僕らの季節

翠川奈緒子

 【1】 春

「さっきの算数のノート貸してくれよ」
「やだよ、自分で書けばいいじゃないか」
 中山にノートを貸すと大抵折れたり汚れたりして戻ってくるので渋ったら、不意に僕の周りの空気がふっと動いた。
 まずかったかな、と思った時は既に遅かった。とっさに腕を持ち上げて顔をかばおうとしたが、いきなり右側から中山のパンチが飛んできた。頭の中ががーんと痺れて鼻の奥がツンとする。意識とは別に涙が出てきそうになって、僕は慌てて目をつぶった。
「けちなこと言うからだよ」 中山のとぼけたような声が耳のすぐ横で聞こえる。
「あっ、また中山君が沖田君に暴力ふるってる。先生に言っちゃうから!」
 少し離れたあたりに数人固まっていた女子のグループの中から声が上がった。永山里香子だ。
「チクればいいだろ、早く行けよ」
 中山が里香子の方を向いた気配がする。薄目を開けてみると、自分の席に立ち上がった里香子が気味悪そうにこっちを見て後ずさりをしているところだった。中山は誰かを殴る時に怒った顔をしない。にやにや笑っているだけだ。今もきっとそんな顔をしているのだろう。
「言うわよ! 先生きっと怒るから」
 里香子は捨て台詞のように大声で叫ぶと、水色のフレアースカートの裾と腰まであるまっすぐな長い髪を翻して教室から職員室の方へ向かって駆け出していった。

 僕はそっとため息をついた。
 僕は先生に言って欲しいなんて全然考えていないのに、女子なんてまるでわかっちゃいない。先生に言いつけたって何の問題の解決にもならない。その時だけ中山が先生に怒られて―― そう、そのあとだってずっと中山は僕の隣の席なのだ。これが僕の部屋にある壊れたラジオのようにエンドレスで続くだけだ。
 僕の席替えはあり得ない。吉岡先生にとっては僕が中山の隣にいるのが一番平和なのだ。いつだったか先生が、
「沖田君には確かに我慢ばかりしてもらっていて、悪いと思っています。でも沖田君はとても大人なので、彼も沖田君には一目置いているようなところがあるんです。沖田君の言う事は聞くんですよ」
 とお母さんに言ったんだそうだ。吉岡先生は、中山が何かやらかすたびにいつも息を切らして学校の中を行き来している。そんな先生によろしく、と頼まれたら僕だって嫌だとは言えないじゃないか。だから去年の三年生の時から、僕達二人はいつもペアになってしまった。この春四年に進級したが、やはり一学期から僕達は隣同士だ。恐らく二学期も三学期も、いや小学校を卒業するまでこのままじゃないかと思う。
 第一先生に言いつけるなんてみっともないと思う。里香子は頭が良くてちょっと可愛くて嫌いじゃない。というかクラスの女子の中では一番いけてると思う。でも、こういうお節介を焼きたがるのが玉に瑕だ。僕が殴られてる、なんてクラスで宣伝してほしくないのがわからないのだろうか。僕にだってささやかなプライドがあるのに、男のそういう気持ちが全然わかっていない。

   ところで、僕は小学四年生の沖田浩二。一人っ子だ。今は福岡に単身赴任中の会社員のお父さんと家で翻訳の仕事をしているお母さんと三人で、東京の下町に住んでいる。僕は、特に背が高くもなく低くもなく太っても痩せてもいない、要するにどこにでもいるようなタイプだ。スポーツは得意じゃないが、結構勉強は好き。そんな事を言うとイヤなやつ、と言われるに決まっているので言わないけれど。特に好きなのは算数。答えを探していて答え方を見つけたときや、正解は一つしかない、というはっきりしたところが好きだ。特に女子にもてるわけでもなく、男子の中で特に人気者というわけでもなく―― まあ平均点の小学四年生だと考えてくれればいい。

