*** 登録作家+アルファによる小説競作 ***

 6
窮地で始まるミステリに挑戦!


仇討ち・flashback



 気がついたら、下腹に木枯らしが吹き込んだような、冷え冷えとした感覚があった。ずっしりとした重量感を伴っている。視界は一面の灰色霞だったが、耳元で警鐘がけたたましく鳴っており、突き上げるような怖れと警戒心にうろたえながら、私は急いで自分の腹を見下ろした。黒い異形のモノがそこにあった。そして、それが何であるかを理解して、慄然とした。
 日本刀だった。それが抜き身になって、私の腹部に刺さっていたのだ。

 なぜ?

 まるで悪夢の中に突然放り込まれたような気分だった。現実感に乏しい夢。夢だと思いこみたい。ところが右手に現実の重みがあった。ざらざらした感触もある。
 私の右手はもう一本の抜き身の日本刀を握り締めていた。手のひらのざらざら感は日本刀の柄に巻かれた滑り止めの布地らしい。刀は重かった。重さを支えきれず、切っ先は地面を向いていた。
 どうやら、腹に刀を突き刺し、右手には刀をぶら下げて、私は突っ立っているらしかった。
 どうしてそういう経緯(いきさつ)になったのかは、なぜか思い出せない。ふとした拍子に階段から足を踏みはずしでもしたかのように、私はこんなのっぴきならない状況にはまり込んでしまっていた。

 わけがわからなかった。刀が腹に突き立てられた瞬間に、まるで記憶や思考能力がどこかへ弾け飛んでしまったかのようだった。それまでのことがまったく思い出せないのだ。
 ひょっとしたら、人間は死ぬ間際には頭が空白になってしまうのだろうか。確かに私は死んだも同然の状態ではある。いや、それとも、私はもう死んでしまったのか。それで現世からあの世へと移ったから、俗世の記憶がなくなったのか。

 人の気配を感じた。前方に一人。どうやら背後にもう一人。風が頬を撫でて通り過ぎる。風に合わせて足元が揺れた。草だった。私は膝丈くらいまで伸びた草原にいた。正面に大きな木が見えた。視界が少しずつ晴れてゆくように、周りの景色が目に入ってくる。

 異様に目を見開いた男が肩で息をして立っていた。頭に髷はあったが、伸び放題の髭と綻びの見える袴が男の素性を物語っている。素浪人、それに違いなかった。両手をきつく握り締め、両腕は体からわずかに離れたところで凍り付いていた。空の鞘だけが右わき腹に残っていた。とすると、私の腹に刺さっているこの刀は、正面の男のものという事か。どうやら私は男に刺されて、死にかけている?

 正面の男はいったい何者なのか、どうしてこの男とこうして向かい合っているのか。疑問ばかりが積み上がった。私はこの男と戦ったのか。これは果し合いか。そして、私は負けたのか。
 正面の男をじっと見る。男に対しての感情を探る。憎しみも恨みも湧いてこない。わずかに憐憫のような淡い思いが細波のように動くのを感じるだけだ。

 憐憫?

「新三郎(しんざぶろう)さま……」
 背後から女の声がした。振りかえると武家風の髪結いをした女が青い顔をしていた。手には懐刀を持ち、澄んだ目は怒りに燃えている。
 志野どの……。心がひとりでに女の名前を呟いた。その時、霧をかき分けるようにして、女に関する記憶の切れ端が、からっぽの私の頭の中に降ってきた。

 女が駆けていた。着物の裾が乱れるのも構わずに、慌てふためいて駆けていた。通りかかる人にぶつかるように、長屋の狭い路地を駆けていた。志野だった。
「見つかったのかい」
 長屋から出てきた年かさの侍が志野に向かって声をかけた。
 志野が大きく頷く。
「はい、向こう岸の一軒家に、たしかに! 早く知らせねば」
「そうかい、そいつは良かったねえ。新三郎様もこれでやっと、だね」
 年かさの侍は嬉しそうに歯を剥き出しにして笑った。
 志野が駆ける。私はそのひたすらな後ろ姿を追いかける。志野の後ろ姿が路地の向こうへと消えるまで、私は追いかけた……。

 そういうことか。

 私は自分の立場を理解した。
 どうやら、これは志野の仇討ちなのだ。仇(かたき)は向こう岸の一軒家にいた男、つまりは私の目の前に仁王立ちしている素浪人。志野が見つけて、仇討ちの果たし合いを申し込んだのだろう。私の役割は志野を助けて、この男を倒す助太刀か。
 突然、私に強い思いが蘇る。

 志野どのを傷つけてはならぬ……。そのためには、私は死んでも良い。

 それは確固たる決意だった。しかし私はまだ死ねわけにはゆかなかった。志野が本懐を遂げるところを見届けたい。なんとしてもその時までは生きて、志野を助けたい。不覚にも腹に刀を受けていたが、そのお陰で相手は丸腰なのだ。

