*** 登録作家+アルファによる小説競作 ***

 6
窮地で始まるミステリに挑戦!


今宵、あなたとババヌキを



  ――1――

 

 まだ、何も起きていない。
 だから、俄かには信じがたい。
 しかし、あいつらが説明した『ルール』が本当であるならば――
 僕は今、いつ殺されてもおかしくない状況にいる。
 震える両手に一枚ずつ持っている、二枚のカード。これが僕の命だ。
 一時間前――。
 このカードが配られ、『オールドメイド』は始まった。
 参加者は四名。「プレイルーム」と呼ばれる部屋の円卓にて、用意された八枚のカードを二枚ずつ、各人に分けられた。そこから、右隣の参加者のカードを引き、さらに左隣の参加者にカードを一枚引かせるという、いわゆる『ババヌキ』の要領で、それを三回繰り返す。そして最終的に手元に残ったカードが、各人の持ち分となる。
 肝心なことは、八枚のカードの中に一枚だけジョーカーが含まれているということ。そのジョーカーを持った人物は、規定時間内に、誰にも見つかることなく、残る三名の誰かを殺さなければならない。殺して、自分が持つジョーカーを殺した相手の持つ通常カードと取り替えることで任務クリアとなる。
 もしもジョーカーを持っている者が、誰も殺すことが出来なかったら――そのときは、その者自身が主催者側に殺害されるという。
 早い話が、「ジョーカーを持つ者は命を落とす」ということだ。
参加者にカードが配られ、ババヌキをする時間が『プレイタイム』と呼ばれる一時間、そして殺すか殺されるかを争う時間が『ジョーカータイム』と呼ばれる七時間。この合計八時間が三セット、つまり一日かけて行われるのだ。

 

 ――以上が、主催者側から受けた説明の概要だ。
 つまり、僕だけではなく、他にもあと二人が同じ窮地に立たされているのだ。おそらくその二人も、このカードを自らの命の化身として大事に握り締めていることだろう。
 そして残る一人は、一枚の普通のカードと、一枚のジョーカーを手に、「誰かを殺さなければならない」という窮地に立たされているのだ。
 
