作者の素顔(詳細編)

1.誕生から小学校卒業まで(1954〜1967)

 私は、埼玉県北西部の小さな町(当時は村)に農家の三男坊として生まれました。物心ついた時には農作業の手伝いをしていたというほどの貧しい家庭環境でした。休みの日にはもちろんのこと、普通の日でも学校から帰ればすぐに家の手伝いをしなければなりませんでした。今では考えられないことですが、農繁期(農作業の忙しい時期)には親からの手紙を先生に提出すれば、何の問題もなく早退できる時代でした。そんな子供がクラスに何人もいました。こんな状況でしたから、親から勉強しろと言われたことは一度もありませんでした。子供に勉強などさせておくのはもったいなかったのです。しかし、そんな両親が、そろばん塾に行くことだけは許してくれました。許したというよりも、言いくるめられて行かされたと言った方が正確かもしれませんが、その時間だけは働かなくてもいいし、友達も一緒だったので喜んで通いました。両親は、そろばんさえやっておけば何とかなるだろうと単純に考えていたのだと思います。また私は、体が弱く大変風邪を引きやすかったため、一年間休まずに学校へ行った年は一度もありませんでした。朝礼の時に青くなる常連でもありました。

 以上のように、家は貧しく体は弱いという踏んだり蹴ったりの少年時代でしたが、小学校卒業を間近に控えたころ、兄が勉強している英語に大変興味を持ちました。なぜ興味を引かれたのかはわかりませんが、何かに興味を持つと居ても立っても居られなくなるところがありました。とにかく、中学に入り早く英語を勉強したいという気持ちは募るばかりでした。この何かにすぐに興味を引かれ興味の対象をころころ変える性格が、その後の私の人生に大きく災いしてしまうことなど、まだまだ知る由もありませんでした。

2.中学時代(1967〜1970)

 希望に胸を膨らませて入学した中学校。いよいよ英語の授業も始まりました。先生は、大学を出て間もない美人教師でした。もともと英語に興味があった上、先生が美人とくれば勉強しないはずがありません。家庭環境も以前と全く変わらず、クラブ活動でバスケを始めたとはいえ、相変わらず体力もありませんでしたが、結構努力して、英語だけは何とか良い成績を保っていました。また、アメリカのアポロ宇宙船との交信を同時通訳する場面がテレビで放映されると、早速通訳になる夢を抱き始めたのもこの頃です。NHKラジオの英語会話のテキストを買い込み、積読(つんどく)も始まりました。 英語に関しては、順調な滑り出しです。英検3級にも見事合格。怖いものなしです。

 さて、英語に関しては以上のようでしたが、その他もろもろの事についても、少しお話しておきたいと思います。

 天文学に興味を持ったのもこの頃です。やはり天文学が好きだった友人と、ひたすら惑星や衛星の名前を覚え会ったり、寒い冬の夜、兄に買ってもらったほとんどおもちゃ同然の天体望遠鏡で月面を観察し、訳もわからずそれをスケッチしたりしていました。そして、また懲りずに風邪を引きました。いじめに会っていたのもこの頃です。3年生になった頃から、天文友達と私は、よく番長に呼び出され、何十人もの悪がきに囲まれた場所で番長に殴られました。なぜ、殴られたのか理由は良くわかりません。あんなに何度も殴られたのに、最後まで誰にもそのことを告げられなかったのは、仕返しが怖かったのと、何よりカッコ悪かったからだと思います。今の中学校等では、相談員制度が導入されてはいるようですが、それでもいじめに耐え切れず自殺者まで出る事件が後を断たないのは、私たちが誰にも相談できなかったのと事情は同じではないかと思います。いじめられたことを気軽に相談出来るくらいなら苦労は要りません。

 さて、この辺で、明るかったような暗かったような中学生活にも別れを告げなければなりません。いよいよ進学です。大学まで進むかどうかにより進路も違ってくるわけですが、相変わらず家庭が貧しかったのと、優秀だった次兄と違い凡才だった私は、早く就職して家庭の負担を少しでも軽くしようと本気で考え、商業高校に進学することに決めました。そうと決まれば今度は商業科目です。志望校を決めたばかりの段階で、またまた例の熱し易い性格が頭をもたげて来ました。早速書店で簿記の本を購入して来る有様です。まあそれでも何とか志望校に合格。悩み多き青春時代の一ページも何とか無事に閉じることが出来ました。

