CMWC Relay Novel vol.1(2003.8.8〜10.11)


「カクテル」〜記憶の迷宮
第一話 久遠絵理
 ずるり、と腕が滑ったので、目が覚めた。カウンターの上でぶつかり、倒れそうになったグラスを慌てて押さえると、寝ぼけ眼で周りを見渡す。様々な色と形のボトルが並ぶ棚が見える。その前に立っていた、お決まりの格好をしたバーテンダーが慌てた様子で視線を外す。
 意識が戻ると共に、酷い痛みに気付いた。頭が割れそうだ。首の後ろから脳天にかけて、きりきりと痛む。口の中がざらついて苦い。

 それにしても、どのくらい眠っていたんだろう? この店がどこなのか、いつからいるのかさえ、思い出せない。店内に目をやったが、薄暗い部屋の中にはありふれた装飾があるばかりで特徴もなく、他に客はいない。

 ふと思いだして目の前を見ると、カウンターの上に載っているグラスは二つだった。
 どっちが自分のグラスなんだろう? 覚えていない。
 さっきぶつかった時に移動させてしまったせいで、位置からは判断出来なかった。
 だが、一つのグラスにはうっすらとルージュが付いている。明るいオレンジ色だ。細身のサワーグラスには中身がまだ半分ほど残っている。ルージュとお揃いのオレンジ色のカクテルからは、甘酸っぱい匂いが漂ってきそうだ。と、言うことは……もう一つのグラスが俺のなんだろう。そう思って腕を伸ばし、グラスの足を掴んだ。こっちは少し足が短いカクテルグラスで、深紅の液体がほぼ満杯に入っている。引き寄せるとカシスの香りがした。
 
 手の中のグラスを弄びながら、先ほどのサワーグラスにもう一度視線を移す。まだ、ずきずきと痛む頭で考え始めた。
 俺はここで、この酒を注文した女と一緒に飲んでいたのではないか? 二つのグラスは、触れあいそうなほど、近くに並んでいたのだから。
 だが一体どんな女だ? 知っている女か? それともここで知り合った女……?

 何も思い出せないもどかしさで、歯噛みしながら左右のスツールを見ると、左側のビニールレザーがまだ窪んだままだった。彼女はきっとこちら側に座っていたに違いない。そっと掌を載せてみると、まだ暖かい。ついさっきまで、彼女はここにいたのだ。今は、どうなんだろう? もう帰ってしまったのか? それとも電話かトイレか、そんな理由でちょっと席を外しているだけか? どれほどの時間、俺が眠っていたのかはわからないが、まだグラスにはカクテルが残っているのだ。俺は後者に望みを繋いだ。

 何気なく見下ろす内に、スツールの上に髪の毛が落ちているのに気付いた。色はダークブラウンでごく短い。きっと彼女は、その色に染めた髪をショートカットにしているのだろう。よく観察してみると、ビニールレザーの凹みは前半分だけだ。と、言うことは、スツールから伸びた両足を、床に着けていたのだろう。ここのスツールはよくあるタイプで背が高く、俺の黒い革靴も爪先がやっと着くほどだ。彼女はかなりの長身に違いない。
 オレンジのルージュからは、女の若さを確信する。くすんだ肌にその色は似合わない。ナチュラル系の肌の上に載せた、地味でなく、かといって派手すぎない適度の化粧。

 徐々に俺の中で女のイメージが出来上がってきた。それにつれて、少しずつ気分が良くなってくる。会いたい。どこまで想像通りの女なのか、自分の目で確かめたかった。
 ……早く戻って来い。この席に。俺の左隣に。

 その時だ。店の奥のドアが開いた。入り口とは違うドアだ。
 中から出てきたのは、女だった。が、俺の待っている女ではない。なぜなら、彼女は黒々とした髪を長く伸ばし、濃いめのパープルの口紅をつけている。青紫のミニ・スーツ姿で背だけは異様に高かった。
 だが待てよ……、と俺は考え直す。口紅なんか塗り直せばいいことだ。頭だってウイッグで自在に変えられる。もしかすると、この女、何かの訳があって、姿を変えたのかも知れない。
 
 その考えを裏付けるかのように、女はまっすぐこっちに歩いてきた。ただし、俺の方は見ていない。故意に視線を避けているようだ。驚いたことに後ろを通り過ぎると、俺の右側、それも一つ間を空けて、横のスツールに腰を下ろした。
 
 いったい何のつもりだ。俺を焦らしているのか? それともからかっているのか? 俺は混乱し、苛立ちまぎれに手にしていた酒を一気に煽った。ところが――
 荒い息を吐き、乱暴にカウンターに戻したグラスを見た途端、俺は凍り付いた。
 グラスの縁に、オレンジ色のルージュがついていたのだ。
 一体、これは……? 思わずそれを持ち上げ、確かめようと目を近づけた途端、体が震えだした。空になったグラスに映っていたのは、見知らぬ女の顔だった。
第二話 雨沢流那
 思いがけない出来事に、慌てて立ち上がりそうになった。だが、瞬間周りの目を思い、踏みとどまった。
 何が、何が起こったんだ? いや……俺はいったい何者なんだ! 
 焦るな、焦るな――俺。とりあえず、トイレだ。鏡でしっかり確かめるんだ。一つ、大きき息を吐いて、ゆっくりと立ち上がる。頭は痛むが、足元は大丈夫なようだ。
 緩やかにジャズの流れる薄暗い店内。広々とした席間を抜け、トイレに向かう。二つのドアのうち迷わず左手のドアを開けると、そこには誰もいなかった。
 そしてすぐ右に――鏡がある。
 それが目に入った瞬間、一瞬躊躇して、それでも思い切って前に立つ。ぱっと見たそこにいるのは――やはり見知らぬ女。
 思わず、すぐに目をつぶってしまった。――これは誰だ! いや「自分」は誰だ! 俺はどうかしちまったのか。鏡に映る顔が「自分」じゃないなんて、狂っているとしか思えない。必死に頭を整理しようとしても、頭痛の向こうの記憶は恐ろしくぼやけていて、形を持たない。
 だが――この痛みは、どこかで覚えがある。けれど、鏡に映るこの「モノ」には覚えがない。俺は、俺はこんなのじゃなかったはず……だと思う。ダメだ、記憶があやふやだ。こんな思いをしたことは、何度かある――そう、何度かある、という感じはする。そして、そうなったときどうしていたか、も覚えている――
 肩に下げたバッグをまさぐる。財布を取り出し、そこに挟まれている、免許証を見る。そう、そこにあるのは、俺の名前、俺の姿。それを眺めていると、ゆっくりと記憶が戻ってくる。大丈夫、格好はおかしいけれど、俺は俺だ。――そう、おかしな格好。
 ふと思い立ってもう一度正面の鏡を見、そして免許証の俺を見比べ――
 一見して与える印象は、まるで違う。だけどそれはたしかに――同一人物だ。
 オレンジのルージュ、鮮やかなブルーのアイシャドウ、カーラーとマスカラで強調された睫毛、そして、見覚えのあるものよりも細く整えられた眉毛。――そう、そこにあるのは、長年見慣れた俺の顔が、化粧により作りこまれ、変貌したものだった。
 こころなしか、頬の色も違うように見えるし、なにより髪型が全然違うのが別人という印象を与える。ぐしゃりと触ってみたダークブラウンの髪。人の髪とは違う感触で、それはたしかに俺の髪じゃない。ふと思い立ち、自分の胸を触ってみて――ため息をつく。念入りなことに、こんなところにもつめものがしてある。
 しかしまぁ、意外と様になっているものだ。人間、その気になれば化けられるらしい。
 洗面台に手を突いて、ふっと息を吐いた。ようやく、少し落ち着けた。
 それにしても、自分が何者かは分かったものの、どういった経緯で自分がこんな格好をしているのか、あるいはさせられているのか、まったく分からなかった。そこら辺り――ほんの少し前のことを思い出そうとすると、頭がキリキリと痛む。
 そう、こんな痛みは、何度も覚えがある。
 そう、俺は元来酒好きで、種類問わずなんでも飲み、それなりに強いのだが、危ない、という一線を越えると記憶が完璧に消えてしまう。ひどい時は今のように、どこで誰と飲んでいてこうなったかさえ、記憶から消えてしまうのだ。そのくせ、飲んでいる間は平然と歩いたり会話をやり取りしているから、余計に始末が悪い。俺の友人たちの間では有名なことだから、最近ではこんなになるまで飲まされたことはないのに。
 誰か――友達と飲んでたんだろうか? それで、何かの弾みに調子に乗ってこんな格好を? いや、それとも悪友に悪戯されたか……だめだ、まったく思い出せない。昨日の夕食のおかずは思い出せるのに、今日の予定が思い出せないのだ。予定帳でもつけていればよかった、と後悔する。
 改めて、鏡を見る。ウィッグをのせた頭が、気持ち悪い。いろいろといじられている目元も、なんだかこそばく感じる。うざったい化粧の全てを、全部引っ剥がしてしまいたい衝動に駆られたが、さすがにそれは控えた。鏡に映る今の自分の格好――きゅっとウエストの締まったローズピンクのワンピース――に、本来の自分の顔が似合うとは到底思えない。たとえどれだけ恥辱であろうと、このままの格好で店を出るしかなかろう。そして、タクシーでも拾って一直線に家に帰るのだ。それが、今の俺にとって最良の方法だ。

