*** 登録作家による小説競作 *** 2 共通の謎に挑戦 |
取り越し苦労
奥山うゐの
今し方、私は奇妙な光景を見た。場所は全国有数の床面積を誇るA書店の二階、文庫本売り場でのことであった。そこが私の職場であった。無闇に長いレジ台の端っこにいて、精算をしたり、案内をしたり、そこから抜け出て、本棚の合い間を回り、掃除をしたり、本を片付けたりするのが仕事であった。
で、最前・・・・・・客観的に言えば、平成十*年の四月七日の午後二時頃、私がレジ台から離れ、本棚の間を回り、ある本棚の通路に来たとき、その奇妙な光景を見たのであった。奇妙さの手始めはその人物の格好であった。季節柄、花粉避けのマスクは珍しくなかったが、濃いグラサンと目深のニット帽子は他より幾分に際立っていた。男らしいことは身体の服装で知れたが、顔はついに見えなかった。
私が見たとき、その不審な人物は尋常な行動をしていた。目当ての本を探すような動き。彼がうろうろとしている辺りは、世界名作の一角であった。I文庫の薄茶色の背表紙が見えた。まもなく、彼は目当ての本を見つけたように見えた。手を伸ばし、一冊を抜いて、本を開き、立ち読みに移るか、レジに向かうか・・・・・・が、私の予想は裏切られた。彼は抜いた本をじきに戻した。間違った本を抜いたようにも見えた。まもなく、彼は二冊目の本を抜いた。私が彼は背表紙を確認して、それを書棚に戻した。私は困っている客のところに参じようと思ったが、もう一つの可能性に思い至り、客の死角に退いた。あの風貌、不審な態度、万引き犯でなかろうか? 私がそう考えていると、彼は三冊目の本を抜いた。直後、またもや戻した。と、彼はことを成し遂げたように肯き、周囲を見渡してから、本棚の前から離れ、エスカレーターの方に早々と立ち去った。
これは奇妙な光景であった。彼は何をしていたのか? 単なる客には見えなかった。私はそう思い、彼がいた辺りに近付いた。と、不審な客が手にした本が即座に分かった。整然な背表紙の並びの中、三冊の本だけが直の紙の部分、開く側ををこちらに見せていた。私は首を捻った。不審な客がした痕跡は分かったが、目的が分からなかった。
私の興味を別にしても、三冊の逆向きの本をそのままに出来なかった。私はその一冊を抜き、表紙を眺めた。誰でも知っている名作、ウィリアム・シェイクスピア作の『ロミオとジュリエット』であった。私はそれを正しい格好に戻して、二冊目の逆さま本を抜いた。名作に違いなかった。アルクサンドル・デュマ・フィス作『椿姫』であった。私はそれを同様に直して、三冊目に着手した。名作は続いた。アべ・プレヴォ作『マノン・レスコー』であった。私は三冊目を本棚に戻した。本屋の店員の仕事は済んだが、個人的な疑問は頭の中でもやもやと漂っていた。これは本当に先の客の仕業であろうか? 彼は何をしたかったのか? ひっくり返った三冊の本は何を意味するのか? 私はしばらく考え込んだが、疑問は一向に明けなかった。
それだけで済んだら、単なる奇妙な体験で終わったろう。が、翌日、奇妙な光景は再度に現われた。昼前、店が混んでいたので、昼飯が随分と遅れた。二時頃、遅い昼休みを貰い、店内をぶらついていたら、奇妙な姿を再びに発見して、思わず驚いた。マスク、グラサン、ただし、帽子は普通のキャップであった。私は身を低くして、その後を追った。奇妙な格好の客は私の担当の売り場に正しく向かっていた。途中、その人物が格好こそ似ていても、昨日の客より一段と小柄なことに気付いた。性別さえが違うように見えた。私は勘違いかと思ったが、その客は昨日の客の要領に倣い、世界名作のところに向かった。私はその角まで近付き、棚の陰から覗いた。女性風の小柄な客はうろうろとして、昨日の客と同じ位置に至った。本棚を捜して、本を抜いた。手元で引っ繰り返して、本棚に戻した。とすると、逆向きなのはずぼらの仕業でなく、故意の仕業であったのか。私は殊更に熱心な視線を注いで、彼女の動向に注目した。彼女は二冊の本を逆さまにして、辺りを覗い、エスカレーターの方に消えた。私は陰から出て、彼女がいた辺りに行った。三つの本が開く方をこちらに向けていた。私はそれを次々と抜いた。『ロミオとジュリエット』『椿姫』『マノン・レスコー』、昨日に等しい三冊であった。