 ところで、入学が決まった高校がどんな学校かを示すのにちょうど良いエピソードがありますので、それを紹介します。高校時代のページへ進む前に参考に読んでおいてください。

 それは、受験の日の昼休みの出来事でした。同じ中学の二人の友人と校内を見学していた時のことです。運動部の部室の前を通りかかった時、その高校のラグビー部員に呼び止められ、部室に連れ込まれてしまったのでした。部室の真中には、部長とおぼしき人物がふんぞり返り、その周りを多くの部員たちが直立不動の態で囲んでいるのです。そして、部長が突然強い口調で部員にタバコを要求。部員はタバコを差し出すとすかさず火を点けます。こちらはまだまだ子供。こんな光景を見せられてはたまりません。ぶるぶる震えているだけでした。大変な高校を受験してしまったと内心泣きたいような気持ちだったけれど後の祭です。いまさら志望校を変えるわけにも行きません。ラグビー部もよろしく、というようなことを言われて開放されましたが、午後からの試験が力不足のせいばかりでなく、ほとんど手につかなかったのはご想像いただけると思います。こんな高校を果たして無事に卒業できるのでしょうか?

3.高校時代(1970〜1973)

 暗い気持ちのまま入学した高校でしたが、それまでのいじめは無くなったし、家庭もいくらか経済的に上向いて来たし、新しい友人も出来たしと予想に反して明るい高校生活がスタートしました。受験の日のことから想像していたようなこともほとんどありませんでした。しかし、ひとつだけ悔やまれることがあります。それは、ちょっとした手違いから陸上部に入部する羽目になってしまったことです。結局、一年足らずで止めたのですが、これは全くの誤算でした。クラブばかりで他のことが思うように出来なかったのは、今思っても残念です。

 クラブを止めた頃は、また、有名進学高校に通っている二歳年上の兄の進学時期でもありました。それまで私は両親の「お前は、商業高校に行っているのだから何とか就職できるが、普通高校ではそうは行かない。」と言うことばをそのまま信じて、進学は考えていませんでした。両親は、優秀な兄にすべてを託していたのでしょう。しかし、その兄の薦めもあり、進学への夢が私の胸中で日に日に大きくなって行きました。そして、とうとう私も進学しても良いということになりました。しかし、結局一年浪人することになった兄とは違い、私は両親から「進学はしても良いが、お前は浪人してはだめだ」と条件を付けられてしまいました。受験生にとって、これはかなりのプレッシャーとなる言葉だと思います。優秀な兄弟を持った者の悲哀を感じざるを得ません。

 進学と決めてからは、ますます英語に力を入れました。浪人している兄と英単語の暗記で競い合ったりもしました。私がいくらがんばっても覚えられなかった6000語の単語集を兄は、一週間位ですべて記憶したのには驚きました。とにかく、私とは集中力が違いました。しかし、私も負けてはいられません。何しろ後がないのですから。

 この頃の勉強方法は、受験参考書が中心で、今思うとかえってやらない方が良かったようなことばかりしていました。つまり、単なる詰め込みだけをやっていたのです。それでも英検2級が二次試験で1点足りなくて不合格というレベルまで行けたのは不思議です。しかし、その結果、私はここでとんでもないことをやり始めたのでした。つまり、英語はもうすぐマスター出来そうだから、フランス語でもやろうかと考え、三年の4月からNHKラジオのフランス語講座を聴き始めてしまったのです。優秀な人間ならいざしらず、私のような凡人がそんなことをしても、2カ国後もマスター出来るわけはなかったのですが、自分を知らないということは全く恐ろしいことです。結局、このことが原因か分かりませんが、大学受験は見事に失敗し、青山学院の仏文科に籍を置くこととなったのでした。本当は英語の勉強がしたかったはずなのに、なぜ、フランス語なのでしょう? 例の性格から、興味の対象が英語からフランス語に移ってしまったのでした。全く私のやることは訳がわかりません。しかし、こんなのはまだ序の口なのです。高校卒業から現在まで25年以上も経っているのですから、これからどんなことに成ることやら。やれやれ・・・。

