日々の何気ない出来事を思いつくままに綴ってみました・・・

          

3月25日(木)晴れ 今日は梼原病院での最後の外来となった。院長は高知検診クリニックでの健康診断のために不在であり、病院には私とH谷医師のみとなった。A.M.8:30より外来をスタートして午前中の1診だけで約60名の患者さんをお迎えすることになった。結局昼休みなしでP.M.4:40まで外来は延々と続いた。患者さん達は「先生は食事も摂らずにすまんことよのう」とこちらを気の毒がってくれるが、私としてはこんな遅い時間まで待っていて下さる患者さんの気持ちに嬉しいやら申し訳ないやらなんとも複雑な心境であった。それぞれの方々とあまりゆっくりとお話できなかったものの、できる限り誠意をつくしてお別れの挨拶をさせて頂いた。私のようなまだまだ若輩者の医者にここまで信頼を寄せてくれる梼原の人々とこれでお別れかと思うと何だかとても寂しい気がしてならない。外来の最後を締めくくったのは特別養護老人ホーム「ふじの家」の入所者のお年寄りであった。昼過ぎから顔色が悪いということで当科に搬送されて来たのである。診ると右季肋部痛があり、眼球結膜の黄染に気付いた。これで今月は何と3人目の黄疸患者である。こういった黄疸などがまるで流行性疾患のごとく短期間に偶発的な発生を見たのはこれまでも何度か経験があった。そんなこんなで何とか外来業務を終え、P.M.5:40過ぎに高知県立中央病院へと向かった。我々自治医大卒業生の顧問指導医である県立中央病院院長T橋先生をはじめとして肝胆膵カンファレンスで色々とご指導頂いた外科のH見副院長や放射線科のM田先生、消化器内科のT崎先生達に転勤の挨拶をするためである。P.M.7:30くらいの遅い到着となったが幸運なことに皆の先生が全員揃っておいでになり、それぞれに挨拶をさせて頂いた。H見副院長のご配慮でカンファレンスの後では参加者全員の前で挨拶までさせて頂いた。各先生達から激励の言葉を頂き、4月から始まる後期研修をしっかりと頑張ってやらなければという気になった。少々お疲れモードではあったが、今日は無理をしてでも高知まで出てきて良かったと思う。さあ、明日は本当に最後の日であり、夕方には病院送別会が催される予定である。皆とお酒を酌み交わしながら心ゆくまでお別れをしたいと考えている・・・・。

3月23日(火)晴れ 今日はP.M.17:30より梼原町役場(吏員会)、梼原町議会の方々による我々退職者のための送別会が開かれることになっていた。しかしながら今日は先週と同じような流れで午前中は四万川診療所への最後の出張診療があって50名近い患者さんの診療があり、パニック状態寸前であった。午後はそのまま梼原病院の外来業務にあたったが、こちらの方は30名と人数的には少なかったもののやはり2年間以上長期にわたって診療してきた患者さんも多く、それぞれの患者さんとお別れの挨拶をしながら結局P.M.6:10まで外来がかかってしまった。その後に病棟に手術の必要な患者さんがいてそのムンテラを済ませ、約1時間以上も大幅に遅れて送別会に駆け込んだ。主賓の一人としての遅刻は全くもって申し訳ないことだが、こればっかりは他の医師に外来を頼んで代わりに挨拶してもらう訳にもいかず、火曜日の送別会開催が恨めしい感じであった。町長や議長さん、そして私以外の退職者の方々の挨拶が聞けなかったことは大変に残念だったが、その後宴の中で役場職員や議会の皆さんにお別れとお礼の挨拶をしているうちに瞬く間に時間が過ぎていった。一人一人個別に挨拶に来てくれてそれぞれの顔と名前が不思議と一致してこの3年間実に多くの人達との出会いや関わりがあったのだと改めて驚いてしまった。このように行政関係の方々と何ら抵抗なくスムーズなコミュニケーションが図れたここ梼原町の職場環境は自分にとって大変にありがたいものであり、仕事もやり易かった。この送別会で感じた感謝の気持ちはいつまでも忘れることはないであろう。

