「準ひきこもり」という新概念とその実態についての若干の覚え書き | |||||
2006/05/14初版 2006/05/21,27修整 2006/05/29,07/16,10/29追記 new 2008/01/13追記 Agnus | |||||
ネット上の……私が巡回する範囲では……比較的多くの場所で話題になっています。富山国際大学の樋口康彦先生の論文: 「大学生における準ひきこもり行動に関する考察 ―キャンパスの孤立者について―」 http://www.tuins.ac.jp/jm/library/kiyou/2006kokusai-PDF/higuchi2.pdf これを読んで「あ、僕のことじゃないか」と、自分を名指しで説明されたように感じる方が結構いらっしゃるようですが、はい、ざっくり言って私もそのひとりです。 しかしこの論文の筆者の樋口先生の観察力はたいしたものです。この「準ひきこもり学生」の描写は、最近メジャーな用語になってきた「自閉症スペクトラム」や「高機能自閉症」の症状の現れ方の見事な例示になっているではありませんか。しかも、樋口先生が記す 10 人に1 人というほど高率ではないが20 人に1 人というほど低率でもないという準ひきこもり学生の割合は、文部科学省が2002年度末に公表した「今後の特別支援教育の在り方について(最終報告)」の第4章: http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/018/toushin/030301f.htm の第2節「LD、ADHD等の現状と対応」にて採用しているLD、ADHD児童の割合についての記述: 通常の学級に在籍する児童生徒の6%程度と考えられること、学習上で著しい困難を示すLDと、行動上で著しい困難を示すADHDや高機能自閉症とが重複している場合があること、にある値「6%」と奇しくもぴたりと一致しています。 ワザとこれらの言葉や概念を知らないフリをされているのでなければ、樋口先生は発達障害の基本的な知識なしに独自にその症状を識別しここまでまとめ上げたことになります。すばらしい。 しかし、大学の先生のすべてがこれほどの学生観察力に恵まれているわけではないでしょう。しかも、樋口先生が提案している対策には(後述しますが)かなりの問題があります。また、同じ症状に悩み、情報を必要としている学生は今まさにこの瞬間にもたくさんいるはずです。 そこで、この論文(というよりも論説ですか)に、もう一方の当事者である元「準ひきこもり」学生の立場から見える情報を付加しようと思います。できあがるものはおおよそ、「私の場合はこうだった」「それはこう解釈できる」「樋口先生はここで勘違いしている」「対策はこうすればよいのでは?」というコメントや提案の無秩序な集積になります。あしからずご了承ください。 さて、樋口先生の論説はご自身の実体験から切り出されたエピソード的な記述から始まります。まずはこれに、私の事例を付け加えてみましょう。 (これらの「準ひきこもり」学生は)健康で、大学の成績も優秀であるし、車の免許も持っている。学校と家を往復するだけで夜遊びもしない真面目な子に育った。健康かどうかは「健康」の定義次第でどうとも言えるのでどうでもよいとして、大学の成績は優秀?……と言えば、私はどちらかというとそうでした。えっへん。授業は真面目に出ていましたし、試験勉強はちゃんとやっていましたし。ただし、成績がよかったのは学部までです。 大学院に進んで「面白そうなことを手当たり次第に勉強しまくっていれば万事OK」という学生生活の大前提が崩れてからはガタ落ちでしたね。ある学問分野の現状を概観してその業界のその時点に於ける適切な問題を自分で見つけ出してその重要性を指導教官を含む周囲に説得して自力で取り組んで解決する、という、「こうすれば確実」という決まった単純な手順(以下これを「テンプレート」と呼びます)に落としこめない課題はどうにも私の手に負えなかったんです。 次に「夜遊びもしない真面目な子」と言われても、えーと、その〜〜、それじゃ伺いますが夜遊びの何が面白いんでしょう? 歓楽街に行くようなグループに少々がんばってついて行ってみたことはあります。でもお金はかかるし体も疲れるしディスコだか呑み屋だかの喧噪は目眩がするばかりですし交わされる会話はワケわからないし……あんなものに行きたがる人たちの感覚が理解できないことと、世の中には自分に理解できない場所があることを再度確認できたこと。そのくらいが、その時に得られた成果でした。 