海人伝説

已岬佳泰


(はじめに)
 有明の海に棲む海人(うみんど)は蛸の化身らしい。重い病気の人間に自分の足を食べさせて救ったり、その足で人間を海に引っ張りこんで命を奪ったりしたそうです。


 朝から氷雨だった。
 松造は雨戸を少しだけ開けてみた。隙間から二月の凍るような風が吹き込んでくる。
「さてと、どうしたものかな」
 松造はひとりごちた。シケ続きで漁を休んで三日になる。娘のサヨとつましいふたり暮らしとはいえ、狭い畑からの収穫はほとんど見込めない二月だった。
「サヨ、今日は出るぞ」
 腹を決めて、襖の向こうに声をかけた。

 松造の気配に目を開けたサヨは、小さく「はい」と応えて起きあがり、すぐに綿入れを着込んだ。ゴム長靴を履き玄関の戸を開け、松造より先に家の外へ出る。そうしないとサヨの気持ちは落ち着かないのだ。朝はもう六時を回っていたが、まだ外は薄暗くそして寒かった。伸びをしながら、ついでに空を見上げる。氷雨が落ちてくる暗い空には星ひとつ見えなかった。サヨは手ぬぐいで頭を覆い、その上に小豆色の毛糸帽子をかぶった。
 隣家はまだ寝静まっていた。海苔網が干してあるその家の前を横切り、境川沿いに浜まで歩いた。浜をのぞむ小高い丘には、六軒分の石墓が暗く沈んで並んでいる。石墓に軽く会釈をしながら通り過ぎ、河口の松林の祠に手を合わせた。

 去年まで、蛸漁はサヨの母親ツネの仕事だった。
 どちらかというとのんびり構えている松造を引っ張るように、ツネは毎日海に出た。戻ってからも畑仕事に精を出すという働き者だった。サヨはそんなツネがたまに吸う煙草が忘れられない。サヨが見ているとツネは器用に煙でいろいろな形を作った。中でも、丸い輪がいくつもつながってツネの口から吐き出されると、小さい頃のサヨはわくわくしたものだった。
 ところが去年の三月も晦日近くに、松造とツネの乗った舟が転覆した。内海の有明海には珍しい突風だったらしい。近くに僚舟がいて、すぐに松造が助けられ、ツネも間を置かずに引き上げられたという。家にかつぎ込まれたとき、ツネはもう呼吸をしていなかった。自転車で駆けつけた医者は、そんなツネの脈を取るとすぐに黙って首を振った。松造は何とか持ち直したが、ツネのほうはダメだった。

 松林の裏の入江に舟は繋いであった。
 潮は満ちており、ふたり乗ればいっぱいの小舟は、波にゆらゆら動いていた。曇り落ちた海面の向こうに、いつもははっきり見える多良岳が今朝は雪雲に遮られ見通せない。サヨは堤防に立ち舫綱を引っ張って舟を引き寄せた。舟底にはこの数日の荒天での屑が溜まっている。舟に乗り込むと、サヨはすぐに屑を掻き出し始めた。
 松造は蛸縄を担いですぐにやってきた。サヨが寄せた小舟に蛸縄を投げ入れる。浜風は冷たく案外に強かったがなんとか大丈夫だろう。松造はサヨに「出せ」と声をかけてから舟に乗り込んだ。

 ツネの葬儀は質素だった。隣組の仕切だったが、供物も悔やみ客も少なくあっさりとしていた。親戚と近所。無口な松造に代わって、参列客の応対は隣家の女主人、弓子が当たってくれた。無口だったのは松造ひとりではない。サヨも何をしていいのか分からず、放心状態だった。弔問客はまるで影絵のようにしかサヨには写らなかった。母の死は、受け入れるにはあまりに唐突すぎた。そんなサヨのぼんやりとした視界の中で、てきぱきと動く弓子だけが記憶にひっかかった。

