浮気 他SS5編

八雲


『浮気』

 朝の日差しで私は目を覚ました。そして一気に飛び起きる。
「しまった! あのまま眠ってしまったんだ」
 隣では女が気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「まずいことになった。朝帰りなんて、妻にどうやって言い訳すればいいんだ」
 しかし、朝起きたばかりで頭がうまく働かない。とにかく女を起こして、すぐに家に帰らないと。
 私は隣で寝ている女を起こそうとした。
「おい。起きてくれ。まずいことになった。うっかり眠ってしまったらしい。早く帰らないと。おい。起きろ」
 女はようやく起きたようだ。そして半分眠った状態で、ゆっくりと体を起こしながら、うめくように応える。
「帰るって……どこへ?」
 その女の顔を見て、私は完全に固まった。浮気相手だと思っていた女は、実は妻だった。その衝撃で眠気は一気に吹き飛び、私の頭が急速に回転を始めた。
 そして私は、昨日の夜、女の家に寄った後、終電ぎりぎりで帰ってきていたことを思い出した。
 妻は眠そうに目を擦りながら、もう一度訊いた。
「ねえ、どこへ帰るの?」
 言い訳のしようのない、最悪の事態。
 しかし、何も言えずにいる私に、妻は言った。
「あっ、そうか。ごめんなさい。私、寝ぼけてて……。そうね。主人が帰ってくる前に帰らないと、大変ね」


『避雷針』

 突然、空が光ったかと思うと、直後に雷鳴が轟いた。どうやらかなり近いらしい。雷鳴を聞いて怖くなったのか、息子の拓也が私の足下にすり寄ってきた。
 日曜の午後。私は拓也を連れて、近くの公園に遊びに来ていた。そして突然、真っ黒な雲が空を包み込んだかと思うと、突然の雷である。
「大丈夫だよ。拓也。すぐに通り過ぎるから」
 初めて体験する本格的な雷に拓也は完全に怯えてしまっている。
「そうだ。拓也。とっておきの雷対策を教えてやろう。これを覚えておけば、もう雷なんて怖くないぞ」
 拓也は黙って頷き、こちらをみつめている。話を聞く体勢である。
「いいか。拓也。雷ってのはな、背の高い物が嫌いなんだ。だから、決まって背の高い物を攻撃する。だから雷に遭遇したときには、まず自分よりずっと背の高い物を探すんだ。そう、例えば背の高い木とか」
 拓也は周りを見渡して、言われた通り背の高い物を探している。
「いいか? 大事なのはここからだ。背の高い物をみつけても絶対にその近くには行っちゃいけない。どうしてかって言うとな、近くにいると雷がそいつを攻撃したときに、その巻き添えを食らっちまうんだ。だからといって遠く離れればいいってものでもない。遠く離れすぎると、自分の周りから自分より背の高い物が無くなっちゃうだろ? そうすると雷の奴は、しめたとばかりに攻撃してくる。だからな、その背の高い物から適当な距離を置くんだ。この時目安になる距離ってのは、その背の高い物の根本から、ちょうどそいつの高さくらいだけ離れた場所、難しい言い方をすれば仰角が45度になるところっていうんだが、まあそれはいい。とにかくそこに行って、できるだけ体を低くするんだ。そうすれば雷の奴はそいつだけを攻撃してくれるってわけだ。わかるか?」
 一通り説明を終えて、私は拓也を見た。そして一瞬、言葉を失った。
 彼は私から2メートルくらい離れたところで、小さな体を必死で低くしていたのだ。

