密封された想い
蒼井上鷹
珍しく田舎の伯母から宅急便が届いた。中身は本が十冊ほど。どの本にもカバーがかかっている。書店の名前入りのカバーと手製のカバー、比率は半々くらいだ。
短い手紙が添えられていた。
『法事の後で、こんなものが見つかりました。お祖父さんが入院中に読んでいた本だと思います。推理小説が多いので総司に送ります』
法事というのは、先月のことだろう。祖母の二十三回忌と祖父の十三回忌をまとめてとりおこなったのだ。
スーツも脱がずに、一冊とって中を開くと、メモ用紙が挟んであった。『第三のうそ アゴタ・クリストフ』と読める。色あせたボールペンの文字に見覚えがあった。
十数年前の冬、入院した祖父を見舞いに行ったときのことだ。僕はまだ小学生だった。
病室の入口には『秋本宗次(あきもとむねつぐ)』という祖父の名札だけがかかっていた。
祖父は白地に紺の模様の入った寝巻きを着て、ベッドに横になっていた。眼鏡の下の頬骨が浮き出ていて、何だか気味が悪かった。
なぜか両親が席を外し、僕は寒々とした病室に祖父と二人きりで残された。
枕元には何冊もの本が積み上げられていた。あの時祖父が読んでいたのは……たしか、アゴタ・クリストフの『ふたりの証拠』。『悪童日記三部作』の二作目だ。何か話題をみつけようと、書名を祖父に尋ねたのを覚えている。
「もうじき読み終わるから、ここを出たら総司にあげるよ」と祖父は笑った。喉がひゅうひゅう鳴って、聞き苦しかった。
「面白いの?」
「面白いぞ。総司くらいの子供が出てくる」
「ふうん」ガキ向けか、と生意気盛りだった僕は内心馬鹿にした。
祖父は皺だらけの指先で本の表紙を撫でた。
「今度続きを買ってきてくれないか。もう読むものがなくなった」メモ用紙を一枚破りとると、リューマチ患者用の太いボールペンで、タイトルと著者名を書き込んだ。
記憶はそこで途切れているが、この本に挟んであるということは、僕はそのメモを忘れて帰ったのだろう。
今思えば、続編の『第三の嘘』は、当時まだ翻訳されていなかった。書名と評判だけが伝わっていたのだ。実際に出版されたときには、祖父はもうこの世にいなかった。
祖父が癌だったと聞かされたのは、葬式が済んでからのことだ。最後まで本人には告知しなかったという。
手にした本を閉じようとして、扉に記されたタイトルに目がいった。一度は読み流しかけた文字の意味を理解したとき、手が硬直した。もう一度扉を開き、震える指で手製のカバーを外す。溜息が漏れた。目の前に現れたものが信じられない。
真池稲州(まいけいねす)著の『密封された闇』。それも、ほとんど新品同様の。
真池稲州は、戦後早くにデビューし、一部で高い評価を得ながらも、いつしか消えてしまった探偵作家だ。『密封された闇』は唯一の長編だが、発表直後に出版社が倒産するという不幸に見舞われ、殆どが散逸してしまった。
その後の作者の消息も不明で、長らく『失われた傑作』という噂だけが伝えられていたが、最近、熱心なマニアたちの後押しによって、新装版が出され、かなりの評判になった。
僕も夢中になったファンの一人だ。
死者の遺言による殺人予告という発端から、自称『名探偵』達が次々に殺されていく意外な展開、そして最後のどんでん返しまで、息つく暇もないほどの面白さだった。
発表当時の旧仮名遣いのまま復刊されたので、懐かしいとすら感じた。
まだ二十代半ばでこんなことを言うと奇妙に聞こえるかもしれないが、これには理由がある。
偶然だが、これもまた祖父がらみの話だ。
毎年夏休みや冬休みになると、僕は両親に連れられて田舎の祖父の家へ行き、休みの大半をそこで過ごした。
祖母は僕の幼い頃に亡くなっていたので、母親にとっては、祖父の世話をするのが帰省の主な理由だったようだ。そんな事情を知らない僕は、時間をつぶすのに苦労した。
