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           ま じ め な 小 説 マ ガ ジ ン
 
          月 刊 ノ ベ ル 10 月 号 @

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           虫の声に秋を感じてます。

 ネット文学のお祭りと銘打って行われた「うおのめ文学賞2003」は9月で終
了しましたが、今月はその中の短編部門に出品された作品の中から、編集人のお気
に入りをひとつ選んでご紹介します。翠川奈緒子さんの「僕らの季節」です。

 うおのめ文学賞では、結果的には青年期の閉塞感を扱った感覚的な文章の小説が
わりと高い評価を得ていました。それはそれでよいと思うのですが、それでもやは
り小説にストーリー性は必須だと思っている私には、小学生を主人公にしながら、
その目を通して、こまやかに滑稽な大人世界を描いてみせたこの作品には大変惹か
れました。母親があまりにできすぎた人間のようにも思われますが、しかしそれも
暗くなりそうな全体のトーンをしっかりと下支えしてくれているようです。

 原稿用紙40枚と月刊ノベルとしてはやや長めになりますが、どうぞじっくりと
お楽しみください。

-----------------------------------------------------------------------       月刊ノベルは等幅フォントでお読みください。
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 今月のコンテンツ

 ・短編小説「僕らの季節」春・夏  翠川奈緒子

 ・カンソな書評 > 直木賞作品「星々の舟」(村山由佳)を読みました。
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■僕らの季節/翠川奈緒子

 【1】 春

「さっきの算数のノート貸してくれよ」
「やだよ、自分で書けばいいじゃないか」
 中山にノートを貸すと大抵折れたり汚れたりして戻ってくるので渋ったら、不意
に僕の周りの空気がふっと動いた。
 まずかったかな、と思った時は既に遅かった。とっさに腕を持ち上げて顔をかば
おうとしたが、いきなり右側から中山のパンチが飛んできた。頭の中ががーんと痺
れて鼻の奥がツンとする。意識とは別に涙が出てきそうになって、僕は慌てて目を
つぶった。
「けちなこと言うからだよ」 中山のとぼけたような声が耳のすぐ横で聞こえる。
「あっ、また中山君が沖田君に暴力ふるってる。先生に言っちゃうから!」
 少し離れたあたりに数人固まっていた女子のグループの中から声が上がった。永
山里香子だ。
「チクればいいだろ、早く行けよ」
 中山が里香子の方を向いた気配がする。薄目を開けてみると、自分の席に立ち上
がった里香子が気味悪そうにこっちを見て後ずさりをしているところだった。中山
は誰かを殴る時に怒った顔をしない。にやにや笑っているだけだ。今もきっとそん
な顔をしているのだろう。
「言うわよ! 先生きっと怒るから」
 里香子は捨て台詞のように大声で叫ぶと、水色のフレアースカートの裾と腰まで
あるまっすぐな長い髪を翻して教室から職員室の方へ向かって駆け出していった。

 僕はそっとため息をついた。
 僕は先生に言って欲しいなんて全然考えていないのに、女子なんてまるでわかっ
ちゃいない。先生に言いつけたって何の問題の解決にもならない。その時だけ中山
が先生に怒られて―― そう、そのあとだってずっと中山は僕の隣の席なのだ。こ
れが僕の部屋にある壊れたラジオのようにエンドレスで続くだけだ。
 僕の席替えはあり得ない。吉岡先生にとっては僕が中山の隣にいるのが一番平和
なのだ。いつだったか先生が、
「沖田君には確かに我慢ばかりしてもらっていて、悪いと思っています。でも沖田
君はとても大人なので、彼も沖田君には一目置いているようなところがあるんです。
沖田君の言う事は聞くんですよ」
 とお母さんに言ったんだそうだ。吉岡先生は、中山が何かやらかすたびにいつも
息を切らして学校の中を行き来している。そんな先生によろしく、と頼まれたら僕
だって嫌だとは言えないじゃないか。だから去年の三年生の時から、僕達二人はい
つもペアになってしまった。この春四年に進級したが、やはり一学期から僕達は隣
同士だ。恐らく二学期も三学期も、いや小学校を卒業するまでこのままじゃないか
と思う。
 第一先生に言いつけるなんてみっともないと思う。里香子は頭が良くてちょっと
可愛くて嫌いじゃない。というかクラスの女子の中では一番いけてると思う。でも、
こういうお節介を焼きたがるのが玉に瑕だ。僕が殴られてる、なんてクラスで宣伝
してほしくないのがわからないのだろうか。僕にだってささやかなプライドがある
のに、男のそういう気持ちが全然わかっていない。

 ところで、僕は小学四年生の沖田浩二。一人っ子だ。今は福岡に単身赴任中の会
社員のお父さんと家で翻訳の仕事をしているお母さんと三人で、東京の下町に住ん
でいる。僕は、特に背が高くもなく低くもなく太っても痩せてもいない、要するに
どこにでもいるようなタイプだ。スポーツは得意じゃないが、結構勉強は好き。そ
んな事を言うとイヤなやつ、と言われるに決まっているので言わないけれど。特に
好きなのは算数。答えを探していて答え方を見つけたときや、正解は一つしかない、
というはっきりしたところが好きだ。特に女子にもてるわけでもなく、男子の中で
特に人気者というわけでもなく―― まあ平均点の小学四年生だと考えてくれれば
いい。

 夕方家に帰ると、お母さんは振り向きもしないで「浩二? お帰り」と言った。
 お母さんは大体いつも仕事でパソコンの前にいる。いつも「大抵の事は自分でで
きるように育ててきたつもりだ。私はそんなに暇じゃない」 と言っていて、玄関
まで出迎えに出て来てくれたことなどない。だから僕もそういう期待はしていない。
それはそれで気楽だ。その代わりごちゃごちゃ言われることもないし。
 自分でおやつを(これは用意されてあった)取り出して食べていると、電話が鳴
った。お母さんはため息をついて振り向き、受話器に手を伸ばした。僕はおやつを
持って自分の部屋に引っ込んだ。友達から借りたゲームソフトをそろそろ返さなけ
ればならないので、早いところ攻略してしまうつもりだ。

