月の魔力/舞火

 夕闇がせまる頃、月が山間から昇り始めた途端に、男はその肌に煌めく薄いはずの体毛を震わせた。
「……ううっ」 
 喉から絞り出される野太い音が風の中に微かに響き、それとともに体毛が見る間に増えて長く太く体を覆い始めた。
 彼の身のみに起きる突然変異。
 ただそれだけの言葉で表すには、特異な現象だ。
 冷たく輝く白銀の満月に晒されて、煌めく白銀の毛が波のように風にざわめく。
 男が──いや、もう男とは呼べなくなったそれが、雄々しい獣の体躯を震わせると、ざわりと毛が立ち上がりそしてふわりと身を覆った。
 魔力を蓄える力を持つ白銀狼(はくぎんろう)。
 毛皮も肉も10倍の重さの銀貨と取引される白銀狼を狩りの対象とする僅かながらの魔力を有する人間の一族の長であった筈の者。

 ぶるりと再度身を震うと身につけていた衣服が雪原に落ちた。人の身を護る魔力を有するなめし革の鎧も狩猟用の弓も剣も何もかもが柔らかな雪に跡を残して。
 そして、記憶も。
 白銀狼特有の獣にしては高い知能を宿す銀の瞳が辺りを窺い、狩りの対象を探す。今彼にあるのは食欲を満たすこと、ただそれだけだった。
 不意にその瞳が煌めいて、何かを映すように中空を見つめた。くるりと踵を返して鼻先をひくつかせる。
「…ぐるっ……」
 喉の奥で唸った獣が、不意に跳ねた。


 人である時は己が変化することもそれが狩ってきた白銀狼の昔年の恨みであることも理解しているというのに、いざ白銀狼になるとその意味を考えることはない。
 己は己であり、他の何物でもないのだ。
 欲するがままに狩りをし、欲を満たして暮らすことだけを考える。
 中空を駆けるように走る白銀狼がその足をぴたりと止めたのは、その獲物から10mと離れていない所だった。
「い、や……」
 白銀狼の姿を視認してぶるぶると身を震わせるのは、人の子供であった。年にして10歳くらいか。村の中央にある井戸に夕餉用の水を汲みに来たのだろうか、その手から甲高い音を立てて桶が転がった。
「ぐっ……」
 獣の喉が鳴り、白い牙が覗く口からだらだらと粘つく唾液がこぼれ落ちる。
 欲しい……。
 腹が減った……。
 ただ欲にだけ操られ、白銀狼の足が地を蹴る。
「きゃああっ!」
「がっ!!」
 子供の甲高い悲鳴と、白銀狼の痛みを発する声が同時だった。
 ぽたっ──
 かろうじて四つ足で着地したその足下に赤い滴が滴り落ちる。
「ぐ……がっ……」
 激しい痛みに僅かに視界がぶれ、その中で悲鳴を上げて怯えていたはずの子供の唇が弧を描いた。
「情けないね」
 どこかで聞いた音を紡ぐ赤い唇を見つめて、この日初めて白銀狼としての頭に疑問が浮かんだ。
 何故だ?
 子供に過ぎない体躯がやけに大きく感じる。それが圧倒的な力を有するが故の威圧感だと気が付いた途端、肌が総毛立った。
「僕が判らない?」
 無邪気な笑みを浮かべて嗤う。
「ぐるっ……」
 知っている、知っている、知っている……。
「僕だよ。ムーンストーン……覚えていない?」
 ムーン……ストーン……。
 霞のかかっていた脳が不意に晴れ、人としての知識が浮かび上がった。
「ぐ……あ……トーン……」
 人ならざる喉が言葉を拒絶する。だが相手には何が言いたいのか判ったのだろう。喉でくつくつと嗤う。
「思い出した?ならばいつまでそんな格好でいるつもり?白銀狼を狩るべき一族の長のあなたが」
 そうだ。
 俺は何をしているのだ?この姿に身をやつし、あまつさえ人の子供を狩りの対象としようとした。こんな愚かな己を……。
「殺してあげる。あなたの子であるこの僕が。でないと……あなたは満月から7日間その呪われた姿のままになるんだろ。何故、人の時に死を選ばないのかが不思議だね。それとも人の時にはその姿の事は忘れてしまうの?──そんな筈はないよね、ならば村に帰ってくるはずだもの。そして、今頃は僕の手で殺されているはずだったよね」
 煌めくのは白銀狼の骨と銀で作った剣。白銀狼を狩るための呪縛の力を宿す剣。
「ぐっ……」
 殺して欲しい……だけど……死ねない。
 逃げなければと動かない体を必死で操ろうとする。その苦痛に顰められた形相にムーンストーンが息を飲んだ。
「父さん……」
 僅かに覗いた情を糧に、白銀狼は力を振り絞った。


 滴り落ちた血が雪原に僅かばかりに残っている。だがそれも荒れ狂い始めた雪に消されてしまうだろう。狼の足に人の身でしかも子供の足では追いつけない。
 傷つけてはないけれど、途中まで追いかけてきたあの子は無事だろうか?
 雲に隠れた月の下で、白銀の狼は傷を癒していた。
 ムーンストーンが持つ魔力に煽られたのか、白銀狼は人の記憶を保ち続けている。
 それがいつまでも持つとは限らない。
『何故死なないの?』
 我が子の言葉が胸に突き刺さる。
 だが死ねない。
 死ねば、呪いは自らの血をひいた己以上の魔力を持って生まれた我が子に引き継がれる事を知っていた。
 だから……死なない。

 僅かに衰えた風の中、白銀の毛が泳ぐ。
 呪いを子に渡さないために白銀狼となった男は生きるしかなかった。
 月が永遠に頭上にあって魔力を持つ光を放つのであれば、呪いも永遠に己の血族に降りかかるであろう。
 月を破壊する以外に呪いを打破できる方法はあるのだろうか?
 恨みを込めて見上げる先で、雲の隙間から月が冷たい光を降り注いでいた。
 

<了>

 

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