 まだ、何も起きていない。
 だから、俄かには信じがたい。
 この『オールドメイド』が終わる、今から二十三時間後、僕はもうこの世にいないかも知れない。逆に、二十三時間後、僕は大金を手にしているかも知れない。
 この『オールドメイド』を、最後まで生き残った者には、優勝賞金として三〇億円が贈られる。一般人が平々凡々に働き、生活していれば、まず手にすることのない金額。それがたった一日で得ることができるのだ。
 ただ――死という代償は、大きすぎる。札束を抱えた死神が、常に僕の頭上を徘徊しているようなイメージ。
 こんな常軌を逸したゲームが、許されるはずなどない。
 僕たちは、最初の集合場所である廃墟ビルで目隠しをされた。私物の持込みは一切許されず、厳重なボディチェックの後、早々に車に乗せられ、次に視界に自由が戻ったときには、もうこの無機質で冷たい、死神の棲む空間にいた。この念の入れようからも分かる。主催者側も、これが違法であることは十も承知なのだ。
 気付くべきだった。
 知っていれば、こんな馬鹿げたゲームになど参加しなかった。
 正直、後悔している。
 嘘であって欲しい。
 三〇億なんて、いらない。
 死にたくない。
 自分に追い詰められていく。気分が悪くなってきた。
 僕は、命のカードをデスクに置き、固い純白のベッドに倒れこんだ。まだ一回目の『ジョーカータイム』が始まって一時間も経っていないのに。
 まだ何も起きていないのに……。
 早く、誰か殺されないだろうか。
 そんな鬼畜の祈りを呟いたとき、僕は重要なことを思い出した。
 各人の部屋には、『武器庫』と呼ばれる引き出しが用意されているという。
 上半身を持ち上げ、それほど広くない室内を見渡した。
 最小限の設備があるだけの部屋。テレビ、クローゼット、冷蔵庫、掛時計、ランプ、デスク……。
 武器庫はデスクの右隣にあった。黒い重厚な雰囲気を持った引き出しだ。
 ベッドに寝そべった状態でも手を伸ばせば届く。僕は四段のうちの上から二段目を引いた。
「…………」
 驚くべき事態なのだろうが、言葉が出ない。その分、全身に鳥肌が立つ。
 ピストルが平然と置かれているのだった。
 武器庫の武器に関する制限は何も聞かされていない。つまり、これを殺人の凶器に用いることは勿論、襲われたときには護身用としても良いのだろう。
 他の引き出しも開けてみた。
 一番上の段には、ロープとナイフが入っていた。三段目にはハンマー、最後の四段目には、小さな瓶だけがポツンと置かれていた。武器というからには……おそらくは毒薬。尤も、ピストルと毒薬に関しては、試し撃ち、試し飲みが出来ないので、真贋のほどは判断できない。となると、攻撃にしろ防御にしろ、いざというときに即戦力となるのはナイフだけだ。
 僕はナイフを手にする。包丁などとは比較にならない重みと、部屋の明かりに刃がギラギラと狂気を光らせる。
 僕はナイフを枕に突き刺した。ブッ、と短い声をあげ、枕は簡単に裂けた。
 もう一度、別の箇所を刺した。
 もう一度、繰り返す。持ち方を変えて、もう一度……。
 こんな風に……これが枕ではなく、人間の胸板を切り裂くときが来るのか。否――この枕のように、はらわたをズタズタに壊裂されるのは、僕なのか。
 逃げる、という選択肢はない。主催者側三人の姿は異様だった。上下はシャツにジーンズといったきわめてシンプルな服装だが、顔は目以外をバンダナで覆い、手にはライフル銃が握られていた。まるで、外国人を拉致するどこかの国の武装勢力のようだった。彼らの間隙を狙って逃げられるとは、とうてい思えない。
 ――絶望的だ。
 四方八方から、殺気を感じる。
 誰がジョーカーを持っているのかさえ分かれば、警戒のしようもあるのだが、それではゲームにならない。『オールドメイド』――ババヌキなのだから。
 不幸中の幸いを強いて挙げるならば、こっちからカードを引きに行かなくても良いことくらいか。
 ならば、ジョーカーを持たない限りは、この与えられた部屋に籠っていることが最大の防御と言える。この部屋に入るには、オートロックのドア一つのみ。しかもドアには、シャッター付の小さな窓があるから、誰かが訪ねて来ても事前に確認できる仕組みになっている。十分に身を守ることが出来るのだ。警戒を怠らなければ、安易に命を奪われることはないだろう。
 ただしこの事実は、逆にジョーカーを持ったときは、かなり困難な状況となることを示している。全員が警戒して部屋から出てこなくなるということは……イコール自らの死である。
 ――ジョーカーは、死。
 兎に角、この午前一時から午前八時までの『ジョーカータイム』は、生き長らえることが出来そうだ。
 刹那の安堵。
 けれど、状況は変わらない。
 僕は、窮地に立たされている。
 しかも、周囲を奈落に囲まれた足場は、時間が経つにつれ、狭くなっていく。と言うのも、この次の『プレイタイム』では、一人が殺されているのだから、ジョーカーを引く確率は三人に一人と格段に上がるのだ。さらに最後の『プレイタイム』では、完全な一騎打ちとなる。
 一騎打ちまで残りたい。その為には……。
 あと一回だけ、ジョーカーを引かないことだ。
 そうすれば、篭城作戦で乗り越えて、最終の『プレイタイム』に挑めるのだ。
 冷静になれ。意外と光は細くない――そう、言い聞かせた。
 ジョーカーを引かない方法は、あるだろうか……。
 僕は、デスクの上に放り出していた二枚のトランプを改めて手にした。
 天使が自転車に乗っている――バイシクルという種類のトランプ。日本ではマジシャン御用達で有名なデザインだ。赤と青のカラーはよく目にするが、ここにあるのは黒。少し珍しいカラーではあるものの、一般的に市販されている、誰にでも入手可能なタイプ。
 ただ、このカードには、表面に大きく、
 《PLAY OLD MAID!》
 と筆記体の文字がプリントされている。こうすることで偽造あるいは偽物のカードが持ち込まれることを防止しているのだろう。
 僕に与えられたのは、どちらもクローバーの2と6。
 次の『プレイタイム』になったら、このカードはひとまず主催者側に返却される。そしてシャッフルされ、再び配られ、ババヌキ方式でカードの交換が行われる。
 次で使われるカードは、一人いなくなるので、六枚だ。
 いま持っている二枚に目印を付けて、僕、あるいは左隣――つまり交換で僕が引く側――の人間が、これを手にする確率は合わせて三分の二、仮に右隣の人間が持っていたとしても、引く、引かせるを三回繰り返すことで、回ってくる確率は高い。
 この窮地――乗り切れるかも知れない。
 誰にも見破られない目印を考案できれば……。
 掛時計を見る。午前三時。まだ時間はある。しかし眠っている暇はない。
 もっと冷静になれ。
 ジョーカーを持たない者に与えられた猶予を有効的に使え。
 ――生き残るために。
 デスクで頭を抱え込み、考え続ける。
 いくつものアイデアが浮かんでは、自信が持てずに却下されていく。
 陳腐な目印は、すぐに見破られる。
 見破られたら、反則で殺されるだろうか?
 そんな説明はなかったが……。
 いや、どうあれ、やらなければならない。
 ――やらなければ。
 再び深い思案に耽ろうとした、その時だった。
 心臓が叩きつけられるような強い衝撃を受けた。
 ドアの方を凝視したまま、僕は固まった。
 すると、またドアを小突く音。
 動作を忘れていた僕は、気付いたように全身が小刻みに震え始めた。
 ――殺しに来た!
 ジョーカーが、殺しに来たのだ。
 咄嗟にカードをデスクの中に隠し、枕の上で横たわっていたナイフを手に取る。そして足音を立てずに、入り口に近づく。
 またノックの音。
 大丈夫だ。ドアを開けない限り、絶対に殺されることはない。
 僕は、ちょうど目の高さ辺りに設えられている小窓のシャッターを少しだけ開けた。
 立っていたのは女性だった。
 勿論、僕は知っている。『プレイタイム』で、ちょうど僕の対面に座っていた、長い黒髪の女。
 確か――そう、『クイーン』という名を与えられた参加者だ。
 この『オールドメイド』に参加した四人は、互いに実名を知らない。主催者側が用意した、『キング』『ジャック』『クイーン』『エース』というニックネームが、ここでの名前となる。僕には『エース』という名前が付けられた。
 恐怖に怯えきった彼女――クイーンの目が、僕を確認するや助けを求めるように小窓へと近付いてきた。
「クイーンです。お願い……開けてもらえませんか?」
 たとえ相手が女性であっても、このゲームに限って、そんな安請け合いなどできる筈もなく、僕は静かに首を振った。
「早く――早く部屋に戻って」
 今は『ジョーカータイム』の只中。表に出ていることは自殺行為だ。命はいらないと言っているようなものである。
 しかしクイーンは立ち去ろうとせず、一瞬だけ手元に視線を落としてから、再び僕を見つめた。
「これ――」
 と、突然クイーンとの面会が遮断された。小窓が何かで塞がれたのだった。
 僕は一歩後ろに下がって、それを確認する。
 そこには、クローバーの3と4が並んでいた。筆記体のプリントも入っている。間違いなく、『プレイタイム』で配られたカードだった。
 五秒ほどでカードは取り払われ、またクイーンの哀願するような目が僕を捕らえた。
 疎い僕でも、今の行動は理解できた。クイーンは、
『私は、ジョーカーを持っていません』
 ということを訴えているのだ。
 確かにプリントが入っていたので偽造ではない。カードを三枚持っているということも考えられない。
 クイーンは、ジョーカーではない。
 だから――、
 だからといって、僕はこのドアを開けるか?
「開けてください……エースさん」
 駄目だ、それ以上声を出すと危険だ――そう叫びたかったが、口唇が痙攣するように動くだけで、声に出ない。
「お願いします、一緒にいてくれませんか……」
 そのセリフが、甘い言葉に聞こえたわけではない。ただ単に、僕は根負けしたのだ。
「わ……わかった。えっと……手を、挙げてくれ」
 苦し紛れのような要求を出すと、クイーンはやや表情を緩めて、両手を頭の上で組んだ。
 十秒ほど待ってみる。クイーンはずっとポーズを崩さずに待っていた。いよいよ約束を破るわけにはいかなくなり、僕は意を決してロックを外した。
 ドアが開いてからも、クイーンはしばらくその姿勢を保った。僕は片手にナイフを握ったまま、黒のワンピース姿を上から下まで確認する。いやらしい気持ちはない。凶器を持っていないか、チェックするためだ。
「そのまま、こっちへ」
「……ありがとう」
 クイーンは、本当に心の底から安心したような微笑を作って、僕の部屋に入ってきた。
 再び音もなくドアが閉じられ、僕はクイーンの背後に立つ。まだ両手は頭の上。
「――どうして?」
 僕はクイーンの背中に訊ねた。
 しばらく間を置いてから、クイーンは静かに答える。
「一人だと、あちこちから殺意を感じて……もうダメだ、って、死にそうになって……」
「けれど、どうして僕の所へ? 僕がジョーカーを持っているかも知れないのに」
 そう、僕はクイーンのカードを確認した。しかしクイーンは僕のカードを確認していない。僕がジョーカーである可能は十分にある。にも拘らず、クイーンは怯えることもなく部屋に入ってきた。
「エースさんは、ジョーカーを持っていないわ」
 クイーンは、やや落ち着きを戻した感じにそう言いながら、手をゆっくりと下げ始めた。
 次の瞬間、僕はクイーンの向こう側で口を開けたままの武器庫に気付いた。
 あれに飛びつかれてピストルでも手にされたら――。
「まだ――まだ動くな!」
 僕は堪らず、声を荒げてしまった。
 クイーンは、首の辺りまで下げてきた腕を止め、はい、と素直に従った。
 クイーンの横をすり抜け、僕はデスクに腰を下ろす。これで武器庫には近寄れない。
「で――その、どうして僕がジョーカーを持っていないって分かるんだ?」
 クイーンは、一瞬だけ笑顔を作ってから、中空に浮かべたカンニングペーパーを読むように答えた。
「プレイタイムのときに分かったわ。エースさん、カードを配られたときも交換が終わったあとも、同じ態度だった。殺すか、殺されるかが決められる状況で、あんなポーカーフェイスは出来ないと思うの」
 この子は――その同じ状況にいながら、そんな観察をしていたのか?
 信じられない。けれども、確かに僕はジョーカーが自分の所に回ってこなかったことで、気持ちを揺らすことはなかったように思う。嘘と決め付けるには、強ち間違ってはいない観察眼だ。
「じゃあ、ジャックさんとキングさんの、どっちがジョーカーを?」
「それは、分からない」
 クイーンは首を横に振った。
「二人とも動揺していた?」
「少なくとも、配ったときと交換が終わった後では、態度は違っていたわ」
「そうか……」
 僕は、クイーンから徐々に殺気を感じなくなっていた。それどころか、有効な情報を提供してくれる力強い仲間が出来たような気分だ。
 いや――それは駄目だ。
 いずれ、クイーンと一騎打ちになるときが来るかも知れないのだから。
「あ……」
 僕は、それでもナイフを向け続けるのは、クイーンが少し可哀想な気がしたので、そっと切っ先を床に下ろした。
「いいのよ。ナイフ、向けたままで」
 クイーンは達観したような口調で僕に言った。
 今度は僕が首を振った。
「僕は、クイーンみたいに鋭い観察はできないけれど、単純に、さっきカードを二枚見せてもらったことで、君がジョーカーではない、って確信した」
「ありがとう。でも――」
 クイーンは、そこで言葉を止めた。躊躇している様子だ。
「……でも?」
「お節介かも知れないけれど、エースさんの為に言います」
 何を告げられるのだろう――僕は一抹の不安がこれ以上大きくならないように深呼吸をしてから、静かに頷いた。
「私が普通のカードを二枚持っているからといって、ジョーカーではないとは限らないのですよ。ルールから考えれば、仮に私がジョーカーを持っていたとしたら……エースさんの部屋に来る前に、誰かを殺していれば、私はそこにジョーカーを置いてくることになります。その代わりに、殺した人の普通カードを持ってくることになりますから、結果、通常カード二枚持っていることになる、と考えられません?」
 僕は――ナイフを持つ手に、また力が入ってきた。
殺意ではない。仮に今の話が真実であったとしても、僕が殺されることはない。クイーンは既に指令を完遂していることになるのだから。
 そうではなく……
 この子と一騎打ちになったとき、果たして自分に勝ち目はあるのか、という絶望感にも似た感情が、腕に力を込めさせたのだった。
 言葉もなかった。自分の能力の低さに、恥ずかしさを覚える。さっきまで考えていた「カードに目印作戦」も、クイーンの前では赤子の手を捻るような愚作と化すだろう。
「でも信じて。さっきのプレイタイムで、私はジョーカーを引かなかった。このカードも、どちらも本当に私のカードだから」
 僕は、忙しなく泳ぎ続ける目を隠すように、手を眉毛の辺りに翳してから、
「座って……そこに座っていいよ」
 と、もう片方の手に握ったナイフでベッドを指し示した。ありがとう、とクイーンはゆっくりとベッドに座った。
 二人同時の溜息を最後に、長らく沈黙が続いた。

 

