9月


【展覧会】東京国際フォーラム「人体の不思議展」

 プラストミックという手法で固めた人体標本を多数展示した展覧会。なかなかにグロテスクな割には連日満員と聞いていたのですが、実際に行ってみると雨の中だというのに、親子連れやカップルが多くてびっくり
 標本は全て献体で、生前の本人の意志に基づいて提供されたもの……とことわり書きがされているものの、中には両手に内臓を持っていたり、手術器具をくっつけていたり、意味なく弓を引いていたりと面 白すぎるポーズを取っている標本も多くて、「死後どういうポーズを取らされているかまで皆ちゃんと確認したんだろうか」と思ってしまいます。医学の進歩のために献体する、というのはある意味かっこいいのですが、解剖された後変なポーズまで取らされるのはかなわん、と言う気も……。どっちにしろ私はやらないけど。貧相な身体だから人前に出るのはイヤ。
「一人でも多くの人が、人体の中に広がる美しくも巧妙な仕組みを理解し、自分自身の『からだ』そして『いのち』の大切さをもう一度見つめ直して頂くことができれば……」とパンフレットには書かれているのですが、果 たしてこれらの人体標本を見て、「美しい」「命って大切」と思うかというと、少々疑問であります。生々しさが和らいでいるプラストミック標本は、市販のプレスハムや肉のパテとかを思わせて、つまるところ「人のからだって一皮剥けばこの程度のものか」とあらためて納得してしまった次第でありまして……。たとえそれが「大切な生き物の命」であろうと、肉牛の解体業者や外科医や連続殺人者みたいにしょっちゅう切り刻んでいれば慣れてしまう類いのものなのだろうな。
 もともと日本語の「からだ」は「から(空=虚ろ)だ」という表現から来ている言葉で、「虚ろなものがそこに現前している」という意味を持っている。日本の「からだ」は、蝉の抜け殻のように虚ろなものであって、西洋の充実したマッス、ボリュームとしての肉体とは対極的である、と同じパンフレットの中で国学院大学の谷川教授が述べています。なるほど西洋では紀元前の昔からリアルな肉体を彫刻に残していたのに対し、日本では江戸時代の後半になるまで解剖という概念自体がなかったわけで、特に日本においては肉体ははかなく空しいもの、つまりは大したものではないという概念が結構定着しているのかも。今回のようにずらっと人体標本を並べて眺めていると、やはり人間の「からだ」はそれ以上のものでもそれ以下のものでもなく、進化の結果 、脳や神経や筋肉を使って複雑な動きを見せるにしても、所詮はタンパク質の塊にすぎず、その実態はハムみたいなもの。たとえそのからくりが複雑で理解しにくいものであっても、それはテレビやパソコンのからくりが複雑きわまりなく普通 の人には理解しにくいのと同じレベルの話。こちらの機械の方がより精巧にできているからと言って、そちらの方がより大切だ、とは思わないのと同じで、面 識のない人間の標本よりも、身近なペットの死の方がよほど哀しく衝撃的で、記憶に残るものです。何を大切に思うか、の判断は全て個々の人の心の中にあるので、逆に言えばそのスイッチが切り替われば、肉を食べても何とも思わないのと同じように人を殺しても何とも思わなくなる、ということなのでしょう。