 気を取り直して、席へ戻った。まだ残るカクテルが少し心残りだったが、出来るだけ早くこの場を立ち去りたかったし、そもそもこれ以上頭痛を悪化させたくなかった。
 ――いったい、どれくらい飲んだのだろう。財布の中身は、心配ないけれど。
 そんなことを思いながら、声を落としてバーテンダーに「お勘定を」と言った。だが、返ってきた答は予想外のものだった。
「支払いはすまされております」
 そう――そうだ。すっかり忘れていた。俺には、連れがいるはずなのだ。どんな、どんなヤツだった――? そう聞いてみたい衝動に駆られたが、正直この格好のままこれ以上バーテンダーとやり取りするのは好ましくない。確認のため、一つだけ、聞いてみた。
「ごめんなさい、連れは、どうしました?」
 俺の問にバーテンダーは、首をかしげる。
「さぁ、ついさっきお支払いして、気付けばお姿が見えないな、と……」
 と、言葉を濁す。俺が目覚めてからでも、だいぶたつ。支払いを済ませている、ということは帰ったのか、どうか――いや、もうそんなことはどうでもいい。とにかく、早くここから逃げ出したいんだ。
 きびすを返して、出口に向かう。視界の端にさっきの背の高い女がいた。意味ありげにこちらを見ているような気がして、俺は目を逸らした。

