*** 登録作家+アルファによる小説競作 ***

 6
窮地で始まるミステリに挑戦!


已むを得ず、無題



1、Re レッドラム・マ・イ

 制服に身を包んだ警官が俺を見ていた。それは疑惑以外のなにものでもなかった。
「どういうことだね?」
 その手は肩口の無線機に置かれていた。
 ――どういうことか? だって?
 俺が知りたい。
 俺は小言をバラバラと撒き散らす親を無視するみたいに目をそらした。その、開かれたドアの向こうへ。
 空気が悪いのは仕方がない。部屋は半地下室だった。薄汚い打ちっぱなしのコンクリートの壁が閉塞感を煽るのだ。
 俺と警官、ユウリの三人は部屋に入ったすぐのところで馬鹿みたいに立ち尽くしていた。
 俺たちを呆けさせるもの。それは無残な肉塊だった。どうしようもない、それは抜け殻だった。部屋に足を踏み入れて左手前の隅、そこに男は転がっていた。まるで打ちひしがれた人間みたいに上半身を部屋の隅に押しつけ足を投げ出してしょげ返っていた。
 その死体は頭からゴミ袋が被せられていた。死に顔を隠す。
「どういうことだね?」
 戯言みたいに繰り返すのは、死体恐怖の震える声。
 俺は頭を抱えた。ユウリが俺を見ている。その眉間に刻まれた皺の深さは、疑いの奈落に通じていた。
 そんなはずはないのだ! 俺は殺してなんかいないのだ。
 そうやって俺は叫び出したかった。だが、喉の奥から搾り取れるのはただただ細い溜息のみだった。
 俺の手の中では、この部屋の鍵が他人事みたいに僅かな音を立てていた。
 俺がこの部屋の施錠を解いた。
 死体が、現実逃避でもするみたいに部屋の隅に座り込んでいた。
 部屋を見渡す。
 ドアの正面の壁。天井に近いところに横に細長い窓がついていた。窓は閉まり、クレッセント錠が下りているのが見える。しかし、問題はそれではなかった。窓自体が小さいのだ。部屋の右手の壁には、これまた高いところに換気扇がついていた。沈黙している。そして、その下の床には驚くべきことに迷彩柄のバンダナが落ちていた……。
 部屋は密室だった。
 誰が殺した?
 俺は縋るみたいにユウリの顔を見た。ユウリ。俺の初めての恋人だ。
 いまこのとき、この場には無表情しかなかった。

 捕囚だった。
 俺は抵抗も反論も意識に上らないままに警察署へ連行されていた。ユウリは混乱しながらも、警官の制止を無視して俺に付き添って車に乗り込んでいた。
「何が……起こった」
 署への道の途中、俺の口からようやく発された初めての言葉はそれだった。
「ソウジ、しっかりして」
「夢でも見てるみたいだ」
 あの部屋の前で警察の応援が殺到する様は、連続写真のようだった。何人もの人間が部屋の中へ飛び込んでいった。俺は部屋の外で無数の質問の弾丸を浴びせられた。
 気付けば車の中だ。
「知らないんだ」俺は喪失した現実感の中で虚ろに口を開いていた。「ユウリには話したな。いきなり四人組に襲われて……、あの部屋に監禁されて……。脱出して……、お前の許に行って……心配だったから……。……こんなのは嘘なんだ。嘘なんだ……絶対」
「うん。聞いたよ」
 ユウリはそれだけを言って俺の手を両手で包み込んだ。温かく柔らかいその手は俺を徐々に現実へ引き戻していった。

 取調室だった。
 俺の目の前に刑事が座っていた。部下らしい男が入ってきて書類を刑事に手渡した。
「どうして殺した?」
 口調は柔和だった。しかし、根底には禍々しい針が鈍い光を放っているようだった。
「殺してなんかいない」
「動機は監禁されたことへの報復」刑事は俺の心の中を覗き見するみたいに切り出した。「被害者には脇の下と顎に打撲傷があった。先ほど調べたとおり、君のジーンズの膝の部分から被害者の唾液と血液が検出された。君は被害者の顎を膝蹴りしたんだ。相手が気絶した隙に君は殺害を行った。――凶器は君が店から盗み出したものだ。君の指紋も検出されている。あの包丁で君は被害者を刺した。そしてそれが内臓にダメージを与え死に至らせた。――現場は密室だった。窓は人間の出入りできるものじゃない。換気扇も人間が出入りできるような隙間はない。唯一の鍵は君が持っていた」
 俺の前に堆く積み上げられていくもの。それを、ただ見上げていた。
 刑事は椅子の背凭れに身を委ねた。手にしていた書類を、俺たちを隔てる机の上に放ると、深い溜息をついた。
 俺にはこの男の次の一言が予想できた。
「君だったな」感慨深げに刑事は口を開いたのだった。「あの少年グループ《アイコノクラスト》のメンバー一人の逮捕協力の件で、署長賞を受けたのは」
《アイコノクラスト》は少年らによる犯罪グループだ。メンバーは中高生で構成されるといわれている。俺より若い連中がそうして世間を騒がせていた。
 それはひょんなことだった。
 自宅近くの公園で中高生の集団が密かに犯罪計画を話しているのを偶然から聞いたのだ。その連中が《アイコノクラスト》であったことは後から知った。俺はすぐに警察へその情報を伝えたのだ。警察はこの情報をもとにメンバーの一人を確保。俺は逮捕に関わった情報提供者として署長賞を授与されたのだった。
「今回の被害者は《アイコノクラスト》のメンバーの一人だった。君はこの少年グループを摘発し、最後には殺してしまったというわけか……」
「違う」
 俺は自分の身の潔白を示したかった。だが、どうすればいいのか分からなかった。
 あの囹圄のような部屋を思い返すと、脳髄が麻痺して思考が棒立ちになってしまうのだった。あの状況は一体なんだったのだろうか……。なぜあんなことが可能なのか。
 俺の頭にはある都市伝説の一篇が去来していた。『敗残兵の蛇男』だ。蛇男は普段は人間だが、蛇に姿を変えることができる。その姿ならば、あの換気扇の隙間を使って部屋を出入りすることができるではないか……。
「君は、社会悪を罰したつもりかもしれない」
 刑事は机の上に両肘を乗せて俺のほうへ体を傾けていた。その目は断罪の響きを湛えていた。俺は相手を力なく見つめ返していた。力なく――。
「だが、貫きすぎた正義は、自家製の大義名分に過ぎない。君はもはや正義の徒ではないのだ」
「俺はやっていないんだ……」
「君は今回の殺人に先立って、凶器である包丁を盗んでいる。その店に残っていた監視カメラの映像を見たよ。君の手際は、こう言ってはなんだが、随分小気味のいいものだった。あの映像自体が君の罪を雄弁に物語っているのだ」
「あれは仕方なかった!」俺は声を絞り出していた。「やらなきゃ、ユウリが危険だった!」
「聞いたよ」
 その冷淡な応答。
 刑事は署に同行してくれたユウリに対しても事情聴取を行っていた。
「君は《アイコノクラスト》のメンバーに強要されたんだと。だが、そんな証拠はない。妄言であるといってしまえばそれで終わりなのだ」
 そうだ。
 俺の頭がようやく回転を始めた。ここに至るまでの出来事の数々が脳裏のスクリーンに投影され始めたのだ。
「俺を拘束したのはその《アイコノクラスト》の四人のメンバーだった。殺されたのは、その内のひとり。きっと仲間割れか何かで――」
 動き出す。投影機が。
 俺の意識は、そう、時空を遡行していった。
 あれは、ほんの数時間前のことだったんだ。

2、スタートQT

「窮地で始まるミステリ」だと。
 俺はパソコンのディスプレイの前で途方に暮れていた。
《電脳ミステリ作家倶楽部》のトップページにはテーマが決定したこと、そして募集期間などが掲載されていた。
 都市伝説じゃなかった……。
 俺の住む町には実しやかに囁かれる話があった。『敗残兵の蛇男』だ。
 数年前にこの町のある家で起こった殺人事件。現場は密室だったのだ。外界と接していたのは小さな天窓だった。天窓はほんの数センチだけ開くようになっていたが、人間がそこを通って部屋を出入りすることは出来ないのだ。そして、ある人が調査をしたところ、事件の前夜その家の前で不審な人影が目撃されていた。それは、全身を迷彩服で固めた不気味な男の姿だった。男はこれから事件が起こるであろう家をじっと見つめていたのだという。そして、その目は爬虫類の目をしていたのだ……。事件現場の密室内からは迷彩柄のバンダナが発見されていた。警察はそれを手がかりに事件の捜査を開始したが、結局犯人は見つからなかった。そして最後に残された結論は、迷彩服の男が蛇に姿を変えて命を奪うというものだった。爾来、男を見た者はなく、今もどこかで獲物を探しているかもしれないという……。
 この都市伝説を基にミステリが一本書けそうだったのに。だからそれに投票したのだが、大差で「窮地で始まるミステリ」となってしまった。
 どうしようか……。もう九月二十九日。余裕がない。
 俺は《電ミス》のロゴを見つめていた。
 将来は推理小説家になりたかった。だから、この倶楽部に入会したのだった。今年は就職活動の年だった。だが、何もせずここまで来てしまった。気がつけばノートに小説のネタをメモしていたりする。そんな日々の中で、しかし、実家の親からのプレッシャーが気ままな生活を許さない。俺の中を焦燥感が駆け巡っていた。
 いっそのこと、大学在学中に小説家デビューできれば……。
 それが現実逃避だと言われれば、そうだろう。しかし、本気だった。そのためには、ここで挫けるのは敗北を意味することになる。
 俺は腕組みして考えていた。作品の募集期間は今月いっぱいまで。他のメンバーのHPなりブログなりを見てみると、「既に完成した」だの「推敲だけだ!」などという文字が躍る。それが焦りに拍車をかけた。
 どうしようか。
 そのときだった。携帯電話が鳴った。着信は湯根山ユウリ。先日出来た俺の初めての彼女だ。瞬間、意識から競作は消え去った。携帯に飛びついて声をかけた。
「はい!」
「あ、ソウジ君――」
 いつもと違って声が低まっているような気がした。
「どうした? 元気がないみたいだけど」
「あ、うん――」
 彼女はなかなか切り出そうとしない。俺はこういうときどうしたらいいか分からないから黙ってしまう。嫌な予感はふつふつと沸いて出る。俺は心配性な人間だった。
「ちょっとさ」ユウリの声が俺を我に返らせる。「ウチに来てほしいんだ……。大切な話があるからさ……」
「大切な話? 電話じゃダメなの」
「ごめん。来てほしいんだ」
 俺は迷うことなく返事をした。
「分かった、行くよ。待ってて」
 何の話だろうか。また予感が首を擡げる。
 まあ、いいさ。行けば分かる。アントニオ猪木だってそう言ってる。