 時刻は午前五時三〇分――『ジョーカータイム』も、残り二時間三〇分。
 ジョーカーを持っているのは、キングか、ジャックのどちらか。
 そして殺されるのも、キングか、ジャックのどちらか。
 クイーンの言うとおりならば、この構図は崩れない。
 僕とクイーンは、次の『プレイタイム』の席を確保したのだ。
 ――待とう。このまま、午前八時まで。
「エースさんは、なぜこのゲームに参加したの?」
 唐突に、クイーンが訊ねてきた。
 僕は、事の発端を思い出す。
「拾ったのですよ。チケットを」
 自宅であるアパートを出て、いつも通る近道の路地裏。そこで黒いチケットを見つけた。最初はすぐに捨てようと思った。しかし、集合場所と日時が、まるで図られたかのように近いことに、そして何より、賞金三〇億の文字に興味を持ってしまい……気付けばチケットの裏に書かれた地図を辿っていたのだった。
「じゃあ――本当に招待を受けた人ではない、ということ?」
 招待、という言葉は当然まったく身に覚えのないことだから、新鮮な単語だった。
「まさか、こんな世界へのチケットだったとは……バカだよな。本当に。ケタが違うところで気付くべきだった……」
 僕はナイフの刃に自嘲した顔を映す。
「後悔しているの?」
「当たり前だよ。命を賭けなきゃいけないなんて、狂ってる……」
「でも、勝てば三〇億よ?」
「そんなもの、いらない」
 僕は、クイーンの視線を感じたが、合わせる勇気がなかった。
 クイーンの口ぶりからすると、彼女は自ら望んでこの場にやってきたのだ。どこからか招待を受けて、挑んだのだ。命を賭けて。
「……そう言うクイーンは、怖くないのか?」
 今度は僕がクイーンを一瞥してから訊ねた。
「怖いわ。さっきも怯えていたでしょう? 本当に、あのままエースさんに入れてもらえていなかったら、一人でいたら……気が狂っていたわ」
「じゃあ、なぜここに?」
「三〇億の為よ」
 クイーンは、あっさりと答えた。
「三〇億の為なら、命を賭けられるのか?」
「エースさん……人間の死因の第一位って、何だと思います?」
 突然、話が飛んだ。どんな脈略があるのかを考える前に、僕はそのクイズの答えを探していた。
「それは……ガンだったかな」
 ようやく顔を上げて、クイーンをまともに見ることができた。
 クイーンは目を細めて、その回答を否定した。
「死因の第一位は……欲望よ」
「欲望――」
「私は、そう思うわ。ガンになる人も、脳卒中も、心疾患も、中には遺伝的に発症する人もいるでしょうけど、大体は不摂生や喫煙、飲酒が度を越えるからじゃない? それって結局、欲望よね。交通事故も、どこかに行きたい、早く家に帰りたい、仕事のために急がなければいけない……そう考えると、殆どの原因は欲望だと思うの」
「三〇億が欲しい、というのも……欲望か」
「人間は欲望に殺されるのよ。だったら、とびっきり大きな欲望に殺されたほうが良いと思わない?」
 人は皆、欲望に殺される――。
 確かに、僕も欲望に目が眩み、この窮地に立たされた。
 欲望に、殺されかけているのだ。
 逃げられないのならば、戦う。
 とびっきり大きな欲望と。
「――そうですね」
 僕はいま一度、ナイフに映りこんだ自分の顔を見ながら、そう呟いた。年下の女性に、心に喝を入れられた気分だった。
 だが――。
 引き締まった心を握りつぶすかの如く、荒々しくドアを叩きつける音が室内に響き渡った。クイーンの時よりも、数倍激しいノックだ。
 クイーンが機敏に立ち上がる。僕もナイフを構えて、竦む足をどうにか彼女よりも前に進めた。
「助けてくれ! おい!」
 切羽詰った叫び声。尋常ではない。ドアに近づくことさえ躊躇してしまうほどだ。
 僕は、やはり小窓のシャッターを開けて、外を窺った。
 ボサボサの髪に無精髭、耳が小さく、眉毛の薄い、貧相なこの男は――キングだ。
 垂れ下がった目の奥の眼球が、あまりの恐怖に痙攣しているように小刻みにギョロギョロと動いていた。
 ドアを叩きつける拳は衰えない。
 僕は後ろを振り返る。クイーンはその細く上品な眉を顰めて、「誰?」と言いたげに首を傾けた。
「頼む! 開けてくれ! これ! オレは!」
 僕の前に、ついさっき経験した光景が再び現れた。
 キングは、小窓に二枚のカードを押し付けていた。
「オレは! ジョーカーじゃない! オレは――」
 クローバーの1と8が、そこにあった。
 キングも、ジョーカーではなかった。このパニック状態を考えても、ジョーカーは明らかに残る一人――ジャックだ。
 僕は、ロックに手が伸びかけていた。
「ダメよ! エースさん!」
 クイーンの、この制止の声がなければ、僕は開けていただろう。
 僕は思いとどまった。
 絶体絶命のキングと、冷静沈着なクイーンの間で、僕は激しい乱打を、ただ聞いていた。
 そんな時間が、二〇秒はたっぷりあっただろうか。
「オマエ、何なんだよ! どうしてオレを! ……」
 そのセリフを最後に――、
 ガァン! と明らかにノックの音とは異なる轟きが耳を劈いた。
 次いで、ドスン、という鈍い音とともに、重いものがドアに倒れ掛かってきた気配を感じた。
 僕もクイーンも、じっと小窓を凝視した。
 十秒ほどの静寂を挟んで、ようやく動きがあった。
 窓に置かれた、二枚のカード。
 その一枚――クローバーの1が、黒い指によってゆっくりと取り外される。
 僅かな隙間の向こうには、誰の姿もない。
 僕が一歩近付いて覗き込もうとしたとき、また黒い指が横の方から出てくると、カードを置いて、元通り窓を塞いでしまった。
 置かれたカードは――ジョーカー。
『ジョーカータイム』における、ジョーカーによる仕事が完遂された瞬間だった。

 

  ――2――

 

 午前八時まで、二人は遂に部屋から出ることはなかった。
 眼前で繰り広げられた、ジョーカーによる条件達成の瞬間に、僕も、そしてクイーンも相当なダメージを受けた。カードで遮られていたのが、せめてもの救いだった。
 掛時計が、錆び付いた鐘の音を鳴らし始めた。
 ここでようやく、第一セットの八時間が終了した。もう、外に出ても、取り敢えず殺される心配はない。
「エースさん」
 クイーンが、僕を呼んだ。そして、無言でデスクから立ち上がった僕に、
「本当に、ありがとう」
 と礼をした。
「ああ」
 素っ気ない返答は、疲れから来るものなのだと、クイーンは分かってくれるだろうか。
 僕はデスクを開けて、カードを取り出す。
 そこで――僕は、大きなミスを犯したことに気付いた。
 一瞬、頭の中が空白になった。
 カードに目印……。
 クイーンの来訪と、キングの殺害で、すっかり失念していた。あれだけ時間があったというのに……取り返しのつかないミス。
「どうしたの?」
 クイーンが背後から訊ねてきた。
 僕は平静を装い、何食わぬ顔でカードを持ち、
「いや」
 と返した。
 これで――次の『プレイタイム』も完全なる運任せとなってしまった。
 ジョーカーが僕の手元に残る確率は、三分の一だ。
 良いことを願うときには低い確率だが、悪いことを避けるときには高い確率である。
 でも、もうこれに賭けるしかないのだ。
 僕は、クイーンの前に歩み出た。
 外に出ようとした所で、僕もクイーンも足を止めざるを得なかった。
 カードが、昨夜のまま小窓に立て掛けられているのだった。
「まさか、キングさんも……?」
 クイーンが呟いた。
 たとえそうであっても、外に出なくてはならない。
 僕は思い切ってドアを開けた。
 その足元に、キングの死体はなかった。だが、そこには落としきれていない血痕が生々しく擦れて残っている。
 やはりキングはこの場所で、必死のSOSも虚しく、ジャックの凶弾によって絶命したのだ。
 弱冠の罪悪感を感じながら、僕はその痕を踏まないように大股で外に踏み出した。
 ドアを出たその先がプレイルームである。
 僕たち参加者の部屋は、この円形のプレイルームの円周にある形だ。ちょうど四等分した場所に、四枚のドアがある。僕の記憶が定かであれば、僕の部屋の右隣がキングの部屋、左隣がジャックの部屋、そして対面が、クイーンの部屋だ。この配置を考えると、クイーンの勇気には本当に感心する。
 クイーンとジャックの部屋の間に巨大なアーチ状の両開き扉がある。主催者側は、あそこから出入りしているらしく、この空間には他に扉らしきものも部屋らしきものも見当たらない。

 