夏はまだ良い。海が近かったからだ。問題は冬休みだ。年末年始は、大人は何かと忙しい。もともと祖父はあまり僕をかまってくれなかった。近くに年齢の近い子供がいるわけでもなく、テレビのチャンネル数も少ない。
暇をもてあました僕は、家中のあちこちに鼻を突っ込んで、面白いものがないか探し回った。押入れで古い段ボール箱を見つけたのは、そんなときだ。ガムテープをはがすと、独特の臭気が鼻の奥をくすぐった。
箱の中身は本だった。びっしり隙間なく詰め込まれている。一番上の本の、荒海を描いた表紙が気になった。
中を開くと、『ぢや』とか『さうですか』とか『/\/\』とか、見慣れない表記で一杯だったが、なぜか興味をひかれ、その場に座り込んで一気に読み通してしまった。難しい漢字も多かったが、ふりがなが振ってあるので平気だった。
読み終えてふと顔を上げると、ちょうど顎の高さに段ボール箱の口があった。薄暗い押入れの奥に目をやると、同じような箱は、まだ幾つもあるようだ。
僕は次の本に手を伸ばした。
僕が勝手に本を持ち出したことを知っても、祖父は黙っていた。何か言いたげな祖父の顔を見たような気もするのだが、よくある記憶の編集作用によるものかもしれない。
ただ、それ以来、祖父の家に行くのが待ち遠しくなったのは事実だ。
何冊かの本には、万年筆で簡単な感想が書き込まれていた。書いたのは祖父だろう。それを見つけるのも、楽しみの一つだった。
祖父自身の好きな作家は誰だったのだろう。今、箱の中身を思い返してみると、昔はかなりの探偵小説マニアだったことが想像できるのだが、僕の知る祖父は、近くの古書店で百円均一の本を探す程度で満足していた。そういう本は、店名入りのカバーがかかっているのですぐ見分けがついた。
一度だけ、祖父が本のことで興奮しているところを見たことがある。
祖父の家の前は、緩やかな坂道になっていた。ある夏の夕暮れ時、僕が海水浴から帰ってくると、サンダル履きで坂を上っていく祖父の後姿が見えた。
普段はスローな祖父の足取りが、そのときは、追いつくのに苦労するほど軽かった。
「どこ行ってたの」
「これをな、やっと見つけた」祖父は、胸に抱えている本を軽くたたいた。
「なにそれ」
「じいちゃんがずーっと探していた本」
立ち止まって見せてくれたその本の表紙は真っ黒で、白字のタイトルだけが浮き出ていた。僕は手を伸ばした。
「だめだよ。本が濡れる」反射的に身をかわされて、僕はややむっとした。
「それ、そんなに面白いの」
「ああ」祖父は何度もうなずいた。
「もう読んだの」
「これはまだだ」
「まだなのに、なんで面白いってわかるの」
「わかるさ」祖父は更に足を速めた。じっとしていられないようだった。
その数日後、庭の物置を整理していた祖父は、突然倒れて入院し、二度と家には戻ってこなかった。
こんなことまで思い出したのは、目の前の黒い背表紙に見覚えがあったからだ。
(あの時の本だ)
あの夏の夕方、入院直前の祖父が抱えていた本が、この『密封された闇』だったに違いない。そう言えば、真池稲州は、祖父の田舎に住んでいたと聞く。
ゆっくりと頁をめくる。既に新装版を読んでいるが、それでも引き込まれた。
残り二十頁ほど、いよいよ真相解明というところで、その本は袋とじになっていた。
それは、破られないままになっていた。
(こりゃすごい)
袋とじが未開封の『密封された闇』なんて、どれほどの値打ちがあるのか想像もつかない。
動悸が激しくなる。座っていられなくなった僕は、本を抱えて部屋の中を歩き回った。
(未開封のまま残っているのは、この一冊だけかも知れない)
袋とじを切り開かなければ解決編を読むことはできない。この本を手にして、解決編を読まずに我慢できる人がいるとは思えない。
(読むことはできない?)
