揺れ月/已岬佳泰

 流れる音楽に合わせて指先でテーブルを叩いていた姫野が、急に背筋を伸ばした。ちょうどダンサーのチェンジがあって、新しい女が丸いステージに上がった時だ。薄暗いクラブの灯りでは姫野の表情までは伺えない。しかし、それまで悠然とビールを飲みながらスイングしていた男が、彫像のように動きを停めたのだ。私は飲みかけのマティーニをテーブルに戻し、彼の視線を追った。
 ステージではシルクのガウンをまとった女が天井から下がったバーに両手を伸ばし、そのくびれた腰をダイナミックにスウェイさせていた。体型はスリム、こぶりだが弾力のありそうな胸も尻も、その前に出ていた白人女に決して引けは取らなかったが、髪の毛と目の色が東洋系であることを告げていた。なにか軽口でも叩くかと思ったが、姫野は黙って女を見ていた。

 M通りのクラブ・シャーレー。ワシントンDCでテーブルダンスと言えば私たちはいつもここだった。シェナンドアというDCから100マイルも西に走った田舎町を訪ねた帰り。そのままオフィスのあるシカゴにとんぼ返りもできたが、私たちはそれほど仕事熱心な日本人ではなかった。さんざん嫌味を言われながら、なんとか大型農機のリース契約を断ってきたところだった。気分転換にDCで一夜を過ごしてから帰還しても、誰にも文句は言わせない。

「知ってる顔か」
 私の問いに首を振りながら、しかし、姫野の視線は東洋系のダンサーから離れない。ついに立ち上がると珍しく紙幣を片手に歩き出した。クラブ・シャーレーはテーブルダンスクラブ、日本で言うストリップ小屋である。ただ、日本と違ってえらく雰囲気は明るい。イルミネーション式の照明とリズミカルな音楽、いやなによりも裸で踊る女たちに鬱屈の影すら見えない。観客も総じて行儀良く、口笛と歓声くらいで盛り上がっている。
 姫野が立ち上がるといっせいに拍手が湧いた。姫野がぎこちなく手を挙げる。私は不思議な気分で姫野の細い背中を見つめた。仕事のやり口は冷徹で強引だが、そこを離れると闇にひっそりとうずくまっているような男だった。それがぎこちなくも衆視の中を歩いている。ダンサーも姫野を認めてバーから手を離しひざまずいた。姫野が折り曲げた紙幣を差し出す。ダンサーが軽く首を振る。ここではダンサーはチップを手で受け取ってはいけないルールなのだ。彼女はむき出しの左太腿を姫野の方に突き出した。そこに巻かれた細い黒いガーターベルトを指さしている。姫野がゆっくりとベルトに紙幣を挟み込む。ぎくしゃくした姫野を応援するかのように、ひときわ口笛と歓声が高くなった。
 姫野がなにか喋り、ダンサーが「ちょっと待って」と言うように指を一本立てて見せた。

 5分後。出番を終えたくだんの女が私たちのところへやってきた。近くで見ると顔つきは彫りが深く東洋系ではないようにも思える。勧めもしないのに私たちのテーブルに腰を落ち着け、キャシーと名乗った。私は20ドル紙幣を彼女の前に置いた。キャシーが、にっと笑う。
「さっきの質問だけど」
 自分の赤い飲み物を手にするとキャシーは姫野にそう言った。
「ここでは毎週木曜日がアマチュアナイトなの。素人でも誰でもステージに上がって踊れて、ちょっとした小遣い稼ぎが出来るわけ」
 姫野が頷く。
「先週だったかな。そこに東洋人がひとり来てた。可愛い子だったわよ。ジャパニーズかどうかは知らないけど、英語もイマイチでね、でも客にはうけてたわ」
 私はマティーニのお代わりを頼んだ。キャシーが大声で黒服の大男に合図する。すると彼は左手にマティーニを乗せたトレイ、右手に小さな丸い台を持ってやってきた。
「その子がね、ペインティングをしていたの。とってもナイスだったんで、私も真似してみたってわけ」
 赤い飲み物に口をちょっとだけつけるとキャシーは立ち上がり、大男が運んできた丸い台に靴を脱ぎ、私たちのテーブルに上がった。
「20ドル分のダンスをお見せしなくっちゃね」
 形の良い脚を私たちは少し見上げる感じになった、その時。
 私の目に意外なものが飛び込んできた。

 赤い月。
 向かい合う双子の赤い三日月がキャシーの内股にあったのだ。

 姫野はそれに気づいていた。おそらくキャシーがステージに上がったときだろう。それで姫野は、慣れないチップを持ってステージまで行く気になった。自分の見たものを間近で確かめるためにだ。
 努めて目を背けていた現実に、ふいに横殴りされた気分だった。
 姫野はまだ未練たっぷりだった……2週間前に突然出奔した彼の妻に。 

 キャシーの大胆なテーブルダンスを楽しむ気持ちは失せていた。それよりも、虚ろに見上げている姫野の気持ちを思った。妻、蓉子の失踪後、狂ったように電話をかけまくっていた姫野。それでも行方がつかめず「あきらめたよ」とつい3日ほど前、あっさりと私に告げた姫野。伝えるべきだろうか。2週間前に一度慎重に検討した命題を、私はDCの薄闇で再び吟味していた。
 家を出ます。
 あの夜、あわただしいモテルの逢瀬で、蓉子は太腿の赤い月を私に見せてそう告げたのだ。夫の痕跡をカムフラージュするために描かれた双子の赤い月。無惨な歯形はそれでもよく見ればそれと分かった。彼女はあの後すぐにシカゴを離れ、ヨーロッパ経由で日本に帰国している……はずだったのだが。
 アマチュアナイトの女が同じようなペインティングをしているとキャシーは言う。
 それが蓉子である確率は極めて低い。自分の傷をわざわざ露出するような真似を、気位の高い蓉子がするはずはない。しかし、あんなところに赤い月を描く女もそうざらにはいないだろう……。

 キャシーのダンスは続く。
 見上げると、気だるい空間に赤い月がゆらゆらと動いている。
 マティーニのグラス越しに姫野も揺れ、私の気持ちもざわざわと揺れていた。

(終わり)

 

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