★原っぱ 
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原っぱで、一日中遊んでいたでしょう。どうでした、あなたもきっとそうしていま
せんでしたか?

町に住んで、近所の子どもたちが原っぱっに居ることは、誰でも認めていて、
なぜか安心して自然に触れられる場所だったように思う。住んでいる家から近くに
あっても、そこには本物の広い空があって、暑い太陽もあれば、どしゃ降りの雨も
降る。そして本物の土もあって、ボウボウの草も繁れば、季節ごとの虫も生きてい
る。

ここは、季節を問わず居心地の良い所だったのだから。

原っぱの子どもたちは、この地球の縮図のような空間の中で多くのことを体験し
た。
雲と天候の移り変わりを感じていたし、朝露の降りた草の感触、カラカラに乾燥し
た土ぼこりに耐える草のこわばり、やわらかくしなやかな春の草、一面真っ白に覆
われた雪の下でじっと次の命の再生を待ち構える草など、草はそのときどきで、さ
まざまに表情を変えていった。

それらさまざまな草の表情について、触れた感触も含めて子どもの記憶の中に蓄
積されていったのだろう。考えてみるだけで、そのときの草の表情を色合いのみな
らず感触までも思い出され、体が反応してくるのはおもしろい。

そうかもしれない。きっと。
自然の中に身を置いていることは、ただそれだけで自然そのものの自然な姿を、自
分の体の中に写し込むことになっているのだろう。体験というけど、まさに体の中
にあるがままの自然の動き、感触が写し込まれていくように思えてならない。その
証拠に、五感と六感以降の感覚でとらえた自然との接触の体験は、生き物と接して
生きていくためのルールを誰から教わったわけでもなく、いとも自然に身について
いて、生き物とともに生きていくことを楽しむことができる力を与えてくれたのか
もしれない。

原っぱで出会った草も、虫も、空の雲も、みんな生き物だったのだから。 そう、
生き物の気持ちがわかると、やさしくなれるから。人も生き物の一つだったのだか
ら。

夕方家に戻ると、ズボンに原っぱでの遊びの勲章“ドロボウ草の種”がいっぱ
い。こんなにたくさんの生き物から好かれた証拠・・・だよね。きっと。