*** 登録作家+アルファによる小説競作 *** 6 窮地で始まるミステリに挑戦! |
その日はうだるような暑さで畑の草も伸び放題になっていた。祖母の家の座敷に座わらされ、何をしていいのか判らないまま庭の横にある小さな野菜畑をぼんやりと眺めていると、畑の中に誰かがいるのが見えた。祖母だ。いつものように鎌を右手に茄子の枝に手をかけていた。突然、祖母は両手で胸を押さえるようにして苦しそうに顔を歪めた。手から鎌が離れ、祖母の体がゆっくりと倒れて野菜の海に呑み込まれていく。幼心にも、それが普通でないことは判ったのだろう。
四歳の私は傍らに座っていた母の手を引きながら、「お祖母ちゃんが倒れた! お祖母ちゃんが倒れた! 早く助けてあげて!」と喚き散らした。だが、母は私が何を言ってるのか判らなかったらしい。
「何を言ってるの? 静かにしなさい。お祖母ちゃんはあそこよ」
困ったような顔で座敷の奥にある木の箱を指差した。黒い服や着物を着た大勢の人々、噎せ返るような線香の匂い。陰鬱な読経の響き。
意味が判らなかった。私は母の手を振り払って庭に降り、畑の中に入っていった。黒い革靴を泥だらけにしながら行き着いたその場所には倒れた茄子が数本。祖母の姿は影も形も無かった。
「……ね。誰もいないでしょう。お祖母ちゃんは亡くなったのよ。ちょうど一昨日の今頃に」
母の言葉が理解できなかった。それほど祖母の姿ははっきりと見えたのだ。だから、その時の私には鼻に白い綿を詰まらせて横たわる木の箱の中の蝋人形みたいな物が祖母だとはどうしても思えなかった。母がいくら諭しても、お祖母ちゃんは何処にいるの、と繰り返す私を叔父や伯母達は気味悪そうに眺めていたものだ。
祖母の葬儀の日のことだ。
私、冬木鈴花は電車に乗るのが嫌いだ。電車に乗るためには駅に行かなければならないからだ。夜、帰るのが遅くなってプラットフォームに立つと、必ずといっていいほど私は「彼ら」を見る。「彼ら」は本当に生きている人間のようにプラットフォームの端に立ち、走ってきた電車に突然飛び込む。瞬時にその身体は砕け、周囲に血しぶきと細かい肉片を撒き散らす。悲鳴を上げそうになった途端にその映像は消えうせるが、「彼ら」は私の心の中に侵入し、小さな声で呟くのだ。助けて、助けて、と。でも私には何も出来ない。耳を塞ぎ、震える足を無理やり動かしてその場を去るだけだ。
中学の頃、先生にわりと評判のいい私立高校を推薦されたのを断ったのも、ただ電車通学が嫌だったからにすぎない。親は何度も理由を聞きたがったが、私は単に友達と離れたくないからと嘘をついた。それほど親しい友達なんていなかったけれど。
道を歩いていても、運が悪いと道路に飛び出して撥ねられる人物を目撃してしまう。飛び散る血までリアルに見えて、それを見てしまった日は一日中、食べ物が喉を通らなくなる。
きっと霊を見る体質なのだろう。でも、私に見える霊は死ぬ瞬間の映像だけなのだ。祖母の葬式以来、私はこのことを誰にも言ったことが無かった。どうせ誰に言ったって信じてはもらえない。そう思っていた。城野摩耶と知り合うまでは。
幸いバスで通える距離にある大学に入学し、一年の夏休みも半ばに差し掛かった八月二十日。私はコンビニでバイトをしていた。
その日はたまたま深夜枠のバイトの子が休んでしまい、急遽私が替わりにバイトを引き受けることになってしまった。強盗でも入ってきたらどうするのよ、と電話に出た母は心配したが、店長はもと警察官だったという屈強ながらも面倒見のいい人なので、私は心配ないと母を宥めた。
帰りは店長の娘さん(といっても四十代だが)が家の前まで送ってくれた。娘さんに礼を言って別れたあと携帯で時刻を確かめる。午前二時四十分。月がとても綺麗な晩で、私は家の前でちょっと立ち止まり、煌々と輝く月に見とれていた。