 夕方家に帰ると、お母さんは振り向きもしないで「浩二? お帰り」と言った。
 お母さんは大体いつも仕事でパソコンの前にいる。いつも「大抵の事は自分でできるように育ててきたつもりだ。私はそんなに暇じゃない」 と言っていて、玄関まで出迎えに出て来てくれたことなどない。だから僕もそういう期待はしていない。それはそれで気楽だ。その代わりごちゃごちゃ言われることもないし。
 自分でおやつを(これは用意されてあった)取り出して食べていると、電話が鳴った。お母さんはため息をついて振り向き、受話器に手を伸ばした。僕はおやつを持って自分の部屋に引っ込んだ。友達から借りたゲームソフトをそろそろ返さなければならないので、早いところ攻略してしまうつもりだ。

 三十分ほどして、僕はジュースを取りにいこうとしてリビングに戻った。お母さんはまだ電話の相手をしている。
「ええ、そうですか…… はい、なるほどねえ」
 お母さんは上の空で電話の相手に相槌を打ち続けている。その前を横切ると、お母さんはうんざりしている、というように僕に向かって顔をしかめてみせた。
 もともと僕のお母さんは電話が好きじゃない。それも長電話ほど嫌いなものはない、といつも言っている。その間他の事が何もできないからだ。だけど長電話が好きなお母さん、というのは周りに何人かいるらしく、こうしてたまにかかってくるのだ。そういうときお母さんは、大抵パソコンでソリティアのゲームを始める。それでいて受け答えはちゃんとしているんだから、いつも感心する。
「それで、里香子ちゃんも最近何かひどい目にあったんですか?」
 ふと耳に“里香子”という言葉が飛び込んできた。それでわかった。里香子のお母さんからの電話だ。どうせ又僕のことに違いない。里香子から今日の事を聞いて電話してきたんだろう。
 里香子はいいけれど、里香子のお母さんはちょっと苦手だ。
 里香子のお母さんは当たり前だが里香子によく似ている。ほっそりしていて髪が長く、いつもロングスカートを着てお洒落にしている。Gパン姿が多いうちのお母さんとはえらい違いだ。声も優しくて、まるでフランス人形のようだ。
 だけど子供が関係してくると、その様子が一変する。以前にも似たような事があったので知っているのだが、顔つきまで変わる。目が吊り上ってキツネみたいになって、声が高くなって、いつまででも喋り続けるのだ。それが悪口ばかりなので、僕もお母さんもそういう時はあんまり好きじゃない。

  「やれやれ、一時間も無駄にしちゃった。締め切りが近いっていうのに全くたまらないわねえ」
 電話を何とか切り上げたらしいお母さんが僕のいるキッチンにやってきた。僕は椅子に腰かけたお母さんの前に麦茶の入ったコップを滑らせて置いた。
「ありがと、気が利くじゃない」
 お母さんは一息にコップ半分くらいの麦茶を飲み干してふーっと息を吐いた。
「里香子のお母さんだろ、電話」
「そう、聞こえた? 今日、浩二、中山君にぶん殴られたんだって?」
「ぶん殴ったってほどじゃないけどね。中山が切れるのはしょっちゅうだし」
「まあねえ、そりゃ聞いていて気分が良くはないけど、いちいちそのたびに関係ない子供の親が電話してくるっていうのはおかしいと思うけどねえ」
 お母さんは片手で首の後ろを揉みほぐしながら続けた。
「中山君がすぐ手が出る子だってことはよくわかってるけど、これは時期が来るまで待つしかないような気がするわね。少なくとも周りで騒ぎ立てたら良くなるとはとても思えない。それにあの子、最近変わってきたと思うわよ。そう思わない?」
 お母さんの言葉に僕は相槌を打った。
 確かに中山は学校では問題児だが、僕の家では乱暴なことはしない。中山は人の家だからといって気を使うようなやつではないと思うので、僕にはどうしてなのかよくわからない。

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