3月22日(月)雨のち晴れ 昨日予定通り引っ越しの荷物が運び込まれて来て、梼原の家では余裕をもって積まれていた荷造りした段ボールがこちらの家ではまさに足の踏み場もない程の状態で、天井に届く程に高く積まれいわゆる段ボールの山と化していた。しかしながらこれらをじっと見つめているだけでは寝ることもできないためにとにかく一つ一つ段ポールを崩して外へと運び出した。2人の子供は岡山の実家に預けて嫁さんと2人だけの作業であったが、子供達を置いてきて大正解であった。これまでに何度かこちらにやって来て大型のラックと衣装ケースを設置して準備していたお陰でどんどんと荷物が片付いていったが、その片付けのために両手の指先はしびれ爪は削れてしまい、まさに段ボール箱との格闘という感じであった。何とかこの2日間でとりあえずは寝るだけのスペースは確保できた。明日から週末までやはり子供達は実家に預けて嫁さんには岡山の実家から通ってもらい片付けに専念してもらうことになっている。私自身も単独で梼原に戻り病院の当直室で寝泊りしながら残された仕事をすることになっている。送別会などの予定も入っていて忙しい一週間となりそうだ。

3月21日(日)雨のち曇り 今日は引っ越し荷物がこちら豊浜町の方に届く。昨日は大勢の人が手伝ってくれたが今日からは私と嫁さんしかいない。昨日の何倍も仕事をしなければならないので今から気合をいれているところである。睡眠も十分だし、子供達のことも岡山のご両親が世話し頂けるとのことで受け入れ体制は万全である。しかしながら果たして10トントラックに山積みされた荷物を満載した段ボール箱の山はこの3LDKの新居に入るのだろうか?不安だ・・・・。

3月20日(土)雨のち晴れ とうとう引っ越しの日がやって来た。しかしながら照る照る坊主やお祈りの甲斐も虚しくあいにくの雨模様の中引っ越し荷物の運び出しを行った。今日はこんな悪天候の中病院職員がわざわざ手伝いに出向いてくれて本当に有難かった。事務長、婦長、事務のY美さん、T元さん、H瀬さん、薬剤師のH君、看護婦さんのN子さん、嫁さんの友人のS子さんなどが手伝ってくれたお陰で随分早く作業が終了した。梼原で勤務した間に患者さん達から頂戴したウイスキーやビールなど倉庫に眠っていたものを皆にお土産代わりに持って帰って頂いた。何にもなくなってしまった住み慣れた家の中を見てふと3年前の梼原に来た時の自分を思い出した。何だかまだ4月からもここで仕事をしなくっちゃいけないような・・・そんな不思議な錯覚を覚え、引っ越しそのものが夢のような感じに思えてしまった。閑散とした家を見るととても寂しく、ここでの3年間が次々と脳裏を駆け巡った。今夜は岡山の実家に子供達を預けに行き、明日は嫁さんと2人だけで引っ越しの荷もつを受け取る予定になっている。今日のような人手もなくなかなか大変な作業となりそうだ。早く寝て明日に備えよう。

3月19日(金)曇りのち小雨 今日は院長が全国センター長会議に出席するため東京へと出張で不在だった。また臨床検査技師のJ明さんも身内のご不幸で忌引となっており、H谷先生は定期の四万川診療所への出張診療である。院長の代診にはY子先生が入り、私は処方書き、処置、検査、デイサービス診察、病棟の創処置、そして臨床検査技師の6つの仕事を午前中に受け持つことになってしまった。やはり検査というものはどうしてもなしではやっていけない訳であり、胃カメラにエコー検査などをしながら合間をみて血液検体とにらめっこをし、診察や病棟の褥創処置を汗だくになりながらこなしていった。午後は特別養護老人ホームへの出張診療がありこちらの診療も今日を含めてあと2回となってしまった。今日18名ほどのお年寄りを診察したのだが、結構痴呆が重度の方達ばかりのため、異動とはいえ誰にもお別れの挨拶を述べるチャンスがなかったので、この3年間一番関わりをもってきて数々の思い出のある一番しっかりとしていそうなN宮さんというお年寄りにのご挨拶をさせて頂こうと思って、まず「僕の名前は誰やったか知ってますよねえ?」と聞くと「うんうん、よう知っちゅうよ。H利先生じゃろう?」・・・・、H利先生とは理学療法士の先生の名前である。やはり挨拶まではどうも必要なさそうであることを再認識し、そのままいつも通り診療を続けた。家に帰ってからは明日の引っ越しに向けての最終準備に嫁さんが一生懸命であった。この大事な一週間に当直やら飲み会やら勉強会やらでなかなか十分に手伝いできなかった分を取り返すべくせっせと働いて深夜遅くになってようやく全ての家財道具を運び出せるところまでこぎつけることができた。さあ、3年間お世話になってきたこの梼原の医師官舎ともいよいよ明日でお別れである。来週は私一人単身赴任で病院内の当直室にて過ごす予定となっている。何はともあれ引っ越しが無事に済みますように・・・そしてまた何としてもお天気には恵まれますように・・・・