 店を出たそこは、うらびれた繁華街の裏通りだった。見覚えがあるような気もするし、ないような気もする。
 よくよく思えば、時間も確認していない。さっと左手の平をこちらに向け、腕時計で時間を確認すると、深夜二時を回ったところだった。――中途半端な時間だ。タクシーをつかまえるのは、骨かもしれない。
 とりあえず、表通りに出よう。もっと広い通りに出れば、ここがどこか分かるだろうし、タクシーも拾えるだろう。
 そう思い、どちらでもいいとばかりに、とりあえず右手の方へ歩みを進めた。
 ――そのときだった。
「ねぇ、おねえちゃん、一人?」
 話しかけてきたのは、若い男――それも、かなり若い。下手をすれば、まだ未成年ではないかと思うほど。擦り切れたジーンズにプリントの白Tシャツ、そして腕に下げるジャラジャラとしたアクセサリー。そんなファッションはいかにも非行少年というふうのいでたちだったが、その割りに髪は黒く短く、清潔なふうだった。
 こういう類の若者は、係わり合いにならないに限る。声など聞こえなかったふりをして、やり過ごそうとする。だが、若者はしつこかった。
「なぁなぁ、待ってよ、おねえちゃん」
 と、にやにや笑いながら俺の腕を取ってくる。この野郎。おまえみたいな若造に絡まれるいわれなんてない。思い切りばっと腕を振り払い、
「いい加減にしろ!」
 と、にらみつけた。
 ――だが若者は、にやにや笑いをやめなかった。
「なぁ――おねえちゃん」
 そう言って、微笑む。それはまるで、何か、何かを知っているかのように……。
 俺は、背筋が薄ら寒くなるのを感じた。
第三話 富山敬
 その日の邂逅――それは俺にとって、運命と言う言葉を使っても良い数少ない出来事になるだろう。しかしそれは仕組まれたもの。いや、仕組まれたという言葉には語弊がある。これは俺が仕組んだものなのだから。
 しかしまだ安心はできない。万全の準備を整え、それを計画どおりに実行したところで、自分の予想を上回る何か――もしくはそれとは正反対にベクトルが働いてしまう事も皆無ではない。
 相手を倒し、その咽許に剣を突き立てようとした剣士が反対に討ち取られれること然り、罠に嵌めた筈の相手に逆に罠に嵌められている事も然り、連戦連勝し、しかし最後の一戦に敗北したために、歴史の舞台から退かざるを得なかった古代の皇帝もまた然りである。
 つまりはそのような不安定なものかも知れない俺の計画。計画と言っても、ただ待ち伏せし、そして尾行しているだけだ。そういった危惧は当然と言えば当然。しかも、この計画は今日、偶然にも街であの女を見かけた事に端を発している。住んでいる場所も働いている場所も知らない女。だからこそ邂逅は運命的なものになるだろう。
 思わず自嘲的な笑みを浮かべてしまう。運命などという言葉を嫌っている俺がその言葉を信じようとしているとは。どうやら俺は自分で思っているより柔軟な思考をしているのかもしれない。
 ライトの点いた立て看板に身を隠し、目の前を行く二人連れの者たちを睨み付けるようにしながら、しかし気配は殺していた。その術は身に付けているつもりだ。今、女たちに発見されれば元も子もない。奇妙な比喩というのは自他ともに認めるが、もしそうなれば、邂逅は不協和音の鳴り響く小学校の音楽室で一日中を過ごすのと同じくらい拙いものになってしまう。それは避けなければならなかった。
 問題の二人組はこのまま真っ直ぐ南に向かって進んでいくようだ。歩調はそれほど速くない。いや、むしろ遅いぐらいだ。これなら見失う心配は皆無に近いだろうが、油断はしない。
 油断大敵。
 誰が言い出したか知らないが、今日ぐらいはその言葉を信じてみよう。
 様々な色のイルミネーションに照らされた繁華街は、遠く離れていても相手の顔を見分ける事が出来るぐらいには明るい。それは相手の警戒心を和らげる効果がある。もしここが暗い夜道なら、相手は俺の穿いている安物の白いスニーカーの靴音にも敏感に反応するだろう。そう思うとこの静かとは言い難い街――喧騒に包まれた街も、好ましく思えた。
 目標の姿が遠ざかっていく。見失わないために看板の陰から一歩踏み出したとき、後ろから肩を軽く叩かれた。
 驚いて振り返った俺の視界に入ってきた男は、如何にもといった感じの白と黒の服装をしていた。ちょび髭を生やした口許から発せられる言葉も、喜んで良いのか悪いのか、やはり予想と寸分も違わない。
「おニイちゃん。良い娘がいるよ。ちょっと寄っていかない。安くしとくから」
 男の呼び込みを無視して、そのまま南に向かおうとしたのだが、問題の男は商売根性を発揮して諦めずについてくる。普段なら鬱陶しい、と思うだけだが今は事情が違う。
 男を振り払うために早足で歩き、女との距離を必要以上に縮めてしまうのは避けたいし、だからといって方向転換していては女を見失ってしまう。
 どうすれば……どうすればいい?
 焦燥にかられ、判断を誤ってはいけない。ここは冷静に対処するべきだ。間違っても声を荒げて文句を言ってはならないし、腕力にものを言わせて男を退散させるなどは愚の骨頂だ。それこそ女を見失ってしまうか、もしくは気づかれてしまう。
 最善の策は、男を空気のように扱う事。これが功を奏したのか、男はやがて諦め、そばを通りかかったどこからどう見ても会社帰りのサラリーマン風の男の勧誘にかかった。そのサラリーマンがどう対処するのか、という事に興味など湧く筈もなく、俺は女の尾行を継続する。
 同じような服装をした別の店の男が五、六人ほど俺を誘い、それを同じ要領であしらった頃、女とその連れは左に曲がった。裏通りへ向かうつもりらしい。裏通りなら喧騒もある程度は和らぐ。これからは足音にも充分に注意を払う必要が生まれてくる訳だ。いや細心の注意を払わなければならないだろう。
 女は一瞬、歩調を緩めた。かと思うと後ろ――もちろん俺がいる方だ――に振り返る。その仕草に要した時間はほんの一秒ほどだったが、しかし俺にはその何倍もの長さに思えた。スローモーションを見るかのように振り返る女の動きを見ながら、俺は咄嗟の出来事への対処法を考える。物陰に隠れるか――いや、駄目だ。それでは間に合わない。俺とした事が、迂闊にも身を隠す障害物のない所を歩いてしまうとは。
 ならば俺が取れる方法は一つだった。そのまま何事もないように装って直進するしかない。間違っても女に不信感を与えるような態度はとれない。この際、顔を見られるのは、この際止むを得ない。相手は俺の顔を知らないだろうから、おそらく大丈夫だろう。楽観でしかなかったが、俺はそれを嫌なほど自覚していた。
 振り返った女が俺の顔を見ても、ブルーのアイシャドゥが良く似合う顔に反応を示さなかったという事は、只の気まぐれで振り向いたのだろう。俺はほっと胸を撫で下ろした。もちろん実際にそういった行動はとっていないが……。
 これからは今まで以上に注意して尾行しなければならないな、と思った矢先、女とその連れが、通りの右手にある店に入っていった。
 もしかして俺の事を不審に思ったのか、という考えにとらわれつつも、歩幅を早める事はせずに、そのまま店の前をゆっくりと素通りする。店の前を通る時、横目でその様子を観察するのを忘れない。
 電球が切れかかっているためか時折点滅する緑を基調とした看板には、白い文字で『ロビンソン』と筆で書いたような文字が書かれているが、看板に似合わずそこはバーのようだった。店の中の様子を窺おうにも、木製の扉のおかげでそれは不可能だった。女がドアを開けた時に聴こえてきたジャズの音から、店内の様子は大体想像できるが、しかし扉を開けるのは自殺行為。
 店の前を素通りし、次の曲がり角の影から様子を窺う事にした俺は、時間を確認するために擦り切れたジーンズの左ポケットから金色の懐中時計を取り出した。
 九時二十六分――。
 女を尾行し始めてから、およそ一時間になる。
 暫くして男と女の二人組が店から出てきた。年の頃は三十台前半。俺とはまったく関係ない者たちだ。そんなものたちに注意を払う必要もなく、だから俺は直ぐに視線を店の扉に転じた。
 かなりの時間が経過したが、店に出入するものは先程の二人以外で最後だった。それは店があまり繁盛していない事の証左だろう。
 懐中時計は午前二時を指そうとしていた。そろそろ忍耐が限界を迎えつつあった俺は、苛々を紛らわすためにジーンズの右ポケットの中にある冷たい物を、ポケットから取り出さずに弄くり回した。
 キィィィ……。
 神経を尖らしていた俺の耳がその扉の開く音を聴いたのは――俺の目が店の中から出てきた、オレンジのルージュなどで化粧を施した目的の女であろうその人物を見たのは、午前二時三分の事である。
 汗で湿り体温で暖かくなった物を握るのを止め、俺はゆっくりとその人物に近づいていった。
 つまりそれが邂逅の始まりだった。
第四話 現川竜北
 先程居た男はまだ店内に残っているのか、出てきたのは女一人である。表情や服装に変わったところは見られない。俺は手に持った折りたたみ式のナイフを手に、更に女に接近した。もはや辺りは真っ暗闇で、月が鈍く輝くのみだった。人影はほとんど無く、心なしか自分の足音がコツコツと響くような気がする。
 計画をいざ実行に移すとなるとさすがに勇気が要るもので、心臓は早鐘のように鳴った。大丈夫、いつも通りにしていれば大丈夫だ。俺は自分に言い聞かせながら女とあと2メートルという所まで接近した。
 街灯が眩しい、場面に似合わずそんな事を思った時、女の足が少し早まった。やはりこんな深夜に後ろから付いてこられるのに不審を覚えたのだろう。ここで逃げられたら終わりだ。やるなら今しかない。俺は遂に計画を実行に移した。
「おい」
 こう声をかける。すると女は立ち止まり、振り向くだろう。そこで……ナイフを突き立てるのだ。逃げる暇などない。そう、女を殺すはずだった。はずだったのだ。
「誰から頼まれたの?」
 いきなり女が振り向き、こう言った時、俺は思わずつんのめりそうになった。混乱する。何故女がそんな事を知っているのか。
「あなた、私を殺すように誰かに頼まれたんでしょ?」
 黙っている俺を尻目に女はどんどん喋っていく。一体どうなっているんだ。
「何となくつけられてる感じはしてたの。だから隠れる場所があまり無い広い道路で突然振り向いたわけ。そしたらあなたが居た。あぁ、この人だなって思ったわ。そのくたびれた靴なんか、沢山歩いてるって感じ。尾行の仕方もきちんと分かっている。って事は素人じゃないわよね。なんかポケットでいじくり回してた、今あんたが手に持ってるオモチャとか見ると、探偵じゃ無いようね。とすると私をどうにかしよう、って人じゃないの? 大体あんた、眼が血走ってるし、雰囲気が毒々しい感じよ。まぁ私を狙うにしろあなたに面識は無いから、誰かに頼まれたコレ系の人かなぁ、って思ったりしたんだけど。」
 女は人差し指をこめかみから顎までつう、と滑らせた。暗いので色までは分からないが、女性にしては結構短い髪だ。背は非常に高い。175近く、下手すると180に届くかも知れない。
「どう、当たってる? それとも声を聞かせちゃうと危ないのかな?」
 俺は口を開いた。
「まずはそのポケットに入れているテープレコーダを切れ」
「あら、バレちゃった?」
 女は舌を出しながら微笑んだ。そして右のポケットから黒いテープレコーダを出して、スイッチを切った。
「どう? これでいい? 話してもらえるかしら」
「依頼人の事はバラせない。だが、どういう事だ? お前は何なんだ? もしかして、同業者か?」
 女は親指と人差し指でパチンと小気味良い音を響かせた。
「ご名答。私も同業者。といってもコロシなんて物騒な事しないけど」
「ほう」
「私はどちらかというと探偵に近いわね。でも何でもやるわよ。お金さえもらえれば」
 俺は何だか急に馬鹿馬鹿しい思いに駆られた。
「じゃあ1000万やるから、死んでくれ」
 大真面目に言った。すると女も真面目な顔をした。
「あんた、私の命にそれだけの価値しか付けられないの? 1000兆あっても足りないわ」
「お前、名前は?」
 そう尋ねると女は、チッチと指を振りながら答えた。
「簡単に名前なんて教えられないわ」
「分かった。もう良い。依頼人には無理だったと言っておく。もうお前と関わり合いになるつもりは無い。じゃあな」
 後ろを向いて歩き出そうとした時、俺の背中に冷たい声が突き刺さった。
「待ちなさい」
 思わずびくりとした。今までのガキのような声とは違う。正に仕事の時の声だった。そうしなければならないかのように、振り向く。
「せっかく同業者と会ったんだから、これから飲みにでもいきましょ」
 小悪魔のような笑みに、俺は何故か惹かれた。何故俺が店に入る事になってしまったのか、それはこの女に何か強く惹かれるものを感じたからかも知れない。だが俺はこの女と店に入るまでの記憶があまり無い。酒を飲み過ぎたからかも知れない。
 店での彼女はごく普通だった。外では気付かなかったが、彼女の髪はダークブラウンで、化粧もそれなりにしていた。といってしつこさを感じるほどでも無い。
 二人でカウンターに座り、俺はマティーニ、女はギムレットを注文した。
「この椅子、少し小さいわね」
 女はそう言いながら身体を少し前へずらす。
「どこかの事務所とか会社に属してるのか?」
 俺は女の事がもっと知りたかった。依頼人はこいつがどんな奴かを知って依頼したのだろうか。
「いいえ、どこにも属してなんかないわ。全くの慈善事業っていうか、ボランティアっていうか。個人でやってるだけ。まぁお金はそれなりにもらうけど」
「どういう仕事だ?」
「え? なんていった?」
 店内に響くジャズの音楽で良く聞こえないようだ。
「どういう仕事なんだ? 探偵とか何とかってのは」
「う〜ん、そうねぇ。事件が起きた時には飛んでいって勝手に事件を調べちゃうとか、綺麗な宝石とか高価な物があったら盗んでみたりとか、好奇心旺盛なのよ」
「盗む? 泥棒もやってるのか?」
「泥棒っていう程でも無いわ。空き巣と同じよ。勿論頼まれてだけどね。そういうあなたはどういう仕事?」
 俺がその質問に答えようとした時、カクテルができあがった。バーテンダーが言う。
「どうぞ、これが<ロビンソン>自慢のマティーニとギムレットで御座います」
「あぁ、あとつまみも適当に作ってくれ」
「はい」
 絵に描いたようなバーテンダーである。
「ん、お前ギムレットなんて飲むのか?」
「飲んじゃ悪いかしら?」
「いや、飲めるのかと思ってな」
 少々バツが悪くなる。
「馬鹿にしないでよ。テキーラだっていけるわ」
 テキーラ? 凄い奴だ。
「そういうあんたこそマティーニなんて、あまり外見からは似合わないわね」
「マティーニが大好きなんだ。だが今まで本当に美味いと思えるのに出会った事は無いな。うん、これもイマイチだ」
 俺は酒に一口、口をつけて言った。乾杯なんてしゃれた真似は俺には似合わない。イマイチといったが、酒は酒で美味いものである。つまみと一緒にすぐに飲んでしまった。
「マティーニもう一杯頼む」
 普段ははめを外さない俺だが、今日だけは酒に溺れても良いように思えた。なぜだかは分からない。ふと彼女の方を見ると、まだ何も口をつけていない。俺が言葉を発しようとした時、突然立ち上がった。
「ちょっとトイレ行ってくるわ」
「あぁ。だが一口くらい飲んでからでも良いんじゃないか」
「いや、戻ってきてから飲む事にするわ」
 彼女はなぜだか焦っているような、変な感じだ。俺が酒に酔っているからかも知れない。
「あぁ、分かった」
 そう言ってまた酒という名の液体を胃に流し込む。
「ギムレットには早すぎるわ」
 彼女がそう言ったような気がした。
 だがその意味を理解する術は、今の俺には無かった。
第五話 橘 音夢
 女がトイレに入るのを見届けてから数分後、店の電話が鳴った。バーテンダーがひったくるように受話器を取り上げ、手で覆い隠すようにして何やら小声で話し始めた。
 やがて、彼は受話器を置いて戸惑ったような顔で俺を見た。
「あの……お連れ様はご用がおありだそうで、裏口から先にお帰りになりました。ギムレットはお飲みになってくださいとのことです」
 なんだって。畜生! 逃げられたか。まあ、仕方がない。殺し損ねた女をこれ以上追いかけて、深みに嵌ったら自分の命が危ない。
 俺は残されたギムレットを一気にあおった。焼けるようなドライジンの刺激が喉元を通り過ぎてゆく。
 バーテンダーはテキーラとオレンジジュースをシェイカーに注ぎいれて新しいカクテルを作りはじめた。おかしいな。俺は頼んでいないのに。あれは……あのカクテルは……。
 ぐらり、と景色が揺れた。どうしようもないほどの眠気が襲ってくる。懸命に目を開けていようとしたが、身体が言うことを聞かない。バーテンダーが怯えたような顔で後ずさりをしたのが目に入った時、ドアが開く音が聞こえたような気がした。

