っていなかった
が、システム手帳のようなものを小脇に抱えていたそうだ。男は、躊躇することなくレジ正面奥の文庫本コーナーへ進むと、そこで書棚をのぞき込んだ。
朝の10時過ぎ、しかも平日ということもあって、まだ客はまばらだった。店内にいる客たちも、どちらかというと雑誌コーナーに固まっており、文庫本コーナーにいたのは中年男一人だったようだ。
男は何冊かの文庫本を抜き、パラパラとページをめくってはまた棚に戻すという行為を繰り返したらしい。『らしい』というのは、葉子もその時は中年男に対
して気を配っていなかったからだ。普通、よほど不審な行動をとらぬ限り、客をじろじろと観察する店員はいない。中年男の行動も、単に“何か面白そうな小説
を差がしている”ようにしか見えなかったろう。
結局、中年男は何も買わずに店を出ていったのだが、昼前になるまで葉子はそのこと自体を忘れていた。
異変に気づいたのは、葉子ではなく先輩の鵜川健一だった。鵜川は、各フロアの在庫チェックや書籍の整理・補充をしているのだが、彼が太った身体を揺らし、何やら妙な顔つきでレジに近づいてきたのだという。
「文庫本のコーナーで、不審な奴を見ませんでした?」
いきなり聞かれたので、葉子としても「さあ?」と答えるしかなかった。すると、鵜川は「ちょっと来て」と葉子を手招いた。
葉子はレジに鍵をかけると、レジカウンターを出た。鵜川に連れられて文庫本コーナーの一画に足を踏み入れた葉子は、最初何がおかしいのかわからなかった
という。もしや「万引きでもされているのか」と警戒していたのだが、書棚にはどこにも本が抜けたスペースはない。その日は、まだ文庫本が一冊も売れておら
ず、本が抜かれていればすぐにわかったはずなのだ。
少なくとも万引きではなさそうだと、やや安心した葉子だが、視界に入った文庫本の背表紙が“上下逆”になっているのに気づいた。気がついてみると、一冊
や二冊ではない。その書棚は、『あ行の作家』と『か行の作家の一部』の文庫本が並べられているのだが、その3分の1以上が上下逆に突っ込まれていたのだ。
「何これ? って思ったわよ。そしたら、真っ先にあの中年男のことが頭に浮かんだの」
葉子は「はっきりしたことは言えないけど」と前置きしたうえで、鵜川に中年男の件を報告した。鵜川は「う〜ん」と不満そうにうなり、大きな手で逆さになった文庫本を抜き出し、中身を確認しては上下を元に戻していったのだそうだ。
「不満がられてもなぁ……。レジからは遠いから、上下逆に入れられてるなんてわからないし、雑誌コーナーに客がいると、そのお客さんに隠れて見えなくなることもあるしね……」
なるほど。何も階段の裏手だけが死角というわけではないのか。
「でも、それぐらいなら単なるイタズラじゃないの? 何か、実質的な被害があったわけ?」
「別に。一冊も無くなったり破られたり汚されたりしたものはなかった。本当に、上下逆にひっくり返して棚に戻してあっただけ」
「やっぱ、単なるイタズラだよ」と言おうとするのを制するかのように、葉子が「でもね」と続けた。
「実は、同じことが翌日もあったのよ」
え?