「息子よ。俺を犠牲にしようっていうのかい?」


『女の子と閉曲線』

 女の子にとって、回転寿司を見るのはそれが生まれて初めてでした。女の子はベルトコンベアーに乗って流れていく寿司を不思議そうに見ていました。
「ねえ、ママ? あのおすしはどこにいっちゃうの?」
「え? ああ、あれはね、くるっとね、回ってくるのよ」
「くるっとまわってくる?」
 女の子は母親の言っていることの意味が全然分かりませんでした。
 なぜなら、女の子は一点から始まって、また同じ点に戻ってくる図形、つまり閉曲線という幾何学的図形を頭の中でイメージする能力をまだ獲得していなかったからです。
 だから女の子は丸や四角といった図形をまだ描くことが出来ません。彼女の描く絵は必ず、線が途中でとぎれるか、外に向かって発散するしかないのです。
『くるっとまわってくる』
 女の子は母親の言ったその言葉を頭の中で何度も反芻(はんすう)しましたがやっぱり意味がわかりませんでした。
 女の子はどうにも耐えきれなくなると、母親の目を盗んで、移動していく寿司を追いかけ始めました。
 彼女が狙いを付けたのは、寿司ネタに混じって流れている、大好きなアニメキャラクターの描かれたプリンでした。
 女の子はベルトコンベアーの速さに合わせて、店の中を歩いていきます。
 途中何度か、席に座っている人たちの背中のせいでプリンを見失いかけましたが、 なんとかついていくことが出来ました。
 そして彼女はそのまま、期せずしてその店をくるっと一周してしまいました。つまり彼女はイメージできないはずの閉曲線を自らの足で無意識に描いたのです。
 スタート地点に戻ってきた彼女は驚きました。パニックに陥った彼女は、くるりと後ろを振り返って、大きな声で叫びました。

「ママー! ここにママにそっくりな人がいるよー!」


『盲点』

 町外れの小さな研究所に博士とその助手がいた。
「ついに完成した。これが記憶力増強薬だ」
「博士、おめでとうございます。早速、効き目を試してみましょう」
「うむ。ここに電話帳がある。早速薬を飲んで、記憶してみてくれ」
「わかりました。それでは……」
 まだ若く、従順な助手がその粉末状の薬を手に取り、飲もうとすると、なぜか博士が待ったをかけた。
「ちょっと待て。その薬を飲む前に一つ注意しておくことがある。実は、この薬には一つ重大な問題があるのだ」
「問題? 何ですか?」
「それは、薬の効き目が強すぎて、単に見聞きしたことだけではなく、あらゆる感覚を記憶してしまうことだ」
「えーと……。どういうことですか?」
「例えば薬を飲んだ後、体のどこかに痛みを感じたとしよう。そうすると、薬の影響でその痛みが永遠に残ってしまうのだ。ちょうど幻肢痛のようにな」
「つまり……、苦痛が永遠に……」
「なに、心配することはない。記憶力が高まっているのはたった5分だ。その間に苦痛を感じるような感覚を受けなければ、何も問題はない。念のためこの部屋からは苦痛を与える可能性のある物はすべて排除してある」
「な、なるほど。それなら大丈夫ですね」
 この助手、単純な男である。そうでなくてはこの役は務まらない。
「しかし油断はするなよ」
「はい。そ、それでは……」
 助手は意を決して、薬を飲んだ。
「うっ……!」
「ど、どうしたんだね。記憶力はどうだ?」
「は、博士ぇ……。この薬……、死ぬほど苦いです」


『幽霊になれる薬』

 いつもの研究所のいつもの午後。助手が一人、いつものように研究対象に向かっていると、いつの間にか部屋に入ってきていた博士が、知らない間に助手の隣に立っていた。
「やあ。助手君、元気でやっておるかね?」
「う、うわあああ〜!! は、博士!! たしか博士は死んだはずじゃ!!」
 助手は座っていた椅子から転げ落ちそうになりながら必死で叫んだ。それもそのはず。博士は3日前に心臓発作で死んだはずなのだ。
「うむ。確かにわしは3日前に死んだ。しかし、わしの開発した『幽霊になれる薬』を飲んでいたお陰で、こうして幽霊として復活することができたのじゃ」
 博士は得意満面で答えた。助手は信じられないといった表情で、さっと博士の姿を一瞥したが、見る限りではとても幽霊とは思えない。どう見ても実際に存在しているのと何も変わらないのだ。
「ゆ、幽霊になれる薬?! 博士、一体いつの間にそんなものを……」
「ふふふ。わしに不可能はないのじゃ。まあ、この薬に関しては、失敗作だと思って一旦開発を諦めていたが、念のために飲んでおいて助かったよ。少し前から心臓の調子が悪かったのでね」
「そうだったんですか……」
 助手はすっかり恐怖心が消え、今は落ち着きを取り戻している。
「しかし、どうやらこの薬はやはり開発途上だったようじゃ」
「え? どうしてですか? こんなに完璧な幽霊になれたのに、どこに問題があるんです?」
 助手は首を傾げる。
「うむ。どうやらこの薬で幽霊になっても、幽霊同士でしかその姿が見えないようなのじゃ。わしもたった今、そのことに気が付いたのだがね……」



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