三人の女

翠川奈緒子

「今夜は誰と逢うの?」
 鏡の前でいつものように化粧を始めた私に、後ろから夏実が声をかけてきた。足が自慢の夏実らしく、いつも好んで身につけている短いタイトなスカートからすんなりした足を形良く組んで見せている。

 無視して、私は眉毛を描くのに集中する。眉毛というのは顔の重要なポイントなのだ。ここで気を散らすと、今までの化粧が台無しになる。
「デートなんだから、もっとセクシーな下着の方がいいんじゃない? ほら、ライラック色の上下があったでしょ。ショーツの脇がほどける紐のやつよ。私だったらあれにするわ」
 余計なお世話だ。私がどんな下着を着ようと他人の知ったことじゃない。だが、本当は私は迷っていた。今身につけているオレンジ色のレースの下着にしようか、それとも先週思い切って買ったそのライラック色の下着にするか。それは相手次第だ。
 私の不機嫌さなどお構いなしで、夏実は喋り続ける。
「香水もつけなきゃね。どうせいつもの彼の好きなイブ・サンローランでしょ? 彼ったらHだと思わない? この間の台詞、覚えてるわ。駅で同じ香水をつけている女性とすれ違ったら秋乃を思い出して感じてきちゃったんだってね」
 そう言ってふふっと笑った夏実の唇が肉感的に光る。

「夏実ったら、どうしていつもそんな事ばかり言うの? デートっていうとそればっかりなんだから」
 非難めいた声でそこに割り込んできたのは春香だ。穏やかな落ち着いた目が咎めるように夏実を見る。
「デートだからってそればっかりじゃないでしょ? 夏実はそれしかないみたい」
「だって結局そうじゃない。恋愛なんて幾ら綺麗な言葉で飾ったって、要するに行き着くところはセックスでしょ。だったらその為に自分を良く見せようと思うのは当たり前のことよ」
「そんな事ないと思うわ。そりゃあそれも大事だけど、会話とか、いろいろな場所に一緒に行くとか」
「セックスはね、究極のコミュニケーションよ。違う? これほど相手と共有できる事が他にある?」
「それはそうだけど…… 夏実のデートってそれしかないんだもの」
「仕方がないじゃない。時間がないんだもの。私だって彼と一緒にあちこちに行きたいわよ。でも一回のデートに三、四時間しか取れないのよ。しかも月に一回会えればいい方だし。そうしたら行くところなんて一つしかないじゃない」
「それはつまり、夏実には不本意だってこと? 本当は違う事もしたいけど、彼の都合で我慢してるの? つまり彼の言いなりになってるわけ?」
 春香の追及に、夏実はみるみる不機嫌になった。
「偉そうなこと言わないでよ。それだけ春香や春香の彼は立派だって言いたいわけ?」
「だって私の彼は、時間や一緒に何かに感動したりする事を大切にしているもの」
 春香は誇らしげに言った。口元がほころんでいる。
「最初に愛があって、最後に行き着くところも愛だって彼は言ってるわ」
「ああ、そう。すぐ愛を口にするのは安易だって私の彼は言ってるけどね。口でなら何とでも言えるもの」
「口だけじゃないわ。私の彼は目に見える努力をしてくれる。逢う為に忙しい時間をやりくりしてくれるしね。私と逢う為には睡眠時間だって削ってくれるもの」
「春香の彼は自由業だから、時間を取りやすいというのもあるわよ。私はね、言葉にしなくても逢わなくても、お互い相手が必要なんだからそれでいいと思ってるのよ」
「でも夏実を見ていると、無理しているみたいに見えることあるわよ。彼の都合に合わせて自分を抑えているみたいに。ねえ、秋乃、そう思うことない?」

 確かに私から見ても、夏実は強がっているように見えるときがある。
 夏実が恋人を愛しているのはわかっていた。夏実は本当は一途な女なのに、夏実の恋人はそういう愛され方を望んでいないのだ。でも彼を諦められない夏実は、彼と続ける為に彼が望む女を演じ続けなければならない。でも気持ちはそんなに簡単に割り切れるものじゃない。
 そんな夏実が時々痛々しく思える。

「私は自分で選んだ事を他人のせいになんかしないわ。そういう春香はどうなの? 愛されているとか言うわりには、いつも彼に嫉妬しているじゃない? そっちの方がよっぽど自分に自信がない証拠だと思うけど」
 夏実が肩をすくめて逆襲してきた。春香は口ごもった。
「だって…… 彼はあんなに真剣に人を愛することができる人だから、私以外の人にも優しくしているんじゃないかと思うと不安になるのよ」
「しつこく問い詰めてばかりいると、そのうち呆れられて捨てられるわよ。大体恋人の何から何まで全部把握しようなんて無理なのよ。束縛したら窮屈に感じるだけだわ」
 春香が悲しそうにうつむく。

  春香も恋人を愛している。しかし春香の愛し方は夏実とは違う。
 春香は自分の全てを相手に投げかけて、相手にもそうして欲しいタイプなのだ。相手の目が自分からちょっとでも逸れると不安でたまらなくなる。だから幸せでいられる筈なのに、落ち着いていられないのだ。ちょっとした事ですぐ不安定になる。

 私はいつも二人の論争が始まると黙って聞いている。それは、実際どちらを選んだ方が幸せなのか、私にはわからないからだ。
 その時、二人は同時に私の顔を見た。
「秋乃、本当はどうしたいの? 秋乃も黙っていないで何か言ってよ。どっちが正しいと思う?」
「そうよ、ずるいわよ、いつもどっちつかずで。どちらか選んでよ」
 二人の女は不意に私の存在を思い出したように、二人そろって、私の真意を確かめようと近寄ってくる。

 もうたくさん、二人とも黙っていて、ともう少しで叫びだしそうになった時、携帯の着信音が鳴った。
「はい、ええ、私、秋乃…… わかったわ、いつもの改札口に七時半に」
 電話を切って、私はゆっくり振り向いた。
 春香が悲しそうな憐れむような顔をして、私を見る。唇が『可哀想に』と動いたような気がした。その輪郭が徐々に薄くなり、歪んでくしゃりと崩れてゆく。代わりに夏実が勝ち誇ったような笑顔で私に近づいてきて、溶け込むようにすんなりと私の体の中に入り込んでいく。
 指先まで夏実になった私は、洋服も下着も脱ぎ捨てて全裸になり、挑発的なライラック色の下着を身につける。ついでにイブ・サンローランの香水を両足の奥深くに吹きつける。恋人に抱かれるために。
 今夜は、私は夏実なのだ。

 毎週金曜日――
 私は、私の中に潜んでいる三人の女のうちの一人になる。(完)


評価をお願いします