CMWC Relay Novel vol.3
(2005/02/01〜2005/07/07)
雪迷宮〜埋められたブーツ〜

第1話





第2話
第3話
第4話
第5話
第6話
守屋堤二
橘 音夢
富山 敬
九竜一三
已岬佳泰



江沢 稽
水乃 蒼
倉本 光
九竜一三




水乃 蒼
雨沢流那
葦野 真
久遠絵理




第1話  守屋堤二

 白い。
 何もかもが白い。
 感覚は一気に戻ってきた。凍えきった皮膚が、空気の暖かさまで痛みに変換してしまう。
「早く奥へ!」耳元で言われた。
 声の主もわからず、友井英実(ともい・ひでみ)はうなずいた。周囲から何人かの手で、衣服の雪を払われている。引きずられるように靴を脱がされた。苦心して手袋をはずし、痛む顔を前へ向けると、古めかしいストーブと暖気がある。英実は肺の空気を入れ替えようと、忙しなく呼吸した。
「すごい天気になってきましたね」と、優しそうな女の声。「こんな急に吹雪くなんて……」
「ほんとだ。窓の外が見えない」これは若い男の。
「心配しましたよ。先生、なかなか戻ってこなくて」
 頭を振った英実は、やっとそれぞれの声を聞き分けた。あまりの冷気に耳もおかしくなっていたらしい。
 英実を「先生」と呼ぶのは和泉少雪(いずみ・さゆき)。大学生を先生呼ばわりする理由は、英実が高校生だった彼女の家庭教師をしていたから。
 その双子の兄の正雪(まさゆき)が、乾いたタオルを渡してくれた。不安そうな顔を半ば、窓へ向けている。都会育ちのふたりは、これほどの雪を見たことがないのかもしれない。
 はあはあと英実より荒い息の灘(なだ)先輩が言った。「びっくりした。いきなり前が見えねえんだもん。いくら天気が変わりやすいったって……」
「後ろから押されて俺も倒れたんだ。その上に雪が」と、英実は正雪に説明した。
「しょうがねえだろ。つまづいたんだって」
「タックルをかけられたのかと思いましたよ。頭を車にぶつけるし」
 英実と灘のやりとりに不穏なものを感じたのか、両方の顔を交互に見ていた正雪が言った。「車を出すのは、しばらく待ったほうがいいでしょうね。これじゃ乗る前から遭難しかねない」
「コーヒー、どうぞ」優しい声で、このペンションの奥さんが言った。
 差し出されたトレイには頑丈そうなマグカップがふたつ。たっぷりしたクリームが、カップの中でマーブル模様を作っている。
 ありがとうございます、という声と同時に英実は手を出していた。とにかく暖かいものが欲しい。「すみません、急に転がり込んで、ご迷惑まで」
「仕方ありませんよ。急な大雪で、わたしだって驚いています。朝はよく晴れてたんですけどねえ……」
「これじゃご主人も立ち往生じゃないですか」と、正雪。
 ペンションの主人は町へ買い物に行ったという。そう遠くはないらしいが、この大雪に阻まれては雪山仕様の車も徐行せざるをえないだろう。
「戻ってくるのに時間がかかるかも……」頼りなさそうに奥さんは言った。おっとりしていて、二十代後半にしては可愛らしい雰囲気の女性だ。
 駐車場の側溝にはまってしまった英実たちの車を、彼女は心配しているのだろう。ご主人が乗っていってしまったので、泊まり客のいないこのペンションに車は残っていない。
 ストーブに細い手をかざしながら、少雪は首を傾げる。「スキー場もこんな大雪だったら、危なくて滑れませんね」
「山の天気はすぐ変わるから、大丈夫だろ」と、灘は力説した。「スキー場が目の前にあるっていう宿を予約したんだ。ここまで来て滑れなきゃ意味なし! 俺はナイターに賭けるぞ」
 そう、本来、英実たちの泊まるべきペンションはここではない。道に迷った挙げ句、別のペンションの駐車場でUターンに失敗。片側のタイヤを側溝へ落としてしまったのだ。
「ここいらは本当にすぐですよ、天気が変わるの。半時間もしないうちに晴れるんじゃないかしら」奥さんがなぐさめてくれた。「ちょうどほかのお客さんもいらっしゃらないし、ゆっくりしていてください。車は主人が戻ってきてからにしましょ」
「そうですよ、先生。雪の中をうろうろするのは危ないです」少雪が言い、隣でそっくりな顔立ちの正雪もうんうんと首を上下させる。
 英実は周囲を見渡した。「……ほかのやつらは?」
「裕子(ゆうこ)さーん」とかん高い声がした。次にどたんばたんと不作法な音。
 英実はむっとした。従妹の鶴岡美里(つるおか・みさと)だ。英実がハンドル操作を謝ったのは、落ちつきのない彼女が助手席からごちゃごちゃ言って、手を伸ばしてきたせいである。そもそも大学のゼミのスキー旅行に、なんで高校生の美里がついてくるのだ、と英実は不愉快だった。万事に厚かましい美里の母を恨みたい。何を思ったのか、英実がスキーに行くことを聞いて娘を押しつけた。
 音高くドアを開け、美里が食堂へ入ってきた。「電話、通じないんですねえ、ここ」と、手の中の携帯電話を見せた。
「そうなんです。天気が悪いと電波も影響されてね」奥さんはおっとり答える。「でも、カウンターに有線の電話がありますから」
 美里の後ろからついてきた白河和典(しらかわ・かずのり)が、英実と目を合わせて「大丈夫だったか」と言った。「二階からも景色が見えないよ。風がすごい」
「待つしかねえか」灘が皆の意見をまとめた。
 なんとはなしに全員が窓のほうを向く。二重ガラスの外は一面の白。白い背景の上に白い雪が舞う、どうにも寒々しい世界だった。

