“藁ぼっち”に見る、自然との共生
                                鈴木和夫

作:波暮旅二


 「“藁ぼっち”は、人と自然との共生のシンボルである」と言っ
ていた波暮画伯の言葉がいつも心から離れなくなってしまった。

「大草原の小さな家」の舞台となったアメリカのマニトワック市
の美術館に、画伯のテンペラ画で描かれた“藁ぼっち”の絵(50
号の大作)が、海を渡って掲げてある。

その絵が完成し、日本で公開されたのは1998年5月の所沢(
西武百貨店)での自然派絵画美術展の期間のみであり、その後間も
なく海を渡ってしまった。そのテンペラ画の“藁ぼっち”は、見た
ものに強烈な印象を与えた。藁の一本一本、土手の草の動き、背景
の山々のもやの表情は、とても絵とは思えないほどの真実味あふれ
る描写に、見るものがしばらく立ちすくんでしまうほどであった。

それほどの忠実な描写は、自然の持つ細かな表情を深く見つめる
作者の心そのもの、いや、自然が作者を動かして訴えかけようと描
かせてしまったのではないかと思えるほどであった。画伯自身が述
べているが、自分を生かしてくれた自然への深い感謝、自然への恩
返しといった、深く心の中心に不動のものとしてある画伯の哲学を
見た。

この“藁ぼっち”の絵は、行き過ぎた現代の経済優先の社会、ま
た工業化社会への警鐘として、日本人にこそ感じてほしいものであ
ったはず。画伯は、「一度額に納めた作品は、決して取り出したり
はしないもの」と話していたが、たった一度だけ自らそれを破った
ことがあり、偶然にもその場に立ち会うことになった。真剣勝負で
取り組んだ絵、それを海外に手放さざるをえない無念さが「ぜひ、
日本に写真で残したい」という我々の無理な申し出を聞き入れ、自
らの手で完成した絵を額から外すまでの行動となったに違いない。

 また、その思いをしっかりと受け止め、真剣勝負で写真撮影に取
り組んでいただいたのがTさんであり、撮影中の目をくいるように
見つめる画伯が、瞬間に「自分が絵に取り組む時と同じ目になって
いる」と、ふとつぶやいたのを私は見逃さなかった。

こうして画伯の許しと、Tさんの好意を得て、“藁ぼっち”が我
が家にも残ることになった。

 川越に、老舗の額縁屋がある。その年配のご主人に額合わせを頼
み込むと、「この絵は、アンドリュー・ワイエスのような絵ですね
」と、その繊細な筆さばきを一目見てすぐ話しかけてきた。これま
でに至った無念のいきさつを話した。「そうですか、それならば絵
と同じように裏張りをして、画面を途中で切ることがないように額
に納めてみましょう」

 日が経ったある日、「ようやく出来上がりました」とのご主人か
ら連絡を受け、はやる気持ちで川越に向かった。
店に着くとすぐに、ご主人が奥の棚から注文の額を取り出して、
「いかがでしょう」と職人の自信に溢れる仕事ぶりが伝わってきた

 そこに見たものは、まぎれもなく“藁ぼっちの絵”そのものであ
った。

多くの人の想いが重なり合って、今、我が家で貴重な“藁ぼっち
”と向かい合うことになった。そしていつの間にか、藁ぼっちに取
りつかれてしまった。

 現在、私の住むここ埼玉の富士見市にも、はんの木に巻かれた藁
ぼっちがあったとのこと。有名な写真家が撮影した藁ぼっちのある
田園風景として、地元の図書館に大きな写真パネルを掲げてあった
。また妻が地元出身であったこともあり、はんの木の藁ぼっちを小
さい頃に見たと聞かされた。これは、画伯が描いた“土に帰すため
の藁ぼっち”ではなく、草履やムシロといった身の回りの生活用品
を作る上での、藁の一時的保管の意味合いのものだったようだ。し
かし、この藁ぼっちもまた、自然との共生のシンボルであることに
変わりはない。

いつの間にか、休日には妻とともに地元の田んぼや農家のまわり
を目を凝らして見て歩くことになった。妻に教わったはんの木、そ
れが何本か一列に並んで立っている姿を追いかけた。その幹に藁が
巻き付けてあっただろう光景を心に描いては、しばらく立ち止まっ
て想いを巡らしていた。

そんなある日、バッタリと“藁ぼっち”に出会った。探していた
はんの木の藁ぼっちではなかったが、画伯の描いたものと同様の“
”藁を土に帰すためのもの”であった。それは、二つ並んで寄り添
うように立っていた。まるで“藁ぼっちの夫婦”かと思える様子で
、互いに絆で繋がっている姿であるかのように見えた。

朝に出会い、その姿を写真に収めた。そして、何という偶然だろ
うか、出会いの日の午後に、にわかに降りだした大粒の雪に、“雪
を背負った藁ぼっち”の姿を見せてくれた。

数日して、まだ雪の残る藁ぼっちに会いたくなって出かけたが、
不思議なことに、懐かしい友人に会いにいくような心持ちになって
いた。

雪が降り、雨が降り、太陽に照らされているうちに、だんだんと
土に帰っていく様子を見ていたいと想い始めていた。

 夕日に照らされ、真夜中の星空の中にたたずみ、霜の降りた早朝
や、雨に濡れて立っている藁ぼっちを見つめている。