3月18日(木)曇り 今朝A.M.3:50に病棟から呼び出しがあった。入院中の患者さんがイレウス(腸閉塞)を起こしたのである。血圧も低下気味で、冷や汗をかいており脈も速い。至急後方病院外科へと電話連絡をし、搬送の準備にかかろうとしていた矢先に今度は身体障害者療護施設「みどりの家」から緊急の連絡が入り、「入所者の容態がおかしいので大至急往診をお願いします」ということだった。もはや一人では対応できない状況になり、施設嘱託医である院長をコールし応援を頼んだ。そんなこんなでばたばたとしながら夜明けを迎えA.M.8:30より外来に臨んだ。この時点で勿論朝食は摂れる由もない。外来はこの3年間ずっと通って来て頂いた顔なじみの患者さんが多く、昼食抜きで終わったのがP.M.15:50であった。今日は昨日やり残した定期往診の3件があり、外来が終わってすぐに往診へと出発した。往診先はまた外来とは違ったこれまでの長い時間の経緯があり、私が異動になってこれから往診医が変わるということで家族や患者さんの動揺も隠せなかった。今後の対応について十分に話をして帰院したのがP.M.17:30となった。その後P.M.18:00より日吉村診療所との交流を深めるための宴会があり、深夜まで宴は盛り上がった。日吉村診療所のA雲先生は私と同じで4月から異動なされるとのこと。A雲医師とうちの院長とがインターネットを通じてひょんなことで知り合いとなったことから日吉との病診連携が図れるようになり、CTや骨塩定量などにてよく患者さんを紹介して頂くようになり、本日この交流会につながることになった。今後も病診連携がよりよいものとなり、来年もこうやって日吉村診療所との交流会がもてるようになることを心から祈るばかりである。A雲先生にはこの場をお借りしてお礼を申し上げます。先生方をお見送りして意識もうろうとなりながら家路へと着いたが、その後どうやって床についたのかは記憶が定かではない・・・・。

3月17日(水)晴れ 今日の午後院長と閉塞性黄疸の患者に対するPTCD術があり、定期往診に2時間ほど遅れて出かけたために全ての往診先を廻ることができなかった。今月の往診はこれまでの往診とは違って「今度は・・・に来るからね」という言葉を患者さんや家族に投げかけてあげられない何とも心苦しいものとなり、家族ぐるみで往診を続けてきた私にとってもまた患者さんや家族にとっても辛いお別れとなった。今日の往診先のお年寄りは95歳の方で「もう先生とは会うこともなかろう・・・」とを流しながらにかすれるような声で私に語りかけてくれた。その後に返してあげられる言葉も見つからず、何とも後ろ髪を引かれるような辛い思いで往診先を後にした。そんな暗い気持ちも覚めやらない内に帰院してから毎月恒例の高齢者サービス調整会議に参加した。議論が終わった後院長からの勧めで会議に参加しているメンバーに対してお別れとお礼の挨拶をさせて頂いた。ここ梼原に来て3年、保健・医療・福祉の統合の理解の一番の近道がこの会議であった。様々な職種の人々が一つのテーブルを囲んで対等に議論し合う場は私にとって大変貴重な経験であった。介護保険導入が目前に迫る中きっと梼原町はその大きな荒波を彼等メンバー達の地道な努力によって乗り越えて行くに違いないものと確信している。その後梼原町の保健婦さん達との情報交換会もあってこれまた当り前のようにやってきた会ながら他の自治体では極めてまれとなるこの会のもつ意義の大きさに改めて敬服させられる。医師として医療だけやっていてもそれだけでは足りないのだということを身をもって教えてもらったこれら2つの会はこれからもずっと私の記憶の中にあり続けることだろう。