 このスキー旅行は一五年近くなるゼミの伝統で、OB、OGの参加も珍しくない。始まった当初は恋人のお披露目会でもあったという。友達が友達に声をかけ、でいつもは二〇人を越える大所帯になる。今年は日程の調整がつかず、年末のグループと年明けのグループに別れた。
 これは年明け組だった。三年生の英実と白河が幹事を引き受けたものの、ドタキャン続きで総勢六名の淋しい旅行となってしまった。英実、白河、その恋人で一九歳の少雪、少雪の双子の兄で英実とも親しい正雪。この四人は大学生だ。英実にくっついてきた従妹の美里は高校2年生で一七歳。
 去年、大学を卒業した先輩・灘貫一郎(なだ・かんいちろう)は二五歳以上ということしか知らない。メーカーに就職したが半年で退社し、アルバイトで食いつないでいるらしい。ゼミの教授は才能があるのに、と惜しんでいる。

「本当にすぐ変わるんですね」と、感嘆したふうの正雪が空を見上げた。「夜まで降るだろうって思ったのに」
「出られなきゃ困るだろう」英実は裏口のドアを閉め、目の前にある物置の南京錠に鍵を入れた。
 一時間後、確かに雪はやんだ。しかし、ペンションの建物自体が雪で埋もれかけていた。どこが車か植え込みか、見分けもつかないほど積もっていたのだ。
 まずは玄関先の雪かきから始めなければならない。男手の出番に張り切る灘が、俺たちで雪かきをしますと胸を張った。もちろん、実働部隊は後輩である。雪かきで疲れてはスキーどころではないだろうとも思うが、体育会系の灘は後輩に有無を言わせない。女手は掃除要員に、とこれまた勝手に灘が采配した。恐縮する奥さん−−曽我部裕子(そがべ・ゆうこ)さん−−に頼まれ、英実と正雪は予備の掃除道具を取りに来たのだった。
「でも、奥さんは歓迎してくれてるっぽいですよ」正雪が懐中電灯で雪を照らした。「こんな天気じゃ、ひとりでいても不安になりませんか? 隣もペンションには違いないですが、歩いて何分かかるんだか……」
「閉じ込められた感じだよな」と、英実も同意した。物置は市販されているありきたりなタイプだ。壊れた鍵に南京錠をつけたらしい。英実は鍵を回し、南京錠をはずして扉を引く。
 突然、正雪が背中にぶつかってきた。細い正雪の体重がかかっても、バランスを崩すほどではない。今日はよくぶつかられる日だな、とうんざりしながら英実は言った。「和泉くん、足元に注意し……」
「ちがっ、は、せんせ、みてっ……」正雪はぐいぐい腕にしがみついてきた。
「なんだよ、滑ったんじゃないのか」
 あれ、あれと言って正雪が懐中電灯を向けた。ペンションと物置との間は約二メートル。ペンション側の庇が雪をさえぎったのか、ここだけがほとんど積もっていない。
 物置の向こうはフェンスと、斜めに迫った崖だ。土地を平らにするため、こちら側を削ったのだろう。いまはすべてが雪に覆われていた。見上げていると、押しつぶされやしないかと心配になってくる。
 その白い雪の中に、不自然な色が浮いていた。しがみつく正雪を半ば引きずり、英実は近づいた。自分の目が信じられなかった。
