僕らの季節

翠川奈緒子

 【4】 冬、そして春へ

 そうは言っても、ハサミ事件以来クラスの様子は変わってしまった。正確に言うと変わったのは僕達ではなく、大人たちだ。僕達にとっては幾つもの出来事の中の一つに過ぎないが、大人たちにとっては由々しい事件なのだろう。
 又タイミングが悪いことに、ちょうどこの頃中学生や高校生による傷害事件や殺人事件、いじめなどが幾つも起きてニュースになっていた。そういう事件が起きるたびに里香子のお母さんを始めとする近所のお母さんたちは、集まってはひそひそやっているらしい。たまに下校の途中などにその横を通りかかると、ぴたっと話し止めて僕の方を見たりする。すごく感じが悪い。これもお母さんが悪く思われているせいかもしれないが、僕はお母さんが正しいと思っているので絶対うつむいたりなんかしない。
 それにしても「友達と仲良くしなさい」 なんてよく言えると思う。大人の方がよっぽど仲良くした方がいい。ちょっと意見が違うとこんなに対立するようじゃ、小学校でだってやっていけないはずだ。

   二学期はハサミ事件のせいか、何回も臨時の保護者会が開かれた。
 里香子のお母さんたち、つまり一部の強硬派グループは何かあるたびにせっせと先生の所へ通うので、先生もたまらなくなったという噂だ。一人で個別に受け答えしているよりは、全員で話し合った方が先生も楽なのだろう。お母さんに言わせると、「とにかく演説したい人は演説するまでは気が済まないんだから」 ということらしいが。でも幸いにもそれ以降は中山も激しく切れるという事態が起こらなかったので、とりあえずは表立った対立のようなものはなくなったらしい(これはお母さんの受け売りだ)。
 するとここで結束を固めようということなのか、先生が提案をした。
 十二月には学級会活動の時間を使ってクリスマス会をすることになっているのだが、飛び入りと言うかゲスト出演というか、父兄たちのプログラムを入れようという。僕達はどうでもよかったので反対はしなかったけれど、お母さんたちは結構その気になっているらしい。
「普段自分自身を表現したりする場がないからじゃないかな」
 などとお母さんは相変わらずきつい事を言う。そういう自分は充分仕事を通して自己表現しているからいいのだそうだ。しかし、こういう状況で先生も心を配った上での企画だから協力しよう、と言って参加の紙は提出した。しかし本番まで子供達にも内緒にするように、というお達しがあったらしく、僕にも何をするのかは教えてくれなかった。
 そして時々面倒だとぶつぶつ言いながらミーティングとやらに出かけるようになった。このイベントの中心的人物は里香子のお母さんなので(又そういう事が好きなのだ!)あまり愉快ではないらしいが、そこは大人だからといって我慢しているらしい。どっちにしろお母さんはこういう場で目立とうなどとこれっぽっちも思っていないので、その点妙な競争意識は持たれずに済んだらしい。

 そしてクリスマス会の日がやってきた。
 一、二時間目は授業があり、クリスマス会は三、四時間目と決められていた。僕達は二時間目が終わったあとの二十分間の休憩時間で最後の準備をした。手品をする班や紙芝居をする班など、それぞれで集まって打ち合わせに忙しかった。
 でも朝から教室の外では行き来する父兄たちの姿や声がわかって、僕達は落ち着かなかった。それを注意しながらも吉岡先生も同じだったらしく、何だかそわそわしていた。
 三時間目が開始するチャイムの音と同時に、教室の前の入り口から先生と一緒に保護者の大人たちがぞろぞろ入ってきた。その中には僕のお母さんもいて、僕にウィンクしてみせた。お母さんが何をするのかは知らないが、どうせ裏方の仕事なんだろう。少なくとも僕は司会だ。勝った。何が勝ったんだかよくわからないが。僕はお母さんに向かってことさらにしかめっつらをしてやった。

   司会の僕が立ち上がり、開会宣言をするとクリスマス会は始まった。
 よくあるプログラムで、それでもわいわい楽しみながら会は進行した。
 いよいよ最後のプログラムまできた。クラスの有志の父兄たちによる劇だということがここで発表された。司会もこれだけは父兄がやることになっていたので、僕は自分の席に戻った。
「静かに! 劇を始めますよ」
 お母さんのうちの一人の合図で、大人たちは一旦外に出て行った。廊下が楽屋代わりになるらしい。
「ではこれから、父兄有志による劇、『マッチ売りの少女』を始めます」
 『マッチ売りの少女』? 僕はびっくりした。これってマジ? 小学校四年生の僕達が見るには幾ら何でも子供っぽすぎないだろうか。皆もそう思っているらしく、何となくしらけた気分が漂った。中でも中山は「だっせー」 と怒鳴りながら机の上に両足を投げ出した。司会のお母さんは、心なしか中山の方を見ないようにしてお辞儀をして後ろに下がった。そしてドアを開けて合図した。