3月16日(火)晴れ 今日は午前中四万川診療所への出張診療で午後は病院に戻っての外来であったが、午後の外来が終わったのはP.M.6:20頃であり、A.M.8:30からP.M.6:20まで昼休みの移動時間の30分を除いて合計9時間20分ずう〜っと外来で喋りっぱなしだったことになる。午後の外来では閉塞性黄疸の患者が来院し入院などの手続きが急に入ったこともあるのだが、やはり大半の時間はお別れの挨拶に時間を費やしているこは間違いない。私のような者のためにこんなに遅くまで何時間も待っていて頂けるというのは大変申し訳なく思う反面、有難いという感謝の気持ちも大きい。最近医療過誤の報道が続いていて、今日も某病院にて薬剤取り違えの点滴ミスによる死亡事故の報道があった。「明日は我が身」という緊張感の下に日々患者さん達の生命を預かる責任ある仕事であることを職員に再認識してもらうために先週勉強会でこの話題について皆で話し合ったばかりだったが、相次ぐ不祥事に全国的な医療不信は否めない状況にある。こういった厳しい世の中の視線を浴びながらよい意味での緊張感を常にもって初心を忘れることなく日々の診療にあたっていく必要性を改めて感じた。

3月14日(日)雨 今日はホワイトデーということだが病院関係の義理系については金曜日の内にクッキーを渡して無事義理を果たしてきた。嫁さんにも気持ち分渡したのだが、当然優ちゃんに気に入ってもらえるタイプにして恩返しをしてあげた。こちらの目論見通り嫁さんに手渡すや否や喜んでもらう間もなく優ちゃんにもぎとられてしまいあっという間に優美佳の胃袋へと消え去ってしまった。まあ夫婦たるものバレンタインやらホワイトデーなどお互いにこの程度ものである。今日一日で何とか転居先の引っ越し荷物の受け入れ体制が整った。幾つかラックも買い揃えて収納スペースの確保に心掛けた。疲労回復を目的に豊浜町郊外にある藤の湯というクアハウスに行って入浴した。ちょうど今日がオープン1周年記念日ということでハズレなしの富くじがあり特賞から8等まで種類も豊富でティッシュでももらえたらと思ってやってみると、何と1等を引き当ててしまった。景品は三面鏡とこの温泉のテレフォンカード500円分を頂戴した。あまりくじ運のよくない私だけに何だかこのくじでここ最近のラッキーな運を使い果たしてしまったような不安も少しよぎってしまった。まあここは素直に喜ぶべきところであろう。最近週末に雨が多いのだが何とか天気だけには恵まれて欲しいものである・・・。今日の1等で来週末は雨になってしまうかも知れない(ま・まずい・・・)。照る照る坊主を作って今からお願いしておくことにしよおっと。

3月13日(土)小雨のち曇り とうとう引っ越しまであと1週間となった。今回の引っ越しで何よりもラッキーなことは転居先が空いているということだ。逆にギリギリまで転居先に先生がいらっしゃる場合には相手の都合に合わせて日程を相談・調整したり、また県の公務員や教職員の異動と重なって引越し業者も猫の手も借りたい位に大忙しとなってしまうために学生アルバイトの確率が高くなってしまう。過去にこの引っ越し初心者のアルバイター達にどれだけ家具を傷ものにされ、食器を割られたことか・・・。ということで今回の引っ越しは1週間早めに予定してゆとりをもったものにしようという訳である。現在住んでいる梼原病院医師官舎は全国に自治医大卒業医師赴任地域が数多くある中でトップクラスといってもいい位の広さがあり、築3年と新築同様にきれいな建物である。今度引っ越す先は三豊総合病院の医師が住んでいるハイツの一室であるが家族持ちということで3LDKの部屋を提供して頂いたもののやはり手狭感は否めない。そのために頑丈そうなラック類などを幾つか嫁さんが買い揃えて収納スペースの確保に必死になっているのである。その大切な時期ながら今日嫁さんは欠かせない用事があって広島まで行っている。嫁さんが留守の際は当然私がベビーシッターとなる訳であり、岡山の実家にお邪魔しながら子供達の面倒をみているのである。引っ越しの際にも岡山のご両親に預けられるよう慣らしておく意味もあるが・・・。本来ならば今日高知市で自治医大卒業医師の会があり、是非とも参加したかったのだが今回はこのために残念ながら欠席である。院長が出席しているはずなのでまた月曜日にでも内容を教えてもらおう。明日は今日1日サボった分を取り返すべく引っ越し荷物の受け入れに向けて準備しなければならない。