足が止まった。大変なことに気づいたのだ。
袋とじのままになっているということは、祖父がこの本を最後まで読まなかったことを意味する。
椅子に腰を下ろす。急に部屋の寒さが気になりだした。
この本を手に入れたとき、祖父はあんなに喜んでいた。もし読み終えずに亡くなったのだとしたら、あまりに悲しすぎる。
こんな些細なことが、たまらなく気になるのは、『第三の嘘』――やはり祖父が読めなかった本――のことが頭にあるせいだろうか。
病院に持っていかなかったのか。いや、手紙によれば、『入院中に読んでいた』のだから、それはありえない。僕が見舞いに行ったとき『もう読むものがない』と言っていたから、時間がなかったとも思えない。
それとも、やはり昔読んだことがあったのか。僕に『まだ読んでない』と言ったのは、貴重な本に触らせないための言い訳だったのかもしれない。病院にまで持っていったのは、大事なものを手放したくなかったからだろう。
或いは、誰かに譲るつもりで手元に置いておいたのか。袋とじを破れば値打ちが下がるので、そのままにしたとも考えられる。
ただ……それならもっと大切に扱うのではないか。たまたま僕は値打ちを知っていたが、そうでなければあっさり袋とじを破ったり、古書店に売り飛ばしたりしたかもしれない。現に、あの段ボール箱一杯の本も、祖父の死後いつの間にかどこかへいってしまった。
祖父自身がこの本の値打ちを知っていたかどうかも疑問だ。祖父はどう見ても収集家とはいえない。高価な古書も持っていなかった。
僕は考え続けた。部屋の暖房もつけず、着替えもせぬままで。
三十分後、僕は祐介の部屋に押しかけた。『密封された闇』を見せるため、そして自分の胸のつかえを降ろすために。
祐介とは同期入社の仲だ。寮も同じ、研修時のクラスも一緒で、自然と言葉を交わすようになった。そのうちに二人ともミステリ好きとわかると、話題は一気にディープな方向へ傾斜した。僕が本社総務、彼が研究所と勤務地が別れたのは、むしろ幸いだった。そうでなければ、二人とも話に夢中で仕事が手につかなかったかもしれない。
案の定祐介は興奮した。
「確かこの本の初版部数は……」呟きながらパソコンに向かい、ネットに接続する。
「おい何してる」
「見ればわかるだろう。早速オークションに」
「待ってくれ」マウスを操作する祐介の手を押さえた。祖父の行動が腑に落ちないままで、そんなことはできない。
「でも、お前に譲るつもりだったのは事実らしいぞ」祐介は本の奥付を開いてみせた。先ほどは気づかなかったが、そこには『そうじさま江 深謝』と書き込みがしてあった。
さまづけで呼ばれた記憶などもちろんない。
「これも一種の遺言だよ。それだけお前のことを大事に思っていたんだろう」
「子供が三人とも女で、男の孫はおれが初めてだとは聞いたけどなあ」
面映い。僕は愛想の良い子供ではなかった。
こだわる僕を、祐介はおかしそうに見た。
「作者からの贈り物っていうのはどうだ」
「どういう意味だ」
「お前のお祖父さんが真池稲州なのかも」
僕は思わず祐介を見返した。その表情からは、冗談か本気か判別できない。
「……まさか」
「いやいやわからないぞ。知ってるだろう。真池稲州は筆名で、その正体は不明なんだ」
真池稲州が祖父の実家付近に住んでいたという話を思い出した。
「お祖父さんの仕事は?」
「郵便局。役職までは知らない」
「そういうことはちゃんと聞いとけよ」祐介は文句をつける。「でも郵便局なら、出版社と無関係ではないな」
どういう理屈だ。
「一応辻褄が合うじゃないか」祐介の推理は止まらない。「作者なら、当然内容は知っているし、自分の本と再会して喜ぶ気持ちもわかる。それをお前に譲ってもおかしくない」
「でも、そんな話、親からも親戚からも聞いたことがない」
「誰も知らなかったんだよ。真池稲州が活躍したのは昭和二十五年までで、それ以降、彼の名前は探偵小説の世界から消失してしまった。お前の親は何年生まれだ?」
僕は暗算した。末っ子の母は昭和三十年生まれだ。伯母たちとは三歳ずつ離れている。
祐介は手を打った。「子育てが大変で、小説を書くどころじゃなかったんだ。多分周りに内緒で書いていたんだろうし。秘密を知っていたのは奥さんくらいじゃないか」
「奥さんか」祖父の奥さん、つまり祖母のことはよく知らない。
「もしそうなら……すごいぞ。「初版『密封された闇』未開封本、それも作者のサインつき」
「サインじゃないだろう」
「よくそんなに冷静でいられるな。自分が幻の探偵作家の孫かもしれないっていうのに」
「実感が湧かないんだよ。だいたいじいちゃんが作者なら、はっきりと、それこそサインでも残してくれたっていいじゃないか」
