9月


【舞台】じんのひろあき「デビルマン〜不動を待ちながら」

 8月のコミック・マーケットで配られたチラシの中にこの舞台の紹介が混じっていて、気になっていたのだ。そのチラシは前面 一杯にヒロインの美樹が後ろから刺された瞬間の原作の絵を使用していて、全く説明なし、裏面 に色々と舞台の案内があるというなかなか印象的な物だった。結局開演の1週間前になってネットで申込をしたら、まだチケットがあったのでいそいそと観に行ったのである。全席座席指定4,000円にしては、会場はほぼ満員で、随分人気があるのだなあと感心した。
 「デビルマン」(72年)はおそらく永井豪の作品群の中でも、いや70年代の日本の漫画の中でもかなり特異な位 置を占める傑作。神と悪魔というかなり宗教的な色彩を帯びたテーマを唐突に投げ掛けながら、最後は人間否定と人類絶滅へと突っ走るこの作品は、一度目を通 したら忘れられない衝撃を読者に与えるだろう。ヒロインが切り刻まれその首が槍の先にかかげられるなどという作品がそれ以前に少年誌にあったとは思えないし、しかも当時一番のメジャー誌だった少年マガジンに連載されていたのだから今考えても何だか不思議な気がするのだ。既に「火の鳥」等で人類絶滅を描いていた手塚治虫も、ここまで残酷で徹底した人間否定を描いてはいない。見開き一面 を使った「地獄に落ちろ、人間ども!」のセリフの場面には、単なる否定を通 り越した憎悪さえ感じる。それはアウシュヴィツや魔女裁判等の歴史の暗黒面の実録物を読む時に感じる、あのやるせない純粋な怒りの感情に似ていて、自分にとっては特に中学・高校の多感な時期に慣れ親しんでいたものだった。結局この作品の激しいトーンを引き継いだ作品はそれ以降現れなかったし、永井豪自身も思想的にそれに続く作品を創り出すことはできなかったように思う。近年では例えば「寄生獣」あたりが同様のテーマを扱っているが、カタストロフィをもたらすことなく物語は収束してしまう。「幽遊白書」も同様だろう。安易な解決を避けようと意図するあまり、無難にまとめたような印象が残るのは否めない。連載の終了や継続が作者の自由にならない昨今の漫画連載事情を考えれば、「デビルマン」はその作品の完結性においても非常に希有な存在だったといえよう。
 じんのひろあき氏の舞台は、原作の最終巻、デビルマンこと不動明が悪魔特捜帯本部を襲撃している間、牧村家の邸宅の中にヒロインの美樹達が立てこもってから、付近の住民達に襲われるまでの物語を描いている。ある意味、原作には描かれていない場面 であり、設定も悪魔と疑われた人間達が何人も牧村家に逃げ込んで来ているという点で原作とは異なっている。デビルマンへの変異を起こしつつある少女とそれを連れて逃げてきた高校教師、食糧確保のためにコンビニを襲い店員を殺してしまったテレクラの店長、夫が悪魔へと変身してしまった妊婦……そういった人々が牧村家に立てこもり、バリケードを作り、火炎瓶を用意しながら、もし付近の住民達が本気で襲ってきたらそれを殺せるのかと議論する。ついにその「襲撃」が始まる瞬間、全員が「生きるために殺す」ことを宣言し、舞台は「幕」となるのである。
 最初に手にしたチラシの絵のような、襲撃とその残酷な結末は舞台では一切描かれてはいない。舞台の登場人物達は殺すか殺さないかという選択を迫られるが、原作では牧村家にいるのは美樹とその弟タレちゃん、そして不動の手下の木刀政の三人だけであり、「殺されたくなかったら君も武器を取れ!」と政に言われた美樹は包丁と火炎瓶を手にする。そこに殺すことをためらうゆとりはない。バリケードを築く間もなく、襲撃は突然やって来るのだ。その後執拗に描かれる兵士でもテロリストでもない一般 人達の生身の殺し合いの場面を思うと、舞台に描かれる葛藤はある意味あまりに牧歌的に思えなくもない。導入部のどこか呑気な会話のやり取りも最初違和感を感じた。しかし平凡な毎日に明け暮れる我々一人ひとりにもそんな悲惨な運命がいつか降りかかるかも知れない、ということを少しずつ納得させていくことが脚本の意図だったのだろう。その意味では極めてメッセージ性の高い内容だったと思う。
 当日配られたパンフレットには、じんのひろあき氏の次のような挨拶文が載せられていた。「今、これを9月12日の2時に書いています。私は昨夜、各局が昨年のテロのあの時刻に追悼番組を組むと思っていました。しかし、それありませんでした。まず、そのことがショックでした。……ちゃんとした、というのは、ただ、だらだらと追悼式を流している番組のことです。(中略) 我々はフィクションから現実に近付こうとしてこの芝居を作り、日々繰り返してお客様の前で演じ続けています。テロも、それ以外も、なにかが違うと言うために。」
 中世の悪魔狩りから、昨年のワールド・トレードセンター崩壊まで、共通しているのは「咎なくて死す」の現象だ。殺されたのは殺される理由のない人間達だということだ。人は死を避けることはできないのだから、最初から敗北は明らかかも知れないが、そこに確かに「命をあえて奪う」という行為がある時、人は無関心ではいられない。そして殺戮は連鎖する。私の中ではまだ昨年の米国に対するテロと米国によるアフガン爆撃とがうまく結びついてはいない。しかし理由は明白だ。そこにあるのは純然たる「恐怖」の感情だ。
「ここは……地獄だ。悪魔からの恐怖から逃げるため……人間みんなが恐怖を与える側に回ろうとしている。被害者から加害者に……ここだけのことではない。人間全部が自分より弱い者を叩こうとしている。この地獄は続く! 人間のいる全ての世界で……全ての人間の命果 てるまで……」
 不動明は最後にそう悟る。この言葉は全ての歴史を通して、人間の存在全てに当てはまるだろう。我々皆がおそらくそこに真実を見ている。不動明はその人間の卑劣さを許さなかったが、それを許せる存在などありはしない。人間はその卑劣さをある意味正当化するために、神という架空の存在を祭り上げたのかも知れないが、架空の存在であるがゆえに、人間達の吐き気を催すような殺し合いの前に、今だに、いやこれからも永遠に……無言のままである。