 ユウリの家は俺の家から歩いて十分くらいのところにあった。
 彼女との出会いは、町で偶然に彼女から声をかけてきたときだったが、こうして互いが近傍に住んでいるということが運命的な心持ちを与えていた。
 俺は自然と速まる足に時間を預けてユウリのことを考えていた。
 ユウリは素晴らしく人目を引くルックスの持ち主だった。小顔でスタイルがよかった。端的に言うと、榮倉奈々を髣髴とさせたが、あれをもう少しコケティッシュにした感じの女の子だった。しかし、彼女は見た目に似合わず随分と控えめでお淑やかだった。あまり自信を持っている風でもなかった。俺はそこが好きだった。守ってやりたいと心の底から思うような――そう思わせるような魅力が彼女にはあった。それに彼女には理解力があった。先ほどの競作の話も、『敗残兵の蛇男』にまつわるミステリの完成を心待ちにしているようだった。もっとも、今回はテーマを外されてしまったのだが。
 彼女は俺より歳が五つ下だった。高校生なのに、一人暮らししてすごく真面目な子だ。そのためか、見た目も大人っぽい。背の高さもそれを後押ししている。彼女と並べば俺など見劣りするんだろう。俺の友人にはまだ彼女のことを話していなかった。来週、仲間と遊びに行く際に彼女をお披露目することになっていた。あいつ、驚くだろうな。
 思わずにやにや笑いがこみ上げてくる。
 しかし、そうした幸せの時間のあとに、神様はバランスを計って不幸を配置しているのかもしれない。
 ユウリの家まで道程あと半分というところ。少し寂しげな路地だった。前方に四人組の男が立っていた。高校生くらいだろうか。それが二人して行く手を阻むかのように仁王立ちしていた。その眼は紛れもなく俺に注がれていた。嫌な予感がした。
 関わり合いにならない方がいい。しかし、俺が躊躇する間に二人がこちらへ歩いてくる。
 二人は俺とすれ違った……。と思った。
 俺は囲まれていた。包囲の中には脇道はない。前方の二人が目を獣みたいにして向かってくる。ひとりが口を開く。
「霧島ソウジ」
 俺の声は少し震えていた。
「ここは道だったな。通してくれ」
 強がるしかなかった。頭の中には《アイコノクラスト》という言葉が浮かんでいた。
 突然俺は背後から羽交い絞めにされた。
「グッ! ――何すんだ!」
 力が強い。俺は瞬間的に恐怖が沸騰するのを感じた。殺されるかもしれないと思った。
「言うとおりにしろ」
 拘束される俺の目の前に立って、男が言った。
「は?」
 意味が分からなかった。しかし、俺がこう漏らした途端、腹に強い衝撃が走った。鳩尾に男の拳がめり込んでいた。
 俺は息もできないまま崩れ落ちそうになった。だが、体は押さえつけられて人形が立つみたいにしていなければならなかった。
「言うとおりにしろ」
 それは二度目の命令だった。有無を言わせない威圧感。
「な、んで」
 俺はようやく口が動かすことが出来るようになっていた。途切れつつそう聞くと、襟首を掴まれて顔を無理やり相手の方へ向けさせられた。
「いいか。これから俺たちの言うことを聞け。さもないと、お前の大切な人がひどい目に遭うぞ」
 その言葉がもたらしたのは、ユウリのイメージだった。
「お、お前らっ! あいつを――!」
 変だと思ったんだ。ユウリの、あの、今にして思えば怯えたような声。ユウリはこの男たちの仲間に捕まっているのかもしれない……!
 しかし、なぜ?
 その理由にも俺は思い当たっていた。
 署長賞だ。俺の情報で逮捕された少年は《アイコノクラスト》のメンバーだった。この男たちはあの少年グループに属していて、俺に報復しようとしているんだ。
 もう俺にはなす術がなかった。せめてユウリが無事であってほしいと願う。
 俺は弱弱しく頷いた。
 それは俺の意識の中に入り込んだ恐怖の悪魔が命じた所作。
 そして運命の女神フォルトゥーナが、俺を地獄のような線路へ投げ込んだ瞬間であった。

 俺が連れ去られたのは、後にあの忌まわしい事件が起こる薄汚い半地下室だった。
 俺は部屋の中に蹴り入れられた。部屋は随分長い間使っていないような印象だった。物が乱雑に置かれていた。あるいはただ散らばっていただけかもしれない。ただ、ハサミやタコ糸や方眼紙、色紙などがある様はここが昔事務倉庫か何かに使われていたのではないかと思わせた。封の切られていない二十枚入りのゴミ袋や、埃に塗れて潰れかけた段ボール箱から覗くボールペンの入った白い箱、床には汚れた白い紙が張り付いていたりした。調度類は姿がなく、俺はその部屋の中央にみっともなく横たわっていた。部屋を見回す。半地下のために窓は天井の近くに小さなものがついているだけだった。とても届きそうではないし、もしそれが叶っても頭すら通らないだろうと思われた。俺の後方の壁の天井近くには換気扇が穿たれていた。その隙間から、夜の帳が下り始める外の光が漏れ入って来ていた。そこもとてもじゃないが、脱出口となりそうではなかった。換気扇の枠はすっかり錆び付いていた。そこから床の方に向かって伸びる錆びの跡が、俺の心の中に流れる様々な感情を宿した涙の
ように見えた。だから、俺は今もこうして冷静に部屋を見ていられるのだろう。
 俺を見下げる四人の男の顔。俺は一生その冷酷な表情たちを忘れないだろう。
「まずお前にやってもらいたいことがある」
 さっきから口を開くのは一人だけだ。蛇みたいな印象の男。常に口の端に残酷な笑みを浮かべていた。眼光は鋭く、その痩身から発される負のオーラは黒々として俺を取り込もうとする。
「サン・ホームセンターへ行って包丁を盗んで来い」
「な、なんだって?」
 俺の背中に容赦ない蹴りが入る。咳き込む俺に蛇の男が唾を吐きかけるみたいな口調で言い放った。
「言うことを聞け」言外には人質の安否がちらついていた。……ユウリ。「盗んで来るんだ。『分かった』以外の答えは許さない」
「わ、分かった……」
「よし。――お前ら、こいつを立たせろ」
 三人が俺をマネキンみたいにして持ち上げて乱暴に直立させた。俺は玩具のようだった。蛇の男は顔を近づけて言う。
「いいか。二人がお前を監視してる。変な真似をすれば、お前の大切な人は死ぬことになる。分かるな」
 俺は黙って頷いた。
「包丁をひとつ盗め。絶対にばれるな。捕まりそうになったら全力で逃げろ。万が一捕まった場合は、俺たちのことを話すのは許さない。分かっているな」
 分かっているな――こいつはユウリのことを言っているのだ。俺には頷く以外の選択肢を取り得なかった。

 太陽は地平線と戯れている。
 町は明かりが満ちていた。サン・ホームセンターは太陽をモチーフにしたキャラクターを看板にしていた。コジマ電気みたいだ。俺はその前に立って、心を落ち着けていた。俺のすぐ後ろでは四人組の内の二人が侍していた。あとの二人はあの部屋で待っている。
「行け」
 背中を小突かれて俺は店内へ足を踏み入れた。客入りは少なかった。明るい白色照明が、俺の心の内を透かしているようで、怖かった。
 調理器具のコーナーは、レジのすぐそばにあった。近年の世相を反映して目の届く場所に置くようになっているのだろう。俺は焦った。
「これじゃ、ばれる」
 小声で後ろの二人に言った。返って来たのは完全な無言だった。俺とは無関係を装っているのだ。……ふざけやがって――!
 俺は天井を見回した。レジのそばに監視カメラがある。このコーナーも少し視界に入っているだろう。店員の姿はレジの中にひとつ。まだこちらに気付いていないようだった。白髪の目立つ中年の痩せた男。せっせとレジの中で何か作業をしていた。客の姿も近くにはなかった。俺は包丁のひとつをそっと手に取ると、シャツの中に仕舞いこんだ。すぐに走り去らない。俺は平静を装ってレジの方へ向かった。後ろの二人はそわそわとしていた。レジの男が俺の姿をはじめて認めた。俺はレジの前を通って店の外へ出た。
 怪しい素振りはしなかった。
 怒鳴る声もない。俺は背後に二人を従えて、町の雑踏へ紛れ込んだ。

 あの闇の半地下室へ戻る。
 待機していた蛇の男ともうひとりが俺を中に引き入れるとドアを閉めてしまった。
「意外と早かったな」
 蛇の男は俺から包丁を受け取ると、ひやりとした笑みを浮かべた。
 と、そのときだった。
 俺のポケットの中で携帯が鳴ったのだった。
 瞬時に俺の頭の中にユウリの顔が浮かんだ。だが、彼女は捕らえられているはずだった。そして、目の前の四人が携帯を取り上げなかったことに今気が付いたのだった。
 四つの視線を受ける。携帯を取り出す。蛇の男がさっと俺から携帯を奪い去る。
「はい――今隣にいる。お前にだ」蛇の男は受け取ろうとする俺に顔を寄せる。冷血な眼が俺を射抜いていた。「余計なことは喋るな」
「もしもし……。ああ、ユウリ――無事か?」
「え、なに、どういうこと? 今のは?」
 ユウリの反応はおかしかった。《アイコノクラスト》のメンバーに捕らえられているとは思えないような、普通の声の調子なのだ。
「捕まったんじゃないのか」
「何言ってるの。それよりいつウチに来れるの? ずっと待ってるんだけど……」
 なんということだ。ユウリは捕まっていなかった。
 ちらりと男たちを見る。やつらは笑っていた。騙されたのだ。
 胸の中に安堵の波が押し寄せる。同時に怒りが俺の中に満ちていた。助けを求めようとした俺の喉元に、静かに包丁が突きつけられた。蛇の男の目は殺気を放っていた。
 もう最後の手段だった。
「I’m gonna be late(遅れる)。ごめん」
 四人は身構えた。しかし蛇の男はすぐに平静を取り戻して余裕の笑みで言った。
「英語だから分からないと? 理解できているぞ。変な事を喋れば殺す」
 包丁の柄を握る手が白みを増した。力が込められているのだ。
「どうしたの、急に英語で」
「いいから」俺は携帯から顔を離すと弁明した。「彼女は英語を主に話すんだ」
「今どこにいるの?」
「On the way to you(行く途中だよ)。すぐに着くから」
「別にいいけど……。待ってるから。大切な話なの」
「ああ。……その話って、掃除を手伝ってほしいとかじゃないよな」
「違うよ」ユウリの口から笑いがこぼれた。よかった。「あ、でも雑誌とか本がいっぱいで……」
「だから言っただろ」俺はこの会話の流れに感謝した。「Rope your books(本は縛っておけって)」
「うん」
「じゃあ……すぐ行くから」
 俺は頼みの綱を投げて電話を切った。
 蛇の男はすぐさま携帯を取り上げると、部屋の隅へ叩きつけた。
 ユウリと付き合い始めたときに買い換えた新しいものだった。それがめきっという音を立てて転がった。なんつーことを。
「お前にはこの部屋でやってもらうことがある」
 蛇の男は包丁を隣の仲間に渡すと、ズボンのポケットから紙片を取り出した。それを一瞥して紙を半回転させると俺に突き出した。
「この暗号を解け」
 それは奇妙な記号列だった。
「なんだ、これは?」
「質問は許さない。お前がやるべきことは、暗号解読だけだ」
「こんなことをしてただで済むと思ってるのか?」ユウリが無事だという事実が俺の気を楽にしていた。「じきにお前らは逮捕される」
 蛇の男は鼻で笑った。
「それは面白い。せいぜい頑張ることだ。――ダイスケ、見張りに立ってろ。こいつが暗号を解くまで絶対に外に出すな」
 ダイスケと呼ばれた男が小さく頷く。
「鍵を預けておく。お前は部屋を施錠してドアの外で待機しろ」
 蛇の男は鍵と共に包丁を手渡した。
「分かった」
 三人の男はダイスケを残してぞろぞろと部屋の外へ消えた。
 ダイスケも部屋の外へ。ガチャリと音がして、ドアノブの施錠ツマミが横倒しになった。内側からは容易に鍵を開けられるのだ。いざとなれば、正面突破で脱出するしかない。それにユウリにはSOSを出しておいた。いつまで経っても俺が到着しなければ不審に思って、どこかへ連絡が行くはずだ。
 俺の前には暗号の記された紙が残された。(参照1

