靉靆の月/PAPA

 月が靉靆に隠れるとき、私の脳裏には、全裸になった彼女の姿が映し出される。
 記憶の中の彼女は、それとは違う。セーラー服をまとい、指先で机を叩き、モールス信号を打っている。上手に解読できると、彼女は天上の笑みを惜しげもなく見せてくれる。

 一昔前、私は高校の卒業パーティーに出席した。場所は繁華街の裏路地にある居酒屋で、「港」という屋号が目印だった。地元で揚げられたばかりの魚介類を使う郷土料理や、刺身に蟹鍋、それにビールと、それらが料金に関係なく振る舞われたのは、経営者の息子がクラスメートだったからに他ならない。
 居酒屋の跡取り息子は、「俺に感謝しろよ」と派手な半被を着て、酒を勧める。もっとも、酌をする相手は女の子だけだ。三年二組の二一人いる女子生徒の内、不在は一人。テニスクラブの送別会と重なったため、遅れるという話だった。
 扉が開き、泡雪とともに、のれんを人がくぐる。店主の声につられて、客を目で追う。三度、ため息がこぼれた。そのせいか四度目に小さなガッツポーズが出てしまった。
「遅いよ、真奈」と、誰かが口にする。私も反射的に頷いている。
 未妃真奈が顔を出したのは、午後八時を回っていて、私達はとうに酔いが回り、箸が転がるだけで笑い声が渦を巻くような状態だった。普段は理路整然と演説を打つ委員長も、呂律が回らず、名演説家という愛称が泣いていた。
 私の横に座る、今や迷演説家を脇に押しやり、真奈を誘う。彼女はコートの雪を払い、小上がりにあがった。彼女の脱いだコートは、女たらしの――だが私の親友の跡取り息子が、わざと大げさな身振りで受け取る。鼻を近づけ、布地の匂いを嗅ぐそぶりを見せる。彼女は、肩をすくめて、それを無視した。私の横に座り、掘り炬燵に足を投げ出す。彼女はビールのジョッキに口を付けながら、足先で私のスネを軽く叩く。触れる時間が長いのは線で、短いのは点になる。
「――・ ――― ―― ―・」
 符号表がないので、何を伝えたいのか、酔った頭では分からない。ただ曖昧に微笑んでみる。満足したのか、彼女も笑みを浮かべた。
 二次会、三次会と人は流れた。場所が移るに従い、人数が減っていく。四次会はさすがに断った。明日、上京する私にしてみると、これ以上のつきあいは、負担になる。スナックのカウンターで、短い別れの言葉を口にした。
「盆暮れには帰ってこいよ」
 親友の港琢馬は、後ろ姿だけを見せて、片手を振る。
「私も帰るわ。送ってくれる?」と、未妃真奈が私に視線を送った。思わず口角がゆるむ。
 外に出ると、電飾看板にもうっすらと雪が積もっていた。見上げても雲が靉靉としたまま月を隠し、人工の明かり以外に彩りは見えなかった。
 最初は、真奈の家までタクシーで送ろうと考えたが、結局、歩くことに決めた。私は大学に進学するが、この不況の中、彼女は地元に就職するしか選択肢がなかった。二人でいられるのも、今日が最後かもしれない。彼女の手の甲に触れ、次いで指を絡める。彼女が頬を私の肩に寄せる。
 繁華街を抜けると、立体橋の向こう側に寝静まった小学校のグラウンドがひろがる。黒い窓ガラスを横切り、住宅街に進む。あと百メートルも歩けば、彼女の家だ。私の歩みも遅くなっていく。角のコンビニで彼女が足を止めた。
「ねえ、飲み足りないわ。少しつきあってよ」
 そういって、彼女は私の手を引く。自動扉を二度抜けたとき、私は手に袋を提げていた。中には缶ビール、それとつまみの袋菓子が入っている。
 住宅街の手前に、公園があり、私はそこに導かれた。塀の手前にかまくらが作られている。水銀灯の輝きの下、中に古ぼけた絨毯が敷かれているのが目にとまる。
「早く、早く」先に真奈が入り、つられて私も中に入った。立つことはできないが、大人二人ぐらいなら楽に座れる。真奈が缶ビールのプルタブを空けて、口をつける。それから私に勧める。間接キスだなあ、などと頭の片隅に語句が浮かぶ。高校の想い出を肴にした莫迦話に酒がすすむ。気がつけば、買った缶ビールを全て飲み干していた。
 真奈は「なんだか熱いなあ」と言いながら、コートを脱いだ。外は氷点下といえ、かまくらの中はそれほど寒くはない。「熱い、熱い」と言葉を連呼して、セーターも脱いでしまった。艶やかな肌の色、二の腕に一つだけあるほくろが妙に色づいて見える。上だけとはいえ、下着姿の彼女を見るのは、今日が初めてだった。
 彼女が私に身体を預けてくる。私も無性に熱くなってきた。それに従い、頭の中で景色が回り始めている。真奈とつきあって、半年になるが、一線は越えたことがない。
「ちょっと、待って」飲み過ぎたせいか、小用が近くなっていた。最悪のタイミングだと思いながら、かまくらを出る。近場で用をたそうと思っても、彼女が顔をのぞかせているから、そうもいかない。ふらつく景色に頭を振りながら、私は公衆便所を求めた。飲み過ぎたせいで、視界がかすむ。震える右手を伸ばして、取っ手を握り、扉を開けた。ムッとした熱気が身体を包む。チャックを下げて放水した開放感は、快感となって渦を巻き、しまいには、ぼうっとして何がなんだか分からなくなっていた。

 気がついたとき、夜が明けていた。私をたたき起こす声は、見知らぬ女性のもので、見えるものも、見知らぬ家の玄関でしかなかった。呆然とした私は、頭を下げながら、何かを忘れていることに気がついた。それが何かを思い出したとき、全ては終わりを告げていた。

(了)

 靉靆(あいたい)=〔形動〕雲などが厚く空をおおっているさま。また、暗く陰気なさま。(編集人付記)

 

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