 相変わらず氷雨は降り続いていた。
 松造の漕ぐ舟は、大きな牛の背にしがみついた蠅のような案配で有明の海を少しずつ進んでいった。サヨは舟板に座り込んで、舟の行く手と櫓を漕ぐ松造を交互に見やる。雲行きは決して良くなかった。風は少しずつ強くなってきている。しかし島原半島と多良岳に挟まれた内海の漁場はよほどのことがない限り大時化はない。
 漁場には赤い浮き球がたくさん海面に浮かんでいた。蛸壺を沈めてあるところを示すものだ。松造の蛸壺の浮き球には、赤に「松」が黒く書いてある。蛸壺は四日前に沈めたままだった。
 漁場に着くと櫓を持つのはサヨの役割になる。松造は目印の浮き球の近くに舟を進めるとそこでサヨに手を大きく振って合図した。サヨははっきりうなずくとよろりと立ち上がり、松造に代わって櫓を手にした。
 松造が蛸壺を引き上げにかかる。蛸壺は蛸縄の先に一定の間隔で連続して取り付いており、縄を引き上げながら舟を少しずつ次の蛸壺の方へ進める必要があった。サヨは松造の手の合図を見ながら、右、左、あるいは前へと舟を進めていく。蛸壺は松造の手で舟にあけられ、蛸は舟底にへばりついた。
 海風がますます強くなってきていた。うねり始めた波にもまれて舟は大きく揺れている。松造は蛸壺の引き上げを続ける。しかし、サヨの操る櫓ではもう抗えないところまで海が荒れだしていた。

 松造は決断を迫られた。これほど急に内海が荒れることを予測していなかった。松造は、中途まで引き上げた蛸縄をどうするかについて決めかねた。このままでは舟は動かせない。蛸壺を全部引き上げてしまうか、蛸縄を海に投げ戻すか、あるいは、縄を切ってしまうかだった。
 見るとサヨは櫓にしがみついている。風と波に翻弄されて頼りないサヨの華奢な身体は、いまにも舟の外へ放り出されそうだった。
「サヨ、櫓を引き上げろ」
 松造は怒鳴った。
 サヨはうなずくと、櫓を引き上げようともがいた。ところが、櫓はサヨの意に反して海に刺さったまま重くて動かない。まるで海の中で何かがしっかり櫓の先を握っているような手応えだった。サヨは腰を屈め、渾身の力をこめて両手で櫓を引っ張ろうとした。その時、櫓は猛烈な力で海の方へと引きずられた。
 あっという間もなく、小柄なサヨは櫓に引きずられるように波立つ二月の海へと転落した。

 松造は蛸縄を放り出した。届かないとは知りつつ、とっさに手をのばしていた。その手のはるか向こうで、サヨはあっという間に海に飲み込まれた。舟は大きく揺れていた。松造は舟の艫に飛びついた。サヨが落ちたあたりの海面には白波が立っている。
「サヨー、サヨー」
 松造は、狂ったようにサヨの名前を呼び続けた。

 サヨは海に頭から落ちた。海水の冷たさに身体が竦む。手を伸ばし泳ごうとした。しかしダメだった。まるで強い力で抱きすくめられたかのように、体の自由がきかないのだ。ただ、ゆっくりと沈んでいた。痛いような冷たさに意識が遠のいてゆく。
 サヨは掠れてゆく意識の中で、夏の終わりの精霊船送りを思い出していた。

 浜へ続く道の途中にある小さな石墓所が、宵闇にぽっかりと浮かび上がっている。盂蘭盆の灯籠に火がともっているのだ。石墓所の暗い木陰から、サヨは境川を見ていた。
 精霊舟が境川の水面を照らしながらゆっくり進んでくる。金銀の造花と鈴なりの提灯。舷側でそれらが揺れている様に心が高鳴る。精霊舟が目の前に来たとき、サヨは川に飛び込み、泳ぎだした。精霊舟を追いかけ、ついには舟に手を伸ばす。サヨが手をかけると舟は大きく傾いた。
「こらあ。そんな悪さをすると、海人が足を引っ張りに来るぞ」
 途端に大きな声がした。誰のいないはずの精霊舟に誰かがいたのだ。あわててサヨは川に潜る。きっと叱られる。その思いで息を詰めて深くもぐった。深く、深く。