僕は本を取り上げて奥付の上の書き込みを改めて見直し――息が止まりそうになった。
「おい、どうした」
「……これ、万年筆で書いた字だ」
祐介が戸惑ったような顔をした。
「じいちゃんはリューマチで、専用のボールペンでないと字が書けなくなっていた」
つまりこれは祖父の書いたものではない。
「じゃあ誰が書いたんだよ」
どこかで見たことのある字だ。記憶の断片が、思考の渦の中で浮かんでは消える。
「カバーだ」
「なんだよいきなり」
僕は本のカバーを指先で弾いた。
「手製のカバーだろ。ということは、これは古書店で買った本じゃないんだ」
例の古書店なら、百円均一の文庫本でも専用のカバーをかけてくれたはずだ。
それに、あの日祖父が抱えていた本の、黒い表紙の映像が目に焼きついている。カバーは、なかったのだ。
「古書店でないとすると、この本はどこにあったんだ」祐介は眉を寄せた。
「実家のどこか。多分、物置の中だと思う」
あの頃、祖父は庭の物置の整理をしていた。
もう一つ思い出した。あの書き込みは、昔読みふけった本の書き込みと同じ筆跡だ。
「そういう妙なことは覚えているんだよ」
「それなら、この『そうじさま江』を書いたのは、やっぱりお前のお祖父さんか」
「いや」頁を繰って、さっきのメモを見つけ出す。『第三のうそ アゴタ・クリストフ』。これを祖父が書いたのは間違いない。『そうじさま江』と比べると……違う。リューマチや年齢による変化を考慮に入れても、『そ』や『う』の曲線の癖は、やはり別人のものだ。両方に同じ字が含まれているので、自信を持って判断することができた。
「これはじいちゃんの字じゃない」
「だいたい、お前に書かれたものでもないな」
うかつだった。この書き込みがされたのは、僕が生まれるはるか昔だ。
「……なんだかさっきよりこんがらがってないか」祐介がぼやいた。「問題は、なんでお前のお祖父さんがこの本を袋とじのまま残したかってことだったよな。どんどんそこから離れているじゃないか」
「先に『作者のサイン入り』とか騒ぎ出したのはお前だ」
「でもおれは『作者だから袋とじを開けて読む必要がなかった』という答えを出したぞ」
僕はうなった。パズルのピースがはまりそうではまらないもどかしさを感じる。
「その書き込みが誰のものかはともかく、もし真池稲州の正体が、お前のお祖父さん……名前はなんだっけ?」
「秋本宗次(あきもとむねつぐ)」
「……その人だとしたら、日本ミステリ界の大発見……ちょっと待て。ムネツグって『宗次』か」宙に指で字を書いてみせる。
それを見てはっとした。昔の人は、自分の名前をわざと音読みでいうことがある。
「『そうじさま江』って、そっちかよ」
「自分で気づけ、言われる前に」
突っ込まれてもしかたない。顔が熱くなる。
あれは祖父あての書き込みだったのだ。
その瞬間、頭の中でパズルが組みあがった。
「ばあちゃんだ」僕は呟いた。「ばあちゃんがじいちゃんに書いたんだ」
初めから僕は大きな勘違いをしていた。
探偵小説のマニアだったのも、あの段ボール箱の本を集めたのも、感想の書き込みをしたのも、みんな祖母だったのだ。
この本は、祖母が祖父に贈ったものだろう。見返しではなく奥付に『深謝』二文字だけの書き込みとは、なんとも奥ゆかしい。
なぜ贈ったのか。処女長編を最愛の協力者に贈ったのではないか。つまり――妄想と言われるかもしれないが――真池稲州の名で『密封された闇』を書いたのも、祖母だったのだ。そう考えれば、謎は全て解ける。
おそらく祖父は、本になる前の生原稿かゲラを読んでいた。『これはまだだ』という言葉には、そういう含みがあったのだ。
真池稲州のことは、夫婦だけの秘密だったに違いない。子育てに追われた祖母が筆を折り、更に亡くなった後も、秘密は守られた。
祖父は、妻の蔵書を見つけて夢中で読んでいる孫の姿を見て、何を思っただろう。
また、何十年ぶりかで『密封された闇』を見つけたとき、どんなに興奮したことだろう。
「あの時外を歩いていたのは、家にじっとしていられなかったからかもしれない」
「今夜のお前と一緒だな」祐介が真顔でうなずいてくれたのが嬉しかった。
「何の説明もせずにこの本を遺した理由も、今ならわかる気がする。作者の正体なんて知らなくても、いつかおれが、この本の袋とじを自分で切り開いて、その中に密封された綺想に夢中になる日が来ることを信じたんだ」 かつての祖父自身がそうだったように。
確かに証拠は何一つない。だが、それでも。
祐介が僕の台詞を横取りした。
「こりゃオークションには出せねえな」残念そうにパソコンの電源を落とす。
僕は本を閉じ、もう一度表紙を見つめた。
(了)
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