【映画】チャン・イーモウ「英雄(HERO)」

 チャン・イーモウ監督は、ハートウォーミングな中国映画「あの子を探して」「初恋のきた道」で有名ですが、私が観たのは残念ながら初期の作品「紅いコーリャン」のみ。87年作品というからもう十五年近く前に観たことになるのですが、太平洋戦争での日本人の残虐行為を描いたかなり激しい「告発」映画、というふうに記憶しています。日本人に仲間を殺すよう命令された登場人物が、血だらけになりながら震えている……そんな場面 があったような……。
 その監督が秦の始皇帝暗殺を描くとなれば、血まみれシーンは必出……とそこまで考えていた訳ではないのですが、その意味では若干予想は外れたかな……。メジャー路線だから、ということなのかも知れませんが、流血シーンは殆どありません。ただひたすらカラフル。これはそれなりに演出効果 があって、テレビ番組での紹介では「登場人物の情感に合わせて衣装の色が変わる」と説明されていますが……確かに同じ人物の同じシーンでも、視点が変わると衣装の色も変わるようになっています。激情にかられた者は赤や黄、冷静さを失わない者は青や白……という風に、ある意味非常にシンプルなのですが、黒沢明の「羅生門」(あるいは芥川龍之介の「薮の中」か)よろしく同じ場面 が違う形で語り直される、という手法が絡んで逆にシュールな印象も与えています。
 始皇帝はその武力で春秋戦国の混乱を統一した、いわば織田信長のような独裁者的人物。なるほど続く漢の時代にその姿が故意に歪められた可能性はおおいにあるとしても、他者を力でねじ伏せてきた者が暴君として恐れ恨まれるのは当然のこと。映画では始皇帝を文武に長けた理想的な君主として描いているのですが、それにしてもそこまで好意的になる必要があるのかしら。私としては「紅いコーリャン」の、あの不条理に虐げられた人間達の、文字通 り血を流しながら涙するような激しさが欲しいところです。
 その意味では、無数に降り注ぐ鉄の矢も、湖水の上でのワイヤーアクションもどこか生々しさがなくキレイすぎるようですが、これもあえてそうしているのでしょうね。他者の血を流し続けて来たという名の知られた暗殺者が、土壇場で暗殺すべきかどうかを悩むというのはどこか観念的に過ぎるような気もします。非現実的なワイヤーアクションが、本来歴史物のリアリティを損なうはずのところ、逆に観念的なこの作品の後ろ盾となっているのです。


【小説】野尻抱介「太陽の簒奪者」

 今年のSF大会で発表された第34回星雲賞、日本の長編部門が野尻抱介の「太陽の簒奪者」で、海外の長編部門がソウヤーの「イリーガル・エイリアン」でした。後者の方は既に読んでいたので、前者の方も読まねばなるまい……と気になっていた作品です。
 奇しくもこの両作品は共に異星人とのファースト・コンタクトを描いています。「イリーガル・エイリアン」は、平和的なファースト・コンタクトの直後にエイリアンが殺人罪で訴えられるというかなりトリッキーな作品。文字通 りSFミステリーであり、ソウヤーの他の作品に比べるとシンプルな印象があります(そのせいか本国では氏の作品の中で唯一絶版だとか……)。それなりに異質な存在であるとはいえ、すぐに人間社会に溶け込んでしまう異星人の設定は、ある意味「スター・トレック」や「スター・ウオーズ」の異星人のようにどこかスペース・オペラ的。もちろん最終的には異星人と地球人との考え方の違いがオチに繋がるという工夫がなされてはいるのですが。
 一方、「太陽の簒奪者」の異星人は、そもそもコンタクト自体が困難という点でよりリアリティがあります。
 突如として太陽の周囲を取り囲み始めた巨大なリング……その建造者、「ビルダー」こと異星人の目的は不明だが、太陽からのエネルギーが不足することにより地球では億単位 の餓死者が出る……。平和的にコンタクトしようとする主人公と、あくまでそれを撃退しようとする軍部とが対立しつつ異星人を迎える形となるが、異星人には攻撃の意志も友好の意志もなく、ただ他者への無関心があるだけだった……。
 当初読み始めた時は、あまりにも描写が淡々としているので、主人公に共感しにくいなと感じていました。かなり抑制した控えめな表現で物語が進む……そのことに対して違和感があったのですが、終わりまで読んでみて、なるほどこのファースト・コンタクトを描くにはこのどこか冷静な視点が必要だったのだなと納得したのでした。しかもうまく話をまとめてあるだけではなく、非常に含蓄のある、きわめて感動的なラストシーンで締めくくられるのです。これは参りました。
 結果として、主人公の思い描いたようには話は進まない……このファースト・コンタクトが成功だったとは言えないかも知れない……それでもすがすがしい読後感があるのです。
 この作品に限って言えば、決してソウヤーにも負けていないぞ、と思いました。変な話、映画化されないかな……。宇宙人は敵か味方か、「未知との遭遇」か「インディペンデンス・デイ」かどちらかしか選べないようなメジャーSF映画群に対して、非常に理想的なアンチテーゼになるんじゃないかと思ったんですけれど。



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