二度あることは三度ある。しかも、奇妙な客――奇妙な客たちは勤勉であった。午後二時頃、私が一種の期待を持ちながら歩いていたら、またしても、奇妙な客の姿があった。しかも、昨日の客とはまた違っていたが、初日の客でもなかった。女のようであり、長い後ろ髪が帽子の陰から垂れていた。昨日の彼女はそうでなかったのに。私は人込みに紛れながら、彼女の後を追い、自分の担当場所へ三度に到着した。私が陰から見守っていたら、彼女は同じ行動を三度に繰り返し、その場から去った。私は本棚を放棄して、彼女の後を更に追った。不審な客はエスカレーターを速足で駆け下り、マンガ本と雑誌が並ぶ一階を通り抜け、出入り口の方へ真っ直ぐに向かった。私は職場を離れることを懸念して、一瞬の躊躇いを感じたが、じきに戻ると納得して、彼女を見逃さないようにしようとした。正にそのとき、飛んだ邪魔が入った。私を呼ぶ声が脇から聞こえた。そちらを見たら、副店長の姿があった。
「きみは何処に行こうとしていたんだ?」副店長は怪訝に尋ねた。
「何処にも行こうとしていませんよ」私は相手の小言を避けるために答えた。この副店長は只で転ばなかった。彼は言った。
「では、この荷物を二階に運んでくれ。何だね、その不満そうな顔は?」
「何でもありませんよ」私は言って、入口の方を一瞥した。女の姿は完全に消えていた。私は追跡を諦め、副店長の指示に従い、その荷物を持って、二階に戻った。
副店長の間の悪さを一頻りに呪った末、私は例の本棚に向かった。三冊の本は逆さまのままであった。私はそれを抜いて、元に戻した。二冊目のとき、微妙な違いに気付いた。昨日までに同じく、本は開く方をこちらに向けていた。しかし、上下が逆さまになっていた。私の勘違いか、本日の奇妙な客の手違いかと思ったが、三冊目さえもが上下を逆さまに置かれていた。一冊目のときには注意しなかったが、同じようであったろう。ならば、これは奇妙な客の意図であろうか? 謎は深まる一方であった。明白なのは複数の人々が何らかの意図を持ち、私の担当の売り場の三冊の有名な文庫本を横にひっくり返したり、縦にひっくり返したりしていることだけであった。私はこの謎を頻りに考えた。それで、売り場の責任者にぼんやりするなと注意された。注意されても、久しく考え込んだが、具体的な答えに至らなかった。しかし、何らかの企み、犯罪的な予感、あるいは、超現実的な傾向の兆しをそこに見出そうとした。私は読書ずきであって、要するに、多少の妄想癖があった。推理小説めいたことを考えるのは当然のことであろう。
翌日は平日の休みであった。奇妙な客と会わずに過ごせる。が、昼を過ぎたら、足が外に出て、無用の職場に向かっていた。副店長の邪魔や同僚の冷やかしを避けるための軽い変装を施し、午後二時前、職場に乗り込んだ。バイトくんが私の代わりにレジ台の端に立っていた。私は例の書棚をそぞろに通り抜けて、窓際に設けた机の席に座った。通り際に見たとき、三冊の本は通常の状態にあった。この三日の例を踏まえれば、奇妙な客は未だに来ていまい。で、私の代わりのバイトくんは細工された本を直す機会に至っていまい。私はそのバイトくんがそんなに几帳面な人でないのを知っていた。私は客がこれから来るものと期待して、しばらくのときを過ごした。二時十五分、例の不審な組合せの格好をした客が通路の端に現われた。私は居眠りした客を装い、机に伏せて、相手の動向を腕の隙間から覗った。不審な客は長身の男であった。彼はレジ台の方を気にしながら、通路に入り、例の本棚の前に立ち、見慣れた作業をやった。ここで不意に接近して、何をやっているのかと率直に尋ねるのはどうであろう? 私は多少に迷ったが、それを止めた。奇妙な客たちがやっている行為自体は犯罪でも何でもなかった。おまけに、同僚たちにもこそこそとしているように、私は人見知りをする方であった。