 思い出した。少年がにやにやしながら近付いてきて、ポケットに手を突っ込んだ時、俺は今まで起こったことを瞬時に思い出したのだ。鋭いナイフを持った少年が閃光のような素早さで襲ってきた瞬間、俺は記憶の洪水に戸惑っていて、かろうじてナイフから身をかわすことしか出来なかった。
「へえ、おねえちゃん、身が軽いじゃねえか」
「俺は女じゃないぞっ!」
「ああ、やっぱりな。そんなこと声を聞きゃ分かる。まあ、俺にはどっちだって関係ねえよ!」
 少年はナイフを持ち直し、射抜くような目で俺を睨みつけた。俺は両手の拳を固くして身構えた。だが慣れないハイヒールのせいで身体が安定しない。少年がナイフを構えて襲い掛かってこようとした瞬間、少年の後ろから白い腕が伸びてナイフを持った手をがっちりと掴んで持ち上げた。
「うわあっ!」
 次の瞬間、少年の身体は宙を舞い、地面に叩きつけられていた。

「何をぼうっとしてるのよ! 殺し屋がこんなガキにやられちゃったら情けないと思わない?」
 俺の前に両手を腰に当てて仁王立ちしているのは、先ほど店にいた背の高い女性だった。
 青紫のミニスーツの下から形の良いすらりとした足が伸びていて、俺は思わず目を奪われた。長い黒髪に似合う勝気な表情を浮かべた彼女はなかなか魅力的だ。
「あんたは……?」
 俺はまだずきずきと痛む頭を押さえながら、問い掛けた。
「あたし? まあ、あんたと同じ女を追いかけているとだけ言っておくわ。あの女が何を言ったか知らないけど、あんたの手に負える相手じゃないわ。さっさと帰って着替えた方が身のためよ」
 そう言われて改めて自分の格好に気が付いた。何が何だか分からないが、とにかくこのままでこれ以上行動はしたくない。
「まあ、とりあえずはこいつの始末をしないと。あんたも手伝って」
 俺達は少年の身体を運んで、近くのゴミ置き場にあった特大のポリバケツに押し込んで蓋を被せた。
 