 三十分ほどして、僕はジュースを取りにいこうとしてリビングに戻った。お母さ
んはまだ電話の相手をしている。
「ええ、そうですか…… はい、なるほどねえ」
 お母さんは上の空で電話の相手に相槌を打ち続けている。その前を横切ると、お
母さんはうんざりしている、というように僕に向かって顔をしかめてみせた。
 もともと僕のお母さんは電話が好きじゃない。それも長電話ほど嫌いなものはな
い、といつも言っている。その間他の事が何もできないからだ。だけど長電話が好
きなお母さん、というのは周りに何人かいるらしく、こうしてたまにかかってくる
のだ。そういうときお母さんは、大抵パソコンでソリティアのゲームを始める。そ
れでいて受け答えはちゃんとしているんだから、いつも感心する。
「それで、里香子ちゃんも最近何かひどい目にあったんですか?」
 ふと耳に“里香子”という言葉が飛び込んできた。それでわかった。里香子のお
母さんからの電話だ。どうせ又僕のことに違いない。里香子から今日の事を聞いて
電話してきたんだろう。
 里香子はいいけれど、里香子のお母さんはちょっと苦手だ。
 里香子のお母さんは当たり前だが里香子によく似ている。ほっそりしていて髪が
長く、いつもロングスカートを着てお洒落にしている。Gパン姿が多いうちのお母
さんとはえらい違いだ。声も優しくて、まるでフランス人形のようだ。
 だけど子供が関係してくると、その様子が一変する。以前にも似たような事があ
ったので知っているのだが、顔つきまで変わる。目が吊り上ってキツネみたいにな
って、声が高くなって、いつまででも喋り続けるのだ。それが悪口ばかりなので、
僕もお母さんもそういう時はあんまり好きじゃない。

「やれやれ、一時間も無駄にしちゃった。締め切りが近いっていうのに全くたまら
ないわねえ」
 電話を何とか切り上げたらしいお母さんが僕のいるキッチンにやってきた。僕は
椅子に腰かけたお母さんの前に麦茶の入ったコップを滑らせて置いた。
「ありがと、気が利くじゃない」
 お母さんは一息にコップ半分くらいの麦茶を飲み干してふーっと息を吐いた。
「里香子のお母さんだろ、電話」
「そう、聞こえた? 今日、浩二、中山君にぶん殴られたんだって?」
「ぶん殴ったってほどじゃないけどね。中山が切れるのはしょっちゅうだし」
「まあねえ、そりゃ聞いていて気分が良くはないけど、いちいちそのたびに関係な
い子供の親が電話してくるっていうのはおかしいと思うけどねえ」
 お母さんは片手で首の後ろを揉みほぐしながら続けた。
「中山君がすぐ手が出る子だってことはよくわかってるけど、これは時期が来るま
で待つしかないような気がするわね。少なくとも周りで騒ぎ立てたら良くなるとは
とても思えない。それにあの子、最近変わってきたと思うわよ。そう思わない?」
 お母さんの言葉に僕は相槌を打った。
 確かに中山は学校では問題児だが、僕の家では乱暴なことはしない。中山は人の
家だからといって気を使うようなやつではないと思うので、僕にはどうしてなのか
よくわからない。


 【2】 夏

 小学校に入学したその日から、中山健太郎は皆に注目されるようになった。
 体育館での入学式が終わったあと、僕達は教室に戻った。皆まだ緊張していて、
先生や周りの様子をうろうろ眺めながらようやく席に座っている、といった状況だ
った。
 その中で一人だけ席につかず、悠然と教室中を歩き回っていたのが中山だ。
「中山君、座って先生の話を聞きましょうね」
 僕達の担任は木村という名前で、まだ先生になって三年目という若い女の先生だ
った。その木村先生がにこにこと優しい笑顔を中山に向けた、その時だった。
「ばーか、おまえなんか知らねえよ」
 と中山は思いっきり舌を出してみせたのだ。僕達が皆あっけに取られていると、
今度は中山は窓の近くまでいった。そして呼び止める先生ににやっと笑いかけたか
と思うと、いきなり窓枠によじ登り始めた。教室は一階にあり、窓は本棚の高さ
(僕の腰くらいだ)より上から天井まで続いている。そこへよじ登ったかと思うと、
あっという間に体を横にして窓の外へ身を乗り出したのである。危ない、と先生が
止める間もなく、中山は校庭に飛び降りた。そして遠くに見える遊具まで走ってい
ってしまったのだ。
 青ざめた先生は僕達に静かに待っているように言いつけて、すぐさま中山を追っ
ていった。僕達が窓から見ていると、中山はそこから動かない、と頑張っているら
しく、先生は最後には首っ玉を押さえつけるようにして中山を連れて帰ってきたも
のだ。
 それ以来形は変わっても同じような事件はいくらでも起きた。先生も中山にかま
っていると授業が全く進まないので、教室の中にいさえすればいちいち見咎めて注
意をするような事はなくなった。先生は僕達が中山の真似をするんじゃないかと心
配したようだったが、僕達にも彼は特別だということが何となくわかったので、誰
も同じ事をしようとは考えなかった。そのあたりは子供とはいっても僕達も大人が
考えるよりも馬鹿じゃない。

 僕達が入学式の日に中山に抱いたアブナイ予感は的中した。三年二組の男子はそ
ろって中山のパンチに洗礼を受けたといっても大げさじゃない。
 中山はとにかくよく「切れる」のだ。必ずしもはっきりこちらに原因がわかって
いることで切れるわけではない。何か気分の波のようなものがあって、それがどこ
で爆発するかわからないのだ。しかも怒っていてそれが抑えきれずに、というのな
らまだわかるが、面白がって切れてみせるようなところがあり、ちょっと怖い。
 机をひっくり返す、椅子を投げ飛ばす、気に入らない相手をぶん殴る…… こん
な事は日常茶飯事だ。そのたびに、どうやらやられた子の親が先生に苦情を言うら
しい。先生がため息をついて頭を抱えているところや、誰かの親が学校に来て先生
と何か深刻に話しているところを僕は何回も見かけたことがある。
 ああいう時は先生っていう仕事も大変だなあ、と思う。