その時、突然、背中が冷水を浴びたようにぞっと震え、回りの空気が一瞬にして淀んだような湿り気を帯びた。気分が悪くなり、家に入ろうと月から家へと視線を移す。すると屋根よりも高い空中に何かが出現した。逆さになった男の人の身体だ。水色のTシャツとジーンズを着たその身体は何もない空中に浮かび、飛び込み台からプールへジャンプするみたいにまっ逆さまに私の前に落下すると、ぐしゃりと嫌な音を立て……。
私は悲鳴を上げた……と思う。気が付いたら病院のベッドに寝かされていて、母が心配そうな顔で覗き込んでいた。
母は悲鳴に驚いて、門の前で倒れている私を見つけ、すぐに救急車を呼んだらしい。翌日まで入院をさせられたが異常もなく、すぐに退院出来たが、何があったの、という母の問い掛けに私は本当のことを言わず、大きな見たこともない犬に襲われそうになったと嘘をついた。警察に知らせると息巻く母を止めるのに苦労しなければならなかったが。
その次の日、再びバイトに行った私はまた休んだ子の替わりにバイトをすることになった。家の前に着いたのはちょうど二日前と同じ時刻だった。まさか、またあのイメージが……そう思った途端に空気の肌触りが変化した。見たくない。見たくないのに視線は屋根の上の空に移動する。目の前を落下していく男。地面に叩きつけられたその身体はしばらくしてからまたぐしゃりと音を立てた。何だろう、これは? ショックは一昨日ほどではなかった。だが、何故か私は今の光景に違和感を覚えた。そして、唐突に私の頭の中にその霊は話しかけてきたのだ。
――オレヲミツケテ――
「あの……」
後ろから聞えた突然の声に心臓が飛び上がりそうになった。
「え?」
街灯に照らされ、立っていたのは五十代くらいだろうか、グレーのスーツをきちんと着た白髪の男性だった。銀縁の眼鏡の奥に見える瞳は穏やかそうだが、何故かとても疲れているように見えた。
「あの、すみません。あなたはこの家の方ですか?」
「そうですけど。何か?」
男性は戸惑った顔で私を見た。何かをとても迷っているように口を開きかけて、また閉じる。
「あ……いいえ。何でもありません」
そう小さな声で呟くと、男性は軽く礼をして立ち去った。
彼は何が言いたかったのだろう? 話を聞いてみたい気がして、後を追おうと思ったときにはもう男性の姿は遥か遠くになっていた。
諦めて家に入ろうとすると塀の前に何かが置かれているのが見えた。拾い上げて見るとそれはまっ白な菊の花束だった。
翌日、私はバイトを休み、気晴らしの為に駅前にあるショッピング・モールに出かけた。両親は二人きりで温泉に行ってしまった。父がちょっと遅めの夏休みを取れた為だ。
その日はかなりの猛暑で、私はショートヘアにキャミとハーフカットパンツという軽装だったが、それでも暑さを凌ぐことは出来なかった。溶け出しそうなアスファルトから立ち上る熱気から逃れるように人々が店の中に次々と入っていく。夕べ置いてあった花束は、私の部屋に隠してある。あの男性が置いていったことは間違いないのだが何だかそこに置かれていること自体が気味が悪かったし、母に余計な心配を掛けたくなかったからだ。あの場所で事故でもあったのだろうか? だが、私の家族があの家を建て、引っ越したのは三年前。それから現在に至るまで、家の前の道路では一度も事故は起きていない。それに、あの落下する霊。なぜ今になってあれが見えたのか。だが考えてみると午前二時四十分に家の前に立つなんてことは今まで一度も無かった。毎晩出現していても判らない筈だ。あの男性と霊は身内か何かだろうか?
それに……あの霊の言葉。あれはいったいどういう意味なんだろう?