確かに、性格的に就職活動やその後に続く職場生活は苦手だろうとは思っていたが、このように全く就職活動をしないという方法で対処するとは思ってもみないことであった。就職活動は私には難しくありませんでした。学生はある時期にそういうことをするものだ、その手順はだいたいこのようなものだ、というわかりやすいテンプレートが周囲に存在していましたし、どんな状況ではどんな顔をしてどんな態度で何を話せばよい、という「勉強して覚えて練習しておけばある程度対応できる」先例の情報も豊富でしたからね。さらにバブル景気の盛りで採用する側も細かいことを気にするゆとりがなかった、というのもあるでしょう。きっと。 大学にはきちんと来ており、単位もしっかり取れているので適応していると思い込んでいたのであるが、大学という誰とも関わらずに過ごして行ける環境の中で、偽りの適応を示していただけのことで、ライフスタイルの本質はひきこもりと何ら変わりはない。なにをおっしゃりたいのかなんとなくわかるような気はするのですが、それでもやはり「偽りの適応」と言われると困ります。その対極にあるのであろう「真実の適応」がどんなものかを知らない私には「そうなのかなあ、そうかもしれないなあ」、と言うしかありません。 その通り、確かに、大学という環境には立派に適応できている、と私は感じていました。何しろ大学以前の学校環境とは正反対に、大学では「苦痛なくそこに居る」ことができるんですから。大学ではクラス活動だとか体育祭だとかいう意味不明な儀式に巻き込まれることはありませんでした。参加したくなければ参加しなければいいだけなのです。それに大学には「変わった奴」を寄ってたかって攻撃したがる理性が不自由な連中もいませんでした。それ以前は、特に中学まではそんな連中がむやみやたらといて閉口させられたものです。 つまり社会と本格的に関わるには、あまりにも未熟だったのである。私も、ひょっとすると自分のどこかに発達遅滞があるせいなのかもしれない、と思ったことがあります。そこで耳鼻科で検査までしてもらいました。授業の内容に関する会話は問題なくこなせるものの、授業と授業の間の時間に行われる学生同士の雑談や呑み会になると周囲の人のしゃべっていることがとたんに聞き取れなくなるんですから。単語のひとつひとつは拾えるんですが、その会話が全体として何を意味していてどんな情報が授受されているのかわからないことがしばしば。 そこで自分には聴覚系の障害があるのだろうと思って病院に行ったのですが……結局聴力には異常ありませんでした。検査結果は平均より若干上、でしたわよ。あはは。 問題点とはすなわち、圧倒的な社会経験の不足の中で、人と関わることが苦手であるという欠点が矯正されたわけではないことである。就職活動、職場生活を送るに必要な社会的スキル等のレディネスが全く形成されておらずいやいや。私自身を顧みるに、これは「問題」ではあっても「矯正できる欠点」でも「形成できるスキル」でもありません。そもそも周囲の人の会話や考えや人間関係の仕組みが見えていないのですから。態度を矯正して「社会的スキルを身につけた」ように見えても、それは偶然に過ぎません。状況がちょっとでも変われば馬脚はすぐに現れます。 例えるなら……脳の基質的な障害で先天的に目の見えない人に視力を与えることは可能でしょうか? いまの技術で。うまく訓練すれば、「限られた環境において目が見えているかのごとく振る舞う」ことはできるようになるでしょう。でもこれはものすごいエネルギーを要求しますし、環境が変わるともう使えません。新しい状況に合わせた新たなプログラミングが……「どこに何が置かれているはず」などのその場特有の環境情報の学習が……必要になります。 他の精神障害がその第一の原因とは考えにくい。これは違うと思います。私は自分のことを、立派なひとつの精神障害だと自覚しています。生得的に持っている「人間関係処理」ハードウェアで多くの人が無意識にこなしている課題に、ソフトウェアをブン回してそのハードをエミュレートしなければ対応できないという障害です。非常に疲れるんです、これは。体力に余裕のある内はごまかせたとしても、ちょっと負荷が大きくなるととたんに処理できなくなります。主観的には「もうどうでもよくなってしまう」んですね。 ただし、準ひきこもりの大学生の全てが社会に適応できな(ママ)ず、このコースを辿ると断言はできない。社会に出た後で、自分の世界と、社会一般との認識のずれに気づき、徐々に自分を変えて社会適応を果たす者も存在する。