そうこうしていると、不審な客は仕事を終え、現場から立ち去った。私は追跡を始めた。副店長の邪魔が入る心配はなかった。不審な客はエスカレーターから一階に降り、外へ足早に出た。私は客の帽子を頼りにしながら追跡した。客は駅ターミナルの方に向かい、交差点に差し掛かった。信号は点滅しており、赤に変わろうとしていた。私は自然に追いつけることをにほくそえんだ。信号は赤に変わった。客は横断歩道のこちらにいた。が、彼は長身であり、中々の走者のようであった。彼は短距離走の選手のごとくに駆け出して、道路を易々と横断した。私は高校時代の友人の姿をふと思い出した。そいつは長身で、俊足な男であった。が、余計な感慨に浸っている場合でなかった。私は焦って、追いすがったが、車が先に動き出した。道にのめった私はクラクションの警告を受け、立ちどまざるを得なかった。と、不審な客が道の向こうで振り向き、たたらを踏む私を見た。グラサンとマスクの下の顔は動揺したように見えた。客は右に翻り、足早に去って、地下街への階段に消えた。私は自分のどん臭さを認めたがらなかったので、間抜けな顛末を運命のせいにした。何にしても、奇妙な客を追うのを諦め、書店に戻った。バイトくんはぼんやりと突っ立っていた。私はその傍らを密に過ぎて、例の本棚のところに行った。と、様子が違っていた。三冊の本はまともにも逆さまにも並んでいなかった。横着者がするように、三冊は列から抜けて、立ち並ぶ本の上の隙間に無造作に乗っていた。本自体は何時もの三冊であった。三冊ともが列の上に横たわっているのを見ると、これもが何某かの意図の仕業であり、何某かの意味を持っていようか? 私は考えあぐねたが、結論に至らなかった。日々に異なった不審な客が来て、三冊の本を各々の方法――今のところで三つ――で細工して、即座に立ち去る。このことだけが明確な事実であった。この謎は私一人の頭に荷重であった。店長か上司に相談しようか? 店内での不思議であるから、その手段は間違っていない。が、相手に納得させるのが容易でなかった。その上、副店長なんぞが聞いたら、どんな小言を浴びせようか? 私は積極的な手立てを講じず、家に帰った。
翌日は勤務日であった。私はそれを予期しながら、午前中の勤務をこなして、昼下がりに備えた。今日こそ逃すまい。来た奴のあとを着けて、何処までも行ってやる。おまけに、副店長は不在であった。私は万端を喫して、持ち場を頻繁にうろついた。一時間、二時間と経ったが、不審な客の姿は現われなかった。時計が三時を過ぎたとき、私は例の本棚の前に近付いた。と、そこで愕然とした。細工はすでに成されていた。三冊の本が何時もの位置で裏返しになっていた。私は周囲を一回りしたが、不審な客を見つけられなかった。私は本棚の前に戻り、すでにひっくり返った本を抜いた。馴染みの三冊、引っ繰り返し方は二番目、開く方を手前に見せ、上下逆さまであった。
私は三冊の本を前に悩んだ。一時半頃から注意していたので、私の目をそれ以降に盗むのは困難であった。とすると、それより以前に来て、細工をしたのか? 私がそこを十二時過ぎに通ったとき、普段のままであった。十二時から一時半までの間、細工しうるのはその時間帯であった。客が時間をずらし、予定を早めたのは何故か? 私の監視を警戒して・・・・・・で、警戒を起こすきっかけは何か? 私が監視しているのを見越したような時間の変更は? と、昨日のことが頭に過ぎった。昨日の客を追いかけたとき、向こうはクラクションを鳴らされる間抜けを見て、それを私であると察したのか? 他の手掛かりを考えられなかった。昨日の追跡は無駄に終わるに留まらず、相手の警戒心を煽る負債にまで達したようであった。これまでを考えて、今日の客は昨日の俊足の男でなかったろう。とすれば、それぞれの客は気脈を通じているのか? 私の担当売り場で展開する奇妙な光景は組織的な、統一的な意図に支えられているのか? そして、最大の謎、彼らは何をしようとしているのか? 私は考えて、不気味な予感を覚えた。何にしても、良いことであるまい。これは何時まで続くのか?