モールの入り口には小さな花屋がある。店先に置かれている色とりどりの花束。あの男性はこの店であの花束を買ったのだろうか。
花屋の前で立ち止まって何とはなしに並べられた花を眺めていると、店の中から若い女性が出てくるのが見えた。淡いピンクの薔薇の花束を抱え、黒いシフォンのワンピースを着て、小さな銀色のポシェットを肩に掛けたその女性は私のほうを見ると、ふっと優しげな笑みを浮かべた。黒い艶やかなロングヘア、白い肌。淡い茶色の瞳。その顔は涼しげで汗ひとつかいていない。こんな美人に知り合いはいただろうか? でも、彼女の顔は確かにどこかで……。
「白い菊の花言葉は真実。知ってるかしら? 冬木さん」
突然の言葉に私は咄嗟に答えることすら出来なかった。きっとその時の私はずいぶんと間抜けな顔をしていたことだろう。
「あらら、そんなに驚かないで。あなたがさっきから白い菊を眺めていたから言ってみただけなの」
「あ……あの、ごめんなさい。何方でしたっけ?」
「ああ、こちらこそごめんなさい。あなたと同じ大学に通ってる城野摩耶です。よろしく。あなたとはいつもフランス文学の講座で一緒なのよ」
そうだったのか。そういえば見かけたことがある。同じ学年にしてはずいぶん落ち着いていて大人びて見えるけれど。
「あなたの名前を何故知ってるか知りたい? ちょっと興味があったから調べたのよ」
調べたって、どういうことだろう。何だか気味が悪い。
「ああ、あのね。ストーカーとかそういうのじゃないの。ただあなたはきっと悩んでると思って。『霊が見えてしまう』ことで」
一瞬、その言葉が信じられなかった。
「……どうして知ってるんですか? 誰にも話したことはないのに」
「私にも見えるから。恐らくあなたよりもずっといろいろなものが」
「本当に? 本当に見えるんですか?」
「ええ。だからもしよかったら話を聞かせて。力になれるかもしれないから」
私は迷った。同じ大学とは言え、彼女とは一度も話をしたことがない。でも、昨日の花束の件や霊の言葉はどうしても気になる。
「う〜ん……。それじゃ、ちょっとだけ話を聞いてもらえますか。ええっと、バーガーショップでいいですか?」
摩耶さんはちょっと小首を傾げて答えた。
「そうしたいけど、これから病院へ行かなくちゃいけないの。伯母がもう長いこと入院しているので。そうだ。もしよかったら一緒に行かない?」
「病院に?」
「ええ。ここから近いしすぐ傍には素敵なカフェもあるのよ」
その病院は二十分ほど歩いたところにあった。
まるで林の中に建っているみたいに緑の多い病院で、木陰にはいくつものベンチが置かれ、患者とその付き添いらしき人達がのんびりと散歩をしていた。
『森の郷病院』
この病院はかなり評判のいい私立病院だ。駅前の喧騒から離れ、避暑地の図書館のように落ち着いた雰囲気を持つ煉瓦造りの建物は身体や心を癒すには最適な場所なのだろう。蝉の鳴き声がうるさいのが難点といえば難点だが。
摩耶さんが伯母さんを見舞いに行っている間、私は待合室に座り、ぼんやりと受付を眺めていた。
「伯母は精神を病んでいるの。一人娘が突然自殺してしまって」
ここへ来る道すがら、摩耶さんはぽつりとそんなことを言っていた。
「離婚した伯父が昨年までは毎日のように見舞いに来てたんだけど、仕事で遠いところに行ってしまったの。だから、私が替わりに伯母を見舞ってるのよ」
「それは……大変ですね」
「ええ、そんなに大変ではないの。ただ、伯母は今でも娘が生きてると思ってるの。行くたびに娘が来ない理由を尋ねられるのが少し辛くって」
それきり摩耶さんは口を閉ざしてしまった。
「お待たせ。それじゃあ、行きましょうか」
摩耶さんが案内してくれたカフェは病院のすぐ隣だった。病院とよく似た煉瓦造りでカフェというより喫茶店といったほうが相応しい落ち着いた佇まいの店だった。