 担任の先生は普通二年間変わらない。しかしおそらく中山が手に余ったのだろう、
若い木村先生は一年間で担任を交代になった。
 その代わりにバトンタッチした吉岡先生は教師歴十年目という中堅の女の先生だ
(これは里香子のお母さんの受け売りだ)。さっぱりしているので、僕はなかなか
気に入っている。
 中山に対しても木村先生のようにおろおろしたりヒステリックに怒ったりはしな
い。吉岡先生は自分の子供もいるからなのだろうか、肝っ玉母さんみたいな感じが
する。先生が担任になってから、気のせいか中山の切れる回数が減ったような気も
する。
 そうはいっても三年になって席が隣になった時、正直言って僕は落ち込んだ。自
慢じゃないが僕は喧嘩に強くない。どうしても自分から手を出すということができ
ないのだ。だけど口なら大抵のヤツには勝つ自信がある。
 しかし中山のようやタイプは問答無用型だ。僕が一言何か言うとすぐパンチが返
って来る。僕だけじゃない。皆中山の近くに積極的に近づこうとはしなかった。誰
だって痛い目にあったり唾を吐きかけられたりするのはいやだから当たり前だ。だ
から中山には特別仲良くしている友達はいなかったと思う。

 だけど、中山は僕の隣の席になってしばらくしたら、僕の家へ遊びに行ってもい
いか、と言い出した。
「おまえんち、プレイステーション2があるんだろ? やらせてくれよ」
「…… うん」
「おまえ、ゲームうまいんだってな。俺にも教えてくれよ」
 僕が見上げるようなでかい体格の中山に目の前に立ちはだかってそう言われると、
情けない事に僕は断ることができなかった。全く気が進まなかったのだけれど。
 中山を初めて家に連れて行ったのは、夏休みに入ってすぐのことだった。お母さ
んに「中山君だよ」 と紹介すると、お母さんは珍しくまともに振り向いてあいつ
の顔を見た。それまでにさんざん中山の話は聞いていたので、どんなやつか興味を
持ったんだろうと思う。でも普段と全く変わらない態度で中山に接していた。お母
さんのそういう偏見のないところは、実は僕が好きなところでもある。

 中山は僕の家では一度も切れたことがない。僕が心配していたような何かを壊さ
れるとかそういうこともなかった。
 ただ不思議だったのは、中山が家の中の細かい事に興味を持っていることだった。
たとえば冷蔵庫の中だとか、お母さんの化粧品だとか、薬の置き場所だとか、そう
いう事を聞きたがるのだ。
 お母さんはよその子供だろうが何だろうが見て見ぬふり、というのをしない人な
ので、中山がごそごそ勝手にそれらを取り出したりするとぴしっと注意する。なの
に中山はすねもせず、おとなしく言う事を聞くのだ。僕にはそれがすごく不思議だ
った。これが学校で相手が先生だったら、中山は絶対ふてくされるか切れているは
ずだ。でも中山は「わかった」 と言って、注意されるともう同じ事をしようとは
しなかった。お母さんもそういう事があっても根に持つタイプではないので、お互
いけろけろしているのが意外と相性がいいのかもしれない。
 いつの間にか、そうして中山は僕の家の常連になった。そしてそれは、そんなに
思ったほど悪いことでもなかった。だんだん中山がいることが当たり前のようにな
っていた。 僕達はいつの間にかただのクラスメートから友達になっていた。相変
わらず学校では時々殴られていたけれど。

 その頃になると、三回に一回くらいは僕は中山に誘われて、中山の家へ遊びに行
くようになっていた。連れはいなくて、いつも僕一人だけだ。
 中山の家にはいつもお祖母ちゃんがいた。それと中学生のお姉ちゃんがいるらし
いが、お姉ちゃんはほとんど家にいなかった。友達と外で遊んでいるらしい。確か
に中山とではあまり遊べないんじゃないかと思う。
 お祖母ちゃんは僕が行くと、ひどく喜ぶ。要らないと断っているのに羊羹とかか
りんとうとかをお盆に山盛りにして出してくれる。出されると全然食べないのは悪
いので少し口にするけれど、口の中にべたべた甘いものが残って僕は苦手だ。でも
にこにこしながら僕を見ているお祖母ちゃんの前では、とてもまずいとは言い出せ
ない。
「健太郎のところに友達が来るなんて本当に珍しい。仲良くしてやってね」
 行くたびにお祖母ちゃんは僕にこう言う。中山は煩わしがって、
「いいよもう、ばあちゃんはあっち行っててよ」
 と冷たい事を言うのだが、見ていると二人は仲がいいのだということが何となく
わかる。