【イベント】幕張メッセ「世界最大の恐竜博2002」

 「世界最大の恐竜博」は「世界最大の『恐竜博』」なのか、「『世界最大の恐竜』博」なのか……。なんかそんなことをサイコドクターのサイトで読んだと思うのですが、行ってみて思ったのはこれはその「両方」である、ということですね。恐竜の博覧会の規模という意味では、米国から中国に至るまで40体以上の全身骨格と展示しているという点で最大のものでしょうし、世界最大の恐竜という点では、今のところ最大の大きさを誇るセイスモサウルスの全身復元骨格を展示しているし。もっとも会場で「何だ実物じゃなく復元模型じゃないか」と言っていた人もいましたが、それは仕方ない。セイスモサウルスの骨格は一部しか発掘されていないのだから。しかし中には実物骨格を元に復元した物もあるので、やはり充分見どころはあると言えるでしょう。
 会場の入り口近くにはアロサウルス(実物骨格・95%の骨が残っている)やステゴサウルス(実物骨格は40%)、そしてディプロドクスやカマラサウルス(共に実物骨格) の全身骨格が展示されていて、さらに奥へと進むと、中国産の「シンラプトル」「モノロフォサウルス」「ベルサウルス」など初めて知る恐竜達の実物骨格が展示されていました。ううん、段々恐竜の種類もふえてきて、うちにある図鑑では間に合わなくなりつつあるなあ。会場中央部には、おお、目玉 となるセイスモサウルスの立体復元骨格(ただし実物骨格は殆どない)が! その他、ディプロドクスや中国産のガソサウルス(肉食)、ダトウサウルス(ディプロドクス類の祖先?)、シュノサウルス(尾の先が棍棒のようになっている)、マメンチサウルス(やたら首が長い)、クンミンゴサウルス(1954年に中国で発見されたが今だに公式論文がないのだそうな)、クラメリサウルスなどの実物大立体復元骨格がずらりと並べられていて、二階から眺めると実に壮観でありました。それにしても中国の恐竜については発見が新しい物も多くて結構自分の知らないものが多いです。思えば「中国の恐竜展」とか観に行ったのが1981年。プシッタコサウルスやチンタオ(!)サウルスとかが紹介されてましたっけ。当時と比べるとかなり恐竜を巡る状況は変わっていますね。パンフ見ながらこれを書いているのですが、とても覚えられそうにないや
 さらに進むと「白亜紀」のコーナーへ。アフリカ産のジョバリア(なんか他の竜脚類と違ってやたら格好言い名前だけど、タマシェク語の伝説の怪物「ジョバル」から来ているのだそうな)やスコミムス(ジュラシックバークIIIに出てきたスピノサウルスの仲間)などの全身骨格が。その奥には話題の羽毛恐竜の化石。1996年に中国で発見されたシノサウロプテリクス(中華竜鳥)を始めとして、カウディプテリクス(尾羽竜)、ミクロラプトル、シノルニトサウルス(中国鳥竜)などが目白押し。系統樹によれば、まずシノサウロプテリクスが分岐し、その片方にはティラノサウルスや前述の羽毛恐竜類、そしてアーケオプテリクス(始祖鳥)が、さらにその先に白亜紀の鳥類、コンフキュウソルニス(孔子鳥)やクスピロストリソルニス(尖嘴鳥)がいるという形になるらしい。シノサウロプテリクスはティラノサウルスよりも鳥類とは遠縁にあたるコンプソグナトゥス類に分類されるそうです。つまり羽毛恐竜シノサウロプテリクスのその先にティラノサウルスや始祖鳥、鳥類が存在するので、最大の肉食恐竜ティラノサウルスが鳥類同様温血だった可能性は高いように思われます。