4.大学時代(1973〜1978)

 受験に失敗したという敗北感から抜けきれないまま、新しい生活が始まりました。

 そこでの勉強は、当然フランス語が中心でした。そして,第2外国語は、なぜかドイツ語を選択しました。英語は独学でも何とかなるさ、と高をくくっていたのでした。また、フランス語についてですが、高校3年から勉強していたにも拘わらず、大学での授業は進むのが速く、すぐに授業に着いていくのがやっとの状態となってしまいました。そんな時、私は胃潰瘍に罹ってしまいました。それまで、私は家から大学がある渋谷まで片道3時間くらいかけて通っていたのですが、これが胃潰瘍の原因と勝手に決め付け、既に家を出ていた次兄を見習って、私もアパート暮らしをすることにしました。アパートでの生活は、アルバイトをしても決して楽なものではなく、胃潰瘍が完治するまでに1年半くらいかかってしまいました。この間、何をしても楽しくなく、それどころか、みんなが楽しそうにしているのを見ていると気が滅入るばかりでした。しかし、病気が治ってからは、また、勉強への意欲が沸いてきました。ずっと気になっていた高校のときに不合格だった英検2級を受験したのもこの頃です。大学に入ってからほとんど英語の勉強はしていなかったにもかかわらず、何とか合格できたのは、運が良かったとしか言いようがありません。試験後は、また英語から遠ざかってしまいました。

 フランス語は、この頃から、リンガフォンという教材を使い、声を出して勉強するようにしました。すると、しばらくして、英語とフランス語の逆転現象が起こり、今まで得意だった英語より、フランス語のほうが簡単に口をついて出てくるようになりました。この状態は、フランス語の勉強を止めて久しい今でも変わりません。考えてみると、英語は声を出して勉強したことなどほとんどありません。この辺に語学上達のヒントが隠されているような気がしてなりません。

 さて、大学生活もいよいよ最後の年となりました。普通ならば就職活動や卒論の準備で忙しくしていなければならない時期でしたが、どうしてもその気になれず、また、入学当初から感じていた空虚感を満たせないまま卒業することにどうしても納得がいかず、留年を決意したのでした。ここでもまた、次兄に対する対抗意識が働いたのかもしれませんが、次兄が浪人したことを理由に、私は留年を両親に認めさせました。

 5年目の大学生活は、友人たちも卒業してしまい、かえって虚しいものとなってしまいましたが、それでもアテネフランセ(語学学校)に通ったり、新たな友人達と飲みに行ったりと、社会の荒波に乗り出す前のひとときをのんきに過ごしていました。

 就職は、特にこれがやりたいということもなく、また、友人達の影響もあり、広告代理店に決まりました。

 大学での5年間を振り返って今思うことは、私が過ごしたのとは違った生活をすれば、充実した青春時代を送ることが出来るのではないかということです。つまり、何か打ち込めるものをなんとしても探し出し、それに全力投球するということです。これは学生生活だけでなく人生そのものについても当てはまると思いますが。

 虚しさだけが残った大学生活にも別れを告げ、いよいよ社会へ旅立つ時がやって来ました。虚しさだけが残る人生とならなければいいのですが。果たしてどうなるのでしょうか?

5.社会人になってから(1978〜)

 大変華やかだと言われるマスコミ業界の広告代理店に就職したわけですが、仕事の内容は全く華やかなどというものとは程遠いものでした。また、広告という実態のないものを扱うことに対しても、疑問と不安が日に日に強まってきました。そして、仕事がきつかったことも手伝って、もっと確かなものを得ようと、次の就職先が決まっていなかったにもかかわらず、無謀にもその会社を2年足らずで辞めてしまったのです。これが私の挫折人生の始まりでした。こんないい加減な人間が、なんと税理士を目指したのですから。