3、デコード≒ブリタニカコピー

 見れば見るほど奇妙な記号群だった。蛇の男は丁寧にも俺に上下の向きを示したと見える。わざわざ自分の目の前で紙を半回転させて俺に手渡したのだ。記号は釣り針のような鉤型が多く見受けられた。俺はこれを《釣針暗号》と名づけることにした。
 いや、しかしなによりの優先事項はこの部屋から脱出することだ。
 俺は暗号の紙をポケットへ仕舞うとドアを叩いた。もしかしたら外には誰もいないのではないかという希望が少しだけ――まさしく針の先端ほどだけあった。
「出してくれ」
「黙れ!」
 向こう側からドアが蹴られ、大きな音がした。
「頼む。彼女が待っているんだ」
「静かにしてろ。……分かってくれ。お前を逃がすわけにはいかないんだ」
 意外な言葉だった。何か押し殺したような声なのだ。
「ダイスケといったな」これは押すしかない。「君もこんなことはやっちゃいけないって思ってるはずだ。頼む、出してくれ。一緒に警察へ行けば大丈夫だ」
 しかし、ドアの向こうから返答はなかった。思わず施錠ツマミに手が行く。開錠すると同時に向こうから叫ぶ声がした。
「ふざけんな!」すぐさまロックがかかる。「もう下手なことは出来ないんだ! 大人しくしてろ!」
「頼む!」
 だが、しかし、ダイスケはそれきり俺の言葉に答えることはなかった。
 俺は諦めて床に腰を下ろした。固く、冷たい。俺はすべてに見放されたような気持ちに陥った。仕方なくポケットから《釣針暗号》を取り出す。あいつらが俺に解読を強要したというのは、おかしなことだった。やつらはどういった経緯でこれを手に入れたのか。また、これを書いたのは誰で、何を記したのか。
 俺の脳内に疑問符が次々と沸き上がってくる。
 暗号を解読するには、鋭い観察眼と閃きが必要だとサイモン・シンは言っていた。
 じっと暗号を見つめる。
 記号の種類は二十六をゆうに超えている。これは《釣針暗号》が日本語で書かれていることを意味する。どうやらローマ字表記ではないらしい。日本語で、その表記法ならば、「子音→母音」という基本構成が立ち現れるのだ。つまり、母音に使われている記号は頻出し、それが五種類であればA、I、U、E、Oのいずれかだとすぐに分かるはずなのだ。
 さらに見ていくと、すべての記号が六種類に分けられることに気付いた。
《第一》は、釣針の形が記号の右側にのみ見られる場合だ。釣針は針の先端を上方にしてひとつだけが現れている。
《第二》は、《第一》とは反対の向きのものだ。つまり、上向きの釣針は左側にのみ見られる。
《第三》は、上向きの釣針が両端から出ている場合だ。
《第四》は、右側には上向きの釣針が、左側には下向きの釣針が出ている場合だ。
《第五》は、《第四》の反対。すなわち、右側には下向き、左側には上向きの釣針が出ている。
《第六》は、既述のものとは一線を画していた。これはただの横棒で、釣針は見られない。
 この六種類の他に釣針以外の形状があって、この二つが組み合わさっているようだ。日本語であることを考えれば、五十音になるのだろうか。
 これらの観察が何を意味するのか。《第六》が暗号中にはごく小数のみ見られる。俺はこれを「ん」であると仮定した。それならば、他の五つの場合に納得の行く説明がつけられるのだ。つまり、他の五つの場合――《釣針の五種類》はそのまま母音の数と一致するのだ。あとは釣針以外の形状の違いが行を指定しているのだろう。問題は、《釣針の五種類》のなにが何の段を示し、釣針以外の形状のなにが何の行を示しているかだった。
 子供の頃に、小説の一ページに出てくる「段」の文字数を数えたことがあった。確かホームズ物の短編だったと思う。そのときは「あ段」が一番多かった。他は頻度は拮抗していた記憶がある。
 とりあえず、何か出来ることをやらねばならない。《釣針の五種類》に対応する記号数を数えてみるしかない。俺はこの部屋に閉じ込められながらも、ユウリが無事だったという事実を頼りに、随分と冷静さを取り戻していた。
《第一》が一番頻度の高い記号だった。四十三個だ。《第二》、《第三》は共に三十五個。《第四》が三十九個で、《第五》が一番少なく十七個となった。
 子供の頃の頻度検出を頼りにすれば、「あ段」は《第一》となる。しかし、一番頻度の少ない《第五》は一体どの段を表しているのだろうか。あまりにも他と差がつきすぎている。
 俺は《釣針暗号》の紙を投げ出した。溜息が漏れる。ダメだ。これ以上は何も分からない。「ん」が分かったとしても、その数自体が五個と非常に少なく、そこから他の文字を推測することなど不可能なのだ。同じ記号の並びを調べれば、また何か出てくるのかもしれなかったが、今の俺にはそこまでの気力はなかった。
 曇りガラスの小さな窓を見上げる。すっかり外は暗くなっていた。ユウリは俺の異変に気付いてくれただろうか。あのメッセージを読み取ってくれただろうか。今頃は警察に連絡が行っているだろうか。
 静かだった。
 俺はダイスケという見張りがまだいるのかどうか確かめるために叫んだ。
「おい、出してくれ! お願いだから!」
 ドアが蹴られる。見張りはまだ張り付いているようだった。
 ここで大声を出しても通行人に声が聞こえるかどうかは微妙なところだった。この部屋を擁する廃ビルは路地の奥まった場所にある上に、その路地は人通りが極端に少なかった。もしかすると、少年グループの縄張りという意識が近隣の住民にあって、それが人を忌避しているのかもしれなかった。
 俺は惨めな気持ちで床に放った暗号を見つめた。今は暗号はそっぽを向いたように上下反転していた。
 そういえば。
 なぜあの蛇の男はこの暗号の向きが分かったんだろうか。暗号を手に入れた際に暗号の向きだけが分かるということなどあるだろうか。また、向きだけを聞き出すなどということがあるだろうか。向きも聞いたのならば、そしてその相手(暗号の持ち主)が喋ったのなら、暗号の内容まで知っていて当然ではないだろうか。なぜ向きだけを知っていた?
 俺は高まる鼓動を胸に《釣針暗号》の紙片を拾う。
 もしかすると、蛇の男はこの暗号の内容を知っている? しかし、なぜ俺に解読を強要したのか。
 俺は脳味噌の回転を早める。今まで自分が冷静だと思ったのは飛んだ思い違いだった。これまでの出来事はおかしなことばかりだったのだ!
 なぜあの四人組は俺に包丁を盗ませたんだ。
 なぜ俺なんだ。
 なぜ見張りを一人残して他の三人は去ってしまったのか。
 なぜ四人組は途中まで俺から携帯電話を奪い取らなかったのか。
 包丁は何に使うつもりだった?
 分からないことだらけだった。俺の状況を客観視してみれば、俺はホームセンターで包丁を万引きした窃盗犯だ。四人組は包丁を欲しがっていた。包丁は調理器具だが、それを持つのが少年グループのメンバーだとすると、瞬間的にそれは凶器へと変貌する。奴らは凶器を欲しがっていた? しかし、それを俺に盗ませた。
 俺を罠に嵌めた?
 しかし、そういえば、蛇の男は去る前にダイスケに包丁を渡していた。ということは、出て行った三人は包丁を必要としていないということか。俺の動きを牽制するための凶器として包丁を? しかし、それはあまりにもおかしい。
 そして、なぜ俺に暗号解読を強制したんだ。
 今まで分かったことから、どうやら奴らは暗号の内容を知っているかもしれないようだ。つまり、暗号を解読する必要はない。
 そこまで考えて俺の頭の中に去来したのは恐ろしい計画の存在だった。
 ブリタニカの複製なのだ。あの有名な短編。俺はもしかすると、奴らの計画の一端を背負わされているのかもしれない。もし、俺が盗まされた包丁が何かの事件の凶器として用いられたとしたら、その出所から俺に疑いの目が向けられるだろう。すべての証拠が俺を犯人だと物語る……。それは恐ろしい姦計だった。
 どうにかして、この部屋から脱出しなければ。
 俺は《釣針暗号》の紙をポケットに仕舞いこんで、打ち捨てられた携帯電話を回収。まずは窓を調べて見ることにした。背伸びしてようやく届くほどの高所に窓はある。クレッセント錠が遠い。足場になるものが部屋の中にはなく、とても窓を開くことはできそうになかった。この調子では換気扇の方も絶望的で、これら二つの外界への道はひどく不親切に、そして閉鎖的に配置されていた。となると、脱出口はドアひとつのみだ。
 これは賭けだ。
 俺は蹲って出来るだけ苦しげに声を上げた。
「うっ……!」
「どうした?」
 怪訝なダイスケの声がドア越しに微かに聞こえた。俺はもっと大きな呻きを上げた。
「ぐえぇ! 痛い!」
 すぐさまドアノブの施錠ツマミが回転して縦になった。ダイスケはのた打ち回る俺の姿に目を丸くして、駆け寄ってきた。右手に包丁を持っている……。
「どうしたんだ!」
 俺は相手がさらに混乱に陥るように憎悪の念を込めた視線でダイスケを睨みつけた。
「お前ら……よくも、やりやがったな……!」
「な、なんだ?」ダイスケはあたふたしている。「知らない。俺は知らないぞ!」
 それは完全なる隙だった。
 俺は横たわりながらも、ダイスケの脇の下めがけて固く握った拳を叩き込んだ。
「ぐえっ!」
 くぐもった悲鳴を上げて包丁を取り落とす。ダイスケは口を半開きにしたまま真っ赤な顔に玉の汗を浮かべて倒れ込んだ。俺はすぐさま立ち上がって彼の側に転がった包丁を蹴り飛ばした。相手もなんとしても俺の逃走を防ぎたかったらしく、懸命に手を突いて立ち上がろうとした。ダイスケを無力化する。俺は相手の頭を抱えるように両手で持ち上げると、無防備の顎に膝蹴りをお見舞いした。彼は堪らず声を飲み込んだまま気絶した。
 俺は瞬間的な集中で切れた息を整えると、ダイスケのポケットの中をまさぐっていた。いつこいつが起き上がるか分からない。仲間が戻ってくるかもしれない。まずい。早くしなければ。俺は我を忘れていた。ポケットから部屋の鍵を取り出すと、すぐに外に出てドアを閉めて施錠した。思い出すのが今だから言えることだが、ここでドアに鍵をかけても何の意味もないのだった。なぜなら、ダイスケは起き上がれば部屋の内側の施錠ツマミで簡単に外に出られるのだから。だが、このときの俺は邪悪な計画にぶち当たったという思いとこれまでの人生には経験することのなかった攻撃的な一発勝負に打って出たことで気が動転していた。何とかダイスケを部屋に閉じ込めておかなければと思っていた。
 脱出した俺の頭にはユウリのことしかなかった。もしかしたら奴らに捕まっているかもしれない。そして何よりも、心配をかけさせていると思った。
 ユウリの部屋に到着し、そこに彼女がいなかったのに気が付いたときは心臓が止まるかと思った。彼女は俺のことが心配で俺の家に行っていたらしい。突然背後から声をかけてきたのがユウリだった。
 その後の俺はユウリに事情を説明して警察を呼んだ。その警官と踏み込んだあの部屋で惨劇は展開されていたのだ。
 死んでいたのはダイスケだった。ビニール製のゴミ袋を上半身に被せられ、腹にはあの包丁が刺さっていた。部屋は密室だった。警察の疑いは俺に真っ直ぐに向かって来て、刺さった。