「それって……まさか、また同じ本が?」
「いいえ、別の棚。今度は『か行の作家の残り』と『さ行の作家』の文庫本が上下逆にされてた」
「また、中年男が来たの?」
「それがね……」
違うというのだ。実質的な被害はなかったものの、鵜川からは『中年男が再来店した時には連絡して欲しい』という指示が出ていた。はっきりと中年男を識別できるかどうかは心もとなかったが、一応気にかけていたのだという。
「そういうところ、鵜川さんて細かいというか、神経質なところがあるのよねぇ。決まりはないんだけど『本の整理は11時から1階、そこから上に向かって』とか、自分で決めてるみたいだし」
う……太っているうえに神経質って……。なんだか、鵜川って人、あまりつき合いたくないタイプの男みたい。
葉子もそれとなくチェックしていたのだが、翌朝それらしき中年男は現れなかった。その朝、文庫本コーナーに足を運んだのは、いずれも20代と思われる若い男女だった。それにもかかわらず、本が逆さにされていたということは……。
「そう、その男女の中に犯人がいたってこと。違う人間が、前日と同じことをやったわけ」
事はそれだけでは収まらなかった。水曜日は『た行・な行の作家』、木曜日は『は行の作家』、金曜日は『ま行・や行の作家』、土曜日は『ら・わ行の作家』
と『海外作家』、日曜日は『ノベルズ全般』の棚の書籍が、それぞれ3分に1から2分の1程度上下逆にされていたという。
「それ……犯人は全部別の人物なの?」
「そうみたい。水曜日からは、わたしも十分気を付けるようにしたんだけどね。少なくとも同じ顔を二度見た記憶はないの。鵜川さんにもしつこく聞かれたけど、憶えがないものは仕方ないじゃないねぇ」
「夕方からレジに座る甲田さん、だっけ? は何か気づいてないのかな?」
「夕方以降の被害は……被害なんて大げさなものじゃないけど、一切ないみたい。何の報告もあがってないもの。本を逆さにされたのは、わたしが座っている午前中だけ」
うーん、時間帯が問題なのかな?
「で、翌週は? 事件は今も続いてる?」
「いいえ、本を逆さにされたのはその週、つまり7日間だけよ。文庫本とノベルズの棚を一回りして終了したみたいなのよね」
『7日間で小説棚の本を上下逆にしては去っていく7人の人物』というわけか。
妙な話だな。いったい、何だってそんな事をするのだろう? 書店に対するイヤガラセだろうか? 新手の営業妨害? しかし、本を上下逆にしたぐらいで、営業を妨害できるとは思えないし……。
まさか、何かの暗号だろうか。書店内にいる誰かに、何か情報を伝えるために、一定の法則に従って本をひっくり返したとしたら……。
「ねえ、ひっくり返した本だけを見ると、文字に見えたりしなかった? 例えば、カタカナとかアルファベットとか」
「さあ……ぱっと見はランダムに逆にしたみたいだったけど。それに、文庫本の背表紙って色が様々だから、文字に見ようとするのは難しいんじゃないかな。1列丸まま手をつけてないところもあったし……」
「逆さにされていた本の配列は……憶えてないか」
「あたりまえじゃない。とっとと元に戻したんだし……」
そうよね。“暗号”とか“メッセージ”という考え方は、そこがネックになるんだ。『いつ元に戻されるかわからない』暗号なんて、もの凄くリスクが大きくない?
では、時間差がほとんど無い場合、つまりその時に店内にいた誰かに伝えようとしていたという考え方は? ……ナンセンス。それなら直接耳打ちするなり、
メモを渡すなり、他人に気づかれずにやりとりする方法はいくらでもあるだろう。本をひっくり返すよりは、よほど簡単な方法が。
あ……特定の出版社に対するイヤガラセ、あるいは逆に宣伝活動というのは……いやいや、イヤガラセとかいう概念じゃなく、警告やらメッセージやら……
あー、バカバカ。何同じ事を考えてるのよ。『いつ元に戻されるかわからない』という前提がある限り、それは成り立たないんだってば!
「その、逆になった本なんだけど、出版社とかは憶えてない……よね?」
「憶えてないというより、どの出版社も例外なくひっくり返されてたわね。……そういえば、各社とも最新刊は手つかずだったような気がするけど……」
うーん、やっぱり出版社じゃないか。
「葉子たちが本を元に戻した時間はどう? ひっくり返されてから、どの程度の時間が経っていたんだろう?」
「どれぐらいっていうのはわからないわね。だって、初日を除いて、誰がどの時点でひっくり返したのかがわからないんだから。初日で言うと、実行されたのが
10時過ぎから10時半ぐらい、発見されたのが11時前ぐらいよ。他の日も発見の時間は、ほぼ同じかな」
ひっくり返すのにも結構な時間必要だと思うから、本が上下逆になっていた時間は、やはり30分あるかないかというところか。
「発見したのは全て鵜川さんなの?」
「そうね。あの人、神経質なだけに時間には正確だから、見回る時間もほぼ同じだし」
時間に正確か。だとしたら、鵜川という男がポイントなのかもしれない。つまり、本を上下逆にした目的が、鵜川にそれを見せたかったからではないのか?
