写真1:藤堂邸庭園にて。「勤務中」のめぐみとはじめて面会。

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【タイトル  】: 庭石
【初  出  】: 2000年04月(写真1〜写真6)
        2006年04月02日 写真1リメイク。2〜6公開終了
【ファイル名】: ginb315.jpg & ginb118.htm
【使用ハード】: DOS/V(Celeron2.4GHz+1.5GB-RAM) + LiDE30 + UD608R
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 この「庭石」は、2000年4月の公開以来「銀茄子園」の中でも最も反響
の多いコンテンツのひとつでした。
 しかし、6年も経つ内にだんだん自分では気に入らない点がでてきました。
そこで思い切って「写真」をリメイクすることにしました。まず「写真1」か
ら。写真2以降も再製作を心がけますが、なにぶん絵の製作というものは「絵
の神様の御降臨」次第なのでお約束はできません。

 主観的には、今回のリメイクに於ける最大の変更点は「金具」をより現実的
に、スイングスルー式のものにしたところにあります。どうやらClejuso社製の
「No.15」を改造して使っているようです。これなら着脱容易でお肌にも優しい
ので。

 以下の文章はほぼ初公開時のままです。「おはなし」内に直したい点がいく
つかあることはあるのですが、下手に手をつけると全面書き換えになってしま
うので手を出せません(^^)。フォーマットは大きく変更しました。

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 毒々しい緑色の人工芝と原色の造花で塗り固められた仮想世界に異形の肥満
ヒューマノイドたちが跋扈跳梁するイギリス製乳幼児洗脳TV番組。その名は
「テレタビーズ」。

 あまりのムズ痒さに脳をかきむしりたくなるあの悪夢の世界が、好きになる
わけがないのに脳裏から離れません。いわゆる「痛痒い」状態です。その得体
の知れない不快感自体がクセになり、やがては倒錯した快感に変容していくと
いう・・・・・

 その変容の過程でこんなものが分泌されてきました。

 〜〜〜〜〜おはなし(抄録)〜〜〜〜〜〜〜
「めぐみちゃん、藤堂さんのお屋敷でアルバイトしてるって、本当?」

 こう尋ねたのは、私もめぐみもまだ小学校4年生だったときだと思う。アル バイト、なんて言葉も私は知らなかったはずだ。たぶん母から聞かされたのだ ろう。母ひとり子ひとり、さりとてとくに資産家でもない三浦めぐみがいつも 小ぎれいな格好をしているのを、詮索好きな私の母が一度「三浦さんのお宅、 悪い商売でもやってるんじゃないかしら。生活保護だけであんなにお金に不自 由しないわけがないもの」と陰で揶揄するのを見た記憶がある。

 この無邪気な質問に、あのときのめぐみは同じように無心に答えてくれた。

「アルバイト? お仕事ならしてるけど。お母さんに言われて行ってるの。お
 金ももらえるんだよ」
「それをアルバイトって言うのよ。働いてお金をもらうんだって。お母さんが
 言ってた」
「ふーん。そうなんだ」
「でもめぐみちゃん、すごいんだねぇ。リョウコは働かなくてもお父さんがお
 給料を持ってきてくれるんだよ。めぐみちゃんはどんなお仕事してるの? 
 お皿洗いとか、お掃除とか?」

 この時めぐみは奇妙な顔をした。私が思いついた、家のお手伝いの延長のよ うな「お仕事」の例が理解できずに困っているようだった。

「う〜〜〜ん。よくわからないけど、『にわいし』っていうんだって」
「にわいし? って、あの、広いお庭に置く飾りの石みたいなやつ?」
「うん。そう。にわいしのお仕事。学校の帰りにね、広いお庭でやるのよ」
「へぇ〜〜〜。そうなんだ。おもしろそうだねえ」
「おもしろい? ・・・のかなぁ〜。うん。そうかもね」

 その時にはこれでわかったようなフリをしていたが、本当はぜんぜんわかっ ていなかった。わからなかったことが恥ずかしかっただけではない。子供なり の見栄もあった。自分の家がマンションの一室で本物の庭なんかがないことを 暴露するような下手な質問はしないほうがよいような気がしたのだ。

