第二講 南河内の今昔物語


■ 南河内のプロフィ−ル

 南河内地域は、大阪府の東南部に位置し、金剛山系、和泉山脈、大和川、泉北丘陵に囲まれ、
 中央部には、羽曳野丘陵がゆるやかに起伏しています。

◯南河内地域は、6市3町1村

 ・富田林市、河内長野市、松原市、羽曳野市、藤井寺市、大阪狭山市

  太子町、河南町、三原町、千早赤阪村 

◯総面積:303.14qu(大阪府の約16%)

 東西約18.5q   南北約29q

 人口:66万564人

 ◯森林、農用地が地域のほぼ6割を占め、金剛・葛城山、石川、狭山池(日本最古の人工のため池)など豊かな  自然に恵まれ、都市近郊の自然レクリエ−ションの場となっています。

  古くは、交通の結節点(竹ノ内街道)として栄え、古墳群や古い町並み、社寺などの豊かな歴史的文化遺産を  有している。

◯現在では、宅地開発も進み、大阪府内でもっとも人口の伸びが大きい地域となっています。
  優良な農地も多く、野菜や果物など生鮮食料品の供給基地としての役割をも担っています。


■ 南河内の今

 書物や資料から、南河内の今日の姿を、いくつかひろってみましょう。
 いずれも、変わりつつある南河内の今を、端的に語っています。

  新しいリズムを刻み夢ふくらむ南河内

◯いにしえから、ゆっくりと流れてきた時間が、今、新しいリズムを刻もうとしている南河内。
 春のそよ風が運んできた柔らかな日差しの中で、新しい生活が始まる予感がしてきます。

◯週末は、気の置けない友人たちを招いて、我が家のテラスでワインパ−ティ。

 ウィ−クディには、あわただしい毎日を送っていたみんなの顔が、ほんとに明るく花開いたよう。

 遙か見渡せば、古くから日本の歴史の舞台となってきた、二上山、金剛山、葛城山といった山々−−。
  豊かな緑をたたえて、ゆるやかな稜線を輝かせています。

◯大阪の都心部からこんなに近いのに、史跡や自然がきちんと残されている南河内。

 そこには、現代の日本人が忘れかけていた心のびやかに暮らす毎日があります。
  時代の動きをしっかりと捉えた新しい文化も育っています。

 そして、いよいよ関西国際空港が開港。車でならわずか20分あまりといった便利さで、 
  まさに日本の玄関口になろうとしている南河内。

 暮らしの夢、ますますふくらんでいきます。

                         

(注)南河内−明日の「田園都市」みちづくり/建設省近畿地方建設局大阪国道事務所/1994.4より抜粋
   きりえは、「金剛東ニュ−タウン向陽台の団地」(富田林きりえサ−クル提供/富田林市広報)から、
   転載させていただきました。

   変貌する南河内−羽曳野丘陵近辺の最近の開発と発展−

○現在、羽曳野丘陵の周辺一帯は、目を見張るほどの開発が進められている。
 それは京阪神一帯の近郊地帯の開発・発展とほぼ同じだ。
 
 その主な理由は、
   ・大阪中心部に対して近距離、短時間の位置にあり、
   ・また、ごく最近まで地下が安価だったこと、堺の埋め立て地帯に近いこと、
   ・阪神地域の市民の郊外に住宅を求める心理、
  あるいは
   ・学校などの諸施設が郊外に発展していく傾向
 などによるものだろう。

○丘陵の西南部には、すでに戦前に陸軍幼年学校があり、戦後に早くも羽曳野病院(1952年)が設置されていた  が、本格的な発展はPL教団がこの地に大本庁を設置してからだろう。

 戦前、布施市にあったひとのみち教団が「山を控え、水を抱えた三百万坪」の土地を求め、
  昭和28年、この地を開拓し始めた。現在は青空を指すような大平和記念塔の下、正殿・錬成道場などをはじ  め、PL学園、PL病院、PLゴルフ場などがある。

○広大なこの丘陵を開発し始めると、各種の施設や住宅団地が進出して、付近一帯には近代的諸設備が続々と 誕生した。
 PL教団の土地の西側に、木材工業団地が隣接し、北側の羽曳野ネオポリスは、丘の上の桃畑を退散させて、  一大住宅地帯になった。
 これとほぼ同じくして、府立農林技術センタ−が設立され、近郊農業の研究所、農家の農事相談の中枢機関とし て活動している。

○ このころから各種の施設が生まれ始め、北部には、四天王寺女子大学、羽曳野住宅などの住宅群、西南部には、住宅公団金剛団地、南海千代田住宅、国立南大阪病院などがある。
 南海高野線の西側の千代田住宅、小山田住宅などに続き、さらにこれらが南海狭山ニュ−タウンや泉北ニュ−タウンに広がっている。

 丘陵の南部近くに大谷女子大学ができる頃から、丘陵の東側を流れる石川に沿って、大阪芸術大学、阪南ネオポリス、北大伴住宅、板持住宅などが次々とできた。

 かつては人影もなく、夕方頃の一人歩きの危険な地帯が、近代設備の整った住宅地帯に変貌した。

○これらの設備とともに、道路網、水道網が整備され、とくに国道309号線や大阪外環状線の建設は大きな意義 があろう。
 かつては“大阪の南の奥座敷”とよばれ、空と山と水の清らかさと地域の閑静さが人々の心に安らぎを与えてくれ たが、今や一大変貌しつつある。