六日目、不審な客は私の前に現われなかったが、三冊の本はひっくり返っていた。二時過ぎまで何ともなかったが、四時過ぎにはそうなっていた。客は時間を微妙に変え、私の監視を避けているように思えた。毎度の三冊の本の状態は一番目、上下逆さまでない引っ繰り返しであった。
七日目、私は昼からの出勤であった。で、本屋の前掛けを着けて、レジに立つ前に一回りしたとき、例の三冊はすでにひっくり返っていた。私は多少に呆れながら、本の状態を確かめた。二番目、上下逆さまの引っ繰り返しであった。とすれば、客たちは一週間を見事に皆勤した。完璧な仕事であった。これは何時まで続くのか?
次の日は休日であった。私は気合を入れて、ことに望んだ。即ち、変装をして、店の開店一番に飛び込み、私の持ち場の横の休憩用の机に陣取った。私は一分一分をじりじりと待った。時間は刻々と過ぎて、昼になり、昼下がりになり、夕刻になり、夜になった。私が腹を空かし、腰を痛め、気力をくさくさと消費しているのに、お目当ての客は一向に現われなかった。文庫本のところに来るのは穏当な客のみであった。閉店を告げる店内放送がついに流れた。客足は徐々に減り、店員が店内をうろつき始めた。と、一人の男が久しく座っている私に気付き、「もう終わりですよ」と呼びかけたが、私の顔を察して、あれと言うような表情をした。
「何だ、おまえか。今日は休みじゃなかったか? 何をしているんだ?」
「何にも」私は適当に応じた。
「おまえ、ずっとここにいなかったか?」
「別に・・・・・・それより、変な客を見なかったか?」
「見なかったよ、おまえ以外に」同僚は肩を竦めた。「おまえは帰らないのか?」
「全部の客が出た後で」
「変な奴。勝手にしろよ」同僚は呆れて、他のところに行った。私は文庫本の棚に寄った。三冊の本はひっくり返らず、逆さまにならず、上にも出ていず、あるべき場所に正しくあった。私が首を傾げていると、他の店員たちもが私に気付いて、休みじゃなかったとか何をしているのとかと尋ねた。私は適当にはぐらかした。その内、最初の同僚が現われた。
「まだいたのか。客は帰ったし、入口は閉まったぞ」
「そうか。なら、おれも帰ろう」私は落胆して、従業員用の裏口から外に出た。同僚が晩飯を食いに行こうと誘った。私は何より空腹であったから、それに従った。友人は私の奇妙な行動の真意を探ろうとしたが、私は話さなかった。今し方の徒労を語るのは落胆の上塗りであった。私は十一時間ぶりの食事の味で忘れようとした。
翌日は勤務日、私は朝に出勤した。同僚たちが昨日のことをしつこく尋ねたが、私は不機嫌に黙殺した。私は昨日の失敗に懲りて、結果だけを確認することにした。で、帰る前、本棚を見たが、三冊の本はそのままの状態であった。不審な客も目に付かなかった。
翌日も同様、不審な客は現われず、本はそののままであった。客が来る様子はもうなかった。と、それがないならないで、気掛かりは余計に強まった。客たちは計画を諦めたのか、それとも、七日目の時点で完遂したのか? そして、彼らの目的は何であろうか?