「サヨー、サヨー」
 寒風の中で松造は呼び続けた。サヨが落ちてからどのくらい経ったろうか。サヨは一度も海面に浮かび上がってきていない。
「ツネー、サヨまで連れていかんでくれぇ」
 松造の充血した目はせわしく海面を見回していた。
 舟の舳先にこんこんとぶつかるものがあった。櫓だった。サヨを海に引き込んだ櫓だった。松造は船縁から身体を伸ばし、櫓を掴んで引き上げた。しかし櫓の先にサヨの姿はなかった。松造はがっくりとして、拾い上げた櫓を舟底に転がした。

 そんな松造の様子をいつからか、サヨが見ていた。
 サヨは自分がどこにいるのかは分からなかった。しかし波に翻弄される小舟と松造の姿は、あぶり出しの絵のように意識の中に見ることができた。
 松造は舟の縁に掴まりながら大きく口を開けて海面をのぞき込んでいる。そんな松造に氷雨は降り続け、ときおり鋭くなった波がはじけていた。
「そんなに濡れると風邪をひくよ」
 思わず、サヨは松造に語りかけた。
 すると松造はまるでサヨの声が聞こえたかのように急に空を見上げ、そしてまわりをきょろきょろと落ち着かないように見回した。口が大きくぽかんと開かれている。サヨの名前を呼んでいるようだ。しかし、その声は全く聞こえなかった。
 突然、松造は舟底にあったものを掴むと海に向かって投げ始めた。蛸だった。さっき蛸壺からあけた蛸をひとつずつ掴みあげては、舟の外に放り出している。
 サヨは寒気を感じた。松造の姿が陽炎のようにぼやけてきて、やがては小さな光の点となってゆく。寒気は唐突で強烈だった。頭から首へ、胸、腹、そして足へと痛いくらいの寒気が駆け下りた。そうしてまた、サヨの意識は遠のいていった。

 小舟は強風の中を浜へ戻ってきた。
 松造は唇まで真っ白になったサヨをおぶって、浅瀬に飛び降りた。舟の舫綱を松の木にくくるのももどかしく、浜から駆け出した。海水を吸ってすぶ濡れになった綿入れは舟の中に脱ぎ捨てたが、意識のないサヨの身体は冷たくそして重かった。しかしときおり、松造の背でサヨは思い出したように僅かに震えた。サヨの生きている証だった。
 松造は心臓がせり上がりそうになるくらい焦って走った。花も飾られていない寒々とした石墓所のわきを走り抜けると息が切れた。足ももつれている。しかし血走った目で、口を苦しげに開き喘ぎながら駆けた。
 サヨはなんと舟の真下にいた。追いつめられてついに冬の海に飛び込んだ松造の目は、舟の切っ先にひっかかっている見慣れた丸帽子を見つけたのだ。
 松造は境川に沿って走った。隣家の住人が外に出て海苔台の水掃除を始めていた。
「どうしたの」
 弓子が海苔台から手を離してびっくりしたように声をかけた。
 松造は息があがって、口を動かしてみたものの声が出ない。松造の尋常ならぬ姿と背負われたものが生気のないサヨと分かったらしい弓子は、そのまま松造を追ってきた。
「こりゃ大変だ。サヨちゃんが海に落ちたんだね。温かくしてやらなくちゃあいけない。私が着替えさせるから、松造さんは布団をすぐに敷いてくださいな。それから火もおこさないといけないね。あと、医者も呼ばなくてはいけないよ。あらいけない。こんなに冷たくなっている。早く早く」

 弓子はサヨの濡れている着衣を急いで脱がせた。サヨの身体はまるで死人のように力が無くだらりとしていて、着衣を脱がせるだけでも一苦労だった。サヨの下巻きを脱がせて弓子は、はっとした。サヨの白い首筋から小さなふくらみの胸にかけて丸い赤い斑点がいくつもつながっていた。青白い身体でそれだけはまるで生きているかのような赤い色をしている。乾いた手ぬぐいでこすってやっても消えなかった。
 弓子が手配した湯たんぽがふたつ、隣家からすぐに届き、そして電話でせかされた医者が自転車に乗ってやってきた。

