月/ドルフィン

 私は会社では上司に失敗を咎められ、女子社員には白い目で見られ、家に帰ると女房に稼ぎが悪いと愚痴られ、子供たちには疎んじられるというどこにでもいる男だった。
 ある日、そんな何の夢も楽しみもない暮らしに嫌気がさして、通勤途中の電車で会社のある駅に降りず、どこまでも電車に乗っていった。かばんの中には前日にホームセンターで買ったロープが一本入っている。こんな生きているか死んでいるかわからない生活なら、このさきいつまでつづけても仕方がないって感じでなんとなく買ったものだ。
 どこまでも電車に乗っていった。窓から見える風景は、殺風景な灰色の高層ビルが見える都会から、家々の見えるベッドタウン、そして緑の絨毯が見える田園地帯にはいっていった。人はこの電車から見える世界で何を考えどんなふうに生活しているのだろうかと考えた。電車を乗り換えながら、さらに人のいない方へと入っていく。電車はがたんがたんと単調な物音を立てて進んでいく。電車の中でうとうとして眠っていた。もしもしと誰かに声を掛けられたような気がしたが、気がつくと誰もいなかった。電車が止まっている。終点のようだった。
 電車から降り、ホームに下りる。見知らぬ駅のホームに立っていた。年老いた駅員に乗り越し料金を払い、どこか飯の食えるところはないかと聞いた。考えると朝パンを食べたきり何も食べていなかったのだ。こんな時でも腹はすくものだ。駅員は愛想よくするでもなく、かといって不親切というわけでもなく、食い物屋の名前とを場所をいって駅長室へと帰って行った。そこでうどんを食べ――べつだんこれといって美味しいものでもないし、不味くもない。平凡なものだった――最後の晩餐とかいうテレビ番組があったが、それがこんなうどんか思うと薬味が効きすぎたのか鼻がつんとした。あたりはまだ薄明るい、家々の窓から煮物の匂いがする。こんな辺鄙なところでも楽しく団らんする家族があるのだろう。うどんを食べた後、煮物の匂いをかぎながらふらふらと村を抜けて山に入っていった。
 どれぐらいたっただろうか。食い物屋を出たのが午後六時だからかれこれ三時間ほど歩いたことになる。後継者不足で整備されていない山林の中を歩くのは骨が折れたが、夜空を見ると大きな月があたりを照らし、懐中電灯がなくてもなんとか歩くことができた。茂みをかきわけるようにして登っていくと前方になにやらたくさんの人間が集まっている気配がする。こんな夜更けに山中でといぶかりながら恐る恐る覗いてみると、真っ赤に燃えたかがり火を中心にして薄い半透明の衣装をまとった男女が奇妙な振りつけで踊っている。好奇心と恐れを半々に感じながら、どうせ木にぶらさがるつもりで来たのだからと半ばひらきなおって男女の間にはいっていき、いったい何をやっているのか訊ねた。
 彼らは言葉が話せないのか、それとも話してはいけないきまりでもあるのか、身振り手振りで赤茶色の壷を持ってきてしきりに飲めと勧める。何か入っているのか不安だったが、どうにでもなれと半分やけくそで中の液体を飲むと急に身体が熱くなり、ふらふらになる。今まで気がつかなかったが、何か香でもたいているのか、官能的な匂いが辺り一面に漂っていた。踊りの輪に入る。どれぐらい踊っただろうか。人々の踊りが最高潮に達したときに、一人の男が女に抱きついた。それがきっかけだったのか、気がつくとどの男女も抱き合い地面に倒れこみはじめる。自分もいつの間にか見知らぬ女を抱いていた。性の饗宴がはじまりだった。男も女も声を張り上げ、腰を動かしている。みんな叫び声をあげて次から次へと抱きあっていた。何度でもやれた。不思議だった。何十回やっただろうか疲れ果てて眠っているとそこにいた男女が雲を呼び、月の光を浴びて天に登っていくのを見たような気がした。
 朝目覚めると何もないところにひとり裸で寝ていた。昨夜の体験は実際にあったことなのか、それとも夢だったのかどうかわからない。毒気を抜かれて、ロープを山に捨てて街に帰っていった。

(終わり)

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