 退職後、高校時代には全く勉強しなかったそろばんと簿記の勉強を開始。数ヶ月後それぞれ最低限の資格を取り、小さな会計事務所に就職しました。と同時に専門学校に入り税理士の勉強も始めました。結婚したのもこの頃です。環境は整いました。ここで勉強に打ち込んでいれば、今ごろは税理士として事務所を構えていたに違いありません。しかし、受験生である私は、既にこの時、学生時代に覚えたアルコールの虜になっていたのでした。勉強しなければという気持ちとは裏腹に、毎日、飲んでは寝てしまうという生活でした。こんなことで試験に合格するはずがありません。気持ちはだんだんと税理士から離れて行きました。書道を始めたのもこの頃です。何か他のことに逃げたかったのだと思います。この状況はその後しばらく続くことになります。ここまで英語は、ほとんど勉強することはありませんでしたが、いつか何とかしたいという夢だけは、相変わらず抱いていました。

 会計事務所に約2年間勤めた後、不動産賃貸の会社に転職しました。会計事務所では事務員を短期間で入れ換える方針を採っていたのと、税理士になれなくてもそのまま勤めていける会社に就職しておこうという気持ちが働いたのがその理由です。表向きはまだ税理士を目指していましたが、心の底では既に諦めていたのでしょう。またこの頃から税理士試験から逃げたいという気持ちも激しくなってきたようです。その証拠にいろいろな事に手を染めました。宅建、行政書士、、司法書士等、税理士以外の色々な事に手を染めました。まったく呆れるばかりです。

 税理士をいつ完全に諦めたのか、はっきり覚えていませんし、今となっては思い出したくもありませんが、その後突発的に英語の勉強もするようになっていました。1991〜1992年にかけて、やさしいビジネス英語をカセットのみで勉強し始めたのを皮切りに、数々の教材をかじっては捨てかじっては捨てという事を繰り返してきました。この間の勉強方法は、片道約2時間の通勤電車の中でカセットを聴いたりテキストを黙読するだけです。もちろん、実際に勉強できる時間は正味1時間くらいしかありませんでしたし、居眠りしながら勉強しているような状態でした。しかし、そんな勉強方法でも少しは効果があるのか、1997年のある日から、突然英語がクリアーに聞こえるようになったのです。これは大変な感激でした。そこで今まで気にはなっていたのですが、全くその内容を知らなかったTOEICを5月に受けてみることにしました。結果は、リスニング320点、リーディング375点でトータル695点でした。リスニング力がついてきたとは言え、本番ではほとんど聴き取れず、リーディングも全然時間が足りなかったのに、初挑戦で700点近くまでいったのには驚きました。これに気を良くして、1998年の1月にもまたTOEICに挑みました。二度目の結果は、リスニング350点、リーディング370点トータル720点でした。今度は、一回目に比べてかなり良く聴き取れました。リスニング力は一定のレベルを超えると飛躍的に伸びるのかも知れません。いずれにしてもまたまた感激でした。しかし、冷静に考えてみると、この720点という点数はある資料によると英検2級のレベルだそうですから、私は20年前と比べて少しも進歩していないことになり愕然としてしまいます。私の半生はいったい何だったのでしょう。

 ところで、不動産賃貸の会社に入社して17年が経とうとした1999年の七月に、突然この会社が売却されることになってしまいました。幸い私は、同じ社長が経営するもう一つの会社に経理課長として迎えてもらえることになり、事無きを得ましたが、最終的に転職が決まるまでの間は、本当に不安な毎日でした。この間は、英語の勉強どころではありませんでしたが、会社や仕事に慣れてきたらまた英語に取り組むつもりでいます。

 以上で、現在までの英語学習の歴史を閉じることにします。世間には私などとは比較にならないほど苦労をされている方がたくさんいらっしゃっると思います。勝手に目標を決めてそれが達成されないからといって挫折人生だなどと言うのは、全く甘いものだと言われてしまいそうですが、人生観などと言うものはあくまでも主観的・相対的なものでしかないと思いますので、そのようにご理解いただきたいと思います。

 これからも、どんな人生が展開されるやら全く予想も出来ませんが、こんな私でもまだまだやる気だけは衰えていません。(その実態は、相変わらず飲んだくれの毎日ですが!?) 今後も、前向きに生きて行こうと思っていますので、一緒に頑張ろうという方はメールでもください。よろしくお願いします。