「アンリ・ジャイエ・クロ・パラントゥ」1978年
まさに究極のテイスティングであります……。DRCのモンラッシェ、リシュブール、ラ・ターシュ、ロマネ・コンティ……これら綺羅星のごとく燦然と輝くブルゴーニュワインを、さらに超越した存在……「アンリ・ジャイエ・クロ・パラントゥ」。神とたたえられたアンリ・ジャイエが世を去って5年、その希少価値は高まるばかり。ずっと前に実物を酒屋で見てから以後、目にすることもなく、おそらくは口にすることもないだろうかと思っていたワインですが、そのファースト・ビンテージの78年物が飲めると聞いて、これはもう試飲会に参加するしか……グラス一杯きりずつとはいえ、その満足度はきっと測りきれないものに違いあるまい……。
年に一度と決めていた超級テイスティングを、二ヶ月連続立て続けに申し込むことになろうとは……その日にエントリーしないとすぐに満席となってしまうような10名限りの試飲会なので、人を誘う余裕もなく今回も一人で参加。ワインという物は本来一人で飲むものではないと思っていますが、楽しい場では大抵のワインも余計に美味しく感じられるのだから、逆に極上のワインとはしっかり一対一で向き合ってテイスティングすべきなのだ、と自分を納得させてグラスに向かう。
最初の一杯目は「モンラッシェ1983年」(Bouteille No.002410)。ブルゴーニュでは赤よりも白の方が優良とされるヴィンテージ。輝きのある黄金色と、そして非常に「強い」香り。バターを塗って焼いたパンや薄くハチミツのかかったホットケーキのような香ばしさ。高いアルコール。それでいて刺激は控えめで味わいはなめらか。当然ながら余韻は長い。いつまでも残る香ばしさはともかく、この「噛みしめような味わい」を表現するのは難しいのですが、若干熟成が進んでいる分、酸の刺激がなくスムースに流れ込むにもかかわらず、いつまでもひたすら味の印象が後に残っていく感じなのです。
次に「リシュブール2001年」(Bouteille No.06091)。ジャッキー・リゴー著「ブルゴーニュワイン100年のヴィンテージ」(白水社)によると、2001年はブルゴーニュの赤については評価の分かれるヴィンテージなのだそうですが、ヴォルネやポマールに雹の被害があった一方で、ジヴレイ・シャンベルタンとヴォーヌ・ロマネは長熟型の優良なワインが得られたとか。明るい輝きのあるルビー色で、香りは……これも素晴らしい! バラの香りに、ムスク香が重なり、やや重たい感じのする香気。奥の方にスパイスや、ローストビーフのようなニュアンスも潜んでいて、なかなか侮れません。味わいはなめらか。ミネラル感が強く、硬度の高いミネラルウォーターを飲んだようなやや固い舌触りを感じたものの、全体的には優しく、先に飲んだ白のモンラッシェよりもむしろソフトな印象でした。
そして「ラ・ターシュ2001年」(Bouteille No.10285)、色合いは殆ど変わらず、風味も先のリシュブールにかなり近いのですが、こちらはバラというよりはスミレの香り。ラズベリーの香りも重なり、より華やかで繊細に感じられました。意外に酸も感じられ、あの独特の、イチゴを頬張ったような味わいが印象的でした。
泣く子も黙るかの「ロマネ・コンティ2001年」(Bouteille No.03679)も、今回はメインではなく前座を務めることに。ストロベリーに代表される果実香に若干のベジタブルの風味が加わり、醤油やバルサミコを思わせる発酵のニュアンスも感じられ、全体としてはやはり「丸い」印象……というか刺激はむしろ少なく、まだ「複雑味」までには至らないものの、多くの要素がありながらある意味3つのDRCの赤の中では一番「自然」に感じました。
3つをもう一度飲み直してみると、まさに正統派中の正統派ということで、かなり印象は似通っているものの、ムスク香とバラ香を強く感じるのが「リシュブール」、スミレの香りに樽のニュアンスの「ラ・ターシュ」、香りは控えめなのに曰く言い難い物を感じるのが「ロマネ・コンティ」という風に若干の違いを感じました。「リシュブール」がテノールなら、「ロマネ・コンティ」はソプラノでは……と一人納得していた次第ですが、ソムリエの方曰く「ロマネ・コンティは、いつも一番軽いが一番上、突き抜けている」とのこと。「五大シャトーのラフィットが、一番軽いのに一番上とされているのと同じ」とも。音楽の世界では、旋律の美しさは必ずしも音の強弱でもたらされるものではなく、音程が高いことが逆に安らぎを与えてくれるように、ワインの世界でも、味の強さが必ずしも味わいの価値を決定するわけではない……そんなことを考えさせられました。
そしていよいよ「ヴォーヌ・ロマネ・クロ・パラントゥ」の世界へ。「リシュブール」の上方に位置する一級畑ですが、優れたテロワールでありながら長らく放置され、アンリ・ジャイエ自身が買い取って1から開墾し直した畑です。
「エマニエル・ルジェ・クロ・パラントゥ1996年」……実は「クロ・バラントゥ」は初体験というわけではなく、ジャイエを引き継いだルジェの「クロ・パラントゥ97年」を2005年に自宅で飲んでいるのですが、当時のメモを読み返した限りでは、「意外と控えめな花香、酸味穏やか、まろやかで飲みやすい」と至って無難なコメント。正直なところそれほどインパクトがあった訳ではありませんでした。さて、1年違いの96年、ヴィンテージ的な評価はそれほど変わらない筈ですが……。