 俺は自分の身体を抱え込むようにしながら、バケツを見つめていた。屈辱で身体の芯から怒りが湧いてくる。
「あの女……俺にこんな格好をさせたのはあの女だったのか?」
「そうね、あの女の考えそうなことだわ。たぶんあんたを薬で眠らせている隙に着替えさせたのよ。ご丁寧に飲みかけのカクテルまで置いてね。パリジャンにテキーラ・サンライズ。ずいぶん対照的な組み合わせね。ま、あんたにパリジャンは似合わない。せいぜいコップ酒ってところよね」
 余計なお世話だ。それにしても……
「何のために、俺に女装なんかさせたんだ?」
 女は呆れたように俺をちらりと眺めると、視線を店の方へ向けた。
「あんた以外の奴に狙われてるのが分かっていたからよ。あんたがあのガキに殺されれば、あいつを雇った奴はあの女が死んだと思うでしょ? まあ、いずれはバレるけどね。逃げる間の時間稼ぎにはなるわ」
 唖然とした。結局俺は時間稼ぎの為に利用されただけなのか。なんとも安い命だな。急に笑い出したくなってかろうじて踏みとどまった。
「ギムレットには早すぎる……か」
 その言葉を口にしたとたん、女の身体に電流のように緊張が走るのが見えた。
「いま、何ていったの?」
「ギムレットには早すぎるって、あの女が」
「何でそれを早く言わないのよ!」

 路地の向こうから足音が聞こえてきた。街灯に浮かぶシルエットは男のようだ。その時、女がいきなり俺の身体を抱き寄せて唇を重ねてきた。驚いて女を引き離そうとしたが、女の力は驚くほど強くて俺は激しいキスに噎せ返りそうになった。
 足音が俺達の横を通過した時、俺は横目で男を見た。真っ黒なトレンチコートで薄茶の髪を腰まで伸ばした男は、顎の尖った狐のような顔でこちらをちらりと眺めて吐き捨てるように言い放った。
「ちっ、汚らしいレズどもめ!」
 男は『ロビンソン』の入り口に立ち止まり、しばらくあたりを見回していた。
「あのガキ、怖気づいたか」
 男が小さな声で毒づいて『ロビンソン』の店内に消えるのを見届けると、女は俺を思いきり突き放した。俺は後ろに倒れそうになったが、どうにか持ち堪えた。
「こんなところでぐずぐずしてられないわ。とにかく行かなくちゃ」
「どういうことだ? いったい何処へ行くんだ?」
 だが、女の答えは意外なものだった。
「あのセリフを言ったのは誰だか知っている?」
「ギムレットか。フィリップ・マーロウじゃないのか?」
「そうじゃないわ。マーロウの友人のテリー・レノックス。この名前に心当たりはない?」
 そういえば聞いたことがある。それもつい最近だ。
「向こうに車が停めてあるの。もう行くわ。ああ、間に合うといいけれど……」
 言うが早いか、女は走り出した。
「おい、俺も行くよ!」
 俺は慌てて女の後を追いかけた。慣れないハイヒールは途中で脱ぎ捨てた。こいつは厄介なことになりそうだ。
第六話 九竜一三
 女が運転するアルファロメオの後部座席で、俺は苦労して着替えた。『ロビンソン』から女が持ち出してくれた物で、つまりは俺自身の服だ。ジーンズのポケットに手を突っ込み、懐中時計の感触を楽しんでいると、「化粧もとっとと落としなさい。不気味よ」と言われた。わかってるって。
 女はエリ、と名乗った。「偽名だろ?」と聞くと、横目でウインクして見せる。
 エリの話で、俺にはようやく一連の構図が見えた。
 テリー・レノックスは、明日(日付は今日だが)来日する、デンミス共和国大使だ。独立したばかりの小国だが、アメリカと太いパイプを持っており、日本とも馴染みが深い。が、同時に米国から横流しされた軍用武器を、密輸しているという噂もあった。その首謀者がテリー・レノックスだそうだ。
「外交官特権で税関をくぐり抜けているわけか」
「みたいね。でもまさか、彼女の狙いがテリーだったとは……」
 俺をハメた女は、『メイプル・キラービー』というコードネームを持つ、組織のエージェントだった。本名や経歴は一切不明だが、暗殺・機密奪取・情報操作等、様々なスパイ行為のスペシャリストなのだという。
「何が『どちらかというと探偵に近いわね』だ。よく言えたもんだぜ」
 『ロビンソン』は、組織の隠れ蓑兼中継基地だという。なんのことはない、バーテンも仲間だったわけだ。男が一人消失した謎もこれで解ける。おそらく、メイプルと一緒に店に入った男がバーテンだったのだ。
「バーテンをどうした?」
「彼は標的を知らなかったわ。服を持ち出すときに、ちょっと眠ってもらっただけ」
 エリから血の臭いはしなかったから、信じてもいいだろう。服を取り戻してくれたことだしな。
「ターゲットを知っているのは、メイプルだけか」
「そう、組織のトップすら知らないはずよ。だからこそ我々も絞り込めなかった」
 エリは、身分をICPO(国際刑事警察機構)国際第三課のインスペクターだと言った。
「ちょっと待て。国際部は第二課までしかない。ICPOには捜査官や調査員はいないはずだぞ」
「表向きはね。組織がお役人ばかりじゃ、やっていけないのよ」
 なるほどね。とにかく、要人暗殺がメイプルに依頼されたこと、日本に潜伏中であることは、ICPOでもつかむことができた。が、肝心の標的が誰なのか、判断できなかったという。
「まさか、テリーとはね。確かに要人だけど、小物すぎてピックアップすらされなかったわ」
 小物を凄腕に狙わせるということが、エリたちには意外だったようだ。
 確かに、意外は意外だろう。が、確実にテリーに消えてもらいたい人物がいたとしたらどうだろう? 例えば、デンミス共和国内の中に、だ。
 ……まてよ。と、いうことは、さっきのガキと男は……。
 突然、衝撃で身体が前につんのめった。なんだ?!
「奴らよ!」
 右後方に、ノーズのへこんだBMWがつけていた。乗っているのは、さっきの男とガキだ。運転席はトレンチの男で、ガキの方は……やばい! 助手席から上半身を乗り出し、マシンガンを連射しやがった。身を低くすると同時に、後部のガラスが派手に割れる。
「防弾じゃないのか!」
「映画の観すぎよ!」
 エリは必死に体勢を立て直そうとする。が、次の一閃がタイヤを撃ち抜いたか、車体が激しく横滑りを起こす。エリは目一杯ブレーキを踏み、ステアリングを切っているようだが、制御できない。
 アルファロメオは三回転し、ガードレールにぶち当たって停車した。他に車で走っていなかったのは、幸いといえたか。ドアを蹴り飛ばして、俺とエリは転がり出た。
 連中も、BMWを降りてくる。距離は10メートルもない。風に乗って、かすかに血の臭いが流れてくる。こいつら、バーテンを殺ったな。
 ガキの方が、マシンガンのトリガーにかかるのが見え、俺は両手を上げた。
「待て! おまえら、勘違いしてるぞ!」
 「何言いやがる!」と吠えるガキを、トレンチが制した。手には、拳銃らしき物を持っている。
「どういうことだ?」
「俺たちは敵じゃない。この女はメイプルじゃないぜ、ミスターK」
 トレンチは虚を突かれたようになった。名前はビンゴだったらしい。
「なぜ私を知っている?」
「自分で雇っておきながら、それはないだろう?」
 Kが俺の依頼主であることは間違いない。もちろん、顔をあわせるのは初めてだし、俺の主義にも反する。普段は電話とメールだ。送られてくる標的の写真や、行動予定を元に計画を練る。ただ、今回は写真がなく、相手の名前もわからないという、特殊な依頼だったが。
「おまえ……ダーク・キルか?」
 なかなか笑える話だ。Kはテリーを護る側の人間で、俺もガキもメイプルを殺すよう依頼を受けた。エリは警察関係の人間だが、狙いはあくまでメイプルだ。つまり、俺たち四人は敵というより味方同士なのだ。それなのに何の手違いか、襲い襲われ、真夜中の路上で突っ立っている。これほどおかしな話はあるまい。
「どういうつもりだ。なぜ我々の邪魔を?」
「とんでもない、勝手に勘違いしたんじゃないか」
 この場は何とか穏便に収めなければ、と思いながら、左右のポケットから獲物を取り出す。
「ざけんじゃねぇ! 俺は見たぞ。おまえと女が、あの店に入っていくのを!」
 ちっ、余計なことを。
「……どうやら、裏切ったようだな」
 反射的に、俺は横へと飛んだ。銃を構えたKの胸が血を噴いたのと、マシンガンのマズルフラッシュが光ったのはほぼ同時だ。
 ポケットから取り出していた獲物を組み合わせ、宙に浮いた体勢のままサイドスローする。十字形をした銀の小型ナイフは、カーブを描きながらガキの首筋へと吸い込まれた。
 路面に伏した中で、立ち上がったのは俺だけだった。
「エリ!」
 捜査官は銃を手にしたまま、青紫のスーツが赤く染めていた。流れ弾を胸に数発食らっている。
 「くそ、なぜだ?」と毒づいた。Kが狙っていたのは、俺の方だった。俺を助けるために、エリは銃を抜いたのだ。
「……警官だもの」
 エリはかすかに笑った。
 その時、低いうめき声をあげて身体を起こした奴がいる。Kが震える腕で、俺に銃口を向ける。しぶとい野郎め。
「もう……武器はあるまい」
「どうかな」
 右腕を思いきり右方向へと振りながら、俺は後方へと身体を倒した。銃声が聞こえ、俺の頭上の空間が震える。身を半回転させ、俺は握り込んだ懐中時計を操った。銃声が止み、Kはドッと崩れ落ちた。首に俺のナイフが刺さっている。何が起こったのか、奴にはわかるまい。懐中時計のネジ巻きボタンを押すと、シュルッというワイヤ独特の音がして、首のナイフが抜けた。そのまま俺の手に戻ってくる。
「……それが、名前の由来ね」
 エリが、俺を見つめている。
「あなたの名前もブラックリストにあるわ。まさかあなたとは……」
 闇を切り裂いて飛ぶナイフを使うからダーク・キル、それが俺だ。
 「お願い……が」と、血を吐きながら言う。
「彼女を……」
 最後の言葉は聞き取れなかった。瞳を閉じてやる。
 東の空が明るんできた。これ以上、ここのいるわけにはいくまい。エリに別れを告げ、奴らのBMWに乗り込む。
 これからどうするか、決めかねていた。しかし、彼女にはもう一度会わなければならない。
 俺の運命を妙な具合にねじ曲げてしまった、あのファム・ファタールに。
 動かない三つの影を後にして、俺はBMWをスタートさせた。
第七話 葦野真
 東の空が明るくなるにつれて、海面がきらめき始めた。俺が運転するBMWは、海に架かった道路橋を走っている。ドライブには最高のシュチュエーションだが、今の俺にはとてもじゃないがそんな気分は満喫できない。深夜のカーチェイスでフロントがへこんだBMWが、今の俺の状況を物語っていた。
 会わなければ、あの女に。メイプルキラービーに。