 前のドアが開いて、女の人の扮装をした人が入ってきた。奇妙に光るオレンジ色のブラウスに長い黒いスカート。草で編んだような籠を持って銀ラメの入ったショールを巻きつけた姿は、女の子というよりはお婆さんみたいだった。
 「変なのー」「誰のお母さん?」 などの声が飛ぶ中で、その人がこちらを向いた。やたら濃い口紅につけまつげをしていて、水色の毛糸の偽物の髪の毛がショールの下からはみ出している。これは女じゃない。誰だろう……。その時その人が口を開いた。
「マッチは要りませんか? どなたかマッチを買ってください」
「げーっ」「気持ちわりー」「やだー」 などの声が上がる。教室は騒然とした。本人もにやにやしている。
 その時僕は急に思い出した。一度だけ日曜日に中山の家に行った時に、あいつのお父さんに会った事がある。今はメガネをかけていないけれど、これは中山のお父さんだ! 間違いない。その時の生真面目そうな顔を思い出すとおかしさがこみあげてきた。
「やるじゃん、おまえのお父さん」
 と言おうとして中山の方を向いた途端、僕の言葉も笑いもぴたっと引っ込んでしまった。中山は恐ろしい顔をして女の格好をした父親を睨みつけていたのだ。それは思わず僕が彼のそばから椅子を遠ざけてしまうほどの迫力ある顔だった。

 その時、前の方から「あれ、中山のお父さんじゃん」という声が聞こえた。誰かが気がついたらしい。その途端、中山は椅子を蹴倒して立ち上がり、教室から飛び出した。慌てて吉岡先生が追いかけようとしたとき、「私が行きますから」 と言って先生を押し留めたのが僕のお母さんだった。
 皆がぽかんとしている間に、お母さんは中山を追いかけて走っていってしまった。
 中山のお父さんは女の格好のままで居心地悪そうにしていたが、先生が「さあ、続けましょう」 と声をかけたので、劇はそのまま進んだ。そして何となく気が抜けたまま無事劇は終了した。覚えているのは里香子のお母さんの天使の役がとても似合っていたことくらいだ。性格も見た目通りだったらいいのに。いつか里香子もこんなふうになるんだろうか。
 中山と僕のお母さんは、会が終わっても教室に戻ってこなかった。
 二人は抜きで、クリスマス会は終わった。これでよかったんだろうか。何か後味が悪かった。

   家に帰る途中、僕はずっと考え続けていた。
 なぜ中山はあんなに怒ったんだろう? お父さんがふざけた格好をして皆の前に出てきたからだろうか。だけどいつも中山は「親父なんか大嫌いだ」 と言ってるじゃないか。それなら何をしようと平気じゃないんだろうか。皆と一緒に笑えると思う。
 それともそんなお父さんを皆に見られるのが恥ずかしかったんだろうか。それならお父さんも中山に教えておけばいいのに、どうして黙っていたんだろう。
 お母さんはちゃんと中山をつかまえられたんだろうか? 中山はお母さんになら理由を話すだろうか。
 もしかしたら、中山の死んだお母さんは僕のお母さんに似ているんだろうか。