 サヨは幸いなことにあまり水を飲んでいないようだった。体温も脈も正常で、ほとんど咳き込むこともなかった。二月の冷たい海に落ちたと聞いてきた医者は、そのことを不思議がった。
「熱が出ると思うが、栄養のあるものを食べてゆっくり安静にしていれば大丈夫だ」
 医者は掛け布団をととのえて熱冷ましの薬だけ差し出した。

「松造さん、あんたの方が顔色悪いわよ。サヨちゃんは大丈夫なようだから、少し休んだらどうだい」
 弓子から言われて、松造は初めて自分の疲労を感じた。足が萎え激しい頭痛が急に襲ってきた。脇の冷や汗と胃のあたりに悪寒も覚える。
「じゃ、そうするかな」
 しわがれた声でそう呟くようにいうと、松造は奧の納戸の方へ消えた。弓子はまた家の者を呼び、熱いお粥と玉子酒を言いつけた。

 医者の言葉通り、サヨは夕方から高熱にうなされ始めた。
 まだ意識は戻っていない。少し眠った松造が枕元でそんなサヨを見つめていた。弓子は夕飯の支度をするといって先ほどから隣家に戻っていた。 
 サヨは時々うめいた。うなされているらしい。それが松造が久しぶりに聞くサヨの声だった。浜から駆けたときにあれほど冷たかったサヨの身体は、熱で火照り額には汗が光るほどだった。その汗を松造は丁寧に拭いてやった。

 サヨは再び精霊舟を見ていた。
 小さい頃から見たもので一番大きな精霊船だ。それはもう、普通の漁舟の大きさくらいあった。艫から縁、そして舳先まで金色や銀色の蓮の花で飾られ、真ん中には社のようなひとまわり大きな回り灯籠がひとつあり、ロウソクの炎の熱でくるりくるりと蓮の花の影絵が回転している。
 ゆっくりと動く精霊船を追って、サヨは歩きはじめていた。
 舳先に女が座っていた。ツネだった。ツネは漁に出かけるときと同じように、綿入れを着込み小豆色の丸帽子をかぶっていた。なぜわざわざ漁の格好をしているのだろう。他にもっとましな着物はあるのに。サヨはそんな事を思いながら、精霊船の後を追い入江にまで来ていた。
 入江に流れ込む境川はそこで遠浅の有明の海と一体になる。干潮時には沖合はるかまで潮は引き、境川は黒く濡れた砂浜を浸食して流れるが、満潮時には境川の河口にまで潮は満ち寄せ、海と川の境目は消える。その曖昧な境目に精霊船はゆっくりと進んだ。
 そのとき、海面が隆起を始めた。静かだった海の一部が急に盛り上がり、精霊船をその頂きに乗せて右に左にと揺れた。さらにその隆起した海の中から細長いものが三本、四本、六本と伸びて精霊船に絡みついていく。しかし、舳先のツネは座ったまま動かなかった。金銀の花がはねて海に舞った。細長い手がツネに向かって伸びた。
 サヨは浜から駆け出していた。砂を蹴り海の隆起に向かって体を投げ出した。
「母さんを連れていかないで」
 サヨは精霊船へ近づけなかった。いくらもがいてもダメだった。ツネに絡まる細長い手は白い。まるで、それは人間の手のようにも見えた。しかも、サヨのよく知った手だ。
 次の瞬間、ツネの姿は消えた。
「母さん」

 叫びながらサヨは我に返った。
 布団の中だった。頭が痛い。背中も痛い。裸電球が目にまぶしい。サヨは目をせわしくしばたかせた。動けない。枕元に人の気配があった。それが父、松造と隣家の弓子だと分かるのにはもう少しの時間が必要だった。二人は寄り添うように座っていた。
 それから、記憶がゆっくり戻ってきた。サヨは舟から落ちたのだ。
「気がついたようね。気分はどう」
 最初に声をかけたのは弓子のほうだった。松造は黙っている。
「母さんに会ってきた」
 サヨの声は小さく、そして震えていた。弓子が目を伏せる。膝の上に置かれた弓子の手は白くて華奢だった。ほうっという溜息がサヨの口から自然に出た。さらさらという屋根瓦の音だけが耳についた。いつの間にか外はまた氷雨になったようだった。