4、∀utumn

 目の前の刑事は、俺の長い話を聞き終えると難しい顔で唸った。そして、彼の口から吐き出されたのは疑惑たっぷりの質問だった。
「で、その残りの三人のお仲間はどこにいるんだ?」
「分かりません」
「辻褄は合ってる。が、合いすぎている。典型的な嘘のパターンだ」
「違う!」
 頭に上った血が、俺の拳を突き動かして机をぶち叩いた。書記官が驚いた顔で振り向いたが、刑事は冷静だった。
「たとえ君が本当にあの部屋に閉じ込められたとしても、それが君の殺人の動機になる。そして、それはもやは正当防衛ではない。君は死体にゴミ袋を被せた上に部屋を密室にして、あの都市伝説を思わせるように迷彩柄のバンダナを置き去った。これは殺人現場の装飾であり、純粋な殺人事件だ。それに、万歩譲ってその三人の仲間が犯人だったとして、なぜ仲間を殺さなければならない? そこに動機はないのだ」
「物は考えようですよ。あのダイスケという男は、俺を逃がしてしまった。その過失を咎められて殺されたんだ。現にダイスケは『もう下手なことは出来ない』と言っていたんです」
 俺の目には三人の男の顔が焼きついていた。その三人さえ見つけてしまえば、俺のこの状況は打破できる。そう信じていた。
 そのとき、刑事の背後にあるドアが静かに開かれた。そこから顔を覗かせたのは狸みたいな顔の肥満体の中年男だった。
「失礼するよ」
 その声に振り向いた刑事の表情が凍りついた。
「清澄警視長!」
 清澄警視長と呼ばれた男は刑事の過剰な姿勢を手で制すると、温和な口調で言った。
「すまない、席を外してくれないかな」
 清澄は書記官にも同じように声をかけた。納得が行かないというような表情で、しかし渋々と下がる二人を見送ると、清澄は先ほどまで刑事が腰掛けていた椅子にゆったりとした動作で座った。張り出した腹を気にかけているようで、左手を添えている。左手は添えるだけ、だ。
「名前はなんというね?」
「霧島ソウジ、といいます……。あなたは?」
「警視庁の方で警視長をやっていてね」彼の持ちギャグらしい。狸オヤジだ。「まあ、世間話もなんだから、早速本題に移ろうかね。君が殺した、あの少年についてだ」
「俺は殺してない!」
 俺の剣幕にも動じない。皮の厚そうな顔。細い一重の目がじっと俺に向けられていた。
「実際のところ」清澄は静かに切り出した。「君が殺そうが、誰が殺そうが問題じゃない。問題は、誰が、ではなく、殺した、というほうなのだよ。あの少年は常田ダイスケという名前だ。彼は“綱”であった」
 綱? 何を言っているんだ、このメタボリカル狸オヤジは。
「正確に言えば、今にも千切れそうな綱――だった。彼は《アイコノクラスト》のメンバーでありながら、人としての良識が心のどこかにあったんだろう。我々警察に極秘裏に犯罪計画のひとつをリークしたんだよ。君は覚えているかね。一ヶ月ほど前、あの少年グループのメンバー数人が一斉に逮捕された事件を。あの逮捕劇のもとになったのが彼の情報だったというわけだよ。しかし、ここ最近、彼は我々との経路を断ち切ってしまった。我々警察としては、凶悪な少年グループ根絶のための大切な繋がりだった。それが失われてしまった」
 清澄は心底残念そうにそう打ち明けた。
「それと俺に、何の関係があるんですか」
「そう構えずともいい。今回の事件、彼――常田ダイスケの粛清だと私は思っている。君が殺したのならば、君が《アイコノクラスト》であるということだ」
「……なんだと」
「まあ、そういきり立つな」清澄はあることないこと言って俺の反応を楽しんでいるようだった。それが俺の神経を確信的に逆撫でしていた。「君が《アイコノクラスト》であろうがなかろうが、それも関係のないことだ。しかし、最終的には自分のためになる道を選ばざるを得なくなる。今回の殺人は、あの少年グループにとっては朗報だ。彼らは君を敵としてではなく味方として見るかもしれん。君は《アイコノクラスト》のメンバーか?」
「ふざけんな!」
 俺は机を両手で叩いて相手に飛び掛るポーズをとった。だが、ここでも清澄は微動だにしなかった。そして、部屋のまわりにいる、今の音を聞いただろう警官たちも部屋に押し入ってくることはしなかった。このオヤジ、陰では嫌われているに違いない。
「それならそれでいい。そこで私からの提案だ。君には《アイコノクラスト》へ特別捜査官として潜入してもらいたい」
 俺は耳を疑った。
「なんだって?」
「スパイだ。かっこいい響きだろう? グループの摘発のつながりを失った我々は今の君を必要としている。君が常田ダイスケを殺した《アイコノクラスト》のメンバーであればそのままグループに戻るがいい。ただし、情報は逐一我々に渡すこと。最終的に君のグループ内での行為は不問に付される。君が常田ダイスケを殺していないのならば、そして本当に善良な一般市民であるのなら、我々と共に正義を行うべきではないかね。――まあ、今すぐに返事をしろとは言わない。私の携帯に直接連絡をくれればいい」
 清澄は番号の書かれた紙を俺の手に握らせた。
「今ここで話されたことは君と私との秘密だ。誰にも喋ってはならん。いい返事を待っているよ」
 清澄はそう言い残してさっさと部屋を出て行った。
 俺は番号の書かれた紙を握り潰すと、不快が体中を駆け巡るのを感じた。それは犯されるみたいに。
 この国の警察は腐ってる――。そう思った。

 デブオヤジが去ってからしばらくしてあの刑事が戻ってきた。刑事は俺に何も聞かなかった。じっと俺の顔を見ている。
「今」彼は静かに口を開いた。「三人組の少年が署に連行されてきた。君の言っていた《アイコノクラスト》のメンバーかもしれない。ひとりは君の言うように蛇に似ていなくもないが……どちらとも言えず判断がつかない。君はまだ容疑者扱いだが、特別にそいつらの顔を見てもらおうかと考えていた」
 思いがけない言葉だった! 俺は頭を下げて懇願した。

 俺は刑事に先導されて特別な取調室の隣室へ通された。そこは狭く、壁の一面がガラス張りになっていて、その向こうが取調室になっていた。今、その中には誰もいなかった。
「これはマジックミラーで向こうからこちらは見えない。君も映画か何かで見たことがあるだろう」
「その三人組というのはどこに?」
「今呼ばせる」
 刑事は一旦廊下へ出て、すぐに戻ってきた。
 しばらくすると、取調室のドアが開かれて、警官の誘導で三人の少年が入室して来た。その三人の先頭を切る男の顔! それはまさしくあの蛇の男だった。
「あいつらです! 間違いない!」
「そうか」俺の叫びとは裏腹に刑事の声は冷静そのものだった。「君は別室で待機していてくれ」
「どうして! あいつらと話をさせてください」
「ダメだ。それに、君の彼女、君を心配していたぞ。彼女もその別室に待たせてある。行ってやれ。ただし、絶対にその部屋から出るな。もし約束を破れば、本当に君を犯人だと考える」
 有無を言わせない言葉。しかし、その根底には何か優しさが満ちているように俺には思えた。俺は頷いた。

