月は金魚の夢を見る/まあぷる

 花火が上がった。夜空を彩る花弁は華やかで、そして儚い。一瞬の命を精一杯見せつけるように咲いた花火を、僕は記憶の奥底に鮮明に焼き付けた。花火が消えると丸い月の柔らかな光があたりを覆い尽くす。今日は八月十五日。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
 妹の里美が不思議そうな顔で僕を見つめる。里美は小学二年生だ。高校三年の僕とは十も年が違う。紺地に朱色の金魚が泳ぐ浴衣はいとこのお下がりで、少し丈が長いために、お端折りがちょっと大きめだ。買ったばかりの水風船が歩くたびにふるふると震える。去年は男の子みたいに短かった髪が今年はずいぶんと長くなって、僕が買ってやった真珠色の髪留めもずり落ちることはなくなった。
「いや、何でもないよ」
 いま目の前に見えるもの、聞こえるもの、漂ってくる匂いの全てを心に刻んでおこうと思った。妹。喧騒。盆踊りの太鼓の音。焼きそばの甘いソースの匂い。そしてリンゴ飴の艶かしい輝きも。
「ね、見て見て。金魚掬いだよ。やってもいい?」
大きな水槽の中で泳ぐ金魚はほとんどが和金だったが、黒い出目金や、スカートをこれ見よがしに揺らす流金も見える。
「お兄ちゃん、あれが欲しい」
里美の指の先に見えたのは淡いクリーム色の流金だった。和金の群れが作る緋色の帯を優雅に横切るそれは和金より少し大きくて、どう考えても、里美のすくい網には捕らえられそうになかった。
「じゃあ、やってごらん。手伝ってあげるから」
 里美は小さな水色の花模様の巾着袋から赤いお財布を出し、代金を払う。
「はい、どうぞ。掬えなくても一匹はあげるよ」
 くわえ煙草の香具師が面倒くさそうな顔をして座ったまま、紙のすくい網を差し出した。
「あれは……」
 おずおずと里美は先ほどの流金を指差し、問い掛ける。
「あれは駄目。掬えたらやるよ」
 つっけんどんに香具師が言い返す。
 里美はひどくがっかりしたようだった。僕は耳元に顔を近づけて囁いた。
「大丈夫。お兄ちゃんにまかせて」
 僕は里美がしゃがんですくい網を水につけると、水の中に手を入れて網を下からそっと支えた。里美は網を獲物の近くにまでそろそろと持っていくと、ゆっくりと、物憂げにたゆたう魚体の下へ滑り込ませる。そしてそのまま慎重に網を持ち上げた。僕は手を里美の動きにあわせ、網をお椀の上まで持っていき、ひっくり返した。
 ―――とぷん。
 軽い音と共に流金がお椀に納まった。
「やった! お兄ちゃん、ありがとう!」
 香具師は目を丸くしてその様子を見ていた。
 共同作業でもう一匹、緋色の流金を掬い、お椀に放すと僕は水の中でそうっと手を離した。ひとりで和金を掬おうとした里美のすくい網はたちまち破れたが、里美は二匹の流金を眺めながら柔らかく微笑んだ。
「これで寂しくないね。お兄ちゃん」

「お嬢ちゃん、凄いねえ」
 納得できないように首を傾げて破れた網を睨みながら、香具師がビニール袋に金魚を移した。里美は嬉しそうにそれを受け取って持ち上げる。
「お兄ちゃん、見て。この金魚、お月様の色してる」
「本当だね。きっとこれは月の夢の中に出てきた金魚だよ」
「月の夢?」
「そう。月の夢から飛び出してここまで落ちてきたのさ」
 里美はしばらく金魚を眺めていたが、やがて僕の顔をじっと見つめて呟いた。
「お兄ちゃん、ありがとう。あたし、本当に嬉しかった」
 
 その時、人ごみを掻き分けながら母が近づいてくるのが目に入った。母はお祭りには不釣合いな暗い顔をしていたが、里美の姿をみとめると、ほっとしたのか、たちまち表情が和らいだ。
「里美! ひとりで来たら駄目よ。母さん心配してたんだから」
「ごめんなさい……」
 僕はそっと里美から離れた。身体がゆっくりと浮き上がり、僕は少しずつ天へ向かう。
「あら、金魚ね。凄いじゃない。自分で掬ったの?」
「うん。……どうしたの? お母さん」
 母は泣いていた。なかなか涙が止まりそうにない顔を両手で覆う。
「もう、こんなことしないでね。里美までいなくなったら、母さん、どうしたらいいか分からないよ」
 そう言いながらその場にしゃがみ込んでしまった母の震える肩に里美は小さな手を乗せた。
「お母さん。……あのね、本当はひとりで来たんじゃないの。お兄ちゃんと来たんだよ」
 母は顔を上げ、里美の顔を怪訝そうに見つめた。
「里美、何を言ってるの? お兄ちゃんってどういうこと?」
「嘘じゃないよ、お母さん。後でお話するから、もう帰ろうよ」
 里美は上向いて、僕の方を見ると少し寂しげな笑顔をみせた。唇が動き、「またきてね」と声にならない言葉を紡ぐ。
 花火の音や子供たちの声、そして屋台から立ち昇る熱気が次第に遠ざかる。小さくなっていく里美の顔がやがて小さな点になり、見えなくなった。少し疲れた。家の見下ろせる処まで行って休もう。
 
 ごめんね、母さん。僕は母さんには姿を見せない。心を掻き乱してしまうような気がするから。母さんには里美のことだけを考えて欲しい。あの日、僕が出かけるときに見せてくれた子供みたいに無邪気な笑顔が、いつか必ず母さんに戻ってくると僕は信じている。
 来年はもう来れないよ。まもなく僕はいままでの記憶を全て失い、別の人生を歩み始めることになったから。本当は忘れたくない。忘れてしまうことは叫びたくなるほど辛い。
 だからせめて今日のことだけは、心の奥の奥にしまい込んで鍵を掛けておこうと思う。そうすれば、生まれ変わっても夢で見ることが出来るかもしれない。お祭り、花火、金魚、里美、そして母さん。短かったけど、本当に幸せだったよ。ありがとう。明日、家の前にお別れの炎が灯ったら僕は行く。

 
 里美。僕は夢だ。月が見せた束の間の幻だ。僕はもうお前に会えない。でも今日のことは心の片隅にでも置いて欲しい。いつしかそれが夢の中の出来事と思えるようになったとしても。

 
 月が、綺麗だ。

 

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更新:2003年08月31日