私自身の内省に基づいて解釈するならば、このように「自分を変えて社会適応を果たす」ことができるのは、さきほどの「ソフトでエミュレート」する体力を充分に持っているかあるいは障害の程度があまり高くなかった、という幸運な事例です。「準ひきこもり」の人々一般に当てはめてはいけません。 この論説の第4章から、筆者の樋口先生による「準ひきこもり学生」の分析が始まります。(1)性格、(2)知的(学習の)側面、(3)社会的側面から見た特徴が切り出されているので、それに合わせて項目毎に (1)性格私にとって、人生というのは「ルールのわからないゲームに一方的に放り込まれたようなもの」です。しかも「知らずにルールを破ってペナルティを課される」ことを繰り返すことによってしか、そのルールは見えてきません。何の報償もなしにペナルティの苦痛ばかりが続くと、いつしかもう何もかもどうでもよくなってきます。その境地(笑)が周囲からは「たくましさに欠ける」と見えるのだと思います。 私には、周囲の人が「踏み越えてしまう前にルールの存在に気がつく」という超能力を持っているように見えます。そして私にだけはそれが見えない。そんな私がもしも「たくましさ」というテンプレートだけマネできたとしたら……いいんですか? それって。 A社会経験の不足から、極めて自己中心的で視野の狭い考え方をする。これは違います。原因と結果が逆。自己中心的で視野の狭い考え方しかできないので、社会経験を積めないのです。ですから、たとえば社会に無理矢理放り込んでも、そこで見るべきものを見る能力がもともとないのですから傷を広げるばかり、ということになります。 B精神病ではない。現実との接点はある程度残っているし、善悪の区別はつくので犯罪を犯すようなこともない。むしろ他の学生よりも大人しくて真面目な部類に入る。これはピントのぼけた記述ですね。「現実」って誰にとっての現実でしょう。私は周囲の人と同じ現実を見ていると言い切る自信はありませんし、「善悪の区別」はつきません。「犯罪を犯さない」理由は刑法で禁止されているからに決まっています。自動車を運転する時には制限速度を越えることにものすごい抵抗を覚えます(で、私の自動車の後ろにはたいていダンゴができます)。「人を殺してなにが悪い?」と言われれば真剣に考え込んでしまいますし、凶悪犯罪の報道番組の中で街角インタビューに答える「普通の人」たちが憤慨している様子や、逮捕された容疑者が「反省の言葉」を口にしたかしないかに意味もなく(少なくとも私には無意味)こだわるニュース原稿が不思議でなりません。2005年春のJR西日本の大規模脱線事故のあとしばらくは、街角インタビューでも新聞記事でもみんながみんな申し合わせたようによく似た怒りを表明していたことの方にこそ恐怖しました。(←参考情報へのリンクを追加@2008/01/13) 他の学生より大人しくて真面目なのは、前述の見えないルールに抵触するのが怖いからです。別に「精神病ではない」からではありません。 こういう状態は、「精神病」と呼んでもいいんじゃないでしょうか? もちろん「精神病」とは何かをちゃんと決めた上で、ですよ。 C孤独に静かに大学生活を送っているケースが多いが、少し親しくなると甘えた非常識な言動、わがままの押し付けなど自己中心的言動を取ることがある。これまた、自分がご指名されてしまったような気がします。自意識過剰かもしれませんが。でも人との距離の取り方って、本当にものすごく難しいですよね。疲れているときには特に、「そんな迷惑をかける可能性があるなら最初からなにもしないで黙ってるほうがいいよ」という結論に短絡しがちになります。 (2)知的側面(学習)いえいえ、そんなバカな。「日本の大学生は授業をある程度はサボらねばならない」というテンプレートの存在くらいは私も知っていました。ですからちゃんとサボるための授業もいくつか選択しました。その授業の時間には図書館にこもったり早めに帰宅したりして「僕はちゃんと大学生らしくしているぞ」という自己認識の強化に使いました。このように、テンプレートさえあればなんとかなるんです、私は。 Aレポートや卒論を書くというのは基本的に自分一人の世界での作業であるため、比較的得意である。はーい! それ、私、私。 (3)社会的側面サークル活動には参加していました。音楽系です。「自分が音を出す」「他の人が出している音と自分の出す音がきれいに重なってもっと別のものが生まれる」。「しかもうまい音を出せるとそれを褒めてくれる人がいる」。これが楽しくて楽しくて。でも同じサークルに居た他の人(その中には私を褒めてくれた人もいるのですが)のことは、ひょっとすると「理解」はしていなかったかもしれません。