「大丈夫だった?」
 ユウリの第一声はそれだった。
「ああ。俺を信じろよ」
「うん、ごめん。でも、よかった、本当に」
 ユウリは目尻に涙を溜めて俺に抱きついてきた。
「俺こそごめん、心配かけて」
 ユウリの体は微かに震えているようだった。しかし、確かに温かい彼女の体温が俺を安心させてくれる。俺はユウリのことが本当に好きなのだ。
 俺たちは体を離すと、隣り合ってソファに腰を下ろした。そこはこじんまりとした接客室だった。ドアにはワイヤー入りのガラスが嵌めこまれていて、そこから部屋の外に見張りの警官が立っているのが分かった。気が滅入りそうになったが、先ほどまでの待遇との違いが感じられて俺は胸を撫で下ろした。
「無事でよかった」
「だから、大丈夫だって。どうした?」
「さっき」ユウリは俺の手を握っていた。「この部屋で待っているときに、ソウジ君を連れ去った人たちが連行されているのが見えたの。廊下で鉢合わせたりしたらどうしようって、私、心配で……」
「あ、そうだったんだ……。ああ、大丈夫だよ。俺の担当の刑事が結構気を利かせてくれてね。このままだと俺の疑いも晴れそうだよ。その三人組があのダイスケって奴を殺したんだと思う。もうすぐ帰れるよ。……そうしたら、ユウリが言っていた大切な話ってのもじっくり聞けると思う。あれ、なんだったの?」
 ユウリは恥ずかしそうに頬を紅潮させると首を振った。
「ううん。いいの、もう。それにこんな状況で言うようなことじゃないし」
「なんだよ、気になるなあ!」
 ユウリは悪戯っぽい笑みを浮かべてその唇に人差し指を当てた。
「ヒミツ。それより、あの電話、どうして急に英語なんか……」
「ああ、あれか。あの電話をかけたときは四人組に捕まっていた最中だっていうのは話しただろ。そこへお前からの電話があった。俺はどうにかしてSOSを送れないかって考えた。でも、直接言えば、多分俺は殺されたと思う。そこで、暗号にしてみたんだ」
「暗号?」
「そう、俺が英語で言った内容を並べてごらん。『I’m gonna be late』『 On the way to you』 『Rope your books』。この英語のそれぞれ頭の言葉を取るんだ。『I’m』『On the』『Rope』になる。『I’m on the rope(s)』は英語でどういう意味か分かるだろ?」
 ユウリの目は見開かれていた。彼女は大きく開け放した口に手を当てていた。
「『絶体絶命』! そうか、ピンチに陥ってるっていうことを言っていたんだ」
「その通り。君には届かなかったけど……」
「ごめん。全然気がつかなかった……。早く気付いてたら警察に連絡できたのに」
「まあ、いいさ。結果こうして無事だったんだからさ」
 俺はユウリの髪の毛を撫でて、今の状況に危険なんかひとつもないことを実感するのだった。
 その闖入までは――。
 おずおずとドアを開いて入ってきたのは神妙な面持ちのあの刑事だった。
「どうでした?」
 刑事はなかなか切り出さなかった。
「俺の容疑は晴れましたね?」
「残念だが、君を第一容疑者として考えることにした」
 その声には、彼自身も意外だというような雰囲気が滲み出ていた。
「どうして! 俺はこの部屋から一歩も外に出ていないんですよ! なんだったら、外の見張りに聞いてくださいよ!」
「そうじゃない。あの三人組に、ダイスケを殺すことは出来なかった。君にはまだ言っていなかったな。ダイスケの死亡推定時刻は午後七時半過ぎ。今から二時間前だ。君は七時半前にあの部屋から脱出したと言った。そして、湯根山さんの自宅へ行き、事情を説明した後に警察を呼んだ。それが八時頃。そして、問題の七時半頃。あの三人組は町で暴行事件を起こして警察と悶着を起こしていた。そして警官を殴った末に逮捕されたんだ。つまり、あの三人組には完全なアリバイがあるということだ」
「そんな……」
 絶句。それは紛れもない言葉の封印だった。すべての思考が停止し、足元の地面が崩れる音が聞こえた。
 だって、犯人はあの三人以外に考えられないんだ! あの部屋にダイスケがいることを知っていたのはあいつらだけなんだから! 俺は犯人じゃないんだから!
「嘘だよね?」
 ユウリが涙を流している。
「そうさ、嘘だ。そんなことあるはずがないんだ、絶対に」
「残念だが、夢でも幻でもない。君が犯人であると言わざるを得ない」

5、In the: Sound and Gate

 署内の拘置所はひどく寒々しい場所だった。ユウリは刑事の話した内容にショックを受けているようだった。それは、信じたくはないが、真実であると認めざるを得ないといった表情だった。
 俺は犯人じゃない。そのはずだ。いや、俺が見てきたすべての光景は俺が犯人ではありえないことを示しているのだ。そんな俺でさえも、俺が犯人であると考えざるを得ない事実。何が起こったのだ。
 まさか本当に俺がダイスケを殺してしまったのだろうか。あの膝蹴りで気絶したと思っていたが、本当はあれが死因だった? 違う。刑事はダイスケの死因が包丁で刺されたことによる内臓へのダメージだと言っていた。俺がダイスケに一撃目を加えた後に蹴り飛ばした包丁がダイスケに刺さってしまったのか? それも違う。その後にダイスケは立ち上がろうとした。その体には包丁なんて刺さっていなかった。包丁は部屋の隅の方へ飛んで行ったんだ。
 部屋の隅……。そうだ、ダイスケの死体は部屋の隅にあった。だが俺はダイスケの体を移動させていない。ゴミ袋も被せていない。そういえば、ゴミ袋はあの部屋にあったものだっただろうか。確か、未開封の二十枚入りのゴミ袋が落ちていたはずだ。あの部屋には雑多なものが打ち捨てられていた。なぜ犯人は死体にゴミ袋を被せたんだ。なぜ死体を移動させたんだ。それともダイスケ自身が死の瀬戸際であの場所まで這って行ったのだろうか。しかし、包丁は彼の腹に刺さっていたはずだ。腹を下にして這うには無理がある。それとも背中を床につけて這って行ったのか? だが、何のために。ダイスケ自身が自分の意志であそこまで這って行ったにしても、犯人が死体を移動させたにしろ、不可解なことだった。
 そして最大の謎は、密室だった。あの部屋の鍵は俺が持っていたひとつしか存在しない。つまり、俺以外に外から施錠することは出来ない。
 密室トリック。もしそんなものがあるとすれば、犯人は部屋側のドアノブについている施錠ツマミを利用したはずだ。それ以外に施錠する手段はないからだ。しかし、それを利用するには犯人自身も部屋の中にいなければならない。それとも糸か何かを使って……? だが、あの施錠ツマミはするすると動くようなものじゃなかった。一度内側から回したから分かる。しっかりとしているのだ。施錠ツマミは縦の状態のときに開錠されていて、それを反時計回りに回転させて横倒しにすると施錠するタイプだ。縦の状態から、あるいは横の状態から回転するそのはじめに一番負荷が必要なのだ。糸で外から引っ張るのでは力が足りないように思える。もし、外に出ることができれば試そう。あの部屋にはタコ糸があった。しかし、そういえば接着テープの類はなかった。外から持ち込んだ? しかし、なぜダイスケがあの部屋にいると犯人は知っていたのか。刑事の話を信じるのならば、アリバイのあるあの三人が外から持ってきたテープを使って糸のトリックを施したのではなさそうだ。それに、
テープを使って施錠ツマミに糸を貼り付けて引っ張っても、やはりおそらく力が不足してしまうのだ。
 もしかすると、本当に『敗残兵の蛇男』が現れたのだろうか。その証拠に、迷彩柄のバンダナが落ちていた。あれは現場をただ装飾するだけ? それともトリックに関連しているのだろうか。
 俺は思考の海から這い出ると、ただ呆然とした。
 拘置所内には俺以外の姿はなかった。あの三人はどうしただろうか。もっとも、同じ空間にいなくてよかったが。溜息をついたときにポケットの中にガサリと音がした。二枚の紙片。一枚は《釣針暗号》もう一枚はメタボリカル狸オヤジの携帯番号の書かれた小さな紙だった。ポケットの中は詳しく改められなかった。壊れた携帯電話は没収されたが、紙は俺の手に残っていた。
 メタボリカル……あいつは今回の事件が《アイコノクラスト》によるダイスケへの粛清だと言っていた。まさにダイスケはグループにとってユダだったというわけだ。あのような汚い契約を提案するからには、ダイスケと警察が繋がっていたのは本当のことだろう。ならば、グループに関係ない俺にはますます犯行の動機はなくなる。ダイスケと警察が繋がっていることが、俺にとってなんの損益ももたらさないのだから。
 しかし、なぜ《アイコノクラスト》は一部のメンバーが捕まるだけで壊滅に至らないのだろうか。俺は思う。それはおそらくリーダーが尻尾を出さないからだ、と。あれだけの少年グループだ。相当にヤバイ奴だろう。もしかすると、そいつが今回の事件の犯人かもしれない。しかし、警察もダイスケという綱を持っていながら、どうしてリーダーを特定できなかったのか。何か特別な連絡の手段があるというのだろうか……。
《釣針暗号》!
 俺はもう一枚の紙片に目を落とした。これが奴らの連絡手段だったとしたら!
 俺に暗号を渡した蛇の男は暗号の向きを知っていた。そして暗号の内容を知っているのではないかというところまで俺は行き着いていた。もし、これが奴らの連絡手段ならば、そこに整合性のある説明がつけられる。これを解読すれば、奴らの情報が……。
 しかし、本当にそうだろうか。自分たちの情報が書かれたものを部外者である俺に渡すだろうか。そもそもなぜ俺に解読させようとしたのか。
 いや、もっと奇妙なことがある。ダイスケを見張りに立てて出て行ったあの三人。あの三人は俺が脱出したことについてどう考えているんだろうか。刑事の話にはそこのところが語られていなかった。あの三人は俺を閉じ込めて他で事件を起こしていた。まるで、アリバイを主張するみたいに……。
 まさか。
 これはあの三人の逮捕時の話をよく聞く必要がある。だが、今は暗号の解読を優先させた方がよさそうだ。おそらく警察は、今は俺の話を聞かないだろう。