先客は一組の老夫婦。店内にはモーツァルトの曲がゆったりと流れている。一番奥の窓際の席に座り、レギュラーコーヒーを注文すると、摩耶さんは私を見て静かに微笑んだ。胸元には五角形の星のマークが付いた燻し銀のペンダントが輝いている。確かあの形はペンタグラムというものだ。摩耶さんは大学生というより、成りたての美人占い師みたいな雰囲気を持っている。
「それじゃ、話を聞かせて」
私は摩耶さんに「人が死ぬ瞬間の映像」が見えること、そして数日前から起こっている奇妙な出来事を全て話して聞かせた。
「あなたが霊を見るのは、その人が死んだ時刻だけなのね?」
「そうだと思います。最初にお祖母ちゃんの霊が見えた話をしたでしょう? あれがちょうど亡くなった時刻だったらしくって、大人たちが気味悪そうに私を見てひそひそ言ってるのを聞いたから間違いないと思います」
「まずはあなたが見た落下する霊のことだけど、なぜ空中から飛び出してくるのかは考えてみた?」
「多分、アパートとかビルとかから飛び降りたんじゃないんでしょうか。だとすると、家が建つ前にあそこにあった建物ですよね」
「そうね。土地の前の持ち主は判ります?」
確かあのへん一帯は近所のアパートの大家さんの土地で、確かうちの土地もそうだったと思う。そう答えると、摩耶さんはちょっと真剣な表情をして私の顔を覗き込んできた。
「鈴花さん、一応聞いておきたいんだけどあなたはその霊のことを調べていったい何を知りたいの?」
それは……。
「聞えたんです。霊の声が。俺を見つけてって。だから、例えそれが無理なことでも出来るだけ調べてみたいんです」
摩耶さんはちょっと眉を顰めるようにして黙って私の顔を眺めていた。
「そうね。あなたに危険な霊は憑いていないから大丈夫でしょう。それから、花束を見せてもらいたいんですけれど、お宅に伺ってもいいかしら」
「いいですよ」
「それじゃあ、すぐに行きましょう。ああ、まずここのコーヒーを飲んでからね。本当に美味しいのよ」
コーヒーを飲み終えて、家に着くとすでに正午を過ぎていた。私の家はごく普通の二階家だ。今まで霊が出たことなど一度もない。
摩耶さんは門の手前で立ち止まり、右手でペンダントを握り締めて何もない空中を凝視した。
「ああ、確かにいるわね。あなたの家の前に若い男が立っているわ。すごく悲しそうな顔で。見えるかしら? 鈴花さん」
「いいえ、何も」
「そう。やっぱりあなたには死んだ時刻の霊しか見えないのね。あ……でも、ちょっと待って」
摩耶さんはそっと目を瞑って少し顔を顰める。
「何だか別の霊気を感じるんだけど……変ね。何も見えない。ああ、ごめんなさい。じゃあ、お邪魔させてもらうわね」
「ええ、どうぞ。今日は誰もいないんです」
部屋に摩耶さんを案内してキッチンからコーヒーとクッキーを持って来ると、彼女は私のベッドに腰を掛け、花束を抱えてじっと眺めていた。
「これは駅前の花屋で買ったものね。今日、私が寄ってきたあの店。ほら、束ねているリボンが二色。銀色と白。あそこはいつも二色使いをするのよ」
「……なんだか、墓前に供える花みたいですね」
「たぶんそうでしょうね」
「ええっと、あの推測なんですけれど、あの霊はここにもとあったアパートから飛び降り自殺した人で、あの中年の男性は身内の人なんじゃないですか? 昨日は命日だったんですよ、きっと」
「で、花束をわざわざ真夜中に? 昼間持って来たっていいはずだし普通はお墓に持っていくものでしょう?」
「それもそうですね」
「とにかくこれ以上は何も判らないわ。近所の大家さんのところに行ってみましょう」
「え? 今すぐですか?」
摩耶さんは私が淹れたコーヒーを一口も飲まずにさっさとドアを開けて出て行こうとしている。