 ある時その理由がわかった。中山がちょっとトイレに行って席を外している時に、
お祖母ちゃんが、こう言ったのだ。
「あの子がね、乱暴な事をしても大目に見てやってね。あの子は幼稚園の時にお母
さんを病気で亡くしてるの。だから甘えられる相手がいなくてねえ、ついいらいら
して手が出ちゃうこともあると思うの。勘弁してやってね。私じゃお母さんと同じ
ってわけにいかないのでねえ」
 中山のお母さんは死んでしまったのでいない、という事を僕はこのとき初めて知
った。だからうちに来たとき、冷蔵庫とかお母さんの化粧品が珍しかったのだろう
か。それならわかる。でもだからといって何て返事をしたらいいのか、僕はわから
なかった。実際に手を出されるのは僕だし、痛いのも僕だ。それはやはり嫌だ。
「はあ」
「それに健太郎はお父さんと仲が悪くてね。ろくに話もしないんだよ。お父さんは
あの子の事を心配してるんだけど、あの子がお父さんを毛嫌いしていてねえ。まあ
仕事で忙しいからろくに話もできないんだけど。新しいお母さんでも来てくれれば
また違うんだろうけど」
 お祖母ちゃんはそのまま続けて話しかけてくるけれど、僕は何と答えたらいいの
かわからなくて困ってしまった。黙ってメロン味のカキ氷を食べていると、
「余計なこと言うな! くそばばあ」
 と、いつの間にか戻った中山が僕のすぐ横で怒鳴った。唇の横に泡のようなもの
を溜めてお祖母ちゃんを睨んでいる姿は、ちょっと怖いものがあった。だから僕は、
「おまえの部屋行こうよ」
 と言って中山の腕を引っ張って、慌ててお祖母ちゃんの前から退却した。
 すると、今度は中山は僕を睨みつけてきた。
「おまえ、余計なこと皆に言うなよな」
「何にも言わないよ、僕は」
 僕は内心おっかなかったのだが、なるべく平気そうな顔をして笑ってみせた。
「つまんねえ事言うとパンチだかんな」
 中山はしつこく念を押した。よっぽど皆にお母さんがいない事を知られたくない
らしい。そんなものだろうか。別に隠すことはないと僕は思うんだけど。

(以下、月刊ノベル10月号Aへ続く)

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       メルマガタイトル:テキスト版月刊ノベル10月号@
            発行日:平成15年10月1日
          総発行部数:1,100部 
          編集・発行:mbooks(文責:ミヤザキ)
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           ま じ め な 小 説 マ ガ ジ ン
 
          月 刊 ノ ベ ル 10 月 号 A

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     本編は月刊ノベル10月号@からの続きです。

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     月刊ノベルは等幅フォントでお読みください。
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 今月のコンテンツ

 ・短編小説「僕らの季節」秋・冬〜春  翠川奈緒子

 ・カンソな書評 > 直木賞作品「星々の舟」(村山由佳)を読みました。
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■僕らの季節/翠川奈緒子

 【3】 秋

 中山とクラスメートたちとの間の小さな小競り合いはしょっちゅうあったが、い
よいよ中山を取りまく空気が変わってきたのは四年の二学期になってからだった。
 事の起こりは、中山が小林というやつと喧嘩をしたことにある。この小林も結構
嫌味なやつで、しかもずるい。何でも人のせいにするようなところがあるやつなの
で僕はあんまり好きじゃない。あんまり人のことは言えないが、口から先に生まれ
てきたような男の癖におしゃべりなやつだ。
 で、何かどうでもいいような事で中山と言い争いになり、中山はハサミを持ち出
してきた。さすがに小林も見ている僕達もびびった。そして逃げようとする小林を
つかまえて、中山は小林の着ていたTシャツを背中からじょきじょき切ったのだ。
 女子たちの悲鳴をききつけて飛んできた先生も、さすがにこれには顔色を変えた。
小林はいつもの生意気な様子も消えうせてべそをかいているし、周りの子供達はし
んとして中山がこれからどうするか息を呑んで見守っている。
 中山は悪びれた様子もなく平然としている。先生が、
「中山君、ハサミを人に向けたら危ないでしょう? 今すぐしまいなさい」
 と言っても、にやにやしているだけだ。僕はふと、こいつは何かあったら人を刺
すんじゃないかという恐怖感に襲われて背中がぞくぞくした。
 先生はいつもより青い顔をして中山を職員室に連れて行ったが、しばらくして戻
ってきた中山の顔つきは全然へっちゃらだった。きっと怒られても平気だったんだ
ろう。先生に怒られてもめげないところはちょっとすごいと思う。大きな声では言
えないが、僕はちょっとそういう中山の自分を曲げないところを尊敬している。今
回はどうかと思うけれど。

 勿論こんな話が穏便に終わるわけがない。
 翌日、小林は学校を休んだ。そして新聞記者だという小林のお父さんが、仕事を
半日休んで学校に抗議に来た。僕が見たわけじゃないが、目撃していた友達がいて、
「大ニュース!」 と皆に触れ回ったのだ。
 小林のお父さんは校長室で、校長先生と吉岡先生と三人でしばらく話し合ってい
たらしい。その間僕達のクラスには吉岡先生の代わりに教頭先生が来ていた。その
うちに黙っていられなくなって、誰かが、
「教頭先生、小林君のお父さんは何しにきたんですか?」
 と質問すると、もう定年が近いという髪が白いメガネをかけた怖そうな女の教頭
先生は、いつもよりもっと怖そうな顔をした。
「みんなには関係ないでしょ。みんなはいつものように勉強をしていればいいんで
す」
 こんな状況でいつもどおり勉強できるか、と僕は思った。皆だって同じ事を考え
たに違いない。僕達だって部外者じゃない。皆不満そうな顔をしたが、仕方がなく
黙った。だが、その日僕達はほとんど上の空だった。でも教頭先生も上の空みたい
だったので、授業はスムーズに進んだ。

 だが、先生達が僕達に内緒にしていてもこういうニュースは実に早く伝わる。
お母さん達の緊急噂連絡網の威力はすごいものなのだ。僕が学校から帰った時には、
既にお母さんは長電話につかまっていて、その夜には僕も詳しい話を知っていた。
うちではお母さんは基本的に僕に何も隠さないからだ。
 要するに小林のお父さんが言うには、学校という公的な教育機関におけるこのよ
うな反社会的なあるまじき行為を学校側はどう認識しているのか、今後どのように
当事者である中山を指導していくのか、そもそも前から問題の多い中山の指導は今
までと同じ環境で行えるのか、被害者である小林の受けた心の傷をどうケアしてく
れるのか、今後このような事件が起きない保証は誰がしてくれるのか(ああ、疲れ
る)…… といったところらしい。これを小林のお母さんが里香子のお母さんに相
談し、そこから僕の家に相談や報告を兼ねて流れてきた、というところが話の流れ
らしい。