 主催者側の三人は、既にその巨大な黒扉の前に立っていた。やはり顔をターバンで覆い、手にはライフルが握られている。あの扉を突破することは、三人がかりであっても、やはり無理だ。
 今日のテーブルが、昨日の円卓から三角形に変わっていることに気付いたのは、クイーンだった。
「着席してください」
 主催者の一人の声と被って、僕の左隣のドアが開いた。
 ストイックな印象を与えるデザインの眼鏡を掛けた、彫の深い長髪の若者――ジャックだ。
 昨夜、キングを殺した男。
 人殺し――。
 ジャックは、こちらを向いて眼鏡の奥の目を細め、怪訝な表情を作った。その理由は、すぐに分かった。僕とクイーンが並んで立っているからだ。
 ジャックは口元に卑猥な笑みを浮かべると、さっさと中央の席に着いてしまった。
 僕とクイーンも、席に着いた。
 全員が着席した所で、主催者の一人――黒のバンダナ男が一歩、前に出て、
「これより、第二セットの『プレイタイム』を開始します」
 と、篭った声で言った。
「その前に――先ほどの『ジョーカータイム』で、午前六時三〇分頃、キングが死亡により失格となりました。死体はエースの部屋の前にありましたので、行動の妨げとならないよう、我々がキングの部屋に運びました。確認したい場合は、キングの部屋へどうぞ」
 平然とした口調で説明すると、もう一人の、オレンジのバンダナ男がライフル銃を担ぎながら早歩きで僕の部屋の方に向かい、小窓に置かれていたカードを取り、戻ってきた。
「それでは、全員のカードを回収します」
 この指令に動いたのは、赤のバンダナ男だった。一人一人からカードを集め、黒バンダナにそれを渡した。
「三名となったので、八枚のカードより、二枚を抜きます」
 黒バンダナが二枚のカードを抜き取り、赤バンダナに渡した。
 そして、六枚を軽くシャッフル。
 ついに始まる――。
 抑えきれない、恐怖と緊張感。
 テーブルの中央に置かれた、六枚のカードの束。
「では、クイーンより時計回りに一枚ずつ取ってください」
 言われるがままに、クイーンが躊躇なく一枚、摘み上げた。
 次が僕だ。震えをどうにか誤魔化しながら、一枚。
 そして、ジャックがカードを取って、一巡終了。
 同じように二巡目も分け終わり、カードは行き渡った。
 祈るように、僕はカードを見る。
 クローバーの、7と6。
 そこにジョーカーは、いなかった。
 一瞬、目眩が襲った。血液が、急激に薄まったような感覚。
 でも、まだ終わりではない。ここからが本番である。
「オールドメイドを開始します。クイーンよりスタートしてください」
 感情の欠落した、黒バンダナの男が命じる。
 クイーンは、僕のほうに左手を伸ばしてきた。彼女がまず、僕のカードを取る。どちらを選んでもジョーカーはない。
 クイーンかジャック――どちらかがジョーカーを持っている。
 次にジャックが、クイーンの三枚のカードから選ぶ。
 僕は二人の顔色を交互に観察したが……分からない。どんな変化が生じるのか、クイーンの眼力は、僕にはないようだ。
 ジャックがこちらを見た。いよいよ僕がカードを引く順番だ。
 心音は最高潮に達している。
 恐る恐る、三枚の中から、命に関わる一枚を選ぶ。
 扇形に保持された、三枚のカード。
 透視でもするかのように、自転車に乗った天使に集中する。
 ――これは、何だろう?
 僕は気付く。
 中央と左のカードに、違和感を覚える。
 汚れている、と言うよりも、少し色が違って見えるのだ。
 一度、目を閉じて視野を遮断する。そして改めて、ジャックのカードに目を釘付けた。
 ――間違いない。
 微かだが、これは血だ。落としきれなかった血。
 誰の血?
 決まっている。昨夜、キングが射殺されたときに飛び散ったものだ。そこから導かれる答えは、
 ――この二枚は、ジョーカーではない。
 ジョーカーは、撃たれた後に置かれている。血飛沫が掛かっているとは考えにくい。
 ここにきて、予想もしなかった幸運。
 僕は、血の滲んだカードの一枚――左のカードに手を伸ばした。
 いや……違う。
 冷静になれ。
 血の付いた安全保障カードは二枚。交換は三回。つまり、一回は、全く分からないカードを引かなければならないのである。
 僕が最後にジョーカーを引いたら、順番により、クイーンにジョーカーが移ることはない。
 最悪のシナリオ。それだけは避けなければならない。
 だったら、たとえそれがジョーカーだったとしても、一回目に血の付いていないカードを引くべきなのだ。
 僕は、手を右に移動させ、血の付いていないカードを引いた。
 持ってきたカードは、クローバーの4だった。
 薄くなっていた血が熱く滾り、ドロドロと濃さを増し、全身を駆け巡る。
 血痕カードを信じるならば、この時点で僕のジョーカーはなくなった。決勝への切符を手に入れたも同然である。
 しかし、同時にもう一つの事実を物語っている。
 ジョーカーは現在、クイーンの手にある、ということだ。
 あくまで現時点だから、このあとジャックに移動する可能性は十分にある。
 けれど、このジャックという男が二度もジョーカーになるだろうか――という非科学的な疑念が頭に浮かぶのだった。
 残り二周は、自分の理論を信じ、血痕カードを二連続で選んだ。果たしてそれは、クローバーの1と、8だった。
 僕は、生き残った。

 

「終了です」
 黒バンダナの男が言った。
 最終的に僕に与えられたのは、クローバーの1と4だった。
 午前九時からの七時間は、このカードが僕の命となる。
「現在午前八時四七分です。あと十三分で、第二セットの『ジョーカータイム』に入ります。午前九時以前の攻撃は認められません。各人部屋に戻り、待機してください」
 僕は、そんな分かりきった説明よりも、どっちがジョーカーになったのかが気懸かりで仕方がなかった。
 クイーンか? ジャックか?
 ジャックと目が合った。彼は、『プレイタイム』開始のときと、さほど表情に変化は見られない。冷徹な無表情は、余裕の表れなのか、それとも……。
 一方のクイーンは、
「……クイーン?」
 思わず口から名前が零れてしまうくらいに、顔面は蒼白になり、唇が小刻みに震えていた。額には汗が光っている。ここの空調が決して悪いわけではない。
 クイーンの急変は、見るも無残なくらいに明らかだった。
 あれが演技ではないとすれば……。
 ジョーカーは、クイーンだ。
 さっきまで一緒にいたあの子が、殺すか、殺される。
 もう――俄かには信じられない、などとは言えない。
 実際に、一人が殺されているのだから。遊びではないのだ。
 ジャックは、そそくさと自室に戻ってしまった。
「『ジョーカータイム』開始、五分前です」
 バンダナ男の声が、無常にプレイルームに響き渡る。
 クイーン……。
 この窮地、君はどう切り抜ける?
 切り抜けて欲しい。
 ――ジャックを殺せ。
 僕は祈った。
「一分前です」
 僕は、まだ座り続けるクイーンを背に、部屋へと駆け込んだ。

 

 午前九時、第二セットの『ジョーカータイム』が始まった。
 制限時間は、午前九時から午後四時までの七時間。ルールは変わらない。僕は再び、篭城作戦で切り抜けることを決心した。
 ナイフをデスクに置き、武器庫は全ての引き出しを閉じて元通りにした。
 篭城作戦が安全であることが証明されたためか、これまでの疲れが一気に押し寄せてくる。
 思えば、ここに来てから食べることはおろか、飲み物も口にしていない。
 僕は冷蔵庫を開けた。未開封のペットボトルに缶ジュース、それに瓶ビールまで用意されていた。食品類は缶詰が多い。見る限りでは、死に到るような雰囲気はなかった。
 ミネラルウォーターとコンビーフをデスクに置き、開けた。久々の水分と塩分に、体中が泣いて喜ぶ。欲望が一つ、叶った瞬間だった。
 それから一時間くらい経ってから、僕はドアの方に向かった。小窓の向こうが気になったのだ。
 静かにシャッターを開けるや、僕は驚いた。
 プレイルームに、クイーンがまだ座っているのだ。彼女は両手を膝に置き、目を閉じている。
 これで真実は揺るぎないものとなった。命を狙われる側が、あんな所で悠々としていられる筈がない。
 僕は、彼女がこちらに気付かないうちにシャッターを下ろした。
 敵だから、同情するのは間違っているのだが……やはり残酷だ。
 この状況で、あんな非力な女性に人を殺せというのは、不利な上に不利の上塗りだ。それは通常、無理、という。
 男の僕でも自信がない。
 僕はユニットバスのトイレに向かいながら考え続ける。
 ジャックは、やり遂げた。
 圧倒的な難局で、彼はキングを殺した。
 一体、どんな手を使ったのだろうか。
 なぜ、キングは部屋から出たのか。
 なぜ、僕の部屋に助けを求めに来て、自分の部屋に戻ろうとしなかったのか。
 思えば――不可解なことが多すぎる。
 用を足した後、僕は風呂に入ろうか迷った。ホテル並みに備品は揃っている。不都合はない。
 バスタブに湯を溜めている間に、僕はもう一度シャッターを開けて覗いてみた。
「あ……」
 クイーンの姿は、もうそこにはなかった。ほんの数分のうちに、部屋へ帰ってしまったのだろう。
 その後、僕は暖かい湯に体を癒され、一騎打ちに備えて全身を洗った。服は同じものを着なければならないのが少し残念だった。
 デスクに戻って掛時計を見る。もうすぐ午前十一時だ。
 ミネラルウォーターの残りを一気に飲み干し、溜息を一つ。
 感覚が麻痺してきたのか、この窮地の中、かなり落ち着き払っている自分がいることに気付く。
 殺されなければ、なんの変哲もない時間。
 殺さなければならない立場でなければ、暇な時間。
 普段と変わりない、長い時間。
 ただ、何の目標もゴールも持たずに生きている日常とは違い、いまの僕は、間違いなく賞金三〇億というゴールに近付いていっている。
 死という代償に付き纏われながら。
 キングの死を目の当たりにしたのだから、ルールは事実だ。分かっている筈なのに、緊張感が全身から漏れ出ていく感じが止まらない。
 そう、まるでテレビの向こう側での出来事みたいに、他人事なのだ。
 死の実感がないから。
 緊張の箍が緩み、全身の疲労感が神経に流れ出し、睡魔へと変換していく。
 僕は、ベッドに転がった。
 何の変哲もない時間、暇な時間、長い時間であるのならば、こうしたっていいのだ。
 境目が判然としないくらいに滲んでいて、ぼやけていていて、知らないうちに眠りに落ちる。
 死ぬ瞬間も、こんな感じだろうか?
 実感しないうちに、死ぬのだろうか。
 そんな考えを最後に、僕は眠りに就いた。