3月11日(木)晴れ 今日の外来は私の外来に少なくとも2年以上は通って頂いている大切な患者さん達が多く来院されていた。45名の患者さんが午前中の1診に来院されたがやはり今日が最後の外来となってしまう患者さん達も多く、一人一人にできる限り時間をかけてお別れの挨拶を行った。入院中のこと、介護した家族のこと、手術や怪我のことなど色々と話をしている内にこの3年間の色々な出来事が走馬灯のように脳裏に蘇ってきた。中には涙を流される患者さんもおられていかに自分のことを頼りにして下さっていたのか身にしみてとても嬉しいような哀しいような・・・複雑な気持ちでとても辛い時間であった。外来はA.M.8:30に始めたのだが結局終わったのはP.M.3:00過ぎであった。さすがに6時間30分も喋り続けると声も少しかすれてしんどかったが、そんな肉体的なものよりも精神的な疲労が大きかったように思う。今日は医師の異動や4月からの勤務体制を記した梼原新聞3月号第2版を仕上げて印刷へと回した。平成10年7月号の初版から臨床検査技師J明さんと共同編集してきた梼原病院新聞もいよいよ私の執筆編の最終稿となってしまったようだ。4月号からは私の後任のM場先生が編集委員となることがすでに決まっている。患者さん達との直接のコミュニケーションツールであるこの新聞は今後も是非存続していって欲しいものである。あと2週間は私にとって忘れることのできない辛い外来となりそうだ・・・。

3月9日(火)雨 今日夕方から病院事務のT田さん宅で院長家族とうちの家族、特別養護老人ホーム「ふじの家」施設看護婦さん達と内々の小さな送別会を開いて頂いた。T田さんはうちの子供達にとってまさに「梼原のおばあちゃん」的存在であり大変にお世話になった方なのである。私達家族がここ梼原にやって来て前院長のO先生のご自宅で飲み会を行ったが、その時にもO先生家族と一緒に我々を歓迎して下さり、その時以来家族ぐるみでの交流が続けられている。ふじの家も私が梼原に来て丸3年間嘱託医として色々とお世話になり、無理なお願いも数々させて頂いたにもかかわらずその都度こちらの要望に応えるべく対応を図って頂いた。梼原第2病院とまではいかないが、30床のベッドがこれまで何とかうまく回っていけたのもふじの家の存在があったからこそと感謝している。普段はあまりお酒を飲まない嫁さんもT田さん達からということで断ることもできず付き合って顔を赤くしていた。梼原を離れたとしても交流は続けていける訳であり、今後もお付き合い頂きたい大切な方達ばかりの楽しい飲み会であった。

3月8日(月)晴れ 正式な異動の辞令が出されて今日で約1週間となるが、除々に患者さん達の間にもその話が伝わってきているようである。外来の診察時間内に挨拶をするのは言葉を尽くすにはあまりに短か過ぎるためにこちらも何か心残りで大変につらい時間を患者さん達と共有することとなる。自分の健康を委ねた主治医が傍にいなくなることはやはり患者さん自身にとっても不安や寂しさがあって、患者さん達から発する言葉からもその心情が十二分に読み取れるのである・・・。私の後任として1つ後輩のM場先生が勤務することになる。彼は現在U路村診療所で勤務しているが、梼原と同規模のO月病院での臨床経験もあり、いずれの勤務地でも患者さん達からの人望が厚かったようで私自身も彼の活躍を心から願って止まない。院長の外来に患者さんが集中しないようM場先生の外来への移行を努めて心掛けるつもりである。難渋する症例や院内業務の申し送りもメールや書面を通じて間接的に続けていく必要がある。私の周囲でも役場や病院での送別会の予定も大体決まってきていることなどがちらほらと耳に入ってきて、いよいよ梼原とのお別れの日も迫って来ていることが実感されてきつつある今日この頃である・・・。