 釣針以外の形状は多数あるのが分かる。俺はそれを数える前にあることに気がついた。この釣針以外の形状には手の加えられていないただの直線の種類があるのだ。つまり、《釣針の五種類》だけが特定要素になる種類の記号だ。俺は見当をつけた。この《直線形状》は母音を示すのではないかと。ということは、《釣針の五種類》がどの段を示しているか分かれば、自動的に《直線形状》の記号が判明することになるのだ。
 しかし、この《直線形状》が母音であるならば、暗号作成者の傾向は少し読める。それは、字の順番で徐々に記号の複雑さが増していくということだ。例えば、「あ」と「め」では「め」の方が記号が複雑になっているはずだということだ。もしそうだとすると、これは進歩的な手がかりだ。というのは、《釣針の五種類》にも複雑さの差があるからなのだ。《第一》(右側のみに上向きの釣針)と《第二》(左側のみに上向きの釣針)と、《第四》(右側に上向き、左側に下向きの釣針)と《第五》(右側に下向き、左側に上向きの釣針)の間には確実に段階的な複雑性の高まりが見られる。《第三》(両側に上向きの釣針)は中階的な複雑性を持っているといえるだろう。ここで強引に推測を押し進めていくのならば、《第一》と《第二》は、「あ段」か「い段」のいずれか。《第四》と《第五》は「え段」か「お段」のいずれか。そして中階的な複雑性を持つ《第三》は「う段」ということになる。
 暫定的であるが俺は「う段」と「ん」を手に入れることが出来た。あとは、これを《直線形状》の場合に当て嵌めて推測していくことにしよう。
 ところが、ここで詰まってしまう。《釣針暗号》は切れ目なく最後まで綴られているために文の長さが推定できない。文の終わりが分かれば、推測の余地はあったのだが。
 なにかシリー(予測可能なメッセージ鍵)はないだろうか。例えば、これが奴らの連絡手段ならば、仲間の名前が書いてあるとか。しかし、俺の手に入れた名前はダイスケ、だけだ。しかし、「ダイスケ」というのは面白い特徴を示している。それは段に直せば「AIUE」になるからだ。「う段」は暫定的に手に入れている。だから、一番目、二番目が《第一》、《第二》のいずれかで、四番目が《第四》か《第五》である記号列を探せばいいのだ。しかし、これは骨が折れる。そして、絶対にこの暗号にその言葉が含まれていると確信できない以上手を出すのは躊躇われた。
 この《釣針暗号》が連絡手段であれば、それは何を伝えているのだろうか。蛇の男の俺への指示はてきぱきとしていた。それがこの暗号に書かれたものだとしたら。しかし、なぜそれを俺に解読させるのか。本当に“ブリタニカ複製”なのだろうか。だが、もしこれが指示を書いたものであるなら、そこには「包丁」や「盗む」といったような単語があると予想できはしないだろうか。「地下室」とか「監禁」、「閉じ込め」といったものも期待できる。
 しかし、待てよ。これが指示書なら、俺は暗号の解読を強制された。ならば、この暗号中には「暗号」とか「解読」といった言葉が含まれているかもしれない。そして、「暗号」という言葉には母音の「う」そして、既に明らかにしている「ん」が含まれている。
 これを探そう。まずは「う」を見つける。それが見つかったらその二つ前の記号が「ん」を示す《第六》の横棒であればビンゴだ。
 それは九行目の一番左端にあった。その二つ前の記号は横棒で、これは「ん」を示している。そして横棒の前の《直線形状》は《釣針の五種類》が《第二》で、これは先ほど「あ段」か「い段」のいずれかだと推測したものだ。「暗号」という文字列は《釣針暗号》の中にあったのだ。まだ可能性の域を出ないのだが。(参照2
 これが正しい場合、「あ段」は《第二》であるといえる。そして、《第一》は自動的に「い段」となるのだ。そして、《第四》が「お段」であることも明らかになり、したがって残る《第五》が「え段」となるのだ。興味深いのは、「ご」がひとつの記号で表されていることだ。釣針以外の形状の種類は、そう考えると、濁点の行も含めることになり、五十個以上の文字を表すことが出来るということになる。そして、釣針以外の形状(《中心形状》と名づけよう)で、尖山型のものは「が行」を示していると分かった。
 俺が手に入れたのは「あ行」と「が行」、「ん」だ。ここで俺は、強引に推測を続けた。というのは、先ほど考えていた“特徴”が暗号の中に現れていたからだ。しかも、その“特徴”は二度同じ形で現れていた。それは、五行目の右五番目から三つ目にかけての四つの記号だった。それと同じものが八行目、左七つ目から十個目にかけて記されている(参照3)。これまで推測していた《釣針の五種類》によれば、この記号の並びは「AIUE」を表しているのだ。躊躇うことはなかった。今の俺にはどんなことでもが手がかりとなっているのだから。この四つの記号は「ダイスケ」を示すに違いない。そして、この推測は先ほど考えた段階的複雑性にも合致しているように思えたのだ。四つの記号の一番最後のものは「け」であるが、「か行」は《直線形状》を除外してはじめの行である。つまり、この行に相当する記号は段階的複雑性において初期的な役割を担っているのではないか。「け」の《中心形状》は、Zの斜めの棒が上下の棒に対して垂直をとっている形になっている。他
の《中心形状》と比較すると複雑性の面では最も初期に位置しているだろう事が容易に想像できるのだ。それは「だ」にもいえることで、俺が手に入れている「が行」は《中心形状》が尖山型だった。段階的複雑性によれば、これ以降の行はこれより複雑な形状でなければならない。「だ」の記号はそれに合致しているように思えた。もっとも、「が行」と比較すると、《中心形状》が角形や円形で、上下に張り出しているものは複雑性の面では逆行しているような気もするのだが。ともあれ、俺は新たに「か行」、「さ行」、「だ行」を手に入れた。これならば穴埋めの作業は飛躍的に進むはずだ。(判明文字を示す。未解読文字は×)

き×し×そう××こうそくし×い××
×す××う×いえ×あい××××××い
せ×××××あ×か××い××いうこ×
×し×せおそ×く×す××せいこう
す×だ×うそ×ご×だいすけ××
×××し××い×××××んきん
し××か×さん×ん×××××う
××あ×え×だいすけ×こ×あんご
う×き×し×そう××××しかい
どくす××う×いえかいどくさ×
××で×がさ×い×う×し×

 サイモン・シンは解読作業には一種の快楽があるのだろうと言った。その通りだった。俺は今の自分が置かれた状況を忘れて解読に没頭していたのだ。
 穴埋めの後に俺に訪れたのは、達成感だった。そこには「拘束」、「成功」、「解読」といった単語が読み取れたのだ! この解読法は間違っていないのだ。そして、これは間違いなく指示書だった。となると、どこかに「盗む」というような言葉があるに違いない。しかし、俺が次に目を付けたのは六行目の右端の三つの記号だ。穴埋めでは「んきん」となっている。俺は先ほど「監禁」という言葉が入っているのではないだろうかと推測したのだが、それに似ているのだ。しかし、これは「監禁」ではない。なぜなら、最初の「ん」の前が、二番目の「ん」の前にある記号の《中心形状》と一致していないからだ。これは「軟禁」といっているのではないだろうか。ただし、これは確実ではない。そこで俺が目を転じたのは、一番最後の一文字分の未解読部分だった。この一文字は《釣針の五種類》から、「お段」の文字を示している。そしてこれは指示書だ。ここには命令が、つまり、「〜しろ」と書かれているのではないだろうか。そこで、少し考えを進めてみることにした。
 段階的複雑性だ。
《中心形状》は、「さ行」は円形が上向きに付いている。それとは逆のものもある。円形が下向きについている場合だ。これは「さ行」の次の行ではないだろうか。《中心形状》には円形や角形が上下に飛び出ているものもある。もしかすると、その前段階である、《中心形状》が上か下に飛び出ている記号が関係しているのではないだろうか。もし円形が下に飛び出ているものが「た行」だとすれば、その次の行は円形が上下に飛び出ているものがくる、という具合だ。そして上下に飛び出るものは二種類あって、右が上に出て左が下に出ているもの(右上突出)、右が下に出て左が上に出ているもの(左上突出)、だ。上突出、下突出、右上突出、左上突出……四種類だ。そしてこれに円形と角形の違いが加わり、八種類。「あ行」と「か行」はこの部類には含まれないから除外して「さ行」から「わ行」までを数えると、その数は八。笑いがこみ上げてくる。そしてどうだろう! 尖山型がその後の濁点行を示しているとすると、上下突出と右上突出、左上突出で、その数は四つになる。「が行
」「ざ行」「だ行」「ば行」だ。最後に残った「ぱ行」はこの暗号に記されなかったのだろう。
 もし、一番最後の文字が「ろ」を表しているとすると、この論理は支えられる。この記号は角形左上突出「お段」だ。円形突出型はその組み合わせが「は行」で終わる。ということは、「ま行」は角形上突出型になっているはずだ。こうなれば、芋づる式だ。「や行」は角形下突出。「ら行」と「わ行」が角形の右上か左上突出になっているはずだ。そして、一番最後の記号が「ろ」ではないかという推測はこれに競合しない。となれば、最後の記号は「ろ」だろう。さらに分かることがある。もし最後の記号が「ろ」であれば、上下突出の後には左上突出がくるのだ。現に「だ行」は左上突出になっている。「が行」が尖山上突出。「ざ行」は自動的に尖山下突出になり、その後の「だ行」が尖山左上突出になっているのだ。
 この推測を足がかりにして穴埋めを進めていくと、それはするすると解けていったのだ。

きりしまそうじをこうそくしないふを
ぬすむようにいえばあいによつてはたい
せつなひとをあずかつているというこ
をしめせおそらくぬすみはせいこう
するだろうそのごはだいすけをみ
はりにしてれいのへやへなんきん
しろほかのさんにんはべつのよう
じをあたえるだいすけはこのあんご
うをきりしまそうじにわたしかい
どくするようにいえかいどくされ
るまでにがさないようにしろ
(霧島ソウジを拘束し、ナイフを盗むように言え。場合によっては大切な人を預かっているということを示せ。おそらく盗みは成功するだろう。その後はダイスケを見張りにして例の部屋へ軟禁しろ。他の三人には別の用事を与える。ダイスケはこの暗号を霧島ソウジに渡し、解読するように言え。解読されるまで逃がさないようにしろ)

 俺はどっと疲れを覚えたが、それ以上の戦慄を覚えた。それは、この指示書に俺の名前が間違いなく記されていたからである。
 俺は狙われていた……!
 なんてことだ。なぜ俺が? 逮捕協力の情報を警察へ渡したからだ。《アイコノクラスト》が報復に動いたのだ!
 だが、この指示書には殺人の話は書いていない。「他の三人」への別の用事というのは、暴行事件のことだろうか。いや、そんなことよりも、指示書と実際の出来事の間に微妙な違いがあることのほうが気になる。それは例えば、「ナイフを盗」ませるようにいっているにもかかわらず、俺は包丁を盗むように強要された。俺に暗号を渡したのはダイスケではなく、あの蛇の男だった。そもそも、この暗号はあの四人よりも上位の人間が書いているように思える。リーダーだろうか。しかし、凶悪な少年グループである《アイコノクラスト》のリーダーの指示をきちんと遂行しないのは問題がありはしないだろうか。内部にちょっとした諍いが起きている?
 どういうことだ……。
 なにが起こっている?
 誰がダイスケを殺した?