その夜、私は散々に悩んだ末、一本の電話を知人の許に寄越した。その男は私の高校時代の部活――小説同好会の仲間であって、今でもしばしばと接する男であった。彼、名義上にTと呼ぼう。Tは親戚が経営する興信所に勤めている調査員であった。最近、大きい事件を解決したとかしないとか・・・・・・どうも、彼の話は本当に聞こえないが、推理能力は秀でており、警察の覚えがいいらしい。私自身は自らの打明け話、仕事の悩みとか恋愛の相談とかをTにしばしばと話した。彼は有意義な忠告をくれる男でないが、実に陽気な男であって、こんなことで悩む自分が馬鹿馬鹿しいと思わせてくれる性質の持ち主であった。電話をして、明日の予定を尋ねたら、Tは「ぼくは何時でも暇だよ。しなければならない仕事は特にない」と言った。私は彼の興味をくすぐるように言った。
「おまえの好みに合う不可解な話がある。明日、相談したい」
「へえ、不可解な話ね。それはぼくの好みに合いそうだ。分かったよ」Tは即答した。私は時間と場所を指定して、電話を切った。几帳面な私は明日に相談する不可解な話をどう話すかと推敲した。
翌日の午後十二時半、お洒落なカフェの奥まった席、私はTを前にしていた。彼は勉学より遊びに励む大学生のような軽い風貌をしていた。私は彼がT大卒であることを未だに信じられなかった。彼は眠そうな欠伸をした。夜遅くまでゲームで遊んでいたと説明した。私たちは互いの近況を報告した。それが一段落したとき、彼は言った。
「それで、不可解な話ってのは何なんだ?」
「それはこうだ」私は言って、例の奇妙な光景を長々と語った。
「それは奇妙だな」Tは神妙に肯いた。
「だろう? おれは気になって、よく眠れない。彼らは何をしたかったのかが未だに謎だ」
「その客たちが現われて、おまえやおまえの近辺、同僚や仕事場に変わったことはなかったか?」
「全然だ。おれは何かの後ろめたいことが行われていると思って、それとなく注意していたが、異常は皆目に起こっていない。客たちの行動は酷く疑わしいものだが」
「確かにね。似たような話を小説で読んだことがある。本が事件の手掛かりになる話だ。エラリー・クイーンの短編だか何だかで読んだ」
「おれも読んだことがある。その舞台は図書館だったが、本の題名とか著者とか装丁とかが鍵を握っていた。それが人物を指す符号になっていたんだ。人物かどうかは定かでないが、今度の場合でも、本が何かを指しているのは確かだろう。暗号か信号か・・・・・・同じ本を使っていたんだから」
「しかし、よく考えると、それはおかしいな」Tは言った。「何で、客たちはそんな回りくどいことをするんだ? 彼らが何某かの犯罪組織の人間で、連絡を取り合いたいなら、電話かメールで間に合うのに」
「人知れぬ意図があったんだろう」
「それにしても、そんな目立つところでやる必要はない。実際、おまえは注目したし、おまえの足がもっと速ければ、客に追いつけたろう。客たちがでかい書店の二階の文庫本コーナーをその場所に選んだ。さて、何で? まともな理由は一つしかない。客たちの仲間、あるいは、知人が他でもない、おまえの職場の中にいるからだ。でなければ、客たちがそこを選ぶ理由がない」
「それはそうだ」私は認めたが、不審な客たちの仲間が私の身近にいると信じられなかった。そんな怪しい人物は一向にいまい。副店長を個人的に挙げたいが、あんな風采の上がらないおっさんが怪しい組織の一員にも思えなかった。
私が考えていると、Tも同じような考えに耽った。彼は客たちがしつこく細工した三冊の本の題名と作者をメモ用紙に書いて、何かをぶつぶつと言いながら、それを逆さにしたり、組替えたりしていた。私がすでに度々と試した作業であった。が、私は有意義な発見に至っていなかった。彼のT大卒の頭があれば、客たちが示そうとした意図をこれらの文字群から捻出できようか?