3月7日(日)雨のち曇り バイクを高知市の実家に預けるために乗って行くために昨夜遅くに梼原に帰ってきた。今日はケアマネージャーの実務研修3日目ということで朝遅くとも8:00までには出発しなければならなかった。天気はあいにくの雨で路面も悪く滑りそうでちょっと気が引けながらも今日を逃すとまたいつ持って行けるか分からないということでバイクスーツに身を固め、ヘルメットやらグローブやらと準備を整え、さあ出発だとセルを回すと何とエンジンがかからないではないか。しばらく乗っていなかったせいもあるということで何度かチャレンジしてみても駄目。近くにバイクに詳しい人がいたのでちょっと聞いてみると「セルボタンを押す時にアクセルを一緒に回していませんか?」と聞かれ確かに自分ではそのやり方が正しいと思ってやっていたので早速試してみると何と一発でエンジンが点火した。バイクはなかなかデリケートな乗り物であることを改めて認識させられた。さてエンジンがかかったのはよいものの出発時間も大幅に押しており、このままでは研修に遅れてしまう・・・ということで急遽車に乗り換えて出発することになった。雨も降っていたし、こんな日はバイクで行くのは危険だよとバイク自身が僕に教えてくれていたかのような感じだった。無事研修にも間に合ってグループディスカッション形式に研修もつつがなく執り行われた。昨年10月のケアマネージャーの資格試験及び年末から始まった実務研修32時間の長い行程も終わり本日晴れてケアマネージャー(介護支援専門員)の資格を得ることができた。この免許は認定産業医などの資格と異なり今後更新講習などの義務がないようでホッとしている。今年の夏過ぎには要介護認定作業も始まる訳であり、認定を受けた後にはこのケアマネージャーによって作成されるケアプランに沿ってサービスの内容が取り決められていく。公的機関や行政のみならず民間からの参入も勢いを増してくると思われ、今回の合格者の中にはこういった多彩な組織の中で活躍していく方も大勢いることだろう。しかしながら実際にはケアマネージャーを本職としてやられる方は今回の合格者の約10%程度しかいないだろうと推察されている。

3月5日(金)晴れ 今日は平日にもかかわらず介護支援専門員の後期実務研修が高知市で開かれるため有給をもらって研修を受けに出掛けた。今日からあさってまで3日間の日程でぎっしりと予定もつまっている。前回1月にあった実務研修の際に我々受講者全員に対して各自1名以上の在宅または施設入所のケースに対する訪問調査を行い、そのケースに対して実際にアセスメントを行い、ケアプランまで立ててくるよう宿題が出ていた。今日はその調査を行った際に感じた疑問点や不明な点を明らかにして参加者全員で共有し解決しようという趣旨の内容であった。明日からは6-8各ずつの小グループに分かれて自分達が実際に調査してきた個々のケースに対してディスカッションがなされるようだが、そのディスカッションの対象となるケースがそれぞれのグループで1例ずつ県の独断と偏見で選択されることになっており、今日の帰り際に誰が担当したケースが選ばれたのか発表された。実は今週始めにH谷先生らの最初の実習グループの時にはこのような発表がなされず、2日目の当日に突然指名されて困った受講者が多くクレームがついたためにこのような形に変更されたとのことだった。H谷先生からも自分が調査したケースが対象に選ばれるとこれからの2日間は色々と大変な研修になるということだったので恐る恐る掲示板を見てみるとラッキーにも自分の名前はなかった。梼原から一緒に受講しているH恵さんは見事に大当たりしており、明日からディスカッションの中心者として活発な質問責めに遭うことは避けられないだろう(H恵さん、頑張って下さいね・・・)。明日からのグループワークも一緒になったメンバーによってかなり大きな差が出ることが予想される。無作為の組み合わせではなく各職種を満遍なく振り分けているようなので大体のバランスは取れているとは言っていたが、経験豊富な方と是非とも一緒になりますように・・・。