では、なぜ? という部分になると、また詰まってしまう。メッセージなら、やはり直接本人に……まてよ。直接本人にメッセージを与えられないとしたらど
うだろう? 誰がメッセージを残したのか、鵜川に知られたくないという考え方は、『あり』ではないだろうか? その場合、書店に対してではなく、書店で働
く特定の店員に、ある思いを持った人間の行為と考えることはできないだろうか? 思いの種類が、好意か悪意かは別にして。
うう、これはいけるかもしれない。ペペロンチーノを平らげながら、わたしはぞくりとする高揚感を味わっていた。見習い事務員だって、やるときはやるのだ。
食後のコーヒーを頼むと、わたしはおもむろに切り出した。
「ねえ、ひょっとして事件の後、鵜川さんの様子がおかしいとか、そんなこと、ない?」
「え? あ、そうね。ちょっとおかしいかも」
やっぱり。これはビンゴだわ。
「でも、それは仕方ないかも。やっぱり“自分の軽率な行動が招いた事態”だからって、責任を感じてるからだと思う」
え? なに? どういうこと?
てっきり、あれは鵜川に対するメッセージだと思っていたんだけど、ひょっとして違うの?
実は、一連の意見にはもう少し込み入った部分があって、葉子が困っているのも『その部分』の方なのだった。
「あー、もう! なんだって持って回った話をするのよぉ。核心部分を先に話してくれればいいのにー」
わたしが泣き言を言うと、
「ごめん。……でも、わたしだってちゃんと整理できてないのよ。何がなんだかわからないんだもの」
葉子の声も沈んでしまった。
お通夜のようになってしまったわたしたちの前に、ウェイトレスが不審げな表情で食後の紅茶を並べていく。喧嘩をしているように見えてるかもしれない。こ、こんなことでめげてはいけない。
わたしは、冷静になれと自分に言い聞かせつつ、葉子の話を整理しだした。
一連の事件の最終日、つまり7日目の日曜日のことである。
通常通りレジカウンターに座っていた葉子は、10時半過ぎに内線電話を受けた。相手は鵜川で、“小栗さん、すまない。今すぐノベルズのコーナーへ行ってくれ”と伝えた。
“例のやつだ。今、ベージュのサマーセーターを着た女が、ノベルズをひっくり返してる”
それを聞いた葉子は、慌ててレジから店の奥へと客をかき分けつつ進んだ。
日曜日のせいだろう、朝にも関わらず結構な数の客が、雑誌コーナーに並んでいた。レジにいた葉子には、奥の文芸書コーナーが見えなかったほどだ。もっと
も、本がひっくり返されているというのは、元々死角になっている階段裏のさらに奥のノベルズコーナーだった。
並べられたノベルズの、約4分の1が上下逆にされていた。葉子は周囲を見渡したが、少なくとも挙動不審な人物は見あたらなかったという。文庫の方の棚には、数人の男女が文庫本を物色していたが、葉子を見て慌てるような客は一人もいなかった。
呆然としていると、「小栗さん」と階段の方から声がかかった。息を切らせながら、鵜川が階段を駆け下りてきたのだ。葉子のもとまで小走りにやってくる
と、方で大きく息をしながら棚を見て「やられたな……遅かった」とつぶやいた。次いで、葉子と同じように周囲を見渡すと、そのまま来た通路を戻り始めた。
葉子も後に続く。再び客をかき分けレジまで戻ると、鵜川はため息をつき首を振った。
「だめだ、見あたらない。あの女、僕が降りてくるまでの間に、逃げちまったようだ」
「鵜川さん、どうしてひっくり返されてるってわかったんです?」
葉子が当然の疑問を口にした。
「ああ、整理に出ようとして4階の監視モニタを偶然見たんだ。そしたら、画面手前のノベルズコーナーで、妙に本を出し入れしている女がいるのに気づいて、