 ところで、何でうちに電話がかかってきたかというと、里香子のお母さんが中心
になって学校側にもっと中山に対する断固とした処分をするよう要求する運動を始
めるそうで、その勧誘だという。
「なにそれ。だって里香子のうちは関係ないじゃん」
「そうなのよ。私もそう思う。まあね、小林君のご両親のショックなのはわかるの
よ。実際Tシャツで済んだからまだ良かったようなものの、もし体に傷なんかつけ
ていたら傷害事件になっちゃうからね。明日そういうことが起こるかもしれない。
起きてからじゃ遅い。何とかしろってことなの」
 話しているうちにお母さんも腹が立ってきたらしく、まるで僕が里香子のお母さ
んであるかのように怖い顔をして僕を睨みつけた。
「やめてよ、僕のせいじゃないんだから」
「まあ我慢してよ、あんたしか聞いてくれる人いないんだから」
「ちぇっ。迷惑だよなあ、全く」
「まあいいから聞いてよ。…… それで簡単に言うと、安心する為には中山君を追
い出してくれって言うのよね」
「追い出すって? だって小学校は退学なんてないんでしょう?」
「うん、退学はないけど特別な例外の場合は出席を差し止めることことはできるの
よ。そういう法律があるの」
「へえ、初めて聞いたよ、そんなこと。で、中山をそれにしてくれって言うの?」
「まあ一部のお母さんたちがね、そう学校側に申し入れようとしているわけ」
「で? お母さんの意見は?」
「うーん」
 お母さんは天井を見上げてちょっと考え込んだ。

「まずね、大勢で一人を叩く、みたいなのが私は気に入らない。しかも子供達が率
先して言い出したのならともかく、言っているのは親だけなんだからね」
「うん、確かにクラスの奴らはあいつを好きじゃないけど、追い出してしまえ、な
んて思ってないんじゃないかなあ。僕なんか、どっちかっていうと小林の方が嫌い
だけどね」
「ただね、これは気をつけなきゃいけない。何か被害を受けた人がいる場合、“や
られた方にも何か原因があるんだ”という考え方。これは危険よ。本当のいじめが
あった時なんか、これが免罪符みたいに使われる場合がある。責任は五分五分、み
たいにね。免罪符って意味、わかる?」
「わかってるよ、馬鹿にするなよ」
 僕はむっとした。お母さんは僕のことを一人前としてほとんど対等に扱ってくれ
るので好きだが、時々急に子ども扱いするときがある。
「まあ、それは今は置いといて。…… あのね、私は甘いかもしれないけど、彼が
次は本当にやるかもしれないって思えないんだよね。だって見ていてわかるでしょ
う? うちではあの子、とてもそんな風に見えない。だから芯からの危険人物だな
んてとても思えないし追い出すなんて賛成できない。彼のやっと事を認めているん
じゃなくてよ。悪い事は悪い」
 僕もお母さんの話を聞きながら考え込んだ。
「お母さんがいないって事は関係あるのかな?」
「そうね、ないとは言えないかもしれない。でもそれは言い訳にはならないわよ。
その点は私はそんなに大きく考慮しなくていいと思う」
「厳しいね」
「だって彼はこれから一生そうなのよ? それが原因だからといってこれからずっ
と何でもありなんて通用すると思う? 中山君はそれは認識した方がいいわね。で
もあんたの話からすると、それを言い訳にはしてないよね、彼は」
「うん、そんな事一言も言ってない。それどころか僕が喋ったらきっと半殺しにさ
れちゃうよ」
「そう、そこは彼の偉いところかもしれない。だから私も永山さんたちにその事を
言ってないの。ま、逆に言った方が皆は可哀想がって大目に見るようになるかもし
れないけど、そういうのも賛成できないんだな、私は」

 少し間をおいてから僕は訊ねた。
「で、どうなりそうなの?」
「永山さんたちは皆で吉岡先生に面会して申し入れをしたいんだって。たとえば念
書を取るとか」
「念書って? 誰から?」
「たとえば中山君のお父さんからとか、校長先生からとかよ。今度同じような事を
起こしたら転校します、とかね」
 僕には里香子のお母さんが先頭に立って校長室に入っていくのが見えるような気
がした。
「で、お母さんも一緒にやりませんかっていうの?」
「そう、それでちょっと喧嘩しちゃった。私はやりたくありませんってはっきり言
ったからね」
 お母さんはいたずらっぽい顔をして笑った。
「ある意味では弱いものいじめみたいじゃない? そういうの嫌いなんだよね」
「まあ、あんまり弱いってイメージじゃないけどね、あいつ」
「あとね、なんて言うのかなあ、正義感をふりかざすみたいな、権利だけを主張す
るみたいなの、賛成できないの。良くあるでしょう、マスコミなんかで何かが起き
るとよってたかって非難するみたいなの。しかもそれに付和雷同するなんて絶対い
や」
「里香子のお母さん、何て言ってた?」
「手遅れになるかもしれませんが、構わないんですね、だって。だから私も言った
の、『うちには中山君は何回も遊びに来ているけれど、ただの一度も問題を起こし
たことはありません』って」
「そうしたら何だって?」
「自分のうちさえよければいいんですね、だって。何か言ってること逆だと思わな
い?」
 それに、大体里香子は中山にぶん殴られたことなんかないはずだ。里香子のお母
さんが先頭になって抗議に行くというのはどうも変だと思う。僕がそう言うとお母
さんも同意見だと言った。
「まあね、学校だってそんな甘くないわよ。学校の味方をする気なんかこれっぽっ
ちもないけど、いちいち保護者の抗議を真剣に検討している余裕なんかあると思
う? 勿論建前はそれじゃいけないんだけどね」
「でもそれじゃ、本当のいじめがあった時なんかどうなるの? 学校がちゃんと調
べなかったから余計悪くさせて自殺しちゃった、みたいな話も聞くよね」
 お母さんはうんうん、と何度も頷いた。
「でも今回のケースはそうじゃないでしょう。私は小林さんと中山君の一対一で話
し合うべきだと思ってるの。先生がいろいろ考えるのはいいし、必要だけど、他の
保護者が騒ぎ立てる話じゃない」
 何だか話が難しくて僕の頭もこんがらがってきたので、それと察したお母さんは
そこでこの話を打ち切った。