6、コミカル・エクスプロージョン

「大丈夫か?」
 いつの間にか寝てしまっていたようだ。拘置室の外にあの刑事が立っていた。今は何時だろう。窓の外からは光が差し込んでいた。
「また話を聞きたい」
「ええ」
 俺はそう返事をして立ち上がった。しかし、同時に寝惚けていた頭に《釣針暗号》のことが浮かび上がってきたのだ。
「そうだ、俺、あの暗号を解読したんです!」
「なんだと?」
 刑事は俺がポケットから紙を取り出すのを驚いた表情で眺めていた。
 俺はすべてを説明した。
「……なるほど」刑事は難しい声を漏らした。「君ははじめから狙われていた、と。だが、それだけでは君の殺人の容疑は晴れないだろう。その文章が君の殺人の動機を後押ししているように見える。部屋に軟禁されたことによって殺害の理由が生まれたのだ、と」
「……そんな」
 朝から気の滅入ることだった。

 俺は昨日と同じ取調室で刑事と相対していた。
「彼女が今日も署に来てるぞ」
 刑事の最初の一言はそれだった。俺の脳に一気に血液が廻るのが分かった。ユウリ!
「相当君のことが心配なんだろう。『彼はいつ解放されるんですか』『彼は大丈夫ですか』と矢継ぎ早に質問されたよ。なんとも答えられなかったのが残念だったが、いい子じゃないか」
「……ええ。監禁されたときもずっと彼女のことを考えていました。……そうですか、ユウリが……」
「会ったり物の受け渡しは許されている。後で面会するといい」
「そうですね」
 刑事の姿勢が正される。目つきが変わったのが分かる。
 長い言葉のやり取りがあった。疲労感が募る。ユウリは大丈夫だろうか。
 時計を見る。午前十一時三十分。今日は……確か九月三十日だった。
 こんなときにこんなことを思うのは馬鹿馬鹿しいが、現実逃避をしたいんだろう。《電ミス》の競作募集は今日で締め切りだった。今日の二十三時五十九分五十九秒だ。とてもじゃないが、間に合わない。この時間を過ぎても投稿を許されるだろうが、それでは俺のプライドが許さなかった。ああ……、小説家になるという漠然とした夢が随分遠くへ行ってしまったような気がする。俺は家に帰れるだろうか。冤罪という言葉が耳のそばを弾丸みたいに掠めていく。そんなのは嫌だ。しかし、警察は俺が犯人であると考えている。
 俺は――……。俺がすべてに決着をつけるしかない。

 考える俺が解離していくような気がした。刑事の質問に答える俺がいて、それとは別に考える俺がいる。
 まずなんとしても解決しなければならない問題は、密室の問題だった。糸を施錠ツマミにくっつけてそれを換気扇の隙間から引っ張るというのは施錠ツマミの強度から考えて難しいだろうと思われた。それに、テープでくっつけたとすると、万が一テープが取れなかった場合に重大な証拠になるだろう。俺が現場を見たとき、施錠ツマミにはそんなものはなかった。結果としてなかったのかもしれないが、犯人が証拠を残す可能性を孕んだままトリックを実行するとは思えない。そして鍵は俺が持っていたから、犯人は確実に施錠ツマミに細工を施したのだろう。ドアノブを外したのだろうか。しかし、あのドアノブのネジは随分特殊な形状をしていた。それに、内側のドアノブを外すにはやはり部屋の中にいなければならない。換気扇を外すのも無理だろう。枠が錆び付いて動かすことも出来ない。それ以前にあそこに体を入れるにはかなりの大男でないと高さが足りない。普通の人間なら手が届くくらいだろう。そして、そんな大男だったら、あの隙間から出入りするのは不可能だ。そして、も
したとえ隙間から出入りできても、結局、枠は部屋の内側からしかつけることが出来ない。窓に関しても同様のことがいえるだろう。ドア周りは外へ通じる少しの隙間も出来ないような構造になっていた。となると、やはり犯人は換気扇の隙間から何らかの方法で施錠したのだ。そして、その方法はもはや糸しかないのだろうと思う。
 俺は刑事に言った。
「密室のことですが、犯人は糸を使って施錠ツマミを回したんじゃないでしょうか。それ以外に考えられないんです」
「ふむ」刑事は俺が犯人である可能性も考えている。そのための深い唸りなのだろう。「実はそれは試してみた」
「本当ですか?」
「ああ。ただ、テープで施錠ツマミにくっつけたんだがテープは張り付いたままな上に施錠ツマミを回転させることすら出来なかった。一本の糸では力が不足するんだ。二本や三本で、というのではない。力のかかり方が、施錠ツマミを回転させるには不十分なのだ。施錠ツマミは開錠状態で反時計回りに九十度回転するが、ツマミの上下に異なる方向で力が加わればうまくいくはずだが……そうなると、反対側にも窓がなくては難しい。それに、部屋を隔てた位置だから犯人は二人以上いたことになる。それでは、君を犯人と考えている我々は君の共犯を探さなければならない。あの子が共犯だというのなら別だが」
「バカな!」それは信じられない物言いだった。「俺は犯人じゃないし、あいつだって違う!」
 刑事は分かっている、というように軽く手を挙げて見せただけだった。

 刑事との話は大した進展も見せることなく休憩に入った。
 面会室の扉の前で、俺は少し身だしなみを整えていた。
「ソウジ君」
 昨日会ってから一日も経っていなかったが、久し振りに彼女の顔を見たような気がした。
「ユウリ」
 俺たちは互いに名を呼んで触れ合った。
「大丈夫?」
「ああ」
 しかし、彼女の顔には隈が目立って見えた。
「お前、寝てないのか?」
「……心配で」
「ダメだろ、ちゃんと寝ないと」
「でもソウジ君が警察にいるのに寝ていられないよ」
「心配するな。俺は絶対大丈夫だから」
 ユウリと言葉を交し合う。それは束の間の幸せであった。
 しかし――。
 なぜだろうか。先ほどから俺の全身を包み込むこの悪寒は。総毛立ち、粟立ち、精神がざわめく。額からは脂汗が吹き出していた。
 ダメだ。そんなのは、ダメだ。俺は去来したものを拒み続けた。
 そんなことは、絶対にない。
 だが、それは――。俺を占めていくそれは……。
 ユウリを見る視界が滲んでしまう。止め処なく涙が溢れていた。
「どうしたの、ソウジ君!」
 頭を抱える。違うんだ。違う。絶対に違うんだ。優しいんだ。そんなことなんて絶対にしないんだ。認められない。却下だ。でも涙が止まらない。信じたくない。
 ――すべてを闇に葬り去るか?
 心の奥から声が聞こえる。それは解離した俺の、考える俺の声のようだった。しかし、それは紛れもない俺だった。
「ソウジ君、しっかりして! 今誰か呼んで来るから」
「……いや、いいよ。大丈夫」
 そう言うのが精一杯だった。
 確かめないと。そうだ、確かめないと。だって、これが本当のことだって決まっていないんだから。そうだ、笑って首を振るに違いない。そうだ、そうに決まってる。笑って――。
「私は犯人なんかじゃないよ」
 って!

7、AUDI, das ist “With the LEGO”!