 遅くとも小学校に入ったときにはめぐみはそのアルバイト(?)をしていた ようだ。学校が引けるとまっさきに飛んで帰ってしまう彼女には友達らしい友 達もなく、成績も可もなく不可もなく、運動神経が際だって鈍いことを除けば これ以上にないというくらい目立たない子だった。冒頭のような失礼な会話を 私がしかけたこと自体、いまから思うとかなり不思議である。おそらく母がけ しかけたのだろう。
 しかし動機がいかに不純であれ、これは三浦めぐみがクラスの面々になじむ 小さなきっかけにはなった。子供たちの放課後の社交界に彼女の姿が無いこと はそのままだったが、それは彼女ばかりではない。オトナの事情で子供たちの 生活の枝葉が細かい制限を受けるのは、批判精神の育つ直前の子供たちにはご く当然のことだ。とにかく、4年生の終わりころには、少なくとも学校にいる あいだは、彼女はほかの女の子たちとなんの変わりもない、箸が転んでも笑う ような普通の小学生になっていた。

   *     *     *

 ひとつの転機が、私たちが6年生になってしばらく経ったころに訪れた。初 夏の日差しが心地よいその日も、塾もお稽古ごとも(三浦めぐみのような)仕 事もない「自然児家庭」の数人がいつものように放課後の校庭でたむろしてい た。女の子は私ひとりだった。男の子の一人がふと思いついたように言った。

「よう、三浦って藤堂さんの屋敷で働いてるんだってな。ちょっと見に行って
 みようぜ」
「でも〜〜〜。どうせ入れないわよ」
「あ、僕知ってる。あの家、裏の塀の隙間から入れるんだよ。一年生のころよ
 く通り抜けたもん」
「怒られない?」
「見つからなきゃいいんだよ。俺も何回も通り抜けたけど、広すぎて子供が入
 っても誰も気づきやしないんだ、あの家は」

 あとは是も非もなかった。子供は仲間外れになるのを恐れる。男女わけへだ てなくつきあえる私のような女の子も例外ではない。ちょっと不安を感じなが らも、心のほとんどをワクワクさせながら陰謀の行列に加わった。

 「藤堂さん」というのは、いわゆる地元の名士である。先々代は国会議員か なにかをやっていたらしいが、別にそのせいでいま金持ちになっているわけで はない。先代が早くに亡くなったためにいまの主人はまだ20代という。特に 仕事をするでもなく無為徒食のまま不動産収入でノホホンと暮らしているらし いが、その姿を見た人はほとんどいない。
 国道に面した屋敷の表側を区切るのは子供がくぐり抜けることもできないほ ど固く枝の絡まった厚い生け垣だった。路地に面した裏側は、これまた人間不 信のかたまりのような、子供にはビルの壁のような高さに見える白土塀である。 男の子のひとりがみんなを引き連れて向かったのはその両者の接するところ・ ・・・生け垣が土塀に引き継がれるあたりだった。これがじつに笑える、間抜 けな構造になっていた。
 遠目には生け垣と土塀は隙間無く、ネコも入れないほどきっちりとつながっ ているように見える。しかしそばによると、生け垣と土塀は二枚のふすまのよ うに互いに重なり合っていて、その間に子供一人が通れるほどの細い隙間があ るのだ。オトナだって無理すれば通れるだろう。私たちは10メートルほどの 長さのその隙間を、背中とおなかを擦りながらカニのように通り抜けた。

 はじめて目にした藤堂家の屋敷の庭園は私の度肝を抜くものだった。ドラえ モンの「どこでもドア」かなにかがあの通路に仕込まれていて、知らないうち にどこか遠くの、イギリスか北欧あたりの田舎に飛ばされてしまったかと思っ た。ここが市街地の一角であることを思い出させるものは風景の中になにひと つない。見渡す限り、地平線まで続く緑の芝生の丘と点在する林。丘と丘の重 なるわずかな隙間に、母屋らしい洋風の建物の一部が見えている。それでも数 呼吸する間に理解した。非常に巧みに配置された築山群が、こういうまるで果 てがないかのような錯覚を引き起こすのだ。

「おい! 三浦はどこにいるんだよ。建物のほうかな」

 男の子のひとりの声が私を現実に引き戻した。

「あ、そういえば・・・・お庭で仕事をしてる、って言ってたわよ。庭石がど
 うしたとか」
「庭石磨きでもしてんのかな」
「庭ったってこんなに広いんだぜ。どうやって探すんだよ。こんなだだっ広い
 ところでヘタに動き回ってたらこっちがみつかっちまう」
「これは錯覚だって。本当は三千坪くらいしかないはずだよ」
「三千坪って・・・・どのくらいだよ」
「だから千坪の三倍」