よく見ると、どうも戻す途中で本をひっくり返しているような素振りだ。こいつは、って思って君に連絡を」
ということは、葉子はどこかでその当人とすれ違っていることになる。雑誌の棚を隔てた、向こう側の通路を通ったか、あるいは雑誌を読む客に紛れていたのか……。
「あ! しまった!」
鵜川が小さく叫んだのは、レジカウンターの中だった。身を乗り出すように鵜川の視線の先を見て、葉子は愕然とした。
レジの中にあったはずの金が、小銭を残して消えていたのだ。
そういうことか。
つまり、本のひっくり返しはカモフラージュだったわけだ。本当は、レジにあったお金が目的……。
一瞬納得しかけ、すぐに、なにか妙だな、という思いに捕らわれた。
釈然としない感覚に、わたしは眉をひそめた。こういう状態のわたしの顔は、とても恐ろしいのだそうだ。自分では、鏡を見てもそんなことないと思うんだけどな……。
「盗まれたお金はどの程度? 結構な額なのかな?」
気を取り直して葉子に尋ねる。
「ううん、そんなことないよ。一万円札が1枚と五千円札が一枚、お釣り用も含めて千円札が17枚。まだお昼にもなってないし、レジに入っていたのはそれぐらい。それでも日曜だったから、平日よりは多いんだけど……」
しめて3万円ちょっとか。7人で分配しても5千円にもならない。その程度の金額のために、犯人たちはあんな妙な行為を毎日繰り返したのか?
レジから店員を引き離すためには、確かに一度の行為では無理だろう。しかし、何度繰り返しても、店員がレジカウンターを離れるとは限らない。事実、第一
発見者は鵜川であってレジにいる葉子ではない。葉子が結果としてレジカウンターを離れることになったのは、鵜川が偶然モニタでひっくり返す行為を見、内線
で連絡してきたからであって、その偶然がなければ、葉子が持ち場を離れることはなかっただろう。また、時間が少しでもずれて、鵜川がモニタではなく直接現
場を見つけていたら、犯人はその場で捕まって、小言のひとつも言われていたろう。妨害行為として、警察に突き出される可能性もゼロとはいえないのだ。
なんというハイリスクローリターン。まともに考えれば、計画とも呼べないほど杜撰な計画だ。
「それで、警察には?」
「通報してない。実のところ、店長にも話してないのよ。『鍵をかけないままレジを離れたことがわかれば、僕だけじゃなく、小栗さんも責任を取らされるかもしれない』って」
「鍵は、かけなかったのね?」
レジスターには、外部の人間が簡単に開けられないよう鍵がついている。カウンターを離れるときは、これに鍵をかけるのが職務上の責任になるわけだ。
「あのとき焦っていたから、レジに鍵をかけたかどうか、実は憶えてないんだ。無意識にかけたかもしれない、という思いはあるんだけど……」
職業的な無意識の行為は、慣れてしまうと記憶に残らないことが多い。だから、時折大きなポカをやらかすこともままある。わたしの場合は、大いにあるのだけれど……それは今は関係ないか。
「盗まれた分はどうしたの? その日の収支が合わなくなるんじゃ……」
「それは鵜川さんが立て替えといてくれた。最初はわたしが、って言ったんだけど、『僕の責任だから』って」
『今度現れたときは、必ず捕まえてやるから』とも言ったらしい。
へえ。責任感の強い、案外いい人なのかもね、鵜川さんて。
ところが。
レジの金が盗まれた翌日から、本がひっくり返されることは一度もなかったというのである。鵜川の意欲も空回りに終わったわけだ。
さて、これをどう考えるべきだろうか?
犯人はすでに目的を達した。だから来なくなったのか。……わずか3万円で?