「そう。今すぐ。早くしないと何も判らないまま終わっちゃうわよ」
それは嫌だ。っていうか、ひょっとして彼女、インスタント・コーヒーが嫌いなんじゃないのか? というわけで、私たちはすぐに大家さんの家に向かった。
大家の中山さんは齢七十を過ぎた気さくな一人暮らしのお祖母ちゃんで、私たちを快く迎えてくれた。お昼を食べていないと聞くと、お茶と一緒におにぎりを四個持ってきてくれた。本当に美味しいおにぎりで私は危うく、訪問した目的自体を忘れそうになった。
気が付くと、摩耶さんは中山さんと楽しそうに四方山話をしている。年寄りに取り入るのは上手いらしい。
「ところで、冬木さんの土地なんですけど、あそこは前は何があったんですか?」
大家さんはお茶を淹れながら、考え込むように宙を見つめる。
「ええとね、あそこには四年前までアパートが建ってたのよ。三階建てのアパート。何だか変なことがあってね。それで人が入らなくなったんで壊しちゃったのよ」
「変なことって……飛び降り自殺とか?」
「いやいや。そういうことじゃないんだけど。三階に住んでた若い男の人が急にいなくなっちゃってね。それが、荷物だとか身の回りのものだとかも全部置きっぱなしで。で、家族の方が心配して捜索願いまで出したんだけれど、結局見つからなくってね。荷物を引き取ってもらったのよ。でも、それから誰が入居してもすぐに出て行っちゃうの。何だか嫌な感じがするって。男の人を見たって言う人もいてね、それで気味が悪いから取り壊したの」
「それはいつ頃ですか?」
「ちょっと待ってね」
中山さんは押入れを開けると、奥の方から段ボール箱を二つ引っ張り出してきた。一つの箱には日記帳、もう一つの箱の中はいろいろな書類がきちんと整理されて入っている。
「ほらこれ。あたしの日記。もう若い頃から一日も欠かさずにつけてるのよ。それからこれが、入居者の書類。ええっと、五年前だから……これこれ。いなくなったのはこの人よ」
滝川徹。二十二歳。保証人の名前は両親になっている。両親の現住所は隣町だ。
「これ、写させて貰っていいですか?」
「ええ、いいですよ。でも、いったい何を調べてるの?」
「それはちょっと……私、実は私立探偵なんです」
「ああ……なるほどねえ」
中山さんが何事か納得して一人で頷いているのをよそに、摩耶さんはポシェットから手帳を取り出して住所を書き写している。中山さんは五年前の日記帳を捲り始めた。
「ああ、これこれ。あら、ちょうど五年前の昨日だわ、その人がいなくなったのは。真夜中に集中豪雨があってね。あのへんの道路は当時水はけが悪くって川みたいに激しく水が流れてたからよく覚えてるわ。うちは高台だから何ともなかったけれど、結構浸水の被害があったのよ。今は排水の工事か何かしたからそういうことも無くなったけれどね」
「その日記、見せてもらえますか?」
摩耶さんが受け取った日記帳を私も横から覗き込んだ。
――八月二十三日。雨が止んだ。アパートの中は水が入っていなくて一安心。三階の滝川さんが新聞を取りに来てない。何処か出かけているんだろうか?――
「それから何日も新聞が溜まってね。あたしがご両親に連絡したのよ」
朝、新聞を取りに来なかったということはいなくなったのは二十二日の真夜中だ。
それにしても、いちいち入居者の新聞まで確認しているとは。かなりうざい大家さんのようだ。
摩耶さんは窓の外に視線を移し、じっと考え込んでいる。やがて彼女は中山さんの方を見るとにっこりと微笑んだ。
「判りました。どうもありがとうございました」
隣町に向かう電車の中で、摩耶さんはドアの横に立ち、通り過ぎる夏の景色を眺めていた。暑く眩しい午後の日差しが車内に差し込むので、片側の窓だけがブラインドを下ろされている。電車に乗るなんて何年ぶりだろう?