 私たちは土塀の内側に沿って移動をはじめた。だが、探検はそれほど長くは 続かなかった。おそらくこういう場面では日本のどこでもおきまりだろうセリ フが私たちを襲ったからだ。頭上(から響くように聞こえた)からあびせかけ られた大音響のがなり声に私たちはいっせいに飛び上がった。

「くぉらぁ〜〜〜! ガキどもぉ〜〜。どっっっから入ってきやがったぁ!」

 声の主は土で汚れた作業服を着たごま塩頭のおじさんだった。巨大(に見え た)なスコップを片手で振り回しながら、築山のひとつをものすごい勢いで駆 け下りてくる。

「やべぇ! 逃げろ!」
「ふふん。今日のところはここまでにしておいてやるぜ」

 男の子たちはどこかで聞いたようなセリフを吐くとくるりと身を翻してもと 来た道を逆走しはじめた。一瞬遅れて私も続いた。男の子たちのような気の利 いたセリフを思いつくゆとりはなかった。この日に限って着ていた膝まである スカートが脚にからまって走りにくい。男の子たちとの差は開くばかりだった。  そしてついに、恐れていた事態が現実のものとなった。大きな手が私の肩を がっちりとつかんだのだ。自分でも思ってもみなかったことだが、悲鳴を漏ら してしまった。ずっと先の方にいる男の子のひとりが振り返ったが、そのまま 走り去った。

「いまさら逃げるでねぇ。まったく、どこのガキんちょだ。こっち来! いま
 おまわりさんと親御さん呼んでみっしり叱ってもらってやっからよぉ」

   *     *     *

 結局、その日は私は両親にチクられること無しに済んだ。ちょうど在宅中だ った藤堂の若主人が、私の悲鳴をききつけたか、あるいはどこかからこの騒ぎ を見ていたらしい。私の学校名と「仕事中の三浦めぐみとの面会」という目的 を庭番を通して知った彼が、私に小さな取引を持ちかけてきたのだ。両親や、 悪ければ警察や学校に知られるよりはずっとマシな取引だった。

 まず最初に私は仕事中の三浦めぐみに引き合わされた。広大な庭のほぼ真ん 中にポツンと座っていた彼女は、藤堂に連れられてやってきた私の姿を認める とかなりとまどった様子だった。最初はおどろきの表情がその顔をかすめたが、 すぐに怯えがそれにとってかわり、いまにも泣きそうになって視線を私から藤 堂に移した。芝生に目立たないように埋められた石にめぐみの左足が短い鎖で 繋がれているのに、私はその時になって気づいた。藤堂が説明した。・・・・ めぐみはいま「庭石」だから口をきくことはできないんだ。

 母屋の応接間で藤堂が説明した。大きな窓から庭のかなりの部分が見渡せる が、やはりその果ては感じ取れなかった。初夏の日差しに満たされた広大な風 景の中ほどに、学校の制服姿のめぐみがちょこんと座って本を読んでいる。な るほどこれはなかなかかわいいものだ・・・・と私も思った。

 そのめぐみと藤堂の関係を私が飲み込むにはしばらくの時間が必要だった。 しかしいちど理解してしまえば小学校6年生にも充分に単純な話だった。めぐ みは「庭石」になっていたのだ。先々代から続く藤堂家の習慣なのだという。 天候や気温に関係なく、屋敷からよく見える場所で、放課後から日没まで「た だそこに居て庭の風景の一部になりきる」のがめぐみの仕事だったのだ。場所 は日によって変わる。時間帯も、平日は放課後だけだが休みの日には朝から晩 まで、夏休みや春休みには何日も昼夜連続になるのだという。そんな日には食 事もお風呂も睡眠も、ぜんぶその場所でさせるとのことだが具体的にどうやる のかは尋ねなかった。聞くのがこわくなってきたからだ。

 さて、両親にも学校にもばらさないでもらう代わりに、私は三浦めぐみの仕 事を手伝うことになった。手伝う、といってもやることはめぐみとまったく同 じである。休日は親に知れてしまうので私の場合は平日だけだったが、放課後 はめぐみといっしょに私も藤堂の屋敷に行き、あの庭番の手で庭園の適当な一 角に鎖でつながれるのだ。めぐみといっしょのこともあれば、お互いに姿が見 えない所に別々にされることもある。場所に関係なく、とにかく日没までただ そこに居さえすればあとは宿題をやろうと笛の練習をしようと本を読もうと自 由である。これはボロイ儲けだ・・・・・藤堂は三浦母娘にかなりのお金を払 っているらしい・・・・・ったはずだが、私のほうはタダ働きだった。それが 両親や学校に知らせないことの代償だったのだからしかたがない。
 それにやってみるとこれはけっこう大変だった。雨の日は文字通り体の芯ま でまで濡れそぼり、冷え切ってしまう。風の日は細かい砂にまみれる。夏は日 陰と大量の水、冬は充分な防寒着を与えられ、危険のないようにあの庭番がつ ねに注意してくれてはいるものの、温暖とされる日本でも戸外の空間は「常に そこにいる」となればけっこう厳しいものであることをいやというほど思い知 らされた。
 そうそう。あの塀の隙間のことだが、私からあの日の進入経路を聞き出した 藤堂はそれをさっそく修繕してしまった。だからクラスの悪童グループが「ミ イラ取りがミイラになった」私の秘密を知る心配はもうなかった。