少なくとも後出の「同世代の者との親密な交わり」にはなっていなかったので。たぶん。おそらく。 Aアルバイトに関しては、過去にやったことはあったとしても現在はしていないことが多い。(中略)アルバイトに精を出す大学生というと否定的に見られがちだが、準ひきこもりの大学生よりはましである。アルバイト? やりましたともさ。家庭教師をいくつか……人にものを教えるのは好きです。相手がどこで引っかかっているのか解きほぐし、結び目を見つけた瞬間の開放感がたまりません。でもひと仕事終えたあとで先方のご家族といっしょに食事やお茶、というのは少々辛かった。雑談って難しいんですよ。そういえばあれからウン十年、いまだに総労働時間で割った年収が家庭教師やってた当時の時給に及ばないんですけど…… B人間関係をうまく行うことが苦手である。例えば、質問をしたり会話を続ける努力が少ない。ある意味で、孤立するのは必然と言える。努力が少ないと言われても、努力にはエネルギーが要るわけでして、それにもかかわらず努力した結果としてかなりの確度でまたも「見えないルール」に抵触してペナルティくらうことを思えばやはり逃げたくもなります。 ところで、「準ひきこもり」の人がこの指摘のとおり努力することを、周囲の人は許してくれるものなのでしょうか。目の見えない人が手探りで人混みを走り回るようなものなんですが……そのような努力を許してもらえるのなら(=ボカスカ周囲の人にぶつかってもみなさんがいちいちペナルティを課さないのなら)、私はこの努力をすることにやぶさかではありません。 C友人が極めて少なく、いつも一人でいることが多い。他の学生から受け入れられず孤立しているという共通の境涯を絆にして同じ準ひきこもりの学生(キャンパスの孤立者)と一緒にいることがある。また、恋人はいない。その通りですね。友人と言える人はいませんでした。居候させてもらっている仲良しグループはありましたが、気が向いたときにこちらから顔を出すという程度。卒業して大学から離れれば接触はまったく必要なくなります。 恋人に関しては、ヘタな恋愛小説をテンプレートの一例だと勘違いして実行してしまわなかったのが、いまから振り返るときわめて幸運でした。やってしまっていても全然おかしくなかったんですよ。社会の暗黙のルールが見えない体質なので、小説などの形ではっきり見える「マニュアル」はとても頼もしく感じられるのですね。 ……性別にかかわらず、心当たりのある若い人は充分に注意するように!>心当たりのある人 いまは「ギャルゲー」などというもっとアブなげなものもあります。そんな雑音に惑わされて自力で恋人を作ることなんかは決して考えずに、自分の性質をよく理解している人に頼んで自分に合いそうな相手を紹介してもらう方が絶対安全です(私も、結果としてそうなりました)。 D優しくしてくれる誰かに、甘え、強く寄りかかろうとし、その結果厳しく拒絶されて傷つくことがある。これは経験ありませんね。優しくしてくれる誰か、が居なかったからか「強く寄りかかる」こと自体を怖がっていたせいだと思いますが。 これは長年にわたる実質的なひきこもり生活のため、人との距離を適切に取るということができないために起きる。ここでもまた、筆者の樋口先生は原因と結果を取り違えています。人との距離の取り方というルールが見えずに痛い目に遭いまくってきたのが原因。その結果として、実質的なひきこもり生活になるんですってば。 また学生からは相手にされないため、教師に対し辟易させるほどしつこく付きまとうことがある。これは私も少々心当たりがあります。しかし私は自分が「学生からは相手にされない」と感じたことはありません。その正反対。「何考えているかわからない危ない連中には近づかない。君子危うきに近寄らず」と、君子気取りでいました。周囲の人たちは概して本当に危なかったんですよ。ただ普通に言葉のやりとりを続けていただけなのに突然怒り出したり言葉を使わずに自分たちの間だけで通じる超能力「テレパシー」で会話したりする……これがいままで何度か書いた「ペナルティ」のよくある現れ方です……んですから。 教師に対するつきまといは何度かやりましたが、辟易させる前に手を引いていたと自分では思っていす。うまく行ってなかったかもしれませんが。 EはDとほぼ同じことなので略。 F若者らしい溌剌さ、元気の良さがなく、暗くよどんだ雰囲気を持つ。こうまで言われるとほっといてくれ、と言いたくなりますが(^^)。「若者らしい」ってなによ、という突っ込みも勘弁しておいてあげましょう。