3月3日(水)晴れ 今日は雛まつりだ。優美佳も今年で2回目となるのだがまだまだお雛さまを見ても何の感慨もないようだ(当たり前か・・・)。家に帰るとモモの花が鉢にいけてあった。雰囲気は確かにお雛さまなのだが居間に散乱したおもちゃの山で足の踏み場もないところを見るとちょっと興ざめしてしまった。来年はもうちょっと喜んでもらえることだろう。雛まつりの今日になってとうとう人事異動の内示が送付されてきた。私は転勤組の中に入って4月から香川県の豊浜町にある三豊総合病院に異動することが決定された。何故県外なの?という声も聞こえてきそうだが、我々の組織には後期研修という教育システムがあり、その制度に則った異動という訳で県内外に限られず、実際にオーストラリアやアメリカ、スゥエーデンなどに研修に行かれた先輩もいるのである。ここ梼原町に来て早や3年。義務年限内での3年連続勤務、しかも病院という恵まれた環境での勤務というのは異例といってもよい程ラッキーなことである。ここ梼原病院も前任のO先生からA波谷先生への院長交代や四万川診療所の出張診療化など大きな変化の時期に勤務できたことは自分自身にとって大変大きな財産となった。病院のシステムもほぼ軌道に乗り内科医師に限らず看護婦さんや薬剤師さんについても増員がなされ、今後は院長主導の下に県下の地域医療を引っ張って行く存在となって欲しいと願うばかりである。さあこれから引っ越しの準備で大変だ。残された期間を精一杯頑張って多くの患者さん達に誠意を尽くさなくてはならない。 

3月2日(火)晴れ 今日の四万川出張診療は大賑わいで約50名近い外来患者が来院した。インフルエンザや雪の影響もあってかこれまで来院を控えて冬ごもりしていたお年寄り達がこぞって来院してきたのである。結局あれやこれやとバタバタしながら午後1時過ぎまで外来がかかってしまった。その後往診2件を予定していたために往診先に向かい、結局午後の梼原病院での外来を始めたのは午後2:15過ぎとなった(午後の外来患者さん達ごめんなさい・・・)。今日はY子先生が研修に行かずに病院におり初診患者を沢山診てくれたお陰で午後4:40には何とか外来を終了させることができた。その後月始めのレセプトチェックを午後9時過ぎまで行い家路についた。土・日・月と3日連続の当直明けの身体にはちょっときつい一日であった・・・。まあたまにはこんな日もあるだろう。おやすみなさ〜い。

 3月1日(月)晴れ 今日の午後病棟の総回診があった。順番に病室を回っていたところある患者さんがうつ伏せに寝て尿失禁していたので「・・・さんどうしたんですか?」と声をかけても全く応答がない。院長と一緒に仰向けにしてみると何と呼吸が停止しているではないか!!!。これは一体????ここで素人の人ならば「キャーッ、誰か〜っ」と叫んでしまうのだが、我々は医療従事者ということで冷静に状況把握に努めた。一見死亡しているように見えたが院長が頚動脈を微かに触知できるということで急きょ心肺蘇生が始められた。心マッサージ、挿管、ルート確保と総回診中で全員が揃っていたこともあって順次手際よく蘇生が進みボスミンの気道注入により息を吹き返した。まさに火曜サスペンス劇場のような予想もつかない出来事で結局心電図や血液データ、脳CTなど試行したものの原因は究明できなかった。夕方には少しずつ意識レベルも回復し、無事抜管し得た。突然死するような要因は見られなかった患者さんだけに今後も注意していかなければならないが、今日が総回診日でなかったら完全に死亡または植物状態に至っていたものと推察される。人生まさに一体何か起こるか予測もつかない・・・。一寸先は闇・・・。よい教訓を得た一日であった。