家族旅行の朝
松 拳太郎
私は慌てている。
電車の出発時間まで、後十五分。それまでに銀行へ行ってお金を下ろさなければ、切符を買うこともできない。楽しみにしていた家族旅行に行けなくなってしまう。
昨日のうちに金の準備ぐらいしておけ、と妻に怒りをぶちまけたいが、何しろ時間がない。これ以上、子供の泣き顔は見たくない。
だいたい、目が醒めて布団から出てきたのがほんの今さっきのことだ。
私は三人の子供たちの泣き声で起床した。彼らは、思い思いに、おなかがすいたと喚いていたのである。
私は慌てて二階の寝室から駆け下りた。
なんと、妻はそのときまでまったく何もしていなかった。今朝は、一番に弁当を作っていなければならないはずである。朝ごはんは、その後、弁当のおかずの残りで充分だ。
「何しているのよ、今ごろ起きて」
……と、言わなければならないのは、こちらのはずだろう。
が、妻に先手を打たれた。
「お前、いったい何してたんだ」
「朝シャン」
髪をぬらして洗面所から出てきた妻の顔は、どこまでも薄ぼんやりとしている。
「弁当は……?」
「これから」
……とは、まったくどういうことだ。
子供たちは今日の家族旅行を心から楽しみにしていたのだ。彼らの気持ちを裏切るつもりではあるまい。
早くしろ、早く!
私は心の中で金切り声を上げた。
「だったら、自分が作ってよ、お弁当。ふん、何よ、その顔は。なんか文句ある?」
文句……そんなものありすぎる。
文句が胸板を弾き飛ばして、家中を埋め尽くし、なおかつ外に溢れ出そうだ。が、今さらどうしようもなかった。
「文句なんかない!」
「そういうことは、凄んで言わないでよね。低血圧なんだから、頭に響くわ」
「ソーセージは? 卵はちゃんと買っているのか?」
「冷蔵庫の中よ、見て」
「なら、君は飯を炊け!」
「ごめん、服着替えてくるわ」
「なんだ、いつもいつも……! この低血圧のトカゲ女!」
「何か言った?」
すでに妻はクローゼットに姿を消している。私の罵倒など聞こえてはいなかった。もっとも一家の安泰のために聞こえない声しか出せなかったのだが。
だいたい結婚したての頃は、こうではなかったはずだ。いや、もうはるかな良き日を思うのはよそう。
とにかく私は台所に駆け込み、まず米を研いだ。
炊飯器に水に浸した米を仕掛けながら冷蔵庫の扉を開き、おかずになりそうなものを一瞬のうちに見極めて、弁当のレイアウトをパズルでも組み立てるようにイメージした。あとは頭の中のレシピを時系列に並べて、マニュアルどおり行動に移すだけだ。
何ごとも一気呵成にしなければいけない。電車の時間はきまっている。効率よくやらなければ間に合わない。
コンロの上に二つのフライパンを乗せて、卵を焼きながら、ソーセージを炒めていると、再び子供が私を呼ぶ声がした。
「ど、どうしたんだい」
「パパ、あそこのリュックサックとってよ」
リュックは子供部屋の一番上の棚に整理してある。
私はどたばたと子供部屋に駆け込むと、椅子を台にして棚に手を伸ばした。たちまち埃が雪崩れのように頭に振りそそいだ。
「日頃から手の届かないところもちゃんと掃除しておけ」
と、私は聞こえない愚痴をこぼしながら、手ぬぐいで口を塞ぎ、やっとのことで子供のリュックを三つ引きずり降ろした。
「さ、これに着替えを詰め込むんだ。パンツはお泊りの数だけでいいぞ」
と、子供たちに明瞭かつ的確な指示を与え、再び台所に駈け戻った。コンロの火はつけっぱなしだ。
途中、階段で転び尾てい骨を打った。あまりの痛さに、台所に立っていても可笑しくて我慢がならなかった。
ところが、またまた子供の呼ぶ声がする。
「今度はなんだい!」
私は笑いながら大声を上げた。
気分はうんざりしているのに、笑い顔を止めることができないのは、尾てい骨の痛みを緩和するには、そうするしか方法がないからだ。