   *     *     *

(〜画像リメイク予定地〜)
写真2:小6の7月。私、リョウコもバイト中。これで時給5桁はもらえるん
    だからボロイものだ。もっともこの時点では無報酬ボランティアのつ
    もりだった。

   *     *     *

 もちろん、たった一回の住居侵入でこんなことをいつまでもやらされてはた まらない。藤堂と私の約束は、「とりあえず小学校を卒業するまでの、学校の ある日の放課後」だった。お互いにそれで納得したのだ。にもかかわらず卒業 式の日、最後のおつとめのあと藤堂がくれた私名義の預金通帳にはかなりの額 が記帳されていた。

「あれぇ。こんなのもらっちゃっていいの? 無給って約束だったし。あたし、
 別にいらないんだけどな。それなりにおもしろかったし」

 という私に、藤堂はにっこりと笑ってこたえた。・・・・頭のいい子は好き だよ。だから三浦めぐみがこれからもここにいることは忘れないでいてほしい んだな。

「要するに口止め料ってことね」

   *     *     *

 中学に入ってしばらく経ったころ、三浦めぐみのお母さんが亡くなった。天 涯孤独となっためぐみは当然のごとく藤堂の屋敷にひきとられ、そこから学校 に通うようになった。私たちは中学に入ってからも学校ではそれまでと同じよ うに普通のクラスメートとして(職場の元同僚としてでなく)つきあっていた し、彼女の住所が移ってからもそれにはぜんぜん変わりはなかった。
 私の方はといえば、あの法外な「口止め料」を両親からしっかり隠しておく だけの分別はあった。ときどきこっそりとおろしては小遣いを補填する程度に は使ったが、決して目立つことをしなかったのは当然である。

 ある日、ふとふたりっきりになった時にめぐみに聞いてみた。

「あの仕事、藤堂さんの庭でいまも続けてるの?」

 めぐみはにっこり笑って、さもあたりまえといいたそうに答えた。

「うん。放課後だけじゃなくて、学校から帰ってから朝登校するまでずっとに
 なっちゃったけどね。お小遣いももらってるんだけど、使うヒマもないのよ」
「ふーん。そりゃそうだ」

 それに続く私の言葉は、直前まで自分でも想像もしていなかったものだった。

「藤堂さんって、私もまた雇ってもらえるかな?」
「リョウコはご両親が養ってくれてるんじゃないの?」
「そうだけど。思い出してみるとあれもちょっと楽しかったかな、なんてね」
「ウソばっか。リョウコがこないだ藤堂さんにもらったお金の額、聞いたわよ。
 それに毎日毎晩となるとそれほど楽でもないんだけどな・・・・・いいわ。
 きょう若旦那に私から話してみるから」
「ありがと」

   *     *     *

(〜画像リメイク予定地〜)
写真3:中2の6月。はじめから雨が降っている日には始業前に水着を着さ
    せてもらえるが、「仕事」の途中から降り出しても着替えはできな
    い。
    ところで、髪が長いがこれはめぐみではない。めぐみは中学を卒業
    するころになってもまだ小学4年としてでも通用するような体格だ
    った。その理由を私はずっと後になってから知った。


(〜画像リメイク予定地〜)
写真4:時間が前後するが、これは中学1年の夏のスナップである。
    「庭石の上に庭石」状態だが、お尻が痛いのであまり我々(めぐみと
    私)は好まない。それ以上に、普段の「庭石」状態と違って両手も含
    めてほとんど体を動かせないのが問題である。多少の割り増しの手当
    はあるものの宿題の多い日の放課後にこれをやられるとたまらない。