 これだから空の旅は嫌なんだ――。
 テリーレノックスはしかめっ面をしたまま瞼を閉じて痛みに耐えていた。気圧に弱い彼の耳は、先ほどから悲鳴をあげ続けている。
「大使」黒スーツにサングラスをかけた男が、後ろの座席から身を乗り出してテリーの耳元で囁いた。
「貴様、俺の顔を見て分からんのか。今、俺は機嫌が悪いんだ」
「外へ出たらご用心を」
 男は事務的な口調で言った。
「俺は今すぐにでも飛び出たいくらいだよ」テリーはこめかみに手を当てた。「この痛みが消し飛ぶんならな」
「それと、例の件ですが」
「その話は後だ」テリーは彼を睨みつけた。「あせることは無い。手馴れた仕事だよ。書類にサインするような些細なことじゃないか。下りてから、そうだなゆっくりできる車の中で話そう」
「――は」
テリーは窓越しに、大きくなりつつある滑走路を見た。
「――ふっ、黄金の国ジパングか。まったくだな」


 ターミナルビル二階ラウンジ。そこは二十四時間発着が絶え間なく続く空港だけあって、朝早くからもくつろぐことのできるスペースとなっている。スピーカーから聞こえてくる優雅なピアノの音色が、ラウンジ内に穏やかでより静かな雰囲気を醸していた。
 俺はカウンターの背の高いスツールに座っていた。
「お客様、ご注文は?」
「そろそろギムレットには、ちょうどいいんじゃないか?」
 俺は女の声にそう応えた。
「ふふ、ご名答、と言ったらいいのかしら?」
 彼女は俺の隣に座った。ふん、昨夜のデジャヴュを演出しやがる。
「お前の望みどおりに来てやったよ」
「あら、どういうこと?」
「とぼけるな。『ギムレットには早すぎる』という言葉を残して言っただろ? それに置き土産のようにテキーラサンライズを注文して姿を消した。テリーレノックスは早朝、日の出時刻に日本に着く。つまりお前は暗号でここに来いと言っていたんだ」
「ご名答。なかなかやるじゃない」
彼女はブルーのアイシャドウがよく似合う顔を俺に向けて微笑んだ。
「紛らわしいことをやってくれる」
「だって、あの時はバーテンがいたし。彼にバレたらまずかったのよ。そういえば姿が元に戻ってるじゃない。服をちゃんと返してもらったのね」
「おかげで危うく殺されかけるところだったよ」
「ダークキルという名の殺し屋さんが、そんな簡単に殺されるわけないでしょ」
 言ってくれる。――ん? こいつ、どうして……。
「なぜ俺の名を?」
「あなたユニークな懐中時計を持ってるじゃない? この世界じゃ有名よね。あなたの名前の由来は」
 どうやら女装させている時にジーンズのポケットから見つけられたらしい。
「ほしかったんだけど、止めておいたわ。さすがにスリみたいなことはできないしね」
 あらゆる犯罪行為をこなしてきたメイプルもスリは嫌いらしい。それともプロとしてのプライドか。
「――それで、どうして俺をここに来させた?」
「そうね、あの時は話がまだ途中だったでしょ? 言ったじゃないの、あたしはあなたと話がしたいって」
 彼女は短い髪を掻きあげた。やや尖った耳についたピアスが赤く光る。
「茶化すな。自分の仕事に、リスクを自ら招くなんてどうかしてる」
 もっともリスクが低く、安全な手段でやり遂げるのがプロの仕事だ。ちょうど俺がこの女を人気のない夜道で殺ろうとしたように。
「俺とお前は言ってみれば敵同士。お前はテリーレノックスの命が狙いだ。俺はそのテリー側に雇われた人間で、お前の命を狙っていた」
「でも、あなた言ったじゃないの? 『依頼人に無理だったと伝えておく』って。もうあなたはフリーでしょ?」
 口達者な女だ。俺が一番嫌いなタイプだと付け加えておこう。
「そうやって誘って、俺はお前にはめられたんだ。誘惑して利用、そして自分の目的を達する。まさに名前の由来通りじゃないか、メイプルキラービー」
 そう、“ロビンソン”で利用されたことを俺は忘れていない。この女の手の内は女装という屈辱とともに経験済みなのだ。
 彼女は眉間に皺を寄せた。そしてしばらくしてから、こう言った。
「何言ってるの? メイプルキラービーはあたしじゃないわよ」