 温血といってもなかなかその定義自体は難しいですね。活発に泳ぎ回るマグロなどはかなり高い体温を持っていて、捕獲したての時は血が暖かいと聞きますが、かといって恒温動物とは普通 言わないし。
 今回の恐竜博のパンフレットでは、恐竜温血説については否定的。大型の恐竜は慣性高温性、小型の羽毛恐竜は内温性であろうと書かれています。それについては最近の文献をあまりよく読んでいないのでシロウトとしてはあまり反論もできませんが、ティラノサウルスが鈍重な腐肉食だったとは思えないし。それほど都合よく死体が転がっていたわけではないでしょうし、現代でも腐肉しか食べない動物はあまりいません。逆に言えばハイエナを始めとして腐肉をあさる肉食動物は同時に狩りも行うものです。ライオンも狩を行うのはメスだけで、それも必ずしもハイエナほど上手ではなく、殆ど毎日寝て過ごすけれど、活発でないとはとても言えない。取っ組み合いに向いている体格ではないので、素早く相手の腹を顎で引き裂いて決着を付けたというのが一番それらしいですが、ある意味ライオン同様その体格でもって獲物を横取りもしていたのかも。ある意味ティラノサウルスは今の野生動物界のライオンみたいな存在だったのではないかしら。そこら辺はあの「ジュラシックパーク」にも書かれていましたが。トリケラトプスなどはかなりサイに近い体格で、体長は最大のもので9m、現代のアフリカゾウが体長7.5m、マンモスも9mあったといいますからこちらも温血動物と想定してもあまり無理はなさそう。このトリケラトプス類をもしティラノサウルスが食していたのであれば、とても相手が死ぬ のを待っていたとは思えないので、これを倒さねばならなかったはず。当然活発に動けなければ生きていけなかったろうなあと思うのです。
 一概に恐竜といっても皆が皆巨大だったわけではなく、大抵の物は現代の哺乳類であるゾウやサイと殆ど変わらない大きさで、それよりも小さいものも多かったようです。そもそもが体長40cmの大きさのラゴスクス類から進化した恐竜は、三畳紀に現れた哺乳類と共存しつつそれを押さえつけて繁栄したわけで、その段階で恒温動物である鳥類の持つ活発さを備えていたと考えるのが自然だと思うのです。
 不思議なのは今回展示されているセイスモサウルスを始めとする大型の竜脚類。20mを超える大きさを誇っていたのは恐竜においてもこの竜脚類に限られます。特にセイスモサウルスは体長35m、体重42tと現在のアフリカゾウの五倍近いスケール。パンフレットには「アフリカゾウは一日に約120kgの植物を食べる。もしセイスモサウルスが変温動物なら91kg、恒温動物なら477kgも食べなくてはならない計算になる」後者の場合単純に体重比で計算しているようなのでちょっと疑問だけれど、まあ確かにかなりの量 となります。問題となるのは頭の小ささ。展示されていたディプロドクス類の頭骨は、70センチ程度の長さで細い棒状の歯が顎の前端部に10〜15本並んでいるだけ。量 はともかく、殆ど一日中食べていなくてはならないのにえらく頭が小さく歯も貧弱なのだ。同じく草食のトリケラトプスががっちりとした頭骨を持っているのとは対照的であります。当然当時の肉食竜も草食竜も、あまり咀嚼せず食物を内臓へそのまま送り込んでいたと思われますが、それにしても「こんなんで大丈夫?」みたいな代物であるのは確か。食していた植物の違いはあるけれど、それにしてもやはり不思議ではあります。



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