「水筒が割れてるよ!」
すでに卵もソーセージも準備オーケーだった。弁当のおかずを指差し確認すると、私は即座に子供のところへ走った。
なるほど、水筒のコップの部分がひび割れている。が、もはや新しい水筒を買いに行く暇などない。
子供たちの顔が見る見る歪んだ。
「泣くな、大丈夫だ。接着剤でくっつけよう」
私は自分の部屋に駆け込むと、机の引き出しの中身を全部床にバラ撒いた。
ちまちまと探していたのでは時間が掛かる。片付けるのは旅行から帰ってからでいい。
雑多な小物の中から接着剤を見つけると、すぐにフタとって中身を絞った。しかし、古くなっているためになかなか出てこない。力を込めると、容器が破裂して中身が飛び出した。私はそれを手ですくい、そのまま水筒の割れ目になすりつけた。
子供たちがこの応急処置を納得したかどうかを確認する間もなく、私は慌てて台所に走った。弁当の最後の仕上げがまだ残っていた。
途中、廊下に出るところで敷居につまずき、三回転して受身を取ったが、鼻柱を痛烈に打った。鼻血がぼたぼたと廊下に落ちた。
台所に戻ると、卵焼きを一口大に切っていった。
この華麗な包丁さばきは、並みの主婦にはまねできまい。
「お弁当できたの? 朝ごはんまだ〜」
とその時、妻の暢気な声が食卓から聞こえてきた。
卵を切りながら、なぜか突然、涙が流れた。無性に情けなくなってきた。
まるで、たまねぎを切ってるみたいだ、と私は小さく呟いた。そう思うと、卵がたまねぎに見えてくる。
妻のためじゃない、家族のためだ。
別に辛いわけじゃない、私はたまねぎを切っているんだ。林檎をうさぎの形に剥きながら、自分にそう言い聞かせようとした。涙に鼻血が混ざって、目の前がぐじゃぐじゃになった。
家族を大切にするのは、本当に大変なことだ。自分を「百点パパ」だと、褒めてやりたいぐらいだった。
こうして私は、早朝のけたたましい喧騒の中で家族旅行のためのあらゆる準備を終えた。
だが、朝食を食べ終えた後で、財布の中身のことをやっと思い出したのである。昨日は仕事が忙しくて、銀行へ行く暇がなかったのだ。
「考えたくもない事実だが、このままでは切符も買えない」
その時分になってそろそろ目が醒めたのか、妻が俄然慌て出した。
「なんてこと、もうあとは電車に乗るだけだというのに……」
そこまでこぎつけたのは、もちろん全部私の努力のせいある。何度も言うが、妻は何の貢献もしていない。
「すぐに銀行へ行ってお金を下ろしてきて!」
「しかし、もう電車の時間がないぞ」
私は半泣きになりながら、反論した。
「あと五分で九時よ。それまでに銀行へ行けば、ちょうど営業が始まる時間だわ。それから、駅まで走ってくれば充分間に合う。わたしたちは先に改札口で待っているから」
ぎりぎりの時間で、なんとか私は銀行の前に立っている。
その窓口で、「すぐに金を出してください」と叫んだとき、あっと気がついた。
口に手ぬぐいを巻いたままだった!
そのうえ、女子行員に差し出した右手に、しっかりと包丁を握っていた。接着剤のついた手で使っていたため、手のひらに張り付いて取れなくなっていたのだ。
慌てて手ぬぐいを剥ぐと、さらに大変なことになった。
鼻血が点になって、カウンターの上に滴り始めたのである。駆け込んで息を切らせたのがいけなかった。
目の前の女子行員は動揺して、それが誰の血なのかも判断できなくなっているようだった。
が、私が一番困ったのは、そんな時でも笑い顔を我慢できないことだった。尾てい骨の痛みが延々と続いていたせいだ。
まさにその瞬間の私の形相は、人に恐怖心を抱かせるには充分なほど不敵で、かつ凄まじいものになっていたのである。
(了)
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