「ご両親、まだあそこにいるかな。っていうか、会ってもらえるんでしょうか」
「判らないわ。でも、鈴花さん、今度は本当のことを話したほうがいいと思うわ。中年の男の人のことは除いてね」
「身内が突然いなくなるって……どんな気持ちなんでしょうか」
摩耶さんの顔がふっと曇った。
「全てが……何もかもが一瞬にして変わってしまうの。生きてるのか死んでるのか、それさえ判らなくて。日常は不安に押しつぶされて……」
言葉が途切れる。
「ああ、もう次の駅だわ。交番で道を聞いてみましょう」
滝川徹の両親の家は閑静な住宅街にある広い木造の二階家だった。
徹さんの母親は、大人しそうな人で化粧もせず、ぼさぼさの髪の毛も無造作にゴムで結んでいるだけだった。彼女は私たちの訪問を不審がり、玄関で私が話した霊の話にちょっと顔を強張らせた。
「あなた達、何が目的なのか知りませんけれど、うちの息子は死んでなんかいません。さっさと帰らないと警察を呼びますよ!」
摩耶さんはその言葉にもまったく動ぜず、静かな声で言葉を返した。
「徹さんがいなくなった時に着ていたTシャツ、水色で紫と白の細いボーダーが胸のところにありますね。気に入ってるんだって言ってましたよ。お母さんが誕生日に買ってくれたんだって」
滝川さんは驚いたように摩耶の顔を見つめた。
「どうして、それを……」
「先ほど私が聞きました。彼の霊に直接。早く帰りたいから見つけてくれって言ってました。……ああ、何だか驚かせてしまいましたね。ごめんなさい。彼の願いを聞き届けたいと思ったんですが、信じていただけないようでしたら仕方がないですね。お邪魔致しました」
出て行こうとする摩耶を滝山さんが呼び止めた。
「待ってください。話を……聞いていただけますか?」
「ここが徹の部屋です。五年前からずっとそのままにしているんですよ」
シンプルな机にベッド、棚には本やCD、DVDにゲームソフトがきちんと並べられている。壁にはアイドルのポスター。ごく普通の若い男の部屋だ。
「きっといつかは帰ってくるって。だから……」
滝川さんの目にうっすらと涙が浮かんでいる。彼女の五年間の苦しみを思うと慰めの言葉すら口に出来ない。
「私が悪いんです。あの子の結婚を反対しなければあんなことにはならなかったんです」
「結婚……といいますと?」
摩耶さんの問い掛けに滝山さんは彼の本棚からアルバムを取り出した。
「ほら、この人です。徹が好きだった人は」
そこには桜の木の下で幸せそうに頬を寄せる二人が写っていた。ちょっと神経質そうな細身の徹さんと、セミロングの髪の目の大きなチャーミングな女の子。
「どうして結婚に反対なさったんですか?」
「徹がどうしても結婚させて欲しいというので、失礼とは思ったんですが、興信所に彼女の過去を調べさせたんです。そうしたら彼女、高校時代に何度も万引きや傷害で補導されていて、どうも援助交際とかもしていたみたいで。だから主人も私も絶対駄目だって言ったんですよ。でも徹は今はもう更生してるし、過去の話だからって……でも私は許しませんでした。すぐに別れなさいって、そう言ったんです。そうしたら、数日後にあの子はいなくなりました」
「相手の女の方は?」
「さあ。徹と同じ大学の桜塚澪奈という方ですが私は一度も会ったことがないんです。徹の携帯の履歴で電話を掛けて見たんですが、電源が切られているのか、ぜんぜん繋がらないんです……。家の電話も判らないから連絡のしようがなくて。だから、最初は私、徹は彼女と駆け落ちしたんじゃないかと思いました。でも携帯も財布もクレジット・カードも何もかも置いていくなんて有り得ない。それどころか靴も全部残っているんです。だから、私は警察に捜索願いも出しました。あの、城野さん、息子は……死んでいるんですか?」
摩耶さんは静かに答えた。
「霊が見えますので、間違いなく亡くなっているとは思います。ただ、ご遺体が見つからない限り、断定は出来ません」
「城野さん、何とかして見つけてください。徹がここに帰ってこれるように。どうか……よろしくお願い致します」
深々と頭を下げる滝川さんの姿を見て、私は内心、何だか大変なことになったと思っていた。遺体を見つけることなんて果たして出来るんだろうか?