   
*きりえは、「金剛東ニュ−タウン」(富田林きりえサ−クル提供/富田林市広報)より転載。
(大阪府の歴史散歩(下)/山川出版社1987より)


  緑濃きさわやかな丘陵地

◯ このパインスクエア−は、父祖伝来の松林の丘陵地帯で一時約20fの規模を持っていたのですが、
 その後現今にいたって、住宅・都市整備公団による金剛宅地(1963年216.43f)並びに金剛東宅地(1973 年230.5f)のそれぞれの宅地開発事業に協力をしなければならないので、
 園規模を縮小しなければならなくな りました。

◯ かつて、当パインスクエア−は、大阪より南へ22q、金剛・葛城の秀峰を指呼の間に海抜126.57bの高所 を中心に展開されていた。
 その名のように、松の美林の丘陵地帯で優れた自然の景観美をもっておりました。 

◯ かつて、大阪の公園に植栽された松(今は殆ど公害で枯死)の中には、当パインスクエア−で整型された松が かなり搬出されたものといわれます。

  ウグイス、ホトトギス、キジ、ヤマバト、モズ等の野鳥に、時にはキツネや野ウサギの小動物、マツタケ、シメジ、  ワラビ等の山の幸に、春にはこの緑の松林(パイン スクエア−)が山ツツジで紅に萌え、夏の蝉時雨がこの松  林の憩いの交響譜と聞かれ、ハギ、キキョウ、ススキ等の秋草にスズムシ、マツムシ、コウロギ等の秋虫に秋  月を賞で、厳冬、松林の間に金剛・葛城の暮雪が賞でられたのも、すでに昔語りとなりました。

○ すでに規模が縮小されたとはいえ、このパインスクエア−に、年を重ね、富を投じ、人智をかたむけて、
 新しく美しい自然を創造してみようではありませんか。

 

          (富田林市藤沢台−イワネ・タウン創生の記/岩根一正 1989.12) 
             *岩根一正  1913年(大正2年)5月10日生まれ  京都帝国大学法学部卒業
                         富田林市五軒家2−7−1 5   0723−65−0016

(注)私が今住んでいるところは、ちょうどパインスクエア−に作られたイワネタウンに隣接しており、
   この記述が、この地域のかつての様子を伝えていると思いましたので、紹介させていただきました。
   


■ 南河内の昔と歩みをふりかえって

【南河内地域の歴史】

約100万年前  アケボノゾウ、シカマシフゾウが生息
           (石川、富田林市域で足跡発見)

約3万年前〜   二上山から旧石器の原料となるサヌカイトが供給される
  約1万7千年前 

5世紀末     大王陵群が形成される(古市古墳群)

600頃          群集墳が各地で築造される(一須賀古墳群等)

6世紀後半〜 狭山池築造される
  7世紀前半

11世紀     河内鋳物師の集団が活発に行動
  〜14世紀 

1020     源頼信、壺井の里の香呂峰(羽曳野市)に館を構えて本拠地とする。
         その後、源氏三代(頼信、頼義、義家)の本拠となる。

1331〜33   楠木正成、赤坂城で挙兵。千早城に籠城し、わら人形・巨石等奇策。

1335     湊川の合戦、楠木正成・正季討ち死に。

1348     四条畷の戦い、楠木正行、高師直・師泰に敗れ自害。

1354     南朝方、北朝の光厳・光明・崇光の3上皇を金剛寺(河内長野市)に移す。
         観蔵院を居所とする。
         南朝の後村上天皇が、金剛寺の食堂と摩尼院を行宮とする。

15世紀中頃〜 畠山一族の内紛が起こる。(南河内では、嶽山、誉田にて合戦)

1560     興証寺証秀高屋城主安見直政から富田を買い受け、町割りを行う。

1568     大ケ塚道場善念寺を顕証寺の兼帯所として寺内町を形成。

1704     幕府、大和川の付け替え工事に着工。

1869     大阪府から摂津・河内県が独立。河内県を廃し堺県とする

1881     堺県廃止。河内、和泉、大和の三国は大阪府の管轄となる

1896     郡の統合実施。(9郡、南河内郡は49か村) 

1898     高野鉄道高野線、堺東〜狭山間開通

1896     河陽鉄道、柏原〜古市間、続いて富田林まで開通

1929     大阪鉄道、阿部野橋〜吉野山間開通

1950     富田林市制を施行(府内16番目。当時の人口3万399人)/富田林市歌を制定

1956     富田林市立青葉丘幼稚園(岡田ファミリ−の長女通園)が開園

1963     日本住宅公団(現都市基盤整備公団)により金剛団地の造成始まる

1964     富田林市少年少女合唱団 発足

1966     大谷女子大学が開学

1969     金剛団地内に南海バス運行

1980     富田林市立藤沢台小学校、葛城中学校(岡田ファミリ−の長女、長男通学)が開校

1983     金剛公民館・図書館オ−プン

1989     金剛東の地区センタ−の大型店舗「エコ−ル・ロゼ」オ−プン

1990     岡田ファミリ−、南河内・富田林市に転入

1991     すばるホ−ルオ−プン

1993     富田林市立津々山台幼稚園(岡田ファミリ−の長男通園) 開園

1994     富田林市の人口、12万人突破!

1995     とんだばやし混声合唱団 発足

2000     富田林市制50周年


                    (これから順次、充実させていく予定です)


♪のペ−ジのBGMは、滝廉太郎作曲の「花」です♪
とよさんのMIDI BOX」から、転載させていただきました。