実際のところ、その厚みのある芳香に初めから圧倒されました。果たして熟成期間の長さの違いか、自宅での扱いが今ひとつだったのか、移ろいやすい記憶に頼らなければならない分確証は持てないのですが、今回口にした96年物は実際のところかなり「パワフル」でした。正直なところ、これは意外。同じルジェの手による物なので、もっと大人しい仕上がりを予想していたのですが、鼻に向かってぐわっと立ち上ってくる香りには、どこか新世界的なニュアンスもあって、おおらかささえ感じられます。ある意味非常にオーソドックスなピノ・ノワールなのですが、重くはないのに力強さがある……そんなワインでした。
次に「アンリ・ジャイエ・クロ・パラントゥ1992年」。ヴィンテージについては赤よりも白の方が評価が高いようですが、このクラスの物となるとヴィンテージ評価などあまり気にならないのが正直なところ。ルビー色の液色のエッジには若干のオレンジ色が加わって、熟成を感じさせます。香りは……ルジェの96年に非常に似ていて、これもやはり意外でした。香りは強く、DRCのより新しいヴィンテージよりもインパクトあり。強いて言えば、ルジェの96年物より酸が強く、口の中でより広がる感じがしました。
そして、「アンリ・ジャイエ・クロ・パラントゥ1978年」! 先の「ブルゴーニュワイン100年のヴィンテージ」では、「間違いなく20世紀最高のヴィンテージのひとつ」と記されていますが、これはやはりこの年リリースされたこのワインを念頭に置いたものと思われます。比較的寒かったにも関わらず、秋に好天となり、収穫は10月上旬、収量は少なく、その分酸とタンニンのバランスも申し分ない仕上がりになったとか。さて、そのお味は……。
正直、素晴らしい!
パンのような香ばしさがあり、モンラッシェのパワーとロマネ・コンティのフィネスを兼ね備えた……という表現が果たして合っているかはともかく、正直1992年物よりもずっと素晴らしい! というかそもそもタイプが違うように思われました。熟成の違いでしょうか。クッキーのような甘い香りに、ムスクのニュアンス、ブランデーのような香気が印象的。タンニンもボディも中庸なのに、ひたすら余韻が長い。醤油のような発酵由来の香りや、紅茶のようなニュアンスも感じられ、とにかく複雑。ルジェの1996年がジューシーで充実しているとすれば、ジャイエの1992年はさらに味が強く、1978年はさらにこなれていて、なおかつピノ・ノワールの全ての香りの要素が含まれているような印象でした。ある意味とても贅沢。「ロマネ・コンティ」が余分な要素をそぎ落とした「引き算」のワインとすれば、「モンラッシェ」も、そしてこのジャイエも「足し算」のワインなのかも知れません。
収量制限と低温浸漬、自然酵母という比較的伝統的な製法を徹底することでブルゴーニュ・ワインのスタンダードを作り出し、甥のエマニエル・ルジェをはじめとして、メオ・カミュゼ、ミシェル・グロ、シャロルパン・パリゾ、フーリエらを育て、今やネットでは1本数十万円が当たり前でしかも常に品切れとなっているアンリ・ジャイエ。同じくジャッキー・リゴー著「アンリ・ジャイエのワイン造り」(白水社)には、彼のインタビューが載せられています。
「自分の好きなワインを造ることだ。顧客のことをあまり気にしないことも大切だろう」
合わせる食事というのも、このクラスのワインでは難しいもの。むしろ無理して合わせる必要もないのかも知れませんが、とりあえず一通りの試飲を終えた後で、残りのワインと合わせるために注文したのが「大根のポートワイン煮込み」と「イノシシのワイン煮」。大根はポートがしみこみ多少の酸味も感じられ、上にかかっているベシャメルソースには若干のグラン・マルニエが加えられていて、優しいオレンジの香りがワインと合います。イノシシのワイン煮は、ドングリを食べた幼獣ということもあってやはり相性は良いのですが、少々脂身が多かったかなという印象。最後に締めくくりとして貴腐ワイン「シャトー・フィロー2001年」をグラスで頂きました。2001年はしっかりと貴腐がついた年。10年近い熟成を経た後もしっかりと若々しさがあり、ハチミツや樹脂の香りに加えてどこか磯の風味が感じられました。
「人はなぜか上を向くだけで元気になれる」と言い切ってしまえば、単なるCMの台詞になってしまいますが……。たとえば……何もかもが空しく、自分を含めた何もかもが無意味で無価値に感じられるような時、仰ぎ見るような壮麗さ、気の遠くなるような無限、そういったものに思いを巡らせたくなる時があります。太古の昔から、人は神に祈り、星に願いをかけてきた訳ですが、信じられる神もなく、肉眼で星を見るのも難しい今の時代であっても、何かをつきつめ抜きん出た存在に対しては、敬意を払うことで世界の広がりに触れたいと思うのです。いかに稀少な物とはいえ、単なる飲み物が1本何百万円もするのは無茶だと以前は思った物ですが、今では……まあそう買うことはできないにしても、簡単には手の届かない存在があることが、文化というものの1つの側面なのだと、納得するようになった次第です。