月姫/神楽坂 玉菊

 きみがいなくなって、この部屋は本当に広く感じるよ。
 ちょっと前までは、あのソファーで本を読んだり、むこうの台所で慣れない手つきで野菜を刻んでいたり、このベッドで一緒に眠ったりしていたのにね。
 きみはいないけど、きみが残していったものはたくさんある。床に散らばったままの服、プレゼントしたネックレス、よくつけていたバラの香りの香水・・・。
 あんなに好きだったのに、あんなに愛したのに。長い艶やかな髪に指をとおして、何度も愛してるって囁いた。きみも、そう言ってたよね。
 優しくて、わがままで、甘え上手で、子供っぽくて。
 綺麗で、愛くるしくて、冷たくて、淫らで。
 大好きなきみ、この腕をすり抜けて・・・。
 あの月に帰ってしまったんだ。
 
 きみと出会ったのは、二人でたまに遊びに行っていた近所の川原。空虚に襲われて、気晴らしに散歩に行ったときに偶然見つけた。きみは川原にうずくまっていた。ただ黙って、川面に揺れる満月を眺めていたんだろう。こちらにあの黒髪をむけて・・・。足音に気づいて、きみはゆっくりとこちらを向き、立ち上がった。
 視線が外せなかった。煌々と照る月の光の中、きみは息をのむほど美しく見えた。それがきみ自身の美しさだったのか、気まぐれな月のみせる魔法だったのかはわからない。どちらでもいい。一目で虜になってしまったのには変わりないから。
 きみはそれがすぐにわかったんだ。笑みを浮かべて、手招きをした。足が勝手にきみに吸い寄せられる。
「暇ならお話でもしない?」
 きみは親しげに、答えのわかりきった問いかけをしてきた。間近で見れば見るほど、きみは綺麗だった。服は薄汚れてはいたが、白い小さな顔、黒い長い髪は少しも汚れてはいないように見えた。きみの手が、ためらうことなく伸びる。赤い口唇がまた笑っていた。

 草の上に寝転んで見る満月は、信じられないほど大きく見えた。半身を起こして隣を見れば、きみが無表情に仰向けに寝ていた。
「きみはこの辺に住んでるの?どこから来たの?」
 ベルトを締めながら、初めて言葉を発した。
 きみは胸元をはだけさせたまま、月を指差した。
「月・・・?」
「そうよ。お月様」
 そうして微かに笑うきみが、なぜか嘘を言っているようには見えなかった。月光を浴びるきみにはその言葉を納得させるだけの何かがあった。
 このこが「月から来た姫」であっても何の不思議はなかった。
 
 その夜から、きみとの暮らしが始まった。他人が聞いたらさぞ馬鹿な話だろう。それでもよかった。刺激が欲しかった、空虚を埋めたかったのかもしれない。きみと出会ったことで、ぼくの生活は一変した。刺激の溢れる、同時に今までにない安堵を感じる毎日になった。きみは御伽噺のお姫様さながら、いろいろなものを欲しがった。でも与えればお釣りの来るほど、きみは形のない贈り物をくれた。
 きみを愛した、きみは愛してくれた。ずっとこんな毎日が続くと信じていた。眠る時、きみをしっかり腕に抱いて、夢の中でも「愛している」と囁いた。きみも囁き返してくれた。御伽噺のお姫様は月に帰ってしまったけれど、きみはこの腕から離さない・・・そう願っていた。
 
 月は欠け、消え、満ちる。月が檸檬のような形になった頃、きみが背を向けて眠り始めた。嫌な予感がした。そしてそれは的中した。
 満月の晩だった。きみが突然、荷造りを始めた。慌てて問いかけた。
「何で?どこへ行くの?」
「なんか飽きてきたから家に帰るの。まぁ、貰ったものを置きに行く・・・みたいな感じだけどね」
「家って・・・だってきみは・・・」
 その続きを察知したのか、きみは馬鹿にしたように笑いながら、
「あーそうそう。月に帰るのよ」
 その顔が、ひどく醜く、歪んで見えた。
 きみも・・・ただの女なのか?
 そんな思いを振り切るように、きみの腕を掴む。きみは汚いものでも見るように冷たい一瞥をくれ、掴まれた手を振り切った。そして旅行かばんを持って玄関に向かった。
「待って。なんでも言うことをきくから、出て行かないで」
 思いつく限りの、心を込めた愛の言葉で、きみを引きとめようとしたのに・・・。
「勘弁してよ、気持ち悪い! 何でこれ以上好きでもない男と一緒にいなきゃいけないの。楽しかったでしょ、不相応な夢見れたじゃない?かぐや姫と寝たんだから」
 それから我にかえった時・・・きみは目の前で、腹から血を流して倒れていた。
 
 気付けば、あの川原にきみを背負って来ていた。草の上にきみを抱いて座る。
 振り仰ぐと、あの夜と同じ満月。あの夜と同じ月明かり。でも照らされたきみの顔は、あの夜よりも白くてもはかなげで美しかった。
 苦しそうにきみは息を吐く。服は胸まで赤くなっていた。それでも、なぜこんなにも綺麗に見えるのだろう。きみは本当にこの世の人ではないようだった。
「私・・・死ぬの・・・?死にたく・・・ない・・・」
「大丈夫だよ」
 子供のように不安そうに泣いているきみに、安心させるために優しく優しく微笑んでみせる。
「ちゃんと帰してあげるから・・・月に」
「え・・・」
 そしてきみを抱き上げ、川辺にたった。川面に、ゆらゆら月が揺らめいている。
「じゃあね・・・」
「やだ・・・いや・・・やめて・・・!」
 川面に映る満月・・・どうかきみが無事にあの月に帰れますように・・・。

 ベッドに寝転ぶと、きみの香りがする。
 今朝、ニュースで、きみと同じ顔の女を見たよ。家出中に殺されて、海で発見されたんだって。ろくでもない女だったんだろう。
 今頃きみは、月の宮殿で、綺麗な着物を着て、大勢の家来にかしづかれているんだろうね。
 きみだと思って、枕を抱きしめる。
 優しくて、嘘つきのきみ・・・本当に愛していたんだよ、今までの誰とも比べることなんてできないくらい。ずっと一緒にいられると信じてた。でもきみは月のお姫様だから、ここにはいられなかったんだよね。嘘をついてまで、出て行かなくちゃいけなかったんだよね。
 涙が溢れる。枕を強く強く抱きしめる。
 インターホンが鳴り響く。ドアを叩く音がする。何度も何度も。
 もう少しだけ待って・・・きみの香りを感じていたいから・・・。 

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