あるいは、鵜川と葉子が騒いだので、これはマズイと思ったか。……騒がれない方がおかしいんだけど。
どちらも違う気がした。なんだか妙ちきりんな具合で、据わりが悪い。
「鵜川さんは、本をひっくり返している女を見たんでしょ? 特徴とかはわからないの?」
「服装以外は、鵜川さんにもわからないって。ほら、監視カメラって斜め上からこう、見下ろすようになってるでしょ? だから顔までは見えないじゃない。それに、ノベルズのコーナーって、カメラに一番近い位置にあるから……。」
元々、ノベルズのコーナーで何かしている場合、カメラに背を向ける形になっているので、確かに顔まではわからないだろう。わたしは紙ナプキンの見取り図を見て腕組みをし、ダージリンをかき混ぜたスプーンをくわえながら「う〜ん」とうなった。
わからない。7人の行為の目的は何だろう? 少額のお金が目的だとはとても思えないのだが、では他の目的となるとさっぱりだ。イヤガラセや宣伝活動、メッセージ説は否定した。残る可能性は何だろう?
「そういえば、鵜川さんが『女は何かメモのような物を持ってた』って。本当にメモだったかどうかは、モニタが小さすぎてわからなかったそうだけど。わたしはそれ、システム手帳だと思うのよ。初日に中年男が持ってたような……」
システム手帳、あるいはノートの類を持っていたとして、それを書店で何に使うのだろう?
値段を調べる? 作者を調べる? あるいは出版社を……ばかな。今やその程度の情報は、インターネットで検索できるはずだ。
ではなんだろう? まさか小説の文面を、メモに書き写していたわけでもあるまいし……。
「ところで葉子。あなたはこの問題をどうしたいの? 今の話は確かに奇妙だけど、あなたがそれほど困るというほどでもないと思うんだけど……?」
「うーん……」
なんだか歯切れが悪い。
「レジのお金が盗まれたことは、結局店長さんには話してないわけでしょ? 葉子の責任問題が立ち上がっているのならともかく……あ、もしかして、鵜川さんがその件をネタに、あなたに言い寄ってるなんてこと?」
葉子ほどの美人なら、男が邪な考えを起こしても不思議ではないかもしれない。「言い寄るというより、あるいは脅迫」と言いかけたところで、葉子が手をぱたぱたと振った。
「違う違う。言い寄られたりしてません。鵜川さんて、愛妻家なんだからね。第一そんなことされるぐらいなら、店長に本当のことを言った方がマシよ。バレれば、鵜川さんだってタダではすまないわけだし」
まあ、金額も3万円程度なら、賠償云々は大した問題ではない。『営業妨害の危険性があった事態への対応から生じたトラブル』と考えれば、店側としても葉子たちをそう責めるわけにもいかないだろう。
「じゃあ、なに?」
「そうね……なんというか、お尻の辺りがもぞもぞするの。なんだかモヤモヤしたものが残っちゃって、仕事にも他のことにも集中できなくなったのよ。さっき
の鍵のこともあるし、居心地よかったはずのレジカウンターが、なんだか気の滅入る場所になっちゃった」
その状態はよくわかる。事件そのものが発覚していないのだから、針のムシロというわけではないだろうが、それでも気持ちは悪いだろう。今までの葉子な
ら、すっぱり辞めてしまったのかもしれないが、せっかく定職に就いたということと、今辞めれば、ひょっとして自分が疑われるのではないか、という心理がど
こかにあるに違いない。
そう告げると、葉子は一瞬きょとんとなったが、今日初めての笑顔を見せた。
「そうね。そうかもしれない。自分じゃ意識してなかったけど、心理的にプレッシャー感じてたかも。あー、なんだか少しだけ気が楽になったみたい。うん、ありがと、志月」
あはは、誉められた。
「さすがに探偵事務所に勤めているだけあって、人間の心理に長けてる感じね。やっぱりあなたに相談してよかった」
「勤めるっていっても、単なる事務員だけどね」
『見習い』という部分は、伏せておく。ちょっとぐらいは見栄を張りたいじゃない。
「それでな、できるならこの奇妙な事件をあなたのところで調べて貰えないかな、と思って。今さら警察に言うと、ややこしいことになりそうだしね」
「それはダメ」
わたしは即座に否定した。
解決篇へ
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