(〜画像リメイク予定地〜)
写真5:期日は覚えていない。しかしこの地方でこれほどの量の雪の降る
    年はそう多くないので調べればわかるはずだ。
    「めぐみ・・・・・ミステリーサークルって知ってる?」
    「なにそれ? それよりリョウコもちゃんと頭を作ってよ」
    「ええ〜〜〜? 雪があったほうがあったかいのに」
    「このくらいでネをあげてたら、マイナス10度くらいの日にはリョウコ
     死んじゃうよ」
    「そんなに下がることないもん。だいたい、あたしが頭をつくったってど
     うやってそこまで持ってくのよ」
    「うーん。・・・・投げて!」
    「あんたねぇ・・・・」
    ・・・・というようなことを言った覚えがある。

(〜画像リメイク予定地〜)
写真6:「寝起きの顔は醜いわ、めぐみちゃん」
    「あなたもよ、リョウコちゃん」
    「・・・・・・」
    「・・・・・・クスっ!」
    「あはははは」
     というわけで、会話のモトネタは秘密だ。しかし、夕暮れ時に「寝
    起き」はないものである。たしかにこの日はできることと言えば寝る
    ことくらいだったが。

   *     *     *

 結局、私は中学を卒業するころまでには、いつ家を放り出されても大学を卒 業するまで自活できる程度の大金を親に内緒で隠し持つ身になっていた。こん な中学生はめったにいないだろう。めぐみの方も私以上の金持ちになっていた はずだ。ただし彼女はそれにぜんぜん頓着していなかった。土曜日曜日すら 「風景のなかの庭石」をやっている彼女には、衣食さえ足りていればあとはお 金など、あってもなくても本当にどうでもよいものになっていたのだろう。

 中学卒業以降、私はこのアルバイトをやっていない。

 こんどこそ最後という日、その日は私はめぐみといっしょの石につながれて いた。日没後、私の鎖だけをはずしにめずらしく自分で鍵を持って出てきた藤 堂が言った。

 ・・・・・めぐみは4月からずっと、一生ここで庭石をやってもらう約束に なってるんだけど、リョウコ君はどうする?

 丁重にお断りしたことは言うまでもない。

   *     *     *

 しかし私と藤堂の関係がそれで切れてしまったわけではなかった。数年にわ たる紆余曲折があったが、ここではそれは略させてもらい、結果だけを記す。

 めぐみには今も外界から築山で隔絶されたあの庭で石をやってもらっている。 あの時より少々老いたものの、庭番の男は職業上の充分な情熱をもって他の植 木や芝と同じようにめぐみの世話をしてくれている。

 中学卒業直後、藤堂は「据え付け場所」を最終的に決めて鎖の鍵穴を溶接し てしまう前にめぐみに不妊手術を受けさせた。卵管結紮などという甘いもので は藤堂もめぐみも満足せず、膣のみを残して子宮と卵巣のすべてが摘出された。 それ以前から、成長ホルモンの阻害剤は小学校5年生のころから投与されてい た。なんでも、少年と少女の入り交じったような思春期直前の体をそのまま維 持するためには卵巣の切除と日々のホルモンコントロールが不可欠なのだそう だ。また「風景」としてのより高い完成をめざすためとかという私にはよくわ からない理由で、めぐみの声帯の大半も切り取られた。ころがる鈴のようだっ ためぐみの声はもうない。代わりに、本当に風景の一部のような、間近で聞い てもそよぐ風のような無声のささやきが流れるばかりだ。
 これらの行為がかなりの犯罪性をもつらしいことを知ったのは私が藤堂のも とに来てからだ。しかしこれは、すでに何年も昔のこととはいえ充分に分別の ある当時16歳のめぐみが自分で選んだ道である。確認のために言っておくが、 あの時点ですら私の何十倍かのお金を持っていた彼女にはいくらでも他の選択 肢はあったのだ。

 それに、藤堂家の台所をあずかる嫁としてもうひとつ言わせてもらうならば ・・・・美的にあるいは造園技法的にどの程度優れているものなのかどうかは 私にはよくわからない。ただ、当家における重要なお客をおもてなしするため の道具として、これほどさまざまな用途に使えるものがめぐみをおいて他にな いこともまた確実なのである。

 〜〜〜〜〜おはなし(抄録)おわり〜〜〜〜〜〜〜

 ぐへぇ〜〜〜。たったこれだけ書くのに延べ5時間もかかっちまったぜぃ。
やっぱり文章創作の才能はないのかなぁ・・・・それに、むかし書いた短編小
説と等価な部分がかなりあるようなような気も・・・・

         Agnus(和訳形「銀茄子」)
         http://www2c.biglobe.ne.jp/~agnus/
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