「さあ、志野どの、その懐刀でひと突き……」
 しわがれた声で、私は志野を促した。
 志野は小さく肯き、懐刀を胸の前にまっすぐに突きだした。
「よせ!」
 仇の素浪人が悲鳴のような声をあげた。志野の足音が小走りになって・・・。

 軽い衝撃があった。脇腹に冷たいものを感じた。見下ろすと、志野が私の脇腹にしがみつくような姿勢になっていて、志野の両手は懐刀を私の脇腹に突き立てていた。すぐさま腹の辺りから激痛が駆け上がってきて、視界が歪んだ。力が抜け、膝から崩れ落ちるように体が倒れ込む。

 なんということだ。
 地面に倒れた私は、胃から逆流してくる血の味を舌に感じながら、自分の思い違いを笑いたくなった。なんということだ。
「志野殿の仇(かたき)が素浪人ではなく、私だったなんて」
 しかし、とにもかくにも志野は仇討ちを完遂した。志野の仇討ちを見届けたいという私の願いは達成されたのだ。そのことに私は満足だった。人間は死ぬときに満足ならば、それで充分ではないか。いまだにそれまでの記憶が戻っては来ないが、少なくとも今、死の間際で私は幸せだった。

 頬に風を感じたその時だった。まるでろうそくの火が吹き消されたかのように、私の意識は遠くなって消えた。

(フラッシュバック)

「よせと言ったではないか!」
 悲鳴のような声がした。記憶にある懐かしい声。声を主を求めて私は目を開こうとした。暗闇だった。何も見えなかった。それでも私は張り詰めた空気に緊迫したものを感じていた。獣の吐くような生臭い殺意だった。
「これでいいのです。目をお覚ましください」
 低い冷たい声がした。殺意が冷たい声に混じっていた。
「女は無抵抗であったぞ。なにも殺さなくても良いではないか、志野」
 新三郎さま……。私は思わず叫び出したかった。
「奪われたものは奪い返す、わたくしはそういう女です」
 暗闇に響く志野の声にはきっぱりとした決意があった。
 私は暗闇をまさぐり、記憶をたぐり寄せた。

 志野を追いかけていた。長屋の狭い路地。志野は行き交う人にぶつかりながら、一心不乱に駆けていた。
「見つかったのかい」
 長屋から出てきた年かさの侍が志野に向かって声をかけた。
 志野が大きく頷く。
「はい、向こう岸の一軒家に、たしかに! 早く知らせねば」
「そうかい、そいつは良かったねえ。新三郎様もこれでやっと、だね」
 侍は嬉しそうに歯を剥き出しにして笑った。
 私は追いかけるのやめて、立ちつくした。
 見つかってしまったのだ。新三郎が家を捨て、浪人姿にまで身をやつして、私の家に留まってくれたというのに。とうとう、妻女の志野に見つかってしまったのだ。
 志野の後ろ姿が路地の向こうへと消えるまで、私は見送りながら、素早く観念した。
 志野の新三郎への愛は変わっていない。

 家来衆が新三郎を連れ戻しに来る前に、二人で志野に会って、話し合いをしましょうと提案したのは私だった。志野が決して私を許してはくれないことは分かっていた。だから、私が新三郎の大刀を抜き取った。別に用意しておいた刀で自分の腹を刺したのも、目の前で私が死ねば、志野の気が済むだろうと思ったから。それにもし私の屍が見つかっても、刀が違うから新三郎にまで嫌疑は及ばないはず。

「あなた様はこの女と死んでいただかないと困るのです。そうでなければ、私に、いや、我が家に新たな婿養子を迎えられませぬ」
 横たわる私の耳に志野の冷たい声が響く。志野の殺意は空気を震わせ、私の気持ちも冷え冷えとなった。しかし、私にはどうすることもできない。たぶん私はもう死んでいる……はず。

 でも待てよ。
 死んだ後でもこんなにいろいろ考えることができるのだろうか。

 私はもう一度、目を開けようと試みた。
 その瞼を上から押さえるものがあった。薄ぼんやりとした視界に新三郎らしい白い顔が見える。
「分かった、志野。お前が新しい婿を望んでいるとは思わなかった。そうすると、私が死んだことにすればすべて良いわけだな。それじゃ、これを持って行け。約束しよう、私たちはこの江戸から姿を消す」
 何かを切り落とす音がした。空気に混じった殺意が薄まり、小さな足音が遠ざかる。
 私は気づいた。遠ざかる足音が確かに聞こえる。風が頬をなでて吹き抜けて行く。それも感じることができた。ということは、私はまだ、死んだわけではなさそうだった。

「しっかりしろ。傷は浅いぞ」
 私の体はひょいと抱き上げられた。新三郎の匂いがする。うっすらと目を開けるとザンバラ髪の素浪人が笑っていた。

 よかった、やっぱり私はまだ死んではいない。


 

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