大型演歌小説「月の雫」 佐野祭
「できたぞ弥三郎、新曲が」
杉野森弥三郎のような売り出し中の歌手にとって、有名作曲家の松本喜三郎にかわいがられるというのはそれだけでも幸運である。
月の輝く夜、弥三郎はそそくさと喜三郎宅を訪れた。
「これだ」
弥三郎は喜三郎に楽譜を渡された。
「月の雫」
作詞/作曲 松本喜三郎
誰も降りない駅に立ち
受け取る人を待っている
青い唇かじかむ指
モデムをくばろう
答えは返らなくても
便りはとぎれても
何かはつながっているのか
一つの空の下
月の雫が宿る街
始発列車のアナウンス
いつかきっと心は届く
モデムをくばろう
「つきのしも。いいタイトルですね」
「『しずく』だよバカ。ちょっと歌ってみろ」
喜三郎がピアノを弾き、弥三郎が歌う。何度か繰り返したところで喜三郎が言った。
「どうした弥三郎。調子が出ないようじゃないか」
「はあ」
弥三郎は首をひねった。
「どうも……なんていったらいいか、この歌の情景がよくわからなくて」
「そうか」
喜三郎は遠い目をしてつぶやいた。
「無理もないな。この歌は俺の実体験に基づいたものだからな」
「そうなんですか」
「ああ、今から二十年ほど前の話になる。若いお前にわからなくても仕方ない」
喜三郎は語り始めた。
「俺がまだ作曲家として売れる前のことだった。生活のために、俺はモデム配りのアルバイトをしていた」
「あの、よく駅前でただで配ってるやつですよね」
「そうだ」
「あれって、そんな頃からあったんですか」
「今みたいなADSLモデムじゃないぞ。まだ1200bpsだったころだ」
「そのころモデムなんて配ってたかな」
「今みたいな誰もがインターネットするなんて時代じゃない。当時はまだパソコン通信だった。そんなあちこちで配ってたわけじゃない」
「なるほど」
「ある日俺はとある地方の駅でモデム配りをしていた。といってもそんな大きい駅じゃない。降りる人の誰もいない駅で、俺はモデム配りをしていた」
「ちょっと待ってください」
「なんだ」
「なんでそんな誰もいない駅でモデムを配るんですか。どうせならもっと大きい駅で配ればいいじゃないですか」
「当時はな、草の根BBSというのが流行っていた。中央からではなく、小さなところからコミュニケーションの輪を広げようという試みがあったんだよ」
「そうなんだ」
「俺は黙々とモデムを配っていた」
「黙々と……って、ふつう何か言いながら配るでしょう」
「誰もいないのにしゃべってもしょうがないじゃないか」
「えーっと……」
弥三郎は何か考えていたが、考えがまとまらなかったようだ。
「すみません続けてください」
「ふと空を見上げると月が出ていた。そう」
喜三郎はカーテンを開けて空を見上げた。
「今日のような満月だ。俺はふと、別れた女のことを思い出した。俺が作曲家を目指して上京したころに知り合って、三年ほど一緒に暮らした女だ。考えてたよ、結婚も。真剣に。だがまだ作曲家として芽が出ず、まともな収入なんざありゃしねえ。それどころか、情けない話だがな、博打で大きな借金をこさえちまった。いや、今にしてみればそんなに大した金額ではないよ。でも、当時の俺には大金だった」
喜三郎はグラスに氷とウィスキーを入れた。
「ある日俺が仕事から帰ると、彼女が旅支度をしていた。父親から知らせがあって、母親が倒れたらしい。彼女はとるものもとりあえず帰郷した。俺は彼女の帰りを待っていた。だが、いつまでたっても彼女が帰ってくる気配はねえ。おそらく父親がもう彼女を行かせまいとしたんだろう。連絡さえもふっつりととぎれやがった」
水道からグラスに直接水を注ぐと、二・三回かき混ぜて弥三郎に渡した。
弥三郎は黙って受け取る。
「ほんとにおやじの差し金だったのかどうかはわからねえ。でも俺はそう思わずにはいられなかった。もしかしたらあいつ自身の考えだったんじゃないか、そもそも母親が倒れたというのはほんとなのか、そういう思いが浮かんでくるのを俺は無理矢理押し殺していた」
喜三郎は同じように自分の水割りを作りはじめる。
「俺は月を見ながらその女のことを思い出していた。月は誰をも同じように照らす。彼女のふるさとからもこの月は同じように見えている。俺がいま見ているのと同じように。そんなことを考えているうち、俺は自分の未練がましさに腹が立って仕事に戻ろうとした。でも、モデムを配ろうとしてまたいろいろ考えちまってね。このモデムは、人と人を結びつける道具だ。間の距離なんて関係ない」
喜三郎は一口だけグラスに口を付けた。
「なんか急に自分が半端もんに思えてな。月もモデムも、隔たりなく人と人とをつないでいる。隔たりはどこにあるわけじゃない、人間の心の中にあるのよ」
「……」
「そんなことを考えていたら、始発列車のアナウンスが耳に入った。いつの間にか夜が明けてたんだな」
「ちょっと待ってください」
「なんだ」
「夜中に配ってたんですか」
「ああ。借金を返すために昼は工事現場でアルバイトして、夜は徹夜でモデムを配ってたのよ」
「そりゃ誰もいないでしょ。無茶ですよ」
「そりゃそうさ」弥三郎は煙草に火をつけた。
「若いからできたことだよな」
[完]
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