 

 ――断続的なブザー音。
 合わせてもいない目覚まし時計に、僕は眠りから覚めた。はっきり言って、不愉快だった。
 体を持ち上げて、周囲を見回す。ブザーの根源を探す意識は、しかしまだフワフワとしていて覚束ない。
 時計を見てみる。
「あ……」
 午前十一時前を指したままだった。睡眠時間が零分などということは有り得ない。
「止まってるな……」
 僕は舌打ちする。今後、どういう支障を来すかは想像できないけれど、不利になった気分だ。
 それよりも――ブザーはいまだ鳴り止まない。
 この部屋にスピーカーらしきものも見当たらない。
 唯一のスピーカーといえば――テレビのそれか。
 そのとき僕は、ブザーの音に同調してテレビのチャンネルボタンが一斉に明滅していることに気付いた。
 テレビの前まで移動し、手当たり次第に点滅するチャンネルを押してみるが、応答はない。
 最後に、電源を押してみた。
 ツン、という独特の音と共に、画面が徐々に明るくなってくる。
 そして、ブザーは鳴り止んだ。
 映像は、一昔前のホームビデオみたいな粗い画質だが、映っているものは簡単に判別できる。
 ブラウン管の中の光景に、僕は顔を歪めた。
 冷たい鼠色の空間に、壁を背にして男が三人立っている。
「バンダナ――」
 主催者側であるバンダナ男たちに間違いなかった。
 赤バンダナが右、ライフル銃を持ったオレンジバンダナが左に、そして黒バンダナが中央に立っている。
 それだけなら、まだ良かった。
 僕が顔を歪めたのは、彼らの足元だった。
「……クイーン?」
 足は正座した状態で腿の辺りで縛られ、両手は後ろに回っている。目とクチに黒いタオルが巻かれていたが、あの艶やかな長い黒髪とワンピースは、間違いなくクイーンであった。
 僕は力なくベッドに腰を落とした。
 三〇秒くらい、静止映像かと思われるくらい微動だにしない画面だったが、徐に動きを見せたのは、黒バンダナであった。
「ただいま、午後四時です。第二セットの『ジョーカータイム』が終了しました」
 そんなに眠ってしまっていたのか、と僕はまた時計を見た。当然、時計は止まっている。
「第二セットでジョーカーを手にしたのは、クイーンでした」
 それは、誰もが想定していたことである。
 黒バンダナは続ける。
「しかしクイーンは、この七時間で他の参加者にジョーカーを押し付けることが出来ませんでした」
 僕は震える体を抑えつつ、足元のクイーンを見た。
 彼女は、いま微かに首を横に動かした。
「したがいまして、『オールドメイド』のルールにより、今回の失格者は、クイーンとなります」
 ――あのクイーンが、負けた?
 僕なんかより、はるかに頭の良さそうな、あのクイーンが……。
「この場合、失格者への裁きは、我々が行うこととなっておりますので、エースとジャックの二人は、この映像を通して確認してください」
 やめろ……無意味だ、こんなことは……。
 やめろ……もう、終わりにしてくれ……。
 僕は目をぎゅっと閉じる。腹の底から震えが生じ、込み上げてくるものを必死で堪えた。
 布が擦れる音がした。僕が目を開けるのを待っていたかのように、黒バンダナがクイーンの体を蹴り倒した。
 クイーンは無抵抗だった。
「やめろっ!」
 僕は叫ぶ。届くはずもない懇願を、僕は続けた。
 ライフルを持ったオレンジバンダナが、倒れこんだクイーンの頭部にライフルをあてがった。
 クイーンは無抵抗だった。
 僕は、悲鳴を上げながら画面を拳で叩きつけていた。溢れ出す涙で、視界が霞むが、向こう側の映像は止まらない。
 そして最後の赤バンダナが、腰からスラリと抜いたナイフを手に、クイーンに跨り、顎の辺りを鷲?みにした。
「やめろぉぉ!」
 最後まで無抵抗なクイーン。
 容赦なくナイフがクイーンの首筋に持っていかれた瞬間――、
 僕は堪らず、テレビを消した。
 そして、ベッドにうつ伏せになり、中身が出てグチャグチャになった枕に顔を埋めた。
 悪寒が頭痛を誘発する。
 吐き気がする。
 涙が止まらない。
 野生の動物にも似た呻き声が、自分の意思とは別の何かによって搾り出される。
 動けなかった。あまりのショックに。
 クイーンが負けた……。
 僕は――本当に、クイーンが負ける筈などないと確信していた。
 だから、衝撃は数倍にもなって僕にぶつかってきた。
「クイーン……」
 彼女の言葉が蘇ってくる。

 

(人間は欲望に殺されるのよ。だったら、とびっきり大きな欲望に殺されたほうが良いと思わない?)

 

 とびっきりの欲望が、彼女に牙を剥いたのだ。
 回避できない死の淵に立たされて……、
 それでも――三〇億が欲しいか?
 ――三〇億が欲しい。
 それが本当に、とびっきり大きな欲望なのか?
 そんなものは所詮、小さな欲望の一つでしかない。

 

 ――生きたい。

 

 それが一番、大きな欲望ではないのか?
 そして、欲望は人を殺さない。
 生きたい、という欲望は、人を殺さない。
 生きたい、という欲望を失ったとき――人は、死ぬのだ。

 

 ――クイーン、本当にこれで良かったのか?

 

 僕は次のことなど考える余裕もなく、しばらく泣いていた。

 

  ――3――

 