 サヨは日毎に快方へ向かっていた。
 三日目にはもう歩けるくらいになった。しかし、入れ替わりに松造が布団から起きてこなくなった。松造はサヨが促してもしわがれ声で曖昧に応えるだけで、疲れ果てたように布団に横たわっていた。
 松造に寝込まれてサヨは困った。サヨ一人では舟が操れないから、漁ができないのだ。
 弓子はあれ以来顔を見せなくなった。それでも食べるだけは彼女の手配か、朝方になると必ず玄関口に蛸足のぶつ切りがおいてあった。それは松造の生業でありまた大好物でもあった。それに土間に埋めた去年の野菜の蓄えを細々と取り出して、それで何とか間に合わせていた。

 松造が寝込んだのを聞き及んだのか、隣村に住む叔母ツヤが訪ねてきた。
「松造さんがかなり弱ってしまってるそうね、何かあったのかい」
 ツヤは挨拶もそこそこに、お土産と言ってまだ泥のついた大根を三本だけ土間におくとそう聞いた。サヨは自分が海に落ちたいきさつをひととおり話した。
「なるほどね、それじゃあ風邪でしょう」
 ツヤは一人で納得し松造を形だけ見舞うと、サヨの前に座りなおした。
「松造さんがあんな具合じゃこの家も大変でしょう、食べ物とか、どうしてゆくつもりなの」
 ツヤの問いはもっともだった。サヨもこれからどうしようか考えあぐねているところだった。
「隣の家からだと思うんですけど、毎朝、差し入れしてもらってるんです。それで助かっているんですけど、いつまでも他人様の好意に頼るわけにもいかないしと私も考えているところです」
 サヨは説明する。ツヤがサヨの言葉にかぶせるように続けた。
「あなたももう十六。お婿さんに来てもらったらどうかしら。松造さんがあれでも、男手があれば何とかなるんじゃない」
 ツヤの思いがけない話にサヨは赤くなった。婿取りは全く考えたことがないわけではない。娘ひとりなので、母親のツネもサヨに婿取りの話をしたことがある。ただもっと先の話だと思っていた。
「頼まれている人がいるのよ。私と同じ村の人なのだけど、次男で手に職を持っているから安心よ。良い話だと思うよ」
 サヨが黙り込んだので、ツネが話に弾みをつける。
「でも、こんな家に来てくれるかしら。寝込んだ父親がいて、しかも大した田畑もない貧乏な私の家に」
 サヨは率直に一番の心配を告げた。しかし、それはツヤには話をまとめて欲しいという意志表示となった。
「それは大丈夫よ」とツヤは笑った。
 ツヤは母ツネの妹のはずだが、笑った顔はあまり似ていなかった。
「じゃあ、話を進めるわよ。松造さんには私から話すから、良いね」
 ツヤはもうすっかり安心したように嬉しそうな顔で立ち上がった。手には大根をもう一本下げている。サヨは慌てて、よろしくお願いします、と頭を下げた。
 ツヤは、うんうん、とうなずく。手にした大根をかざしながら続けた。
「お隣にお礼をしてから帰るわね」
「それなら私もいっしょに行きます。ずいぶんとお世話になりっぱなしだから」
 サヨも立ち上がり、足早に歩くツヤを追いかけて家を出た。サヨが表通りに出ると、もうツヤは隣家に気軽に声をかけながら入って行くところだった。