 結果としてはお母さんの予想通りだったらしい。
 小林と中山の親同士の間で話し合いが行われてとりあえず収まったらしく、吉岡
先生も気のせいか明るくなったような気がする。
 里香子のお母さんたちのグループは小林の家抜きで先生に掛け合ったらしいが、
「当事者同士でとりあえず解決しておりますので」 とやんわりと介入を断られた
らしい。一時期毎日のように里香子のお母さんたちを学校で見かけたが、そのうち
にハサミ事件そのもの自体の衝撃性も薄れ、何となく下火になっていったようだ。
他のお母さんたちもいつまでもその事を考えている暇はない、ということなのだろ
う、とお母さんは言った。

 けれど何もかもなかったように元通りと言うわけにはいかなかったようだ。
 この“参加しない宣言”によって、僕のお母さんはすっかり里香子のお母さんに
は嫌われてしまったらしい。それ以来ぴたっと電話がかかってこなくなった。でも
お母さんはもともと井戸端会議が好きではなかったので、「せいせいしたわ」 と
言って全く気にしていないようだった。
 ただ中山の事は気になるらしく、時々お母さんは僕に様子を聞いた。でも僕の目
から見た中山はそう変わったようには見えなかった。相変わらず平気な顔をして登
校して、たまに誰かを泣かせていたが、特に大きな問題も起きていなかった。


 【4】 冬、そして春へ

 そうは言っても、ハサミ事件以来クラスの様子は変わってしまった。正確に言う
と変わったのは僕達ではなく、大人たちだ。僕達にとっては幾つもの出来事の中の
一つに過ぎないが、大人たちにとっては由々しい事件なのだろう。
 又タイミングが悪いことに、ちょうどこの頃中学生や高校生による傷害事件や殺
人事件、いじめなどが幾つも起きてニュースになっていた。そういう事件が起きる
たびに里香子のお母さんを始めとする近所のお母さんたちは、集まってはひそひそ
やっているらしい。たまに下校の途中などにその横を通りかかると、ぴたっと話し
止めて僕の方を見たりする。すごく感じが悪い。これもお母さんが悪く思われてい
るせいかもしれないが、僕はお母さんが正しいと思っているので絶対うつむいたり
なんかしない。
 それにしても「友達と仲良くしなさい」 なんてよく言えると思う。大人の方が
よっぽど仲良くした方がいい。ちょっと意見が違うとこんなに対立するようじゃ、
小学校でだってやっていけないはずだ。

 二学期はハサミ事件のせいか、何回も臨時の保護者会が開かれた。
 里香子のお母さんたち、つまり一部の強硬派グループは何かあるたびにせっせと
先生の所へ通うので、先生もたまらなくなったという噂だ。一人で個別に受け答え
しているよりは、全員で話し合った方が先生も楽なのだろう。お母さんに言わせる
と、「とにかく演説したい人は演説するまでは気が済まないんだから」 というこ
とらしいが。でも幸いにもそれ以降は中山も激しく切れるという事態が起こらなか
ったので、、とりあえずは表立った対立のようなものはなくなったらしい(これは
お母さんの受け売りだ)。
 するとここで結束を固めようということなのか、先生が提案をした。
 十二月には学級会活動の時間を使ってクリスマス会をすることになっているのだ
が、飛び入りと言うかゲスト出演というか、父兄たちのプログラムを入れようとい
う。僕達はどうでもよかったので反対はしなかったけれど、お母さんたちは結構そ
の気になっているらしい。
「普段自分自身を表現したりする場がないからじゃないかな」
 などとお母さんは相変わらずきつい事を言う。そういう自分は充分仕事を通して
自己表現しているからいいのだそうだ。しかし、こういう状況で先生も心を配った
上での企画だから協力しよう、と言って参加の紙は提出した。しかし本番まで子供
達にも内緒にするように、というお達しがあったらしく、僕にも何をするのかは教
えてくれなかった。
 そして時々面倒だとぶつぶつ言いながらミーティングとやらに出かけるようにな
った。このイベントの中心的人物は里香子のお母さんなので(又そういう事が好き
なのだ!)あまり愉快ではないらしいが、そこは大人だからといって我慢している
らしい。どっちにしろお母さんはこういう場で目立とうなどとこれっぽっちも思っ
ていないので、その点妙な競争意識は持たれずに済んだらしい。

 そしてクリスマス会の日がやってきた。
 一、二時間目は授業があり、クリスマス会は三、四時間目と決められていた。僕
達は二時間目が終わったあとの二十分間の休憩時間で最後の準備をした。手品をす
る班や紙芝居をする班など、それぞれで集まって打ち合わせに忙しかった。
 でも朝から教室の外では行き来する父兄たちの姿や声がわかって、僕達は落ち着
かなかった。それを注意しながらも吉岡先生も同じだったらしく、何だかそわそわ
していた。
 三時間目が開始するチャイムの音と同時に、教室の前の入り口から先生と一緒に
保護者の大人たちがぞろぞろ入ってきた。その中には僕のお母さんもいて、僕にウ
ィンクしてみせた。お母さんが何をするのかは知らないが、どうせ裏方の仕事なん
だろう。少なくとも僕は司会だ。勝った。何が勝ったんだかよくわからないが。僕
はお母さんに向かってことさらにしかめっつらをしてやった。