 二〇分ほど、そうしていただろうか。
 時計が止まってしまったので正確な時刻を知るすべがない。そろそろ心を整理して、最後の『プレイタイム』に臨む覚悟を決めなければ。
 けれど、まだ体の芯が熱を持って、柔らかくなっている。酩酊したような感じが治らない。
 そんな中、僕はあいつの顔を思い出す。
 一騎打ちの相手――ジャック。
 碌に会話も交わしていないから、どんな人間なのかは未知数だ。
 僕の知る彼の功績は、キング殺しのみ。これだけではあるが、この窮地においては大変な偉業だ。何せ、二回だけではあるが、『ジョーカータイム』を唯一完遂した人間なのだから。
 だから、仮に僕がジョーカーを引かなくても、殺される可能性は十分にある。
 ――どんな方法で?
 僕には篭城作戦しかない。卑怯だが確実な防衛策。
 これを破られることなど、あり得るだろうか。
 兎に角――。
 やってみないと分からない。
 勝利か、死か。
 これで最後。ラスト八時間。
 素早く顔を洗って、僕は部屋を出た。
 黒い扉の前には三人のバンダナ男――奴らも人殺しだ。
 テーブルは、三角形から四角に変化していた。
 そこにジャックの姿は、まだない。
 僕はバンダナ男を順に睨み付け、最後にジャックの部屋のドアで視線を止めた。
 出て来い。早く出て来い。
 僕は、生きたい。
 だから、ジャックには死んでもらわなければならない。
 生きたい――。
 だから、殺してやる。
 まだか――ジャックは。遅すぎる。
 もう、三〇分はゆうに過ぎている。
 もしもこのまま、午後五時を超えたら、どうなるのか。
 ――試合放棄。
 僕は、不戦勝になるのか?
「ちょっと……聞きたいんだけど」
 低い声を作って、バンダナ男に訊ねた。黒バンダナが無言で僕を見た。承る、ということだと判断し、
「相手が試合放棄した場合は、どうなる?」
 黒バンダナは、何を言ってるんだ、といった感じで、赤バンダナを一瞥してから、
「エースの不戦勝となる。しかし、心配には及ばない」
「――? でも、もう時間が……」
 と言いかけて、僕は突然の音に驚いた。
 ドアが開く音だった。
 僕は瞬時に、ジャックの部屋に首を向けた。
 しかしそこには誰もおらず、閉じたままの扉があった。
 足音が聞こえてくる。僕が想定している方角とは、まったく別の所からだった。
 ゆっくりと、音の近付いてくる方向に首を向けた。
 僕は、思わず椅子から飛び上がった。
「ク――」
 す、す、と姿勢よく、自信に満ち溢れた歩みで、彼女はテーブルを目指していた。
 もはや、僕の理解を超えていた。
 しかし、これは現実だ。
「クイーン……」
 強張った僕とは裏腹に、彼女は笑顔で対峙した。そして何の迷いもなく、僕に言った。
「お待たせ。エースさん」
 椅子に座るクイーンを、ただただ呆然と眺める僕は、
「どうして……?」
 と呟いた。
 クイーンは答えないまま右手を前にまっすぐ差し出し、僕に着席するよう促した。僕は、腰を抜かしたように座った。
「名演技だったでしょう?」
「……演技?」
「欲望に殺される失格者の演技」
 ブラウン管の中で繰り広げられたあの地獄絵図――あれが、演技だというのか?
「でも――最後まで見なかったでしょう? 私の名演技。無理もないわよね。生きた人間の首を掻っ切られる場面なんて、私でも、とても直視できないわ」
 確かに、僕は首にナイフがあてられた時点で電源を落とした。彼女が完全に絶命した所は、まったく確認していない。
 つまり、クイーンが処刑され、殺された、というのは僕の思い込みでしかなかったのである。
「……卑怯じゃないか」
「人を殺すことが許されているゲームで、この程度のことが卑怯かしら? そんなルールはなかったはずよ」
 僕は、狂言に協力したバンダナ男たちを睨み付けた。バンダナ男たちは微動だにしない。
「あ、でも卑怯と言えば……ひとつだけ嘘を吐いたわ」
「嘘?」
「いま、午後四時になったところよ」
 あの、失格者放送があったとき、確か黒バンダナは「ただいま、午後四時です」と言っていた。
 あれが、嘘だったのか?
 時計が壊れてしまっていたので、僕自身それを確認できなかったのだが……。
 思えば、あの時計が壊れていたのも、主催者側の仕業だったのかも知れない。テレビとブザーを連動させる仕組みを作っているくらいだ、時計を遠隔操作する程度の技術も容易いことだろう。
「どうして――そんなことを?」
「『ジョーカータイム』中に、あなたたちのどちらかを外に誘き出すためには、こうするしかないでしょう? 午後四時に失格者である私が処刑された、そうなればもう殺される心配がなくなる。『プレイタイム』も始まることだし、そろそろ出ようかな――っていうシナリオね」
 でも――僕はしばらく部屋で泣いていた。すぐに表には出られなかった。
 クイーンは、続けた。
「でね――そのシナリオに乗ってくれたのが、ジャックさんだったわ」
 僕は、はっとした。
 そうだ、僕とクイーンがここにいるということは、考えるまでもなく、ジャックが殺されたことになる。
「最初に出てきた方を、殺そうと決めていたから。エースさんは、命拾いしたわけ」
 悪びれる様子など微塵もない。クイーンは自らの計画を誇らしげに語った。
 クイーンの偽装に惑わされ、クイーンの為に泣いたことで、僕は助かった……怪我の功名、ということか。
「確認したければ、ジャックさんの部屋を覗いてくればいいわ。ベッドの上で倒れているから」
「いや……いい。死んだのなら、もういい。自分が生き残ったのならば、それでいい」
「そう――それじゃあ、そろそろ始めましょうよ。最後の『プレイタイム』を」
 クイーンは目を細めた。
 僕は、このときほど、自分に勝ち目はない、と感じたことはなかった。
 主催者側を利用して、自らを殺すという大胆な手を使って、まんまと欺き通したクイーン。
 ――相手が悪すぎる。
 もう少し、考える時間が欲しかった。
 しかし、『プレイタイム』の準備は着々と進められていった。
 僕たちのカードがまず回収される。次いで、オレンジのバンダナ男がジャックの部屋に入り、すぐに二枚のカードを持って出てきた。開けられたドアの奥に、ベッドから上半身を床に投げ出した状態のジャックが見えた――ような気がした。
「二名となったので、六枚のカードより、二枚を抜きます」
 黒バンダナが二枚のカードを抜き取り、赤バンダナに渡した。
 そしていよいよ、僕とクイーンにカードが配られた。
 裏向きのまま、しばらく僕は捲ることが出来なかった。
「怖いの?」
 早くも両手にカードを広げたクイーンが首を傾ける。
 怖い? そう――怖い。
 けれど、口には出せない。
 言えば、その時点で負けだ。
 僕は、カードを開けた。
 確率は二分の一。
 カードを持つ手が、震えた。
 クローバーの7と――クローバーの2だった。
 ジョーカーは、いない。
 クイーンが微笑んだ。
「良かったわね」
 余裕のある笑顔を作っているが、そう、彼女の持つ、あのどちらかにジョーカーが潜んでいるのだ。
 そんな地雷原に手を突っ込むのは、他でもない、僕だ。
 一騎打ちともなれば、もはや安全地帯など存在しない。
 それでも僕は、微かな希望を持ってクイーンのカードを凝視したが、生憎そこに血痕は見当たらなかった。
 正真正銘の博打だ。
「では、エースより開始してください」
 どっちだ……。
 どっちがクローバーだ?
 クイーンの表情は、蝋で固めたように動かなくなっていた。読まれないように、意識しているのだろう。
 僕は――右を選んだ。
 クイーンの手から、簡単にカードは抜けた。
 クローバーの3――この強運に、自分自身でも驚いた。
 しかし、これをあと二回、繰り返さなければならない。
 あと二回、ジョーカーを引かない確率は、四分の一である。
 決して高くはない、されど、決して低くもない確率。
 可能性は、ある。
「私の番ね」
 クイーンが少し前に乗り出して、僕のカードに手を伸ばした。
 僕は慌ててシャッフルする。そして扇形に広げて差し出した。彼女は何の迷いもなく、 中央を選んだ。クローバーの2だった。クイーンはそのカードを自分の手元に加えると、後ろ手にしながら、今度は声を上げて笑った。
「今のはジョークかしら? シャッフルなんてする必要ないのにね」
 ただでさえ回転の遅い思考が、極度の緊張で、想像以上に鈍化している。クイーンの言うとおりだ。ジョーカーが自分の手元にあることを知っているクイーンに、今の僕のシャッフルは全く意味がない。この正念場で馬鹿を露呈しただけである。
 顔を紅潮させた状態で、二度目の交換が始まった。
 僕は、より慎重にジョーカーを探る。
「がんばって」
 ここまでクールに励まされると、既にクイーンの策略に嵌まってしまっているのではないか、という不安が沸き起こってくる。動揺が、指先に現れる。掌は汗で濡れていた。
 二巡目――僕が引いたカードは、またしてもジョーカーを回避した。クローバーの2、先ほどクイーンが持っていったカードを引き戻したことになる。目印などない、これは完全な偶然。
 僕は、今度はそのまま三枚のカードを彼女に突き出す。威張れることではない。それが当然の行動なのだ。
 クイーンは無言で左側を抜いた。それはクローバーの7だった。
 と、そこでクイーンは唇を噛む仕草を見せた。彼女にしては、珍しい表情だ。
 無理もない。
 次が、最後の交換なのだから。
 これで僕がジョーカーを選ばなければ、彼女の負けだ。シャッフルはしても、もう彼女の策略には騙されない。『ジョーカータイム』が終わるまで、何も信用しない。確実にクイーンの死を見届けてから、僕は外に出る。それでいい。
「エースさん」
 同じように後ろでカードを混ぜながら、クイーンが言った。
「次が、ラストチャンスよ」
 少し、違和感のあるセリフだった。
 ラストチャンス?
 それは、僕がクイーンに向けて投げる言葉ではないか。
 僕にジョーカーを引かせる、ラストチャンス。
 そういうことだ。
 目を閉じて、しばらくカードのことを忘れる。
 確かに、ラストはラストで間違いない。
 だからこそ、真っ白な気持ちで行こう。
 決死で迷わず、決して驕らず、決して焦らず、決して臆せず、決して欲せず、ただ――。
 ――生きたい。
 その強い欲望だけを全身に纏って。
 三度、地雷原にその身を投げる。
 右か、左か――。
 生き残る確率を、ついに五分まで戻した。
 ここで、死ねない。
 僕は心を空にして、右を選んだ。
 と――その瞬間。
 クイーンの口元に、僅かな笑みが浮かんだ。
 ――死ね。
 そう念じているように、僕には思えた。
 しかし、僕は変えなかった。
 右のカードを……クイーンが笑んだカードを、僕は引いた。
 心臓が、限界にまで鼓動を早める。
 こめかみの辺りが、痺れるように痛い。
 指先に力を込めたまま、カードを表返した、
「う……」
 思わず、声が漏れた。
 手元に残ったのは、
 クローバーの3、クローバーの2、そして……
 クローバーの4だった。
「勝った……」
 カードが変形することも構わず、僕は全身に分散していた負の感情――恐怖、絶望、憎悪――の全てを手に集約して、命の行方を定めていたカードを握り締めた。
 涙が溢れ出てきたが、僕はそれを必死で堪えた。
「まだ終わってないでしょ」
 最後まで一貫してボーカーフェイスのクイーン。しかし自分のジョーカーが決定した今、さすがに気持ちを落ち着かせることに神経を使っているであろう。
 最後にクイーンがクローバーの2を引いて、第三セットの『プレイタイム』は終了した。
 クイーンは手持ちのカードを裏向きに伏せた。そして静かに、溜息を落とす。その姿は、最初に僕の部屋へ勇気を出して飛び込んできた、あの時に似ていて、救いを差し伸べたくなるような空気を漂わせていた。
 いや――これはクイーンの手だ。
 信じない。そう決めたのだ。
 そのクイーンが、見せたことのないような鋭い眼光を、突然、僕に突き刺してきた。
 ――それでいいの? 後悔しない?
 そんな類のメッセージを伝えたそうな。
 これでいい。後悔はしない。
 僕は勝つ。そしてクイーンには悪いが、死んでもらう。
 慈悲の心は死を意味する。ここでは必要ない。
 クイーンの処刑シーンが偽造であったことを知ったからには、もう彼女に何を同情する材料があろうか。
 それでも、クイーンは僕を睨み付けていた。
 ――本当にバカな男……。
 あくまで勝手な想像に過ぎないのだけれど、今度はそう言っている気がした。
 負け惜しみか?
 らしくないじゃないか。クイーン。
 一体、僕にこれ以上どうしろと……。
 僕はその眼差しから逃れるように、視線をカードに落とした。
 僕を救った、命のカードだ。
 もしも持って帰ることが許されるならば、一生の守り神として崇め、祈ろう。
と共に、この二枚はクイーンの墓碑でもある。
 思えば、どちらも元々はクイーンの手元にあったカードだ。僕が最初に持っていたカードは――。
「……え」
 僕は――身震いをした。
 足元から冷気が上がってきたような感覚。全身を凍らせ、頭をも冷やし始める。
 逆上せ上がっていた僕に、この違和感を察することなど出来なかった。
 どちらも自分の初期状態とは異なるカード。
 どういうことだ……。
 なぜ、こんなことが起こる?
 導かれる答えは、一つ。
 配られたカードは――最初から全部、クローバーのカード。
 ……主催者側の手違い? それとも、クイーンのマジックか?
 混乱してきた。
 その答えを求めるかのように、僕は顔を上げた。
 クイーンは、笑顔に戻っていた。
「第三セットの『ジョーカータイム』まで、あと十五分です」
 黒バンダナが告げると同時に、僕は椅子を蹴り倒して、クイーンに駆け寄った。陶器のように細い腕を掴む。そして、よろめきながら立ち上がったクイーンを無言で部屋に連れ込んだ。今なら、まだ殺される心配はない、ただそれだけの判断で起こした行動だった。