その後、駅前で彼女と別れ、家に帰った後も私はずっと落ち着けなかった。
「今夜、午前二時四十分にあなたの家の前に行くわ。何だかそこで全てが終息する。そんな感じがするの」
摩耶さんというのは不思議な人だ。私と同じ歳なのに、何十年も年上みたいな、全てを悟っているような神秘的な瞳。彼女は何かとても重いものを心の中に抱えているような気がする。私とは比べられないくらい、とても重いものを。
その夜は薄い雲が夜空一面を覆っていた。昼間よりはいくらか涼しいがまだ昼の熱気が完全に抜けきってはいない。摩耶さんがやってきたのは午前二時三十五分。四十分になると空中に徹さんの霊が現れた。落下し、その姿が消えるまで摩耶さんは表情一つ変えることなくそれを眺めていた。しんと静まり返った夜の粘るような空気の中でしばらく沈黙が続く。
「……なるほど、そういうことね。判ったわ。どうして飛び降りたはずの死体が見つかってないのか」
そう静かに呟くと、摩耶さんは後ろに立っていた私の方に振り返った。
「鈴花さん、あなたの横に誰かいるわ。でも見えない。待って、波長を合わせてみるから」
彼女はペンダントを握り、何事か呪文のようなものを唱えた。そして私の方へ歩いてくるとすっと片手を差し出す。
「ほら、私の手を掴んで。あれが見える?」
「え……? あっ」
そこに見えたのは白いパジャマを着たセミロングの女性だった。祈るように胸の前に手を組み、悲しそうな目でずっと家のほうを見詰めている。彼女の足元からは白く光る紐のようなものが道路の向こうまでずっとずっと伸びている。
「彼女、ひょっとして澪奈さん? 死んでるんですか?」
「いいえ。彼女は生き霊よ。だから波長が違うの」
「え、じゃあ、あの紐みたいなのは」
「あれが霊体と身体を繋いでいるの。今、辿ってみたらあれは森の郷病院まで繋がっていたわ。私、昼間の話で思い出したのよ。森の郷病院の『眠れる天使』の噂をね。五年前に突然植物状態になって、そのまま現在も目覚めない天使のような女性が別病棟にいるっていう噂。彼女がその天使よ。ねえ、そこの方、あなたにも見えるんでしょう?」
私は驚いて振り向いた。そこにはこの間の中年男性がいつの間にかやってきていた。摩耶さんは彼に近付くとそっと肩に手を触れた。男性ははっとしたように私の横を凝視した。
「……ええ……見えます。見えますとも」
男性はそう小さな声で呟くと、ぽろりと涙を流す。
「申し訳ない……本当に申し訳ない」
摩耶さんは身体を震わせて泣き出した彼にそっと声をかけた。
「話を聞かせていただけますか?」
真夜中、居間のテーブルに腰掛けているのは黒いワンピースの女性と向かい合って座るグレーのスーツの中年男性。何だか妙な光景だ。私がコーヒーを淹れて席に着くと、黙り込んでいた男性がぽつりぽつりと話を始めた。
私は村野啓介という者です。五年前の八月二十二日の深夜。私は同僚と飲みに行った帰りにこの家の前の道を通りました。相当酒を飲んでいた私は突然、何かの上に乗り上げたような気がして車を停めて降りてみました。車の時計は二時四十分でした。どんよりと曇って今にも雨が振り出しそうだったのを覚えていますよ。するとそこには水色のTシャツを着た男が倒れていました。触ってみましたが、頭から血が流れていて既に息がありませんでした。私は彼を轢き殺してしまったんです。その頃、私は大きな商社に勤め、順風満帆な人生を送っていました。もし事故がばれたら、全ては帳消しになってしまう。不幸のどん底に突き落とされてしまう。それは嫌でした。慌てて周りを見回すとアパートも他の家々もしんと静まり返っている。誰も気付いてはいないようでした。だから私は急いで彼の死体を車のトランクに詰めました。そしてここから一時間ほど走ったところの山の奥に向かいました。途中から猛烈な雨が降り出したのを覚えています。山の中に入って死体を降ろし、埋めてきまし
た。私は家庭菜園もやっていたので、トランクの中にスコップも入れてあったんです。でも、それからの私の人生は酷いものでした。どうしても罪の意識が消えず、仕事の成績が下がってリストラされ、妻と子供は家を出て行きました。今は小さなスーパーに勤めて細々と暮らしています。