「な? なんだと!」
 しばらくの沈黙の後、俺は上ずった声を出した。
 どういうことだ。目の前にいる女は確かに俺が殺そうとした女だ。こいつと例のバーにも入った。俺に女装させたのもこの女だ。
「だったら……だったら、お前は誰なんだ?」
「あたし? あたしは――」
 その時だった。耳をつんざく爆音が俺達を襲ったのは。ラウンジが、いや、ターミナル全体に振動が走った。
「しまった!」
 メイプルが――いや、俺がメイプルだと思っていた女が叫んだ。
「なんだ! 何が起こったんだ!?」
 そう叫ぶ俺を残して彼女はラウンジを飛び出す。
「おい! 待てよ!」
 俺は彼女の後を追った。ハイヒールを履いているくせに、なんてスピードだ!
 彼女は滑走路が一望できるターミナルフロント部分で止まった。
「何てこと……。まさか、こんなことをやるなんて」
 目の前の光景を見て、俺は息を飲んだ。目の前で旅客機が炎上しているのだ。派手なアクション映画を見ているかのような錯覚が俺を襲う。
「まさか、あの旅客機に?」
「そうよ。テリーレノックスが搭乗しているはずよ」
 俺達は羽の付け根部分からオレンジ色の炎と黒鉛をあげ続ける旅客機から目をそらすことはできなかった。
「お前の仕業か?」
 俺は呟いた。
「違う」女ははっきりと言った。「あたしはこうなることを防ぐ側の人間よ」
「なんだって。じゃあ、お前も俺と同じ依頼を?」
「もう話している暇はないわ。急がなくちゃ!」
 女は再び駆け出した。
「おい! どこに行く気だ!?」
 ハイヒールを鳴り響かして走る彼女を、俺は追うしかなかった。
最終話 已岬佳泰
「こっちよ、急いで」
 女は二階のホールから非常階段に飛び出すと、そのまま地上に向かって駆け下りた。空港全体に鳴り響く警報が鼓膜を直撃する。炎上するジェット機は空港ビルの後ろ側になるのですでに見えないが、ジェット燃料の異臭と降り注ぐ煤塵が事態の深刻さを教えてくれる。ドンという音がして地面が揺れた。
 空港ビル前の送迎道路は突然の惨事に混乱していた。バスとタクシー、それから一般車などすべてが停車し、そこに後続車が突っ込んできて身動きがとれない。女はそんな車の間を猛スピードで駆け抜け、駐車場ビルに走り込んだ。もちろん俺もわけがわからないながらも、すぐ後に続く。
 駐車場の出口わきにシルバーメタのスポーツカーが停めてあった。Zだ。
「鍵はかかってないから、そっちから飛び乗って‥‥」
 言いかけた女の顔が歪んだ。左肩を押さえている。コンクリート床の小さな欠片がそこかしこで跳ねた、狙撃されているのだ。俺はスポーツカーの助手席側に飛び込みながら、顔をねじって背後を見上げた。女が一発でエンジンをスタートさせる。空港ビルの屋上に光るものを認めた途端に、車が急発進した。駐車場のゲートを突き破って、路肩を逆走し始める。
「どういうことだ。なぜ俺たちを撃つ。あいつらは何者なんだ」
 激しく揺れる車に舌を噛みそうになりながら俺は吠えた。そして気づいた。ハンドルにしがみついた女の顔が蒼白だった。スーツの左肩にはまっ黒に血がにじみ出ている。
「おい、俺が運転を代わろう」
「うるさいわね。あなたは黙って頭を低くしてなさい」
 低い女の声に呼応するかのように、リアガラスが弾けた。慌てて俺は頭を下げる。前方に湾岸高速道路への入り口ゲートが見えた。女はハンドルを左右に鋭く切り返しながら、Zのテールをスピンさせて狙撃をかわそうとしているらしい。しかし、ボディーに着弾するバンバンという音はなかなか止まなかった。もう、空港ビルからの狙撃は無理なはずだった。ということは‥‥。
「どうやら、本気であたしたちを消したいみたいね。車三台で追ってくるわ」
 なるほど。
「どうする。応戦するか」
「バカね。かなうわけないじゃん。あっちもプロよ、逃げるしかないわ」
 Zが急加速するのを感じた。半端ではない加速具合だ。そのまま高速道路の料金所を突破して湾岸高速に流れ込む。
「改造車か‥‥」
 つぶやいた俺の視界が霞んだ。そういえば俺は昨日から一睡もしていない。その疲れがほっとした瞬間に一度にやってきたのか。しかし、となりでは血を流して運転する女がいて、こんなところで眠り込んじゃ、殺し屋ダークキルの名がすたる‥‥。
「あら、ギムレットにはまだ早いわよ」
 女の声がえらく遠かった。