それでも、周囲のルールが見えていない人が溌剌としていたら迷惑はそのぶん大きくならないでしょうか。私は今もそうかもしれないと思います。時々。 Gは略。 5 .準ひきこもりの主な問題点これも樋口先生の勘違いのひとつです。他者と触れあう機能を欠くという障害は、触れあうことでは解決できません。「準ひきこもりの人は、他者とのどのような触れあい方なら実行できるのか」を探ること。これ以外の糸口はありません。 A(前略)社会性の健全な発達のためには同世代の者との親密な交わりが不可欠である。しかし、準ひきこもりは、人付き合いをつらいこと苦しいこと、と捉えてしまっており、なるべく避けようとする。(後略)同感です。ただここで確認しておきたいのは、「同世代の者との親密な交わり」は「社会性の健全な発達」の必要条件かもしれませんが十分条件ではないということです。それだけに注力しても、望む結果は得られないでしょう。 私も「同世代の者との親密な交わり」にはあこがれます。でもそれが主観的にどんなものなのかは知りません。「みんながあれほど楽しそうにしているのだからなにやら気持ちよいものなのに違いない」という、見知らぬ物への憧憬です。 B他の問題を併発しやすい。潔癖症など神経症的傾向を持っていることがある。これは正しいと思います。私も神経内科の医師と中枢神経に作用するいろいろな薬のお世話になりました。なにしろ人との接触そのものが強度のストレスになるんですから、あちこちいろいろと故障気味になるのはごく自然なことでしょう。 6 .準ひきこもり学生の家庭の特徴この章の存在から、筆者の樋口先生が家庭環境などの分析から対策のヒントが引き出せると考えていることがわかります。しかしそれは大きな誤りです。「準ひきこもり」の救済にはまったく役に立ちません。なぜなら、私の感じるところによれば、準ひきこもりは前述のように脳のハードウェアレベルの障害を原因とする症状なのですから。 今後の課題これは極めてトンチンカンで危険な対処法です。この論説から樋口先生がとても真面目に、真剣に「準ひきこもり問題」に対応しようとしていることがわかるだけにいっそう、この部分に危機感を覚えます。「仲間づきあい」や「チームワーク」で散々痛い目にあってきた人にこの処方は有効どころか有害なのです。飛び込んできた「準ひきこもり」の人の面倒まで見なければならなくなることによって本来の仕事に割くはずだったエネルギーの一部を無駄にするボランティア活動団体の立場を考えればなおさらです。 対策の第一歩は、該当する学生各々が自分と同様の「症例」の存在とそのバリエーションを知り、自分のできることとできないことを自らの分析によって明確にすることです。そこを押さえれば、もともと知恵のない人ではないのですから人間の社会の中で自分が占めることができる場所を探すことくらい、自分で始められます。始められたものの結局それが見つけられなかった場合に初めて、周囲からも手をさしのべる意味が生まれます。樋口先生の提案する上記の対策は……またたとえ話で恐縮ですが……地雷原でマラソンさせることによって目の見えない人に透視能力を身につけさせようとするようなものです。それでは神経症にならない方がどうかしています。 将来、社会に適応するために、また人間としての尊厳を守り現実感を維持するためには大学生のうちに人と交わっておくことが大切である。「大学生のうちに人と交わっておくことが大切である」は認めます。しかし「準ひきこもり」になる人は、それを実行したからと言って社会に適応できるようになるわけではありません。なぜ人と交われないのか、どんな交わりなら可能なのか、それを見極めた上でなければどんな対処もめくら撃ちにしかなりません。 社会に適応するための力を身に付けることが不可欠であり、それをしない限り、根本的な解決には到らない。その通りです。 ところで、「社会に適応するための力」を身につけることが結局できなかった人はどうすればよいのでしょう。いっそ安楽死用の薬剤でも与えますか? 私はそれもいいのではないかと思いますよ。 「この世界では引きこもることすら(物理的、経済的に)許されない」ならば、「生きていくこと=人付き合いすること」になってしまいます。「準ひきこもり」の人にとっては「人付き合い=苦痛」です。従って結局「生きていくこと=苦痛」となってしまうわけです……もしも「社会に適応するための力を身につけられない」ことすら許されないのならば。 私たちがもしもそんな社会しか作れないのなら、そこに居られない人には安楽に退場していただくというのも、ひとつの立派な、「人間的」な解決策だと思います。まじめな話。 以上です。 |