「駄目だな」彼は意外に早々と諦めた。「パズルゲームは得意じゃないんだ」
「おまえはその三冊の内容を知っているか?」私は気休めに尋ねた」
「勿論だ。不朽の名作じゃないか。『ロミオとジュリエット』は言うまでもない名台詞がある作品だ。『マノン・レスコー』は騎士グリュウが悪女マノンに恋する古典的名作だ。『椿姫』はヴェルディのオペラの方でも有名だ・・・・・・三作とも似たような小説だ。シャイクスピアのは劇だけれど。どれにも共通するテーマがある。それは望まれぬ恋、悲恋だよ。個人的には、シェイクスピアは真夏の夜の夢とか、プレヴォは作品より著者自身の破天荒な経歴、デュマは息子の社会小説より親父の大ロマンの方がぼくの好みだね。悲恋なんぞはぼくに無縁さ」と、彼は軽口を続けようとして、重大な何かに気付き、言葉を飲んで、真剣な様子を浮かべた。彼は手元のメモ用紙をしばらく眺めて、私の方を見た。
「どうしたんだ?」私は尋ねた。観察をしばらく続けた末、Tはこう言った。
「客たちがこの三冊の本を抜いて、引っ繰り返したり、上に乗せたりしていた。それは確かだよね?」
「ああ、そうだ。それが?」
「これは何某かの意味を持っているに違いない。本を引っ繰り返したりすることによって、何らかの意味を示してるに違いない。確かにそうだ。そして、その相手はおまえの職場の中にいる。悲恋を書いた名作か、なるほど・・・・・・三冊の本の引っ繰り返し方をもう一度だけ詳しく説明してくれ」
「それが何なんだ?」私は先に聞きたがったが、彼は悪戯な笑みを浮かべて、説明が先だと促した。で、私は客が抜いて、戻した本の状態を詳しく説明した。彼はメモ帳を取り出した。
「つまり、横方向に反転させて、開く側を手前に見せる場合」彼はメモ帳を横方向に反転させた。「そして、縦方向にお辞儀をするような格好で反転させて、本の上下を逆さまにして、開く側を手前に見せる場合」彼はメモをその通りにした。「そして、ずぼらな者がやるように、本を上の隙間に無造作に置く場合。この三種類の置き方があった」
「そうだ。客たちはこれを意図的にやったのか、それとも、単なる偶然か」
「意図的にやったと考えよう。それで、一つ目の置き方が初日と二日目と六日目、二つ目の置き方が三日目と五目と七日目、そして、おまえが休んだ四日目が三つ目だった。三対三対一、微妙な数字だ。七日目までに七人の客が来た。五、六、七日には、客の姿は見えなかったが、本の細工はなされていた。そして、八日目、八人目はついに来ず、本の細工も成されなかった。これは確かだね?」
「そうだ」
「すると、客たちはこの奇妙な行動を七日目でやり終えたか、諦めたことになる。が、やり終えたと考えるのが妥当だ。七日目というのは良い区切りだ。これが六日目に終わっていたら、ぼくも迷ったろうが」
「そんな日数が関係あるのか?」
「大いに関係する。おまえの話からして、一日に一人ずつだから、日数は必須条件だよ。七は実に適切な数字だね、ぼくが知っているおまえにすれば」
「どういうことだ?」Tがもったいぶり始めたのを察して、私は怪訝に尋ねた。この男はこんな不可解な謎を解きかけているのか? 「おれにすればというのはどういう意味だ?」
「この七はおまえに関係しているのさ。というのは、七人の客たちが通じようとしていた人物とはおまえに違いないからだ」
「おれ? おれが?」私は驚いた。
「おまえだよ」Tは笑いながら言った。「客たちは何処に現われた? 某大型書店の二階の文庫本売り場、つまり、おまえの持ち場だ。客観的に考えて、客たちのことに最初に気付くのがおまえだし、本の細工に気付くのもおまえ。事実、おまえが最初に気付いた。これは結果論だが、ほぼ間違いない」
「おれはあんな客たちのことを知らない」
「しかし、彼らはおまえを知っているし、おまえも彼らを知っているのさ。グラサンとマスクと帽子、こんな如何にも怪しい格好を装い、顔を隠していたのはおまえの目を避けるためだ。変な気配を一瞬でも感じなかったか?」
「そんなことは・・・・・・」私は言い掛けて、記憶を辿り、あの逃げ去った男のことを思い浮かべた。あのとき、友人のことがその背中に重なったでないか!