 土間の奥にツヤが立っていた。弓子が上がり框にひざをついて、ツヤに向かって話している。寝間着のままだ。白い細い手で髪を押さえている。寝起きのようだった。
「サヨちゃんのところにタコを届けているのは、うちではありませんよ。気にはなっていたんですけどねえ。あいにく三日前から急に体の具合が悪くなって、床に臥せってしまいました。いえいえ、御陰様でもうだいぶ良くなりました。サヨちゃんのほうはもう大丈夫?」
「はい、何とか歩けるぐらいにはなりました。その節は本当にお世話になりました」
 サヨはツヤの横に進むと深々と頭を下げた。
「それは本当に良かった。松造さんはどう?」
 松造はまだ起きれない。すっかり弱ってしまったようだ。サヨはそう説明した。ツヤが大根を持った手を差し上げて話の中に入った。
「こんなものしかなくて。どうぞ」
 とんでもないと、弓子はかぶりを振る。ツヤは構わず、大根を上がり框に置いた。

「変な話ねえ、お隣じゃなければ一体何処の奇特な方がタコを届けてくれるんだろう」
 隣家の辞去して、ツヤとサヨは顔を見合わせた。サヨには他に心当たりはない。まるで狐にでもつままれた気分だ。隣村に帰るというツヤを境川の橋の上までサヨは見送った。小走りに歩くツヤの後ろ姿にお辞儀をしながらも、サヨはツヤが持ってきた婿取り話より、蛸足の送り主の方が気になって仕方がなかった。

 サヨは今夜は眠らないつもりだった。
 もしもそれまでのように誰かが松造の好物を届けてくれるのならば、今夜こそは出ていってお礼を言うつもりだった。一応布団は敷いたが、土間との間の障子を少し開けて聞き耳を立てた。
 何事もなく夜は静かに更けていった。納戸で寝ている松造の苦しそうな鼾がふすまを通して聞こえてくるだけだった。しかし、さすがに高熱からの疲れが残っているのか、夜も十二時頃になるとサヨはうつらうつらとしはじめた。
 ぴたん、ぴたん、ぴたん。
 水が垂れるような音でサヨは浅い眠りから覚めた。かすかなその音は、確かに表通りの方から聞こえた。何の音だ?、何かを引きずるような音も混じっている。
 サヨは胸騒ぎを覚えて起きあがった。水垂れの音はもう家の前から遠ざかってゆくようだった。静かに草履を履くと、音を立てないようにゆっくりと玄関の戸を押し開いた。
 月のない暗くて寒い夜だった。玄関戸の前にはいつものように、蛸足らしいものが置いてある。サヨは開いた玄関戸から首だけ突き出して、音のする方を見透かそうとした。しかし月明かりもなくて何が何か全く分からない。その音は境川の方へ向かっているようだった。ぴたんぴたん。
 気がせいた。サヨは家から走り出た。ぱたぱたという草履の音が、静かな真冬の空気を震わせた。水垂れのような音は、一瞬ぴたりと止んだ。しんとした静寂が辺りに訪れた。何も動く気配はない。サヨは思い切って呼びかけた。
「誰なんですか?」
 囁くような声だったが、静まり返った冬の夜には鋭く響いた。
 水垂れの音はしない。サヨの目が徐々に闇に慣れてきた。そして確かに何かがいた。その何かは境川の堤防の上にうずくまっていた。見られたと感じたのか、次の瞬間、その何かは動いた。堤防を越え境川へと跳んだようだった。
 ぱしゃん。境川に何かが飛び込む音がサヨの耳に届いた。
 サヨは境川の橋まで走った。橋の上から見下ろす境川は、満ちてきた潮で川面がせり上がっていた。飛び込んだ何かの姿は見当たらない。しかしサヨの目には、境川に飛び込む瞬間のその何かの姿が、黒いシルエットとなって残っていた。
 それはたしかに人の形をしていた。長い髪を乱して……。
「まさか」
 サヨは身体が熱くなったような気がした。胸の赤いぽつぽつの痣がうずいている。暗い川面に向かってサヨは話しかけた。
「父さんに会いに来たの?」
 凍るような二月の夜だというのに、サヨは暖かさの中にいた。煙草の匂い? 目を凝らすと、川面に広がる丸い波紋が、母が得意げに見せてくれた煙の輪に重なった。
「母さん……」
 サヨは欄干にもたれて川面を見つめ続けた。サヨに応えるように、境川の川面がぴしゃと跳ねたようだった。

(終わり)


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