海月(くらげ)/青野 岬

「そんなとこに立ってると、外から丸見えだぞ」
 男はそう言うと、指輪のはずされた左手で私の肩をそっと抱き寄せた。
「今日はまだ帰らなくていいの?」
「今夜は取引先と飲み会だって言ってあるから、まだ大丈夫」
 その言葉を全部聞き終わらないうちに、私は再びベットの上に押し倒された。熱く柔らかな唇が、伸びかけの髭を擦り付けられる痛みと共に首筋から胸元へと降りてゆく。私の快楽のツボを知り尽くす指先の複雑な動きに、体が再び反応する。でもそれとは裏腹に、頭の中はしんと冷たく静まり返っていた。
 
 安原と初めて会ったのは二年前の初夏のことだった。
 私はスキューバダイビングの免許を取るために、職場の近くのダイビングショップの講習会にひとりで参加していた。海に潜るにはまず『オープンウォーター』と言われる一番初心者向けの免許を取得しなければならない。そのためにはインストラクターの下、学科講習と実際に海で潜る海洋実習の受講が義務付けられている。そこに仕事帰りのスーツ姿のまま、ひとりで参加していたのが安原だった。
 若いOLや学生達の中で、私達はあきらかに浮いていた。そんなふたりが引き寄せられるようにお互いの存在を必要としたのは、むしろ自然な成りゆきだったと思う。
 あの頃、私は海月のように生きていた。
 これといった趣味も目標も何も無いまま押し寄せて来る日常の波に、ただ流され漂うだけの日々。そんな時、誰かが言った「海の中の世界を知ると、人生観が変わるよ」の無責任な言葉を信じて、自分を変えてみたかった。
 そして学科講習が終わり、私達はスクールのメンバー達と共に伊豆の海での海洋実習に挑んだ。五月の水温はまだ冷たい。けれどもこれから梅雨にかけて水温の上昇と共にプランクトンが大量に発生し、透明度は一気に悪くなる。最初からいきなり、濁った水に潜るのは怖い。私は意を決して重い機材を装着すると、インストラクターに導かれて恐る恐るまだ冷たい海に身を沈めた。
 海は穏やかで透明度も良く、私は水中に潜るなり視界に飛び込んで来た色鮮やかな海藻や魚の群れに思わず息を飲んだ。レギュレーターから吐き出される細かい泡が、煌めきながら水面へと上がってゆく。
 ダイビングでは潜水中、『バディ』と言われるペアを組んで行動を共にする。私は安原とバディを組み、エアが切れた時の対処法やマスククリアなどの技術を学んだ。水の中では極端に思考回路が鈍るから、私は安原とつないだ手が今の私のすべてだと感じた。
 そのとき天上の青よりもさらに色濃い青の中に、ぽっかりと浮かぶ月を見た。 
 それは水面近くをゆらゆらと漂う、一匹の海月の姿だった。私はその美しさを安原に伝えたくて、握られていない方の手で海に浮かぶ月を指差した。私達は音の無い世界でお互いの手をしっかりと握り合ったまま、その幻想的な光景に酔った。海月がこんなにも美しく高貴な生き物であることを、私はこのとき初めて知った。
 
 やがて安原が体勢を変えて、ゆっくりと私の中に入って来た。暖房の効き過ぎで乾燥した部屋に、荒い吐息とベッドが軋む音だけが規則的なリズムを伴って響いている。
「……ねぇ、別れようか」
 私がそうつぶやくと、安原は紡いでいた糸を突然断ち切るように顔を上げた。白熱灯のほのかな灯りの下で見るその顔は、いつもよりも疲れているように見えた。
「えっ、急にどうしたの」
 安原はそう言うと私の真上で静かに笑った。
「いつまでもこんな関係、続けて行く訳にもいかないでしょ」
 私は出来るだけ冷静に言い放った。別に安原のことを嫌いになった訳ではない。先の見えない関係に疲れただけだ。自分勝手な言い分なのは充分承知している。でもどこかで踏ん切りをつけないと、また自分を見失ってしまいそうで怖かった。
 動きが止まり、規則正しいリズムが止んだ。私達は繋がったまま、しばらくの間身じろぎもしなかった。
 私の中で急速に安原が萎えていくのを感じて、体をずらす。私は小刻みに震える男の背中を手のひらでさすりながら、窓の外を見た。夜空には輪郭のぼやけた丸い月が、ネオン看板越しに私達を見下ろしている。それはあの日、海の底から見上げた海月の姿を思い起こさせた。
「海月……」
「えっ」
「ほら窓の外を見て」
 安原は放心したように夜空を見上げながら、私の右手を遠慮がちに引き寄せた。
「朧月だ。明日は雨だな……」
「そうね」
 私は安原の手をそっと振りほどいて再び窓辺に立った。空に浮かんだ朧月が窓ガラスに映った自分の姿と重なって、波間に漂う海月のようにぼんやりと揺れた。

(終わり)

 

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