「聞きたい、ことがあるんだ……」
「なに?」
 ユウリが俺の顔を覗き込む。それだけで、俺は何も言えなくなってしまう。でも、言った。それは彼女を信じているからでもあったからなのだと思う。
「君は……」唾を飲み込む。それは重い重い重力子だった。「なんて言えばいいんだろう……。君は、俺が、あの部屋に閉じ込められていることを、知っていた?」
「どうしたの、急に?」
 笑ってる。そうだ、そうだ。でも内奥から湧き出る、何かは俺を突き動かしていた。もしかしたらあの刑事の言葉がずっと俺の心の奥底に突き刺さって光を放ち続けていたのかもしれない。そうだ、これが俺の自家製の大義名分だって、俺は自分に言い聞かせているんだ。なぜならそれは絶対に間違っていることだから。
「この事件の犯人の条件は、まず第一に、ダイスケがあの部屋にいることを知っていなければならないっていうことだ。そして、それを知っていたのは俺とあの三人組だ。でも、実はもうひとりいる。《釣針暗号》を書いた奴だ。三人組は事件のときにアリバイがあって、犯行に及ぶことが出来なかった。俺は犯人じゃないから、自然的に犯人はその《リーダー》ってことになる」
「急にどうしたの? もしかして、事件が解けたの?」
「まあ、そう言うことになるのかもしれない。俺は間違っていると思うけど」
「すごい!」ユウリは目を輝かせた。「さすがソウジ君だね。なんでも出来ちゃうんだから」
「そうかな……。で、その《リーダー》は俺を指名して、拘束するように言っていたんだ。つまり、俺は待ち伏せされていた。でも、どうやって俺を待ち伏せしたんだろうか。俺は自分の家の前で囲まれたんじゃないのに。犯人は、俺があの道を通るって知っていたんだ。でも、そんなことを知っている人はいなかった。――君以外には」
「どういうこと?」
 非難するような目で俺を見る。怒っているんだ。そうだ、それは当たり前だ。誰だって疑われるのは嫌いだ。信じていたいし、信じられていたいんだ。
「君は、俺が拘束されていることも知っていた。俺があの英語のメッセージで伝えたからだ。君は、あのメッセージに気が付いていた。君は俺が部屋を脱出した後に、まずダイスケに施錠を解かせた。そして転がっていた包丁で彼を殺害した。密室トリックはごく簡単なものだった。施錠ツマミにがっちりはまる大きさの輪をタコ糸で作るんだ。その輪の、施錠ツマミの上下に当たる部分に長い糸をくくりつける(輪と糸のくくりつけの順序は逆の方が効率がいい)。施錠ツマミの上から出る糸は換気扇の隙間から外へ。下から出る糸は反対側へ引っ張りたい。施錠ツマミの上下に異なる方向への力を加えたいからだ。しかしそれが問題だった。だからダイスケの死体を利用した。君はダイスケの死体を部屋のドア側の左隅に移動させて彼を滑車代わりに使ったんだ。でも、これだけだと服の生地の摩擦が強すぎて、滑車の代わりが出来ない。といって、首などに糸をかければ痕が残ってしまうかもしれない。だからゴミ袋を被せたんだ。滑りやすくするようにね。ダイスケの体を通してその糸も換気
扇から外へ出しておく。そしてドアを閉めて外へ出る。換気扇の外から糸を引っ張るんだ。施錠ツマミの上部の糸は左方向の力を加える。でも、その力だけでは不十分なんだ。しかし、ダイスケの体を滑車代わりにした下方の糸は上方の糸とは反対の右方向の力を加える。その二つの力が組み合わさると施錠ツマミはようやく回転して施錠が可能になるんだ。施錠ができたら、上方に繋いだ糸を部屋の内側方向へ強く引っ張る。すると、輪が施錠ツマミからすっぽ抜けてしまう。後は糸を引っ張って回収する。迷彩柄のバンダナは俺から《電ミス》の競作についての話を聞いたときのことから残そうと思ったのか。施錠を確認した君は、俺が来ているであろう自分の部屋へ急いだんだ。だから、君の部屋の前で、俺は君に背後から声をかけられたんだ。俺の部屋に行っていたというのは嘘だったんだ。一番の決め手は、君以外に俺を待ち伏せさせることができた人がいなかったっていうことだ。君からの連絡があって、タイミングよくあの四人組が現れたんだから……。それに、昨日の君の言葉がある
。君は実際にあの三人組の顔を見たことがないのに、連行される三人組が俺を拘束した連中だと断言していた。俺を担当した刑事は俺の話で三人の内のひとりが蛇に似ていると知っていたが、実際には見てもよく分からなかったと言っていたのにね」
 ユウリは黙って俺を見つめていた。
 どうして否定してくれないんだ。ほら、どんでん返しだ。そうじゃないと面白くない。
「はあ」ユウリの口から溜息が漏れた。「やっぱ、殺しとくべきだったのかな」
 なんだって? 今ユウリはなんて言った? 誰か巻き戻ししてくれないか。
「マスコミが少年グループって繰り返すのはいい隠れ蓑だったんだけどね。あたし女だし。女の子が《アイコノクラスト》のリーダーだなんて誰も思わないよね」
 悪戯っぽい笑みだった。なんていうことだ。いつもの彼女じゃない。
 しかし、辻褄が合うのも道理だった。指示書と実際の四人組の行動に微妙な違いがあったのは、女に扱き使われているという意識が芽生え始めたからだろう。ちょっとした反抗心が彼らをひねくれさせたのだ。それに指示書の、盗みは成功するだろう、という楽観的な言葉と、先ほどユウリが口にした言葉、「なんでも出来ちゃうんだから」。そこに、共通して俺の能力を認める姿勢が垣間見えるのだった。
「いつ分かったの?」
「つい今しがたさ……」自暴自棄だ。なんでこんなことになってしまったんだろう。「君のことを考えて、君の事を見た。その時に、神様が妙な考えをふっと投げ込んできやがったんだ……。ユウリ、本当なのか?」
「ダイスケはね、警察にあたしたちの情報をリークしてたんだよ。だから、あいつの付き合ってる女を拉致したの。そうしたら大人しくなったけど、あいつが存在する以上あたしたちはずっと危険に晒されているわけでしょ。だから、粛清しようと思ったの。でも、ただ殺すだけじゃ、ダメ。そこでソウジの出番よ。ソウジはあたしたちのメンバーの逮捕に協力した。だから、鉄槌を下そうと思ってね。そこで、ソウジに罪を被せてダイスケを粛清する計画を立てた。あは、一石二鳥ってやつ。これ、ソウジと付き合う前の話ね。計画には自信があった。部屋に閉じ込められたソウジがすぐに脱出することも分かってた。あたしのことが心配だもんね。ご苦労ご苦労。あ、でもこの隈は本物。ソウジが逮捕されるまでは安心できないもん」
 ――つまり、ユウリは今回の計画のために俺と……。俺はそんな女を心から……。
 涙なんか枯れた。こんなドン底ってあるか? 何してくれてんだよ、運命の女神。その前髪を引っこ抜いてやろうか? 俺はユウリと一回もあんなこともそんなこともしてないんだぞ。その理由も今分かったが。
 そのときだった。面会室のドアが開き、あの刑事が顔を出した。
 刹那。
 ユウリの細い体が俺と彼女とを隔てる机を飛び越していた。手を付いてくるりと俺の背後へ立ち首に腕を絡ませる。その手にはバタフライナイフが握られていた。
「近寄らないで。あたしはこのまま出て行くから、邪魔しないでよね。善良な市民が死ぬよ」
 刑事はただ狼狽した。何が起こっているのかまったく見当が付いていないようだった。
「おい、やめるんだ」
「命令しろなんて言った? 邪魔するなって言ったのよ。この男の首、掻っ切るよ」
「分かった。邪魔はしない」
 刑事は両手を挙げてユウリの――こんなに可憐なのに悪魔的な少女の言葉を聞き入れた。
 俺はユウリに抵抗しなかった。できなかった。まだ信じていたから。情けないと思う。でも、彼女をずっと信じていたかった。
「ねえ、拳銃って持ってるの?」
「いや、普段は装備倉庫にある」
「じゃあ、そこに案内して」
「何を考えてる?」
「兵力増強。《アイコノクラスト》っていうくらいだから破壊能力ないとね」
 刑事は身構えたままユウリと、俺とを見つめた。
「ソウジ君は君の恋人じゃなかったのか?」
「まあ――仮契約ってやつ?」
「ソウジ君、君しか彼女を止められない。やめるように言ってくれ」
 俺は答えなかった。もし連れ去られるならそれもいい。この世なんてどうにでもなれ。
「ねえ、“ソウジ君”殺すよ」
「分かった。だが、待ってくれ。倉庫には鍵がかかってる。それを開けさせてからじゃないと中には入れない」
 刑事の目は俺に注がれていた。随分親切にしてくれた。
 恩返しなんて期待してるんだろうか。そうだろうな。武器なんか持ち逃げされたら絶対に職を失うもんな。家族はいるんだろうか。なんかいい父親っていう感じがするな。家族はいい。心の居場所だから。
 俺は自分の両手に目を落とした。随分綺麗な手じゃねえか。今まで苦労なんてそんなにしてこなかったものな。そつなく生きてきたんだ。多分これからも。
 深呼吸した。
 刑事は面会室のドアのところに立って、ユウリの進路を塞いでいるように見えた。時間稼ぎだろう。この間に狙撃部隊とかを外に待機させているんだろうか。そうしたら、もしかするとユウリは撃たれて死んでしまうかもしれないな。それはすごく惜しいし、嫌なことだ。ユウリはかわいい。優しい。理解がある。頭もいいだろう。気が利くし、スタイルがいい。こんな女の子を喪ってはいけないだろうな。それに、この先、俺がこんな子と一緒になれるなんてないだろうな。
 もう一度深呼吸した。
 どうすりゃいいんだ。外に出ればユウリが殺されるかもしれない。今下手なことをすれば俺の首から血が吹き出るだろう。どんな窮地だよ。まさに《電ミス》だ。なんで現実に演じなきゃいけないんだ。俺は書いて送るだけでいいんだ。いや、もう今日中に出すのは無理だろうな。何もかも終わりだ。俺の人生――平凡。まあ、最後にこうしてドラマが生まれたからよしとするか。警察で人質事件なんて新聞の一面だぜ。美少女が犯人で、俺はその恋人ってことになるんだろうな。
「頼む」
 刑事の口がそう動いたような気がした。
 もういやだ。
「刑事さん」俺は疲れ切った口を動かしていた。「もうユウリの好きなようにやらせてくださいな。どうせ、彼女が捕まっても《アイコノクラスト》は存続し続けるでしょう。ここで起こったことなんか些事なんだ。さあ……。俺は大人しくユウリに従います。さあ――」
「見損なったぞ」
「ソウジはよく分かってるよ。ここを出たら部下にしてあげよう」
 そうかい。
 刑事の目。俺の心を突き動かそうとする。
 そうかい――……。
 だったら、ちょっと頑張ってみてやってもいいんだぜ。
 ユウリを失う? 刑事の信用を失う? 自分の命を失う?
 否だ。
 全部取る! 新聞の一面だって、だ!
 もう俺は決めた!
「ユウリ、ちょっとごめんな」
「え?」
 俺は思い切り肘をユウリの腹にめり込ませた。そうさ、手加減なんて一切しなかった。殺す気でやった。それは半分嘘だが。
「うぐっ!」
 ナイフが手元から床へ跳ねた。ユウリが苦しんでいた。当然だ。肋骨にぶち込んだ。
「でかした、ソウジ君!」
 刑事が駆け寄ろうとする。
「ちょっと待ってください!」
 俺は倒れこむユウリを見つめた。苦しんでる姿もかわいいんだ。こいつは本当に完璧な女なんだ。ただ、ちょっとひねくれちまった。
 深く息を吸い込む。
「おい、俺はお前が好きだ! こんな事するんじゃねえ!」
 矛盾してるかなんてどうでもいい。
 無理やりその体を起こさせる。
「こんな事して損するな! 普通の女になれ! 俺が絶対大切にしてやる!」
「ば、馬鹿じゃないの……」
 ユウリが忌々しげに俺を見つめる。
「そうだよ、俺は馬鹿だ。それでお前を好きになっちまった。でも、好きだっていうのは馬鹿でも誰でも本当なんだ。俺がお前を叩き直す。付いて来い、絶対だ。放さないぞ」
 ユウリの口元に笑みが浮かび上がった。そう、笑えばいい。かわいい女には笑顔が似合うんだ。
「……もう、好きにしてよ」
 それきり彼女は目を閉じてしまった。俺の腕に重さがさらにかかった。
「ということです。刑事さん聞きましたか」
 刑事は唖然としながらも口を開け放したまま頷いた。
「ただし」死んだ化け物が起き上がったみたいにユウリが口を開いた。「治療代はソウジ持ちでね。……すごく痛い」
「はい」

8、タイトルは最後に

 俺が諸々の用事から解放されたのは夜も十時になってからだった。
 ユウリは病院へ運ばれて、治療が終わり次第事件についての処罰が待っているということだった。これまでの《アイコノクラスト》での犯罪もこれで暴かれていくのだろうか。いや、俺が暴いていく舵取りをしなければならないのだ。それは、もうあのときに覚悟した。それに、俺は知っていた。俺の一撃で苦しむユウリの表情に、どこか安心したような響きが混じっていることに。これまでの日常から彼女は抜け出したかったのかもしれない。俺が彼女を救い、変えていくんだ。それが使命なんだ。だから、俺は彼女と出逢ったに違いない。
 部屋のベッドに倒れこんだ。
 色々なことがありすぎた。今日で三か月分くらいは生きた気がする。
 しかし、改めて驚いた。自分のあの行動力に。人は変われるのかもしれない。違いない。人を心から好きになるということが、俺を変えたんだ。
 そうさ、間違いなくユウリは俺にとって人生を転換させる運命の女神だったのだ。
 では、いっちょ、小説家の夢も……。そう思い起き上がってあることに気付いた。時計の針は十時半を過ぎていた。あと一時間半だ。間に合うか?
 まさに窮地だった。
 パソコンを立ち上げ、キーボードに向かう。
 脳裏を駆け巡っていく、これまでの光景。世界が変わって見えた。その映像が俺の指を動かしていく。文字が止め処なく溢れていく。
 ――間に合え!


 

Copyright (c) 2007 塩瀬絆斗 All rights reserved.