 ブーツだ、雪にまみれた。ご丁寧に二本、にょっきりと雪のなかから、爪先を下向きにして伸ばされている。
 問題なのは、そのブーツが空っぽではないことだった。どう見ても中身、つまり脚がついている。膝から上は雪に埋もれて見えないが、その先には人間が倒れているとしか考えられなかった。
「あれ、どうしてっ……」うわずった声で正雪が言う。震えつつも、律儀に懐中電灯を向け続けていた。「遭難?」
「にしては……」
 雪の一部が赤く染まっていた。
「まさか」とだけ声を出し、正雪は妹そっくりな顔を歪めた。サツジン、と口が動く。
 英実は必死に頭を働かせた。ブーツに見覚えがあるような、ないような。頭の中ではアラームが鳴っていた。メンバーの衣服を思い出そうとした。いや、あの靴底は男か、女か? 着ぶくれしていて、脚のみでは男女の判別もつかない。
 ここに自分がいて正雪がいる。裏口まで案内し、鍵を渡してくれたのはペンションの奥さんだ。靴を履くのにもたついたが、それでも一〇分か一五分。その前、少雪は食堂にいた。キッチンを手伝うと言っていた。
 灘に引きずられていった白河の背中を、英実は思い出す。ガテンな仕事をこなす灘は体格がよい。白河は自分と同じ、中肉中背だ。ふたりは雪かきをするため、玄関から出ていった。もう三〇分ほど前になるだろうか。
 ……そうだ、美里は。
 英実は息を呑んだ。探検と称して、ペンションじゅうをうろついていたのではなかったか。少なくとも、誰かの手伝いをするようなキャラクターではない。
 スキー仕様で着ぶくれしているものの、中身のがりがりさを英実は知っている。成長が偏っているのか、女らしさの感じられない体格だった。少年というより悪ガキめいた顔に見えてしまうのは、その落ちつきのなさと傍若無人さゆえ。静かに坐っていることができない。何かに打ち込むことができない。本人も母親も否定しているが、最近ではADHDと呼ばれる症状ではないのか、と英実は思っている。共同作業は大の苦手で、いつの間にか姿を消し、勝手なことをして騒ぐというのが彼女の行動パターンだ。
 腕時計を見た。最後に美里を見かけたのは何時だっただろう、と必死に考えた。
「先生、また雪が」片手に携帯電話を握りしめ、正雪が言った。
 頭上から雪が吹き込んできていた。一時、おさまっていた風も強い。
「携帯電話、つながりません。警察とか呼ばなきゃ」
「電話、あるって言ってたよな。奥さんに言って……」戻ろう、と英実は正雪の背を押した。救急車は除外して考えていた。脚だけでも、息があるようには見えない。
 裏口からペンションへ入り、かじかむ指でブーツを脱いでいるとき、あっと思った。美里のブーツは淡い色だった。白ではないが、薄いぼんやりした色。今見たのとは違う。そう感じた途端、英実は脱力した。倒れ込みそうなショックに襲われた。
「見つからなかったんですか?」と、優しげな声がした。モップを持った奥さんが廊下をやってきた。


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