「思い当たる節がありそうだね。ぼくの予想が正しい証拠だ」Tは嬉々と言ったが、私は逆に困惑した。
「おまえの推理が当たっていれば、あの客全員が変装したおれの知り合いなのか?」
「そうなるね」
「まあ、そうでも構わない。だが、彼らは何をしたかったんだ? 悪戯か?」
「そんなわけがない。まあ、遊び心がないわけじゃないが、別の真意が含まれている。彼らはおまえに伝えたかったのさ」
「何を? おれには伝わっていないぞ」
「おまえが鈍いせいだ。どうせ、奇妙な客たちが他の誰かを相手にしていると思って、自分のことを考えなかったせいだろう。ぼくがおまえであれば、その意図を察して、その意見を参考にしたよ」
「それは何なんだ?」私は焦燥感に耐えられずに請うように言った。
「悲恋をテーマにした三冊の名作、二種類の引っ繰り返し方、七人の客たち。最後は特に重要だ。六人や八人では駄目、七人でなければ。五人か三人でも構わないが、七人の方が一週間に振り分けられて、区切りがいい。ということで、七人は最適だ。この七人は・・・・・・いわば、投票者だよ」
「投票者?」私は素っ頓狂に叫んだ。
「そう、投票者。多数決が着くように偶数でなければならない。三冊の本は票だよ。二つのひっくり返し方は首の動きに准ずる。横に反転させたのは否定、縦に反転させたのは肯定だ」
「上に置いたのは?」
「放棄だね。優柔不断な人がいないか、思い出してみなよ」
「『ロミオとジュリエット』『マノン・レスコー』『椿姫』の三冊を選んだのは?」
「まだ気付かないか? というか、思い当たる節はないか?」Tは私の顔を覗き込んだ。「共通テーマは望まれぬ恋、悲恋だ。客たち、つまり、おまえを知っているおまえの友人たちは悲恋をテーマにした名作三冊をわざと選んだ。本屋の店員なら、その三冊の内容を知らんはずがないからね。彼らはおまえのことを良く知っていた。ぼくも知っているよ。おまえ自身から聞いたよ。いい加減に思い出せ。以前、ぼくはおまえの相談に乗って、身分違いの女と付き合っていて、色々と大変だと愚痴っていたのを確かに聞いたよ。これはおまえ自身の望まれぬ恋じゃないか?」
私は言葉を失った。Tが言ったことは一々と図星であった。彼は私の驚きを待たずに揚々と続けた。
「つまり、おまえの望まれぬ恋を知っている七人の知り合いが同じテーマの三冊を使い、その恋に賛成か反対かを友人一同から伝えようとしたってことだ。あるいは、その中身を読んで、望まれぬ恋の結果を参考にしろと言いたかったのかな。ところで、優柔不断な俊足くんのせいで、投票は三対三の同数、如何にも曖昧な結果に終わった」
「そんなことはどうでもいい」私はようやく言った。胸の支えと肩の重荷と頭の霧が一気に消え去ったように感じた。私は呆然と呟いた。「こんな簡単なことだったのか。おれは飛んだ間抜けだ」
「おまえが間抜けなら、七人は相当なお節介だ。友人思いの知り合いを持って、おまえは光栄だね」Tは言った。彼は朗らかな表情をしていた。
「礼を言うよ。好きなものを頼んでくれ。おれが奢るよ」
「丁重に承ろう」Tは即座に肯いて、品書きを開いた。「まあ、おまえが友情と恋愛をどうこうするかは自由だが、とりあえず、ぼく個人はその三冊を読み直すことを勧めるよ。名作を読み返すのは常に有益だし、おまえの恋の参考にも、友人たちの忠告に答えることにもなるからね」