 

  ――4――

 

「……何をしたんだ?」
 彼女の手を握ったまま、僕は低く小さく唸るよう言った。
 クイーンは、口元を少しへの字に曲げ、首を竦めておどけて見せる。
「私は何もしないわ」
「でも、じゃあ何故カードが」
 僕の言葉を遮るように、クイーンは溜息を吐きながら、
「気付いてくれてよかったわ。もうダメかと思った」
 あの視線は、やはり僕に訴えていたのだ。カードの違和感に察することを、祈るように。
「本当に、君じゃないんだな?」
「あのカードは偽造できない、配ったのは主催者側、ジョーカーはジャックの部屋にあったのをバンダナ男が取りに行った、最初の手持ちを決めるときに、私が何らかのトリックを仕掛ける余地なんて、ある?」
「…………」
 僕は、無言でクイーンの質問に肯定した。
 思考を巡らせる。そして答えを探そうとする。
「主催者側のミス……?」
 可能性の一つではあるが、最も安易な推理だった。
「いいえ。ミスじゃないわ」
 今度はクイーンがはっきりとした口調で否定した。そして、驚くべきセリフを継いだ。
「あいつらは、最初からジョーカーなんて入れていなかったのよ」
「最初から?」
「ええ、最初から。第一セットの『プレイタイム』からね」
「けど……第一セットで使われたカードは八枚。手持ちに二枚、交換で確認できるカードは最高でも三枚。それだけでジョーカーが入っていないとは言い切れないだろう?」
 クイーンは、僕が腕を掴んでいる手の上にそっと小さな掌を重ねると、子供に教えるような優しい口ぶりで、
「その時点では私もまだ分からなかったわ。気付いたのは、もうちょっと後……キングさんが、殺されたとき」
 僕は、あのとき何があったかを思い出して、彼女の言葉の続きを聞いた。
「エースさんも薄々感付いていたとは思うけど、このゲームで使われたカードは全てクローバーの、それも連番」
 それは、僕も途中からそうだろうと勘付いていた。
「それさえ分かれば、あのときの違和感も簡単に見抜ける」
 キングが殺されたときの違和感――当然それは、カードにあるはずだ。
 キングが助けを請うて、小窓に置いた――。
「ああ……」
 そういうことか。
 僕は、本当に鈍い。
 クイーンは、僕の背後で既に気付いていたのだ。

 

 クローバーの8なんて、有り得ないことに。

 

「四人で二枚ずつ、合計八枚。そこにジョーカーを含めるのであれば、連番のクローバーは7で終わるはず。それが8まで存在するということは、八枚のクローバーが存在する中に、ジョーカーの居場所はないのよ」
 ちょっとした算数の引っ掛け問題に僕は見事に引っ掛かったのである。
「じゃあ、第二セットのときもジョーカーは……」
「なかったわね」
 最後だけでなく、第二セットの『プレイタイム』後、落胆してテーブルから離れなかった、あのときから僕たちはクイーンの一人芝居に踊らされていたのか。
「でも分からない。主催者側は、なぜジョーカーのない君に協力した?」
「何の問題もないことよ。主催者側としては、ジョーカーは入っていません、なんて言えないもの。だから、私がジョーカーを引いたって言ったら、簡単に手を貸してくれたわ」
 目には目を、嘘には嘘を――そんな手段をクイーンは……。
篭城作戦で乗り越えようとした、知恵のない僕とは対極にいる発想だ。
 いま、改めて思う。
 ジョーカーがなくて良かった、と。
 僕も、クイーンに殺されることはない。
 僕も、クイーンを殺すことはない。
 と、そこでまた、新たな疑問が浮かぶ。
 絶対に、解決しておかなければならない問題。
「ジョーカーがないとしたら……、キングとジャックを殺したのは誰なんだ?」
 ゲームのシステムが根本から破綻し、犯人がいなくなったのである。
「ジョーカーは、私たちの中になかっただけ。そして、ジョーカーが殺すというルールはちゃんと守られていた」
「……バンダナたちか」
 クイーンは、扉の方を一瞥した。
「キングさんが殺された時――小窓にジョーカーを置いたときの指を見たでしょう?」
 僕は、ただ頷く。それは黒い指だったと記憶している。
「黒は、手袋の色よ。私たちには、私物の持込みも一切許されていないし、そんなものは配られもしていなければ、部屋にも用意されていなかった。手袋を持っているのは、常に嵌めているバンダナたちだけ。あれは彼らの完全なミス」
 クイーンの推理を聞いて、僕は思った。
 参加者の誰かであれば警戒するが、バンダナたちが小窓の外に立っていたら、何かを伝えに来たのかと思い、まず疑いもなく扉を開けてしまうだろう。
「もう一つ、さっきの第三セットの『プレイタイム』が始まる前にも、彼らは早まったミスを露呈させた」
 彼女の意識は、常に広い範囲をカバーしている。僕など、自分にジョーカーが回ってこないことだけを考えていたというのに。
 クイーンは続けた。
「ジャックさんも彼らに殺された。尤も、バンダナたちは私とのショータイムが終わったあと、私がジャックを殺したと思っていたでしょうから、部屋に確認に行って生きていたのを見てびっくりしたでしょうね」
 だからあんな、急に襲われて、暴れたようにベッドから上半身を投げ出す格好で死んでいたのか。
 なおもクイーンの語りは続く。
「キングさんは外で殺されたから、あの場所で死んでいる、あそこにカードがある、って、すぐに判断できるけれど、ジャックさんは自室で死んでいる、カードが部屋のここにある、っていうことは、殺した人間でないと、あんなに素早い行動なんて不可能よね」
 憶測の域を出ないが――ジャックはクイーンの処刑映像を、やはり途中で見るのをやめ、さすがに衝撃を受けたであろう。しかしその後、安心して自室から出ようとした。そこでバンダナたちと出会い頭になり、慌てて室内に戻った……。
「バンダナたちが、二人を殺した……」
 ある筈のないジョーカーに翻弄された屈辱。
 日常よりもはるかに死を間近に感じる恐怖。
 愚鈍なりに生存への知恵を絞った末の疲労。
 僕の胸の奥で、綯い交ぜになった感情がドロドロに煮詰められ、バンダナたちへの憎悪が作られる。
「二人だけじゃないわよ――」
 クイーンが、握り返している手に力を加える。
「――あいつら、私たちを生きて帰すつもりなんて万が一にもないわ。三〇億なんて、端から用意していないでしょうね」
今もバンダナたちがジョーカーを持っている。
 第三セットの『ジョーカータイム』に入れば、また殺人行動に移ることは確実だ。
 僕か、クイーンか、あるいは二人ともが……。
 まだ、自分たちは窮地から抜け出せていないのだ。
 そう考えたとき、僕は急に時間が気になった。『プレイタイム』終了まで、あと五分くらいだろうか。
「どうすればいいんだ……」
「二人で死ぬ?」
 クイーンは、僕との距離を一歩縮めた。
 達観した、優しい眼差しで僕を見据えていた。
 死の間際でも、僕はこんな表情、こんな精神でいられる自信はない。
「それは、ダメだ」
 死んだら終わり。
 ここを乗り越えなければ、これまでの時間が水泡と化す。
「私は――覚悟は出来ているけど?」
 クイーンは僕の耳元に口を近づけ、囁いた。普段ならば胸騒ぎを抑えられない距離だ。
 そのとき、僕はクイーンのもう片方の手に、いつの間にやら黒い物体が握られていることに気付いた。
 これが――彼女の覚悟の化身か。
 彼女は、おもむろに二人の顔の間まで持ち上げる。
 銃口を見てから、クイーンは言った。
「あなたが――殺して」