私はずっと時効が来るのを待っていました。轢き逃げの時効は五年。それが過ぎれば少しは心も落ち着くだろう。そう考えていました。ところが数日前から、私の夢の中に女性が現れるようになったんです。さっき見た女性です。彼女は私の前に悲しそうな顔で立って、繰り返し繰り返しこう言うんです。返して、返してってね。それはまるで私を戒めているようでした。やったことを隠し通して自分を赦す気でいる私を非難しているように思えたんです。
「だから、あなたは昨晩、ここに来たんですね。花束を持って」
「ええ。昼間花束を買って、時間が来るまでずっとファミレスで待っていました。ここにあったアパートが壊され、家が建ったことも知っていたので道に迷うこともありませんでした。ここに花束を置いて謝ったら夢の彼女も消えてくれるかと思ったんです。でもそれは甘かった。昨夜も彼女は私の夢に現れました。それに、ここで会ったあなたのことも気になっていたし、だからまた私はここに来てみたんです。あなたは彼の身内の方ですか?」
村野さんはそう言って私を見た。
「いいえ、違います」
「そう、彼女は身内じゃない。それに大事なことをひとつ言っておきましょう。あなたは轢き逃げをしていないわ。あなたは飛び降り自殺した男性を轢いたのよ」
そうか。地面に叩きつけられた男性の身体がしばらくしてからまたぐしゃりと音を立てたのは、車に轢かれたからだったのか。
「ほ……本当ですか!」
村野さんの目が驚愕で大きく見開かれた。全身の力が抜けたようにがっくりと椅子の背に凭れかかる。
「それじゃ……私は……」
「でもその時、彼が即死していたかどうかは判らないけれどね。それにあの晩は集中豪雨があって道が川のようになったから、流れた血の跡も綺麗に流されてしまった。あなたにとっては幸運だったと言えるでしょうね。でもあなたは大勢の人を不幸にしたのよ。死んだ滝川さんの両親は今でも返らぬ息子を待っているし、彼の婚約者だった澪奈さんは未だに植物状態よ。あなたの人生は自業自得。きっと死体が見つからない限り、彼女の夢は見続けることになるわ」
村野さんはしばらく黙っていたが、やがて深く溜息をついた。
「警察に言って全てを話します。死体を埋めた場所もだいたい判っていますから」
「それなら、私と明日バイト先の店長のところに行きましょう。その人、元警察官なんです」
村野さんは私の方を見て、少しほっとしたように少しだけ微笑んだ。
「ありがとう。そうしてもらえますか?」
「判りました。で、摩耶さん。澪奈さんはいったい何故、植物状態になったのかしら」
「彼女はもともと体内から無意識に幽体離脱する癖があったんだと思うの。あの日も結婚を反対された彼の元に霊体だけが来ていたのね。ところが、彼は彼女の目の前で飛び降り自殺をして、その上、車に轢かれ、連れ去られてしまった。ショックを受けた彼女は霊体が身体に戻らなくなり、五年間ずっと彷徨い続けていたのよ」
「でも、どうして今になって村野さんの夢に現れたのかしら」
「はっきりとは言えないけれど、たぶん時効が近付いて村野さんの意識が事件現場に向いたのと、彼女の意識の波長が合ったのかもね。正直言うと霊のことって、私自身もよく判らないことがあるのよ」
翌日、私と村野さんは店長に話をしに行った。自分のことは内緒にと摩耶さんに念を押されたので話の辻褄を合わせるのに苦労したし、霊のことを信じてもらえるかどうかも不安だった。だが店長さんはオカルトな話が大好きな人だったので村野さんのことは警察に話をしてもらえることになった。
十数日後、近隣の山から五年前に行方不明になった男性の遺体が発見されたという記事が新聞に載った。それと並ぶように五年間、植物状態にあった女性が奇跡的に目を覚ましたという記事があった。
彼女は彼の霊に会えただろうか。旅立つ彼を見送ることが出来ただろうか。私はきっと会えたと信じている。なぜなら、あれ以来、二時四十分に霊を見ることはなくなったからだ。
今でも私はいろいろな霊に出会うが、もう以前ほど驚くことはなくなった。心の中で小さく冥福を祈ることも出来るようになった。あれから摩耶さんには何回か会って話をしたが、大学を卒業してからは連絡を取っていない。
最後に彼女に会った時、立ち去る彼女の後から何羽もの鴉が寄り添うようについて行くのを見た。その鴉と彼女が話をしていたように思えたのは……きっと気のせいだろう。
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