 司会の僕が立ち上がり、開会宣言をするとクリスマス会は始まった。
 よくあるプログラムで、それでもわいわい楽しみながら会は進行した。
 いよいよ最後のプログラムまできた。クラスの有志の父兄たちによる劇だという
ことがここで発表された。司会もこれだけは父兄がやることになっていたので、僕
は自分の席に戻った。
「静かに! 劇を始めますよ」
 お母さんのうちの一人の合図で、大人たちは一旦外に出て行った。廊下が楽屋代
わりになるらしい。
「ではこれから、父兄有志による劇、『マッチ売りの少女』を始めます」
 『マッチ売りの少女』? 僕はびっくりした。これってマジ? 小学校四年生の
僕達が見るには幾ら何でも子供っぽすぎないだろうか。皆もそう思っているらしく、
何となくしらけた気分が漂った。中でも中山は「だっせー」 と怒鳴りながら机の
上に両足を投げ出した。司会のお母さんは、心なしか中山の方を見ないようにして
お辞儀をして後ろに下がった。そしてドアを開けて合図した。

 前のドアが開いて、女の人の扮装をした人が入ってきた。奇妙に光るオレンジ色
のブラウスに長い黒いスカート。草で編んだような籠を持って銀ラメの入ったシ
ョールを巻きつけた姿は、女の子というよりはお婆さんみたいだった。
 「変なのー」「誰のお母さん?」 などの声が飛ぶ中で、その人がこちらを向い
た。やたら濃い口紅につけまつげをしていて、水色の毛糸の偽物の髪の毛がショー
ルの下からはみ出している。これは女じゃない。誰だろう……。その時その人が口
を開いた。
「マッチは要りませんか? どなたかマッチを買ってください」
「げーっ」「気持ちわりー」「やだー」 などの声が上がる。教室は騒然とした。
本人もにやにやしている。
 その時僕は急に思い出した。一度だけ日曜日に中山の家に行った時に、あいつの
お父さんに会った事がある。今はメガネをかけていないけれど、これは中山のお父
さんだ! 間違いない。その時の生真面目そうな顔を思い出すとおかしさがこみあ
げてきた。
「やるじゃん、おまえのお父さん」
 と言おうとして中山の方を向いた途端、僕の言葉も笑いもぴたっと引っ込んでし
まった。中山は恐ろしい顔をして女の格好をした父親を睨みつけていたのだ。それ
は思わず僕が彼のそばから椅子を遠ざけてしまうほどの迫力ある顔だった。

 その時、前の方から「あれ、中山のお父さんじゃん」という声が聞こえた。誰か
が気がついたらしい。その途端、中山は椅子を蹴倒して立ち上がり、教室から飛び
出した。慌てて吉岡先生が追いかけようとしたとき、「私が行きますから」 と言
って先生を押し留めたのが僕のお母さんだった。
 皆がぽかんとしている間に、お母さんは中山を追いかけて走っていってしまった。
 中山のお父さんは女の格好のままで居心地悪そうにしていたが、先生が「さあ、
続けましょう」 と声をかけたので、劇はそのまま進んだ。そして何となく気が抜
けたまま無事劇は終了した。覚えているのは里香子のお母さんの天使の役がとても
似合っていたことくらいだ。性格も見た目通りだったらいいのに。いつか里香子も
こんなふうになるんだろうか。
 中山と僕のお母さんは、会が終わっても教室に戻ってこなかった。
 二人は抜きで、クリスマス会は終わった。これでよかったんだろうか。何か後味
が悪かった。

 家に帰る途中、僕はずっと考え続けていた。
 なぜ中山はあんなに怒ったんだろう? お父さんがふざけた格好をして皆の前に
出てきたからだろうか。だけどいつも中山は「親父なんか大嫌いだ」 と言ってる
じゃないか。それなら何をしようと平気じゃないんだろうか。皆と一緒に笑えると
思う。
 それともそんなお父さんを皆に見られるのが恥ずかしかったんだろうか。それな
らお父さんも中山に教えておけばいいのに、どうして黙っていたんだろう。
 お母さんはちゃんと中山をつかまえられたんだろうか? 中山はお母さんになら
理由を話すだろうか。
 もしかしたら、中山の死んだお母さんは僕のお母さんに似ているんだろうか。

 家に帰ると誰もいなかった。僕は一人でずっとゲームをして過ごした。途中で里
香子のお母さんから電話がかかってきた。お母さんは留守だと言ったら、
「中山君のうちに行ったのかしら? 知らない?」
 ときた。そんなこと知るもんか。知っていたとしてもこの人に教えたいとは思わ
なかった。知りません、とただそれだけ言ったら電話はあっさり切れた。
 夜暗くなって六時を過ぎてから、ようやくお母さんが帰ってきた。
「遅くなってごめん、中山君と一緒にいたの。で、さっき家まで送ってきたとこ
ろ」
「あいつ、大丈夫だった?」
 僕は何よりもそれが気になった。お母さんは疲れたようにリビングの椅子に座り
込んだが、顔つきは明るかった。
「大丈夫よ。ちょっとショックを受けただけだから」
「やっぱりお父さんがあんな格好してたから?」
「いや、それよりも、一番はお父さんが参加したことだと思うわよ。今まで一度も
中山君のお父さん、ああいう行事に参加していないでしょう?」
「そりゃ仕事があるもんね」
「そう。それがいきなりあれじゃ、誰だって驚くよ。しかもちょっと極端だから
ね」
 僕はお父さんの今日の姿を思い出し、思わず吹き出してしまった。お母さんも笑
ったけれど、その目は真面目だった。
「さっきお父さんとも話してきたんだけどね、やっぱり気にしてたんだよねえ、中
山君のこと」
「あいつ親父なんか嫌いだっていつも言ってる」
「それも本気。そして好きなのも本気。人ってそんなものよ。単純なら誰も悩まな
いんだけど。あんただってそういうことあるでしょ?」
 うーん、ちょっと難しい。
「私は今回劇に直接関係していたわけじゃないの。脚本の方を手伝っていただけだ
から、誰が何をやるのかも知らなかったんだけど、中山君のお父さんは随分先生に
相談していたみたい。やっぱり皆に迷惑かけたし、何か自分も参加したいって自分
から申し出たんだって。で、中山君も驚かそうと思って黙ってたのね」
 そうだったのか。だから中山は知らなかったんだ。
「そんな話もね、中山君の前でしたのよ、お父さん。もしかしたらあの二人、ちゃ
んと話なんかしたのはこれが初めてかもしれない。中山君、黙りこくって聞いてた
っけ」
「どんな話したの?」
「お父さんはね、何があってもおまえの味方をするって。おまえを信じてるってそ
う言った。今までろくに話す時間も取れなくていつもお祖母ちゃんに任せきりだっ
たこともいつもすまないと思ってたって」
「―― あいつ、何て答えたの?」
「何にも。そうドラマみたいにすぐうまくはいかないわよ。でもね、きっとうまく
いく。そばにいて見ていてそう感じた」
 そうか。お父さんはそんな話をあいつにしたのか。あいつはどんな顔をして聞い
ていたんだろう。
「腹を割って話をして、会話が成立すれば大抵のことは理解し合える。私はそう思
ってる」
「そうだよね。あいつ、きっとうまくいくよね」
「根は素直な子よ、中山君は。心さえ開けばもう大丈夫。…… さ、ご飯の支度し
なきゃ。ちょっと待ってて」
 と言いながら立ち上がったお母さんに、僕は言った。
「おやつ食べてたし急がなくていいよ。そんなに腹減ってない」
「うん、まあ簡単にさせてもらうけどね」
 お母さんはキッチンに行って冷蔵庫から何かをごそごそ取り出し始めた。そして、
ふと僕の方を振り向くと、
「あのお父さんが使っていたショールね、亡くなったお母さんが良く使っていたん
だって」
 とぽつんと言った。僕は理由もなく泣きたいような気持ちになり、慌てて自分の
部屋に退却した。