 

  ――5――

 

 突然の銃声。
 三人のバンダナ男はきょろきょろと辺りを見渡して、お互い顔を見合わせた。自分たちではない。そうなれば簡単な消去法だ。音源はすぐに判断できた。
 三人のバンダナ男は素早くドアに近付き、うち一人はライフルをしっかりと構える。
 ドアを荒々しく叩く。間を置いて、もう一度。
 カチ、と音を立ててドアは開いた。
 ライフルを持ったバンダナ男が先頭になって、その後ろにもう一人のバンダナ男が付いて室内に足を踏み入れる。
「おい……何をしている?」
 くぐもった声のバンダナ男。
「もう、『ジョーカータイム』でしょ?」
「あ? ああ……」
 バンダナ男は、少し狼狽した口調になる。
「だから、これで私の勝ちよ。最後の……エースを殺したわ」
「…………」
 バンダナ男は沈黙した。
「彼、バカよね。私がジョーカーだって分っているのに、ここへ連れ込んだのよ。でも、ちょっといい男だったのも事実ね」
「……そうか」
「さあ、では賞金の話に移りません? 三〇億は、いつ戴けるのかしら?」
 クイーンの言葉に、間を置いてバンダナ男は大声で笑い出した。そして、
「残念だがクイーン、オマエは失格だ」
「……なぜ?」
「オマエがジョーカーでは有り得ないからだ。ジョーカーではないクイーンがエースを殺したのは、ルール違反だ」
「だって、エースもジョーカーを持っていなかったのよ?」
「はっ、あんな恐ろしい作戦を思いつくオマエを、もっとキレる女だと思っていたが、案外鈍いようだな」
「騙したのね?」
「まあ、オマエのおかげで一人分、手間が省けた」
「……私を殺す気?」
「失格にするだけだ」
「――最低」
「残念だったな」
「だったら――私もあなたたちを殺してあげる」
 ――今だ。
 ドアを素早く開けると、僕は風呂場から踊り出し、ずっと握り締めていたピストルをバンダナ男の頭部に狙いを定めた。
「だ――」
 赤バンダナが振り向いた瞬間を、撃った。
 乾いた爆発音が狭い室内に轟き、強い衝撃が腕まで響く。
 ちょうど、こめかみ辺りに命中し、寸分の猶予もなく赤バンダナは倒れ、痙攣し、やがて動かなくなった。
 不意を突かれた黒バンダナが、
「きさま!」
 と叫び、咄嗟に僕のほうにライフルを向けたが、その隙を逃さず、今度はクイーンが容赦なく発砲した。怒りの銃弾は、男の背中に命中した。なおも男はライフルを構えていたので、僕は再び風呂場へ身を隠し、そこから一発、顔面を狙う。クイーンのピストルも同時に火を噴いた。
 黒バンダナは、ゆらゆらとバランスを崩した独楽のように左右に揺れ、やがて膝を付いて、つんのめるように倒れた。
「エースさん、まだ外にいるわ」
 僕がドアノブに手を掛けたと同時に、外側からオレンジのバンダナ男も開けようとした。
 真っ先に襲われることを考えた僕は、無意識のうちに足が出ていた。キックがバンダナ男の腹にまともにめり込んだ。
 ぐ、と唸り、くの字に折れ曲がったところを、僕は腰に差していたナイフを抜き、横腹に振り下ろした。呆気ないほどに刃先は肉を裂き、体内へと突き刺さった。
 背後で、また銃声。クイーンがとどめを刺しているのかも知れない。僕は振り向かずにそう思うと、苦しそうに倒れこんだバンダナ男の脇に立った。どうやらこいつは、ピストルのような飛び道具は持っていない様子だった。
「エースさん――」
 少し返り血を浴びたクイーンが、僕の隣に立った。
「――こいつは、殺しちゃダメよ」
「わかってる」
 ミミズのようにのた打ち回っているバンダナ男の傍にしゃがみこむ。
「ここの鍵はどこだ? 誰が持っている?」
 バンダナ男は、肩で荒い呼吸を繰り返しながら、片方の手をズボンのポケットに入れた。そして取り出したのは、一本の銀色の鍵だった。
「これで、頼む……助けてくれ……」
 僕に鍵を手渡す際、バンダナ男はそう懇願した。
 その願いは、とても滑稽に聞こえた。
「……頼むよ」
 ふざけるな――僕は心の中で叫んだ。
「たのむよ」
 言葉が弱弱しくなっていく。
「自分の窮地は、自分で切り抜けてみろよ」
 僕はそれだけ言って、ゆっくりと立ち上がった。そして黒い扉に向かう。鍵穴はすぐに見つかった。果たしてこれが合うのか、という不安はあったが、それはすぐに雲散した。
 心地よく響く、ロックが解除された音。
 これで、死の呪縛から解放されるのだ。
 三〇億なんかよりも、もっと価値のあるものが、この先にある。
 それは――生きる、ということ。
 僕は振り返って、クイーンに笑顔で頷いて見せた。

 

  ※※※※

 

 光に向かって、暗く長いトンネルのような道を行く。
 一〇〇メートルはあるだろうか。一番奥には遮るものがなく、円形に光が集まって、僕たちに「ここを目指せ」と訴えていた。
 途中に二箇所、扉があった。そのうちの一つの前でクイーンが足を止め、
「ここが擬似処刑のスタジオよ」
 と、声を響かせた。彼女は扉を開けようとしたが、鍵が掛かっていた。
「出口がすぐそこなのに、逃げようとは思わなかったのか?」
「そうね、その気になれば逃げられたわね。でも――なぜだろう。逆方向に戻っちゃった」
 クイーンは、再び歩きだした。
 出口に辿り着くと、二人は光の中に飛び込むようにトンネルを抜けた。
 そこは――樹海のような景色が広がる林の中だった。当然、記憶のどこにも残っていない光景だ。無理もない。ゲームに参加した際には、集合場所から目隠しされ、車で揺られて、次に見たら、もうあの冷たい空間に放り込まれたのだから。
 僕とクイーンは、踏み均された形跡を辿っていった。樹木の密度は徐々に減り、枝葉に遮られていたオレンジ色の光が二人を照らし始めた。夏の太陽はしぶとい。
 やがて、一台のジープが眼前に停まっているのを発見した。おそらく、あのバンダナ三人組が乗っていたものであり、僕たちがここまで連れてこられた護送車だ。
「鍵がささったままよ。これで行きましょう」
 所持品がないので免許証も持っていなかったが、僕が運転席に乗り込み、エンジンをかけた。ガソリンはある。アクセルを踏むと、問題なくタイヤは土の地面を擦り上げながら動き出した。
 僕は通った形跡を見逃さないように徐行で進む。
 いつ終わるとも分からない、未舗装の山道。
 時には光を受け、時には陰に包まれ……。
 まるで人生のようだ――と、僕は思った。
「これからどうするの?」
 クイーンが訊ねてきた。
「やっぱり……警察に行くべきじゃないかな」
「現実的な答えね」
「クイーンは、どうする?」
「そうね……エースと一緒に警察へ行こうかしら」
 本音ではないとしても、僕は少し嬉しかった。その照れを隠すように、僕は話題を変える。
「そう言えば……お互い、まだ名前を知らないね」
「いいじゃない、知らないままで。クイーンって私、結構気に入ってるし」
 クイーンは、そう言いながら上品に笑った。
「そうか、ちょっと残念だけど」
 僕も微笑む。そして彼女の笑顔を見ようと、助手席の方を見遣った。
 クイーンの整った横顔、黒のワンピース、すらりと細い腕、その先、手は膝の上で携帯電話を持つような形で組まれている。
 その手には、一枚の四角い紙切れが大事そうに包まれていた。
「あ……」
 自転車に乗ったキングの絵柄。
《PLAY OLD MAID!》のプリント。
 絵柄の上には、「JOKER」と書かれていた。
 このゲームで最も重要な役割を果たす、そのカード。
 思えば――目の当たりにしたのは、これが初めてだ。
「最初に撃ち殺したバンダナが持っていたの。記念よ」
 ジョーカーを持った者が生き残っている。
 片や、ジョーカーを一度も手にしなかった者が死んでいった。
 ゲームと、逆の現象が起こっている。
 ――皮肉なものだな。
 僕は、そう思った


 

Copyright (c) 2007 檜垣晋祐 All rights reserved.



競作6トップへ戻る