月夜の晩に/伊勢 湊

 この街には夜通しやっている映画館もなければファミレスもない。夜の八時には闇を迎え入れてしまうこの街で、けれども僕たちは月の明るさを知っている。儀式のために開け放たれた中学校の教室の窓から時折吹き込んでくる、五月のまだ少し冷たさを残す風がふわりとカーテンを揺らす。教室の中に射し込むその青い月の光は、太陽のそれほど公明正大でもなければ有無を言わせないほどの完璧なものでもないけれど、その今にも壊れそうな脆弱さは、むしろ優しくて僕たちを安心させる。
「はじめようか」
 忍び込んだ教室の机の一つに用意してきた紙を広げる。鳥居と五十音の文字、それから「はい」と「いいえ」などが書かれている。その上に武ちゃんが十円玉を置いた。僕たちが準備する間も健ちゃんは一人下を向いていた。もちろん、こっくりさんが怖いわけではない。噂が社会を形成していた小学校のときならいざ知らず、中学生の僕たちは自分たちでもしらけてしまうくらい情報社会に精通してしまっていて、いろんなことを知りすぎていた。キスもしたことないのに避妊の仕方を知っていたり、アルバイトさえしたことないのにリストラ後の身の振り方を考えた。こっくりさんで十円玉が動くのは無意識の願望が筋肉を動かす不随意運動だということも知っているし、取り憑かれたみたいになるのは自ら催眠状態に入ってしまうせいだ。この時代に僕たちが怖いと思うのはそんなことではない。僕たちが怖いのは理由なく暴力に訴えてくる危ない連中。暴走族や不良、少年マフィアに薬物ジャンキー、理解できない変質者たち。そして、脈絡もなしにそんなものにぶつかってしまうこともあるという事実だ。
「健ちゃん。さあ、やろうよ」
 僕は健ちゃんを促す。僕たちは十円玉に指を乗せる。でも、大切な質問のときだけは僕は乗せた振りだけをする。それが武ちゃんと僕が考えた健ちゃんの心を確かめる方法だった。
 
小学校に入る前からお互い近所だった僕たちはずっと一緒だった。友達という言葉にむしろ違和感を覚えるくらいに仲が良かった。そんな健ちゃんと、明日から長い間会えなくなる。
 仕方がないことだったと思う。でも、それがあと三十分でも早ければ、あるいは部活の帰りでバットを持ってさえいなければ結果は違っていたかもしれない。
 家に帰った健ちゃんは二階の妹の香純ちゃんの部屋から大きな物音がするのに気が付いたという。直後に香純ちゃんの小さな悲鳴。階段を駆け上り部屋のドアを開けた健ちゃんの目の前には顔にやたらとピアスをつけた二人の男の姿があった。片方はズボンを下ろして泣きじゃくる香純ちゃんの服を剥ぎ取っていて、片方はそれをにやにや見ながらバタフライナイフを弄んでいた。健ちゃんが入ってきても男たちは止めるどころか「おまえも参加する?」と言ってきた。そのあとのことは正確には覚えていないという。ナイフを持った男は体中に八箇所の骨折とあばら骨で内臓を傷つけての重態。ズボンを下ろしていたほうは頭蓋骨骨折で死亡したという。
 健ちゃんが悪いとは誰も思わないだろう。でも理不尽だけど健ちゃんにも罰は降りかかった。「相手も未青年だったんだって」健ちゃんはぽつりとそう言っていた。そしていずれにしてもこの街には、もういられないとも。

 健ちゃんがどういう施設にどれだけの間いなければならなくなるのか分からない。香純ちゃんはそのときのショックのせいで遠い街の病院で療養中だという。家族は明日、その病院がある町へ越していく。僕に言わせればあまりに理不尽な仕打ちだ。
そして健ちゃんが受けた傷のこと。学校の帰りに健ちゃんの家に寄ったとき玄関から女の人の叫び声が聞こえた。「どうして、どうして殺したんですか? 悪い息子だったかもしれません。痛めつけてやっても良かった。でも、どうして殺す必要があったんですか?」あまりの言い方に怒りに突き動かされて玄関へ向かおうとした僕の肘を武ちゃんが掴んだ。顎をしゃくるその先に二階の部屋の窓際で、もしその下に電車でも走っていれば今にでも飛び込みそうな悲痛な顔をした健ちゃんがいた。

「こっくりさん、こっくりさん…」
 伝統にのっとったやり方でこっくりさんを呼び出す。「なかなか雰囲気あるなぁ」と笑う武ちゃんに健ちゃんもつられてわずかに笑う。
「こっくりさん、健ちゃんは将来何になりますか?」
 いしゃ。健ちゃんの望みか、あるいは僕の期待なのだろうか。様々な質問を僕たちは繰り返していく。大学受験ストレートで受かるか。結婚する人の名前は。童貞喪失は何歳か。三人の中で将来頭が禿げるのは誰か。あまり明るい遊びではないけれど、やはり三人でいると楽しい。でも、だからこそ大切な質問を聞くのが怖い。
 そのとき教室の黒板側からゆっくり影が射してきた。月に雲がかかったようだった。なにか疲れた感じのする健ちゃんの横顔が青い月の光に照らされていた。それが影に沈んでいく。今しかない。ふとかち合った武ちゃんの目もそう言っていた。
「僕たち、また会えるかな?」
 闇の中、僕はそっと十円玉から指を離した。緊張が生まれ、闇の中を漂う。もし十円玉が動いてなかったら、もし「いいえ」の上にあったら。どうしたらいいのかの答えが出ないまま黒板のほうから教室が月の明かりを取り戻す。そして再び十円玉が紙の上で青い光を浴びた。
「はい」の上に十円玉があった。
 一瞬止まった時間が動き出し、僕は健ちゃんを見る。その顔はとても穏やかだった。
 僕は十円玉の上に指を戻すのを忘れていた。それを見て武ちゃんが、あちゃーという顔をしてから言った。
「うわっ、いまなんかいたぞ。黒板のところ!」
 いるはずがない。分かっている。でも僕たちが「ほんとか?」とか「やべーよ」とか言いながら、紙と十円玉を片付け、窓を閉め、机をきちんと並べてから、大急ぎで教室から逃げ出した。校庭に出た頃には、なぜか三人ともこらえきれなくなって、青い月の下で声を出して笑いながら、空に拳を突き出して走っていた。

(終わり)

 

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