 家に帰ると誰もいなかった。僕は一人でずっとゲームをして過ごした。途中で里香子のお母さんから電話がかかってきた。お母さんは留守だと言ったら、
「中山君のうちに行ったのかしら? 知らない?」
 ときた。そんなこと知るもんか。知っていたとしてもこの人に教えたいとは思わなかった。知りません、とただそれだけ言ったら電話はあっさり切れた。
 夜暗くなって六時を過ぎてから、ようやくお母さんが帰ってきた。
「遅くなってごめん、中山君と一緒にいたの。で、さっき家まで送ってきたところ」
「あいつ、大丈夫だった?」
 僕は何よりもそれが気になった。お母さんは疲れたようにリビングの椅子に座り込んだが、顔つきは明るかった。
「大丈夫よ。ちょっとショックを受けただけだから」
「やっぱりお父さんがあんな格好してたから?」
「いや、それよりも、一番はお父さんが参加したことだと思うわよ。今まで一度も中山君のお父さん、ああいう行事に参加していないでしょう?」
「そりゃ仕事があるもんね」
「そう。それがいきなりあれじゃ、誰だって驚くよ。しかもちょっと極端だからね」
 僕はお父さんの今日の姿を思い出し、思わず吹き出してしまった。お母さんも笑ったけれど、その目は真面目だった。
「さっきお父さんとも話してきたんだけどね、やっぱり気にしてたんだよねえ、中山君のこと」
「あいつ親父なんか嫌いだっていつも言ってる」
「それも本気。そして好きなのも本気。人ってそんなものよ。単純なら誰も悩まないんだけど。あんただってそういうことあるでしょ?」
 うーん、ちょっと難しい。
「私は今回劇に直接関係していたわけじゃないの。脚本の方を手伝っていただけだから、誰が何をやるのかも知らなかったんだけど、中山君のお父さんは随分先生に相談していたみたい。やっぱり皆に迷惑かけたし、何か自分も参加したいって自分から申し出たんだって。で、中山君も驚かそうと思って黙ってたのね」
 そうだったのか。だから中山は知らなかったんだ。
「そんな話もね、中山君の前でしたのよ、お父さん。もしかしたらあの二人、ちゃんと話なんかしたのはこれが初めてかもしれない。中山君、黙りこくって聞いてたっけ」
「どんな話したの?」
「お父さんはね、何があってもおまえの味方をするって。おまえを信じてるってそう言った。今までろくに話す時間も取れなくていつもお祖母ちゃんに任せきりだったこともいつもすまないと思ってたって」
「―― あいつ、何て答えたの?」
「何にも。そうドラマみたいにすぐうまくはいかないわよ。でもね、きっとうまくいく。そばにいて見ていてそう感じた」
 そうか。お父さんはそんな話をあいつにしたのか。あいつはどんな顔をして聞いていたんだろう。
「腹を割って話をして、会話が成立すれば大抵のことは理解し合える。私はそう思ってる」
「そうだよね。あいつ、きっとうまくいくよね」
「根は素直な子よ、中山君は。心さえ開けばもう大丈夫。…… さ、ご飯の支度しなきゃ。ちょっと待ってて」
 と言いながら立ち上がったお母さんに、僕は言った。
「おやつ食べてたし急がなくていいよ。そんなに腹減ってない」
「うん、まあ簡単にさせてもらうけどね」
 お母さんはキッチンに行って冷蔵庫から何かをごそごそ取り出し始めた。そして、ふと僕の方を振り向くと、
「あのお父さんが使っていたショールね、亡くなったお母さんが良く使っていたんだって」
 とぽつんと言った。僕は理由もなく泣きたいような気持ちになり、慌てて自分の部屋に退却した。

   翌日、中山は何事もなかったような顔をして登校してきた。
 昨日、一日の終わりの会のときに先生がみんなに、
「明日中山君の事をからかったりしては駄目ですよ。誰だって自分のお父さんの事をからかわれたりするのは嫌でしょう?」
 と釘をさしていたせいか、誰も表立ってその話を持ち出すやつはいなかった。もっともそんな事を言われなくても、中山に面と向かってそんな話を持ち出す勇気のあるやつはいないと思うが。どんな反応が返ってくるか考えただけで怖い。

   僕はその日一日、皆と同じように中山にその話はしなかった。
 でも、僕はどうしても少しだけでも中山の気持ちが知りたかった。それで授業が全部終わった時に、
「おまえのお父さんさ、おまえを喜ばそうとして劇に出たんじゃないの?」
 と思い切って中山に訊ねてみた。すると中山が、振り向きざまに思いっきり僕の下腹部に膝蹴りを入れてきた。それは猛烈にきいて、しばらく立てないほどだった。
「くだらねえこと言うなよ。今度言ったら今の百倍きついのしてやる」
 中山は怒ったように言った。僕は苦しさのあまり返事もできなかったが、やっとのことで中山の顔を見ると、怒っていながらも何だか妙な表情を浮かべているのがわかった。まるで恥ずかしいところを見られたときのような。
 やっぱりそうか…… 僕はやっと納得できた。中山は本当はお父さんが好きなんだ。でもどういうわけかわからないけど、そうじゃない振りをしていたんだ。
 僕はずっと解けなかった算数の答えを見つけたようで、急にすっきりした。
 そして、
「今日は僕んち来る?」
 と言うと、中山はちょっと驚いたような顔をして僕を見た。僕の方から中山を誘うことはめったにないからだろう。
「おまえんちのゲーム、もう全部クリアしちゃったからな。おやつも買ったのばかりだしさ。でもまあいいか、行ってやる」
 全く素直じゃないんだから。僕はそう心の中で呟いた。口にしなかったのはもう一回殴られるのは勘弁して欲しかったからだ。

 僕達は一緒に校門を出た。
「うわっ、寒いなー」
 急に吹きつけてきた北風に僕が思わず首をすくめると、中山はせせら笑って、
「だらしねえな。こんなの走ればすぐあったかくなるぞ。おい、競走だ!」
 と言うなり、僕の返事も待たずに走り出した。
 体力では中山にはかなわない。僕が慌てて追いかけてもぐんぐん距離は離されていく。僕の家に着くまでに追いつく事はできそうもない。
「くそっ」
 僕は中山の背中を見つめながら思いっきり走った。いつかきっと抜いてやる、と思った。
 背中でランドセルが揺れてガタガタ鳴った。   (完)


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