 翌日、中山は何事もなかったような顔をして登校してきた。
 昨日、一日の終わりの会のときに先生がみんなに、
「明日中山君の事をからかったりしては駄目ですよ。誰だって自分のお父さんの事
をからかわれたりするのは嫌でしょう?」
 と釘をさしていたせいか、誰も表立ってその話を持ち出すやつはいなかった。も
っともそんな事を言われなくても、中山に面と向かってそんな話を持ち出す勇気の
あるやつはいないと思うが。どんな反応が返ってくるか考えただけで怖い。

 僕はその日一日、皆と同じように中山にその話はしなかった。
 でも、僕はどうしても少しだけでも中山の気持ちが知りたかった。それで授業が
全部終わった時に、
「おまえのお父さんさ、おまえを喜ばそうとして劇に出たんじゃないの?」
 と思い切って中山に訊ねてみた。すると中山が、振り向きざまに思いっきり僕の
下腹部に膝蹴りを入れてきた。それは猛烈にきいて、しばらく立てないほどだった。
「くだらねえこと言うなよ。今度言ったら今の百倍きついのしてやる」
 中山は怒ったように言った。僕は苦しさのあまり返事もできなかったが、やっと
のことで中山の顔を見ると、怒っていながらも何だか妙な表情を浮かべているのが
わかった。まるで恥ずかしいところを見られたときのような。
 やっぱりそうか…… 僕はやっと納得できた。中山は本当はお父さんが好きなん
だ。でもどういうわけかわからないけど、そうじゃない振りをしていたんだ。
 僕はずっと解けなかった算数の答えを見つけたようで、急にすっきりした。
 そして、
「今日は僕んち来る?」
 と言うと、中山はちょっと驚いたような顔をして僕を見た。僕の方から中山を誘
うことはめったにないからだろう。
「おまえんちのゲーム、もう全部クリアしちゃったからな。おやつも買ったのばか
りだしさ。でもまあいいか、行ってやる」
 全く素直じゃないんだから。僕はそう心の中で呟いた。口にしなかったのはもう
一回殴られるのは勘弁して欲しかったからだ。

 僕達は一緒に校門を出た。
「うわっ、寒いなー」
 急に吹きつけてきた北風に僕が思わず首をすくめると、中山はせせら笑って、
「だらしねえな。こんなの走ればすぐあったかくなるぞ。おい、競走だ!」
 と言うなり、僕の返事も待たずに走り出した。
 体力では中山にはかなわない。僕が慌てて追いかけてもぐんぐん距離は離されて
いく。僕の家に着くまでに追いつく事はできそうもない。
「くそっ」
 僕は中山の背中を見つめながら思いっきり走った。いつかきっと抜いてやる、と
思った。
 背中でランドセルが揺れてガタガタ鳴った。   (完)    

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 翠川奈緒子氏のホームページ

 →「NAOKO'S WORLD」 http://www5e.biglobe.ne.jp/~naocolum/

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                 カンソな書評

          星々の舟  村上由佳  文藝春秋

 素材としてはすでに取り上げられたことのあるいくつか(近親相姦、不倫愛、団
塊の閉塞、いじめ、戦争記憶などなど)をミックスして、家族それぞれの視点で語
られる連作短編集。出だしから最後まで悲しくつらい話ばかりですが、それでも作
者が安易な救いや癒しを提供しないストーリーはなかなか重く、しかも、読後感は
悪くないという異色作。基本的には恋愛小説だと思うけれど、自信ありません。

 予定調和をかたくなに否定した小説、とも言えるかもしれないのですが、私はあ
る意味、宮部みゆきの「模倣犯」と手法が似ているとも感じました。ひとつの家族
の中で、互いに絡み合う思惑やそれぞれに展開される個別のストーリーを、章ごと
に異なる登場人物の単一視点から描くことで、読み手は、舞台となっている水島工
務店に流れる時間を天上から眺めているような錯覚を覚えます。ここで提起されて
いる問題は、模倣犯とはずいぶん異なるけれども、それぞれの登場人物が吐く息や
叫びは読み手に生々しく響いてきます。129回直木賞作品。恋愛小説に倦んだ人
にもお薦め。
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       メルマガタイトル:テキスト版月刊ノベル10月号A
            発行日:平成15年10月1日
          総発行部数:1,100部 
          編集・発行:mbooks(文責:ミヤザキ)
            連絡先:mbooks@mail.goo.ne.jp
         ホームページ:http://www2c.biglobe.ne.jp/~joshjosh/
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