 ‥‥。

 ずるりと腕が滑ったので目が覚めた。カウンターの上でぶつかり、倒れそうになったグラスを慌てて押さえると、寝ぼけ眼で周りを見渡す。様々な色と形のボトルが並ぶ棚が見える。見覚えのあるバーテンダーが慌てた様子で視線を外した。
 意識が戻ると共に、酷い痛みに気付いた。頭が割れそうだ。首の後ろから脳天にかけて、きりきりと痛む。口の中がざらついて苦い。
 それにしても、どのくらい眠っていたんだろう。
「お目覚めの気分はどう?」
 カウンターの端に女が座っていた。灯りを落としているせいか、その表情までは伺えない。しかし、白っぽいスーツの左肩から胸にかけての黒い染みははっきりと見て取れた。
「おまえは‥‥」
 その途端に記憶が俺の脳天に稲妻のようにフラッシュバックした。メイプルキラービーという女を殺せというミスターKからの指示。それで俺はこの町をふらついていて、メイプルらしき女を見かけたのだ。さっそくアタックしようと近づいたら、逆に話があると言われ、ロビンソンというバーにいっしょに入った。そこで強い酒を飲んで意識を失い、気づいたときには女装させられていたのだ。それから先のドタバタ劇、そして空港でのジェット機の爆発。
「あなたが目覚めるのを待っていたの」
 女はそう言うと、自分の前にあるグラスを取り上げ、口を付けてむせた。バーテンが心配げに近づこうとしたが、それを手のひらで追いやる。
「その傷は早く手当てをしたほうがいいんじゃないか」
 灯りのせいではなく女の顔が異様に白いことに俺は気づいた。肩で息をしている。
「いいの。あたしはたぶんもうダメだから。それよりもあなた、まず自分の格好を見なさい」
 言われて俺は我が身を見おろした。きゅっとウエストの締まったローズピンクのワンピース。う、まただ。またしても俺は女装をされている。
「何の冗談だ。俺にはこんな趣味はないぞ」
「ふふん」
 女は鼻で笑うと驚くべきことを口走った。
「それはあなたが自分でやったことよ。でもそれを覚えていないあなたには同情するわ。メイプルがよほど注意深くやったのね」
「うん? どういうことだ」
「あなた、さっきみたいに二日酔いの気分で目が覚めることがよくあるでしょう。ひどく頭痛がして、記憶が少し途切れたような感じでね」
 確かにそれはある。現に今がそうだったし、昨夜もそんな不快さの中で目を覚ました。そしたら、変な格好でカウンターに突っ伏していたのだ。
「それは俺が酒好きなくせに、アルコールに弱いからだ。だからあんな具合にちょっとの酒で眠り込んでしまうのだ」
 反省と自嘲を込めて、俺はそう言った。ところが女ははっきりと首を振った。
「違うわ。ダークハーフという精神症例を知ってる? 日本では多重人格とも言うのだけれども、あなたはそれよ。あなたは自分の中にもうひとつの人格を抱え込んでいるの。しかも性の違う、でも聡明で正義感の強い人格をね」
 俺の口はあんぐりと大きく開いていたろう。笑い飛ばしたかったが、何も言葉が出てこなかった。女は真剣だったし、バーテンもかすかに頷いている。
「やっとあたしの立場を説明できるわ。あたしはあなたの監察医兼代理人よ。あなたのような症例の人を国家レベルで治療したり、職を世話したり。そういう役目。もっともあたしの話し相手はほとんどが聡明な女人格のメイプルだけどもね」
「とんでもない話だな。そうすると何か? 俺が気を失っている時にはその別人格、つまりメイプルキラービーという女が俺の体を使って動き回っているというのか。だから俺はきれいに化粧して、かったるいワンピースをはいているって。そんなばかげた話を、俺が黙って信用するとでも思っているのか」
 女はため息をついた。 
「別に信じなくたって構わないわよ。でも、覚えてる? あなたがその格好で店を出たときに若い男にナイフで刺されそうになったこと。あいつはルナティックボーイっていうやつで、ここらではわりと名の売れたギャングなの。あいつはある女を追っていた。見つけたら殺せという指図を上から受けていたの」
「ある女? メイプルキラービーのことか。ミスターKは俺だけじゃ不安でそんな青二才も雇っていたというわけか」
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるわ。ルナボーイはあなたをメイプルと思って襲ってきた、これは間違いないわね。そこをICPOの捜査官にあなたは助けられた」
「エリはこう言ったぞ。俺が女装させられたのは、メイプルと思わせるための偽装工作だと。それでルナボーイというガキの相手をさせて時間稼ぎをしたんだとな」
「なるほどね。ICPOの捜査官だけあって、まあまあいいところを突いているわ。だけど、さすがのICPOも、いちばん肝心なところには気づいてなかったようね。メイプルの顔写真はICPOにまでは出回っていないから、ムリもないけど」
 俺はしかしなんとも言えない気分だった。この女は死にかけている。肩口からの出血は女が言うとおり致命傷に見えた。そんなときにこんな荒唐無稽な法螺話をするだろうか。
「それで、俺がそのメイプルだとしてだ、どうしてこんなことになっちまったんだ」
「そもそも今回の騒ぎはメイプルキラービーがすべて仕組んだことなのだってこと。彼女は日本のある組織の依頼を受けて動いていた。デンミス共和国から不法な武器持ち込みに気づいて、その張本人がテリー・ノックスという外交官だと突き止めたのも彼女よ。ところがデンミス共和国からそのテリー・ノックスを消して欲しい依頼もいっしょに受けちゃったところから話がややこしくなったの。どういうわけか、それが日本側に伝わり、武器密輸の受け入れ側からミスターKを通して、メイプル暗殺の依頼が出された。あなたはダークキルとしてメイプルを追いかけることになったのはそういうわけね」
 そこで言葉を切ると、女は俺をまじまじと見つめた。女の話はICPO捜査官のエリから聞いた話とだいたい合っていた。エリはメイプルが2重スパイだとは言わなかったが、それはたぶん、メイプルを動かしていた組織がICPOではないということだろう。ことが外事になると日本国内でも警察庁から外務省、内閣官房などいろいろな組織が動くらしいことは俺にも想像できた。女は一息大きく息を吸うと話を続けた。
「メイプルから報告を受けた組織は今日、空港でテリーの身柄を確保する予定だったの。ところがデンミス共和国側にテリーが捕まるとまずい立場になる連中がいたのね。それで今日の爆破事故になった。そしてそいつらは工作の秘密を守るために、関係者を一掃しようとして、空港にやってきたメイプルを狙撃した」
「空港での狙撃は俺を狙っていたのか」
「違うわ。あたしよ。公にはあたしがメイプルだってことで動いていたからね。そして、あたしは見事に撃たれたわけ」
 ふーむ。俺は唸った。小さな疑問がわく。
「俺はまったくメイプルの存在に気づかなかった。つまり、もしおまえの言うことが正しいとしたら、これまでずっとメイプルは注意深く自分の正体を隠していたわけだ。それがなぜ昨夜になって、女装の格好のままで俺を放置したんだ。それと今もこうして女の格好のままだ」
「それは、メイプルとして居られる時間が短くなってきているからよ。メイプルがダークヒルに戻るにはギムレットを飲んで眠り込む。それでよかった。逆に言うと、メイプルが自分の意思でギムレットを飲むまでは、ずっとメイプルのままで居られたというのに、この頃はすぅっと意識がなくなる感じがするって言ってた。そういう多重人格が次第に閉じる例も珍しくないわ。それで、ダークキルさんにメイプルがやり残したことを引き継いでもらいたいと思ったみたい。もともと同一人物なんだからね。それで隠してきた自分の正体を知ってもらうことにした」
「俺はダークヒルだ。女になる気なんかない。俺がメイプルになるのを拒否するなんてことは、メイプルは思わなかったのかねえ」
「どうかしら、でもね‥‥」
 そう言うと女はひとしきり激しくせき込んだ。唇に血が流れている。その唇をわななかせながら、つぶやいた。
「ギムレットには早すぎるっていうのが彼女の口癖だった。ギムレットを飲めば、メイプルとしての自分は眠りにつける。厳しく汚い現実からは逃げられる。でも、苦しくてももう少し頑張ってみたい、そんなときに彼女はその口癖を‥‥」
 言いかけた女の首がゆっくりと前に折れた。まるでスローモーションをみているようだった。バーテンがそっと手を合わせる。俺は肩口を血に染めてハンドルにしがみついていた女を思い出す。俺が睡魔に襲われる前に女は確かにつぶやいた。ギムレットには早すぎると。
 ふつふつとやり場のない怒りが込み上げてきた。エリが死に、女が死んだ。冴えない殺し屋にすぎない俺を助けようとしてだ。俺は拳を握りしめた。それが白くなるほど力を込める。そして低い声で誓った。
「今の話がほんとかどうかは俺にはわからん。しかし、メイプルの遺志は精一杯継いでやろうじゃないか。まったくもって、ギムレットには早すぎる、からな」

【了】

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