僕らの季節

翠川奈緒子

 【2】 夏

 小学校に入学したその日から、中山健太郎は皆に注目されるようになった。
 体育館での入学式が終わったあと、僕達は教室に戻った。皆まだ緊張していて、先生や周りの様子をうろうろ眺めながらようやく席に座っている、といった状況だった。
 その中で一人だけ席につかず、悠然と教室中を歩き回っていたのが中山だ。
「中山君、座って先生の話を聞きましょうね」
 僕達の担任は木村という名前で、まだ先生になって三年目という若い女の先生だった。その木村先生がにこにこと優しい笑顔を中山に向けた、その時だった。
「ばーか、おまえなんか知らねえよ」
 と中山は思いっきり舌を出してみせたのだ。僕達が皆あっけに取られていると、今度は中山は窓の近くまでいった。そして呼び止める先生ににやっと笑いかけたかと思うと、いきなり窓枠によじ登り始めた。教室は一階にあり、窓は本棚の高さ(僕の腰くらいだ)より上から天井まで続いている。そこへよじ登ったかと思うと、あっという間に体を横にして窓の外へ身を乗り出したのである。危ない、と先生が止める間もなく、中山は校庭に飛び降りた。そして遠くに見える遊具まで走っていってしまったのだ。
 青ざめた先生は僕達に静かに待っているように言いつけて、すぐさま中山を追っていった。僕達が窓から見ていると、中山はそこから動かない、と頑張っているらしく、先生は最後には首っ玉を押さえつけるようにして中山を連れて帰ってきたものだ。
 それ以来形は変わっても同じような事件はいくらでも起きた。先生も中山にかまっていると授業が全く進まないので、教室の中にいさえすればいちいち見咎めて注意をするような事はなくなった。先生は僕達が中山の真似をするんじゃないかと心配したようだったが、僕達にも彼は特別だということが何となくわかったので、誰も同じ事をしようとは考えなかった。そのあたりは子供とはいっても僕達も大人が考えるよりも馬鹿じゃない。

   僕達が入学式の日に中山に抱いたアブナイ予感は的中した。三年二組の男子はそろって中山のパンチに洗礼を受けたといっても大げさじゃない。
 中山はとにかくよく「切れる」のだ。必ずしもはっきりこちらに原因がわかっていることで切れるわけではない。何か気分の波のようなものがあって、それがどこで爆発するかわからないのだ。しかも怒っていてそれが抑えきれずに、というのならまだわかるが、面白がって切れてみせるようなところがあり、ちょっと怖い。
 机をひっくり返す、椅子を投げ飛ばす、気に入らない相手をぶん殴る…… こんな事は日常茶飯事だ。そのたびに、どうやらやられた子の親が先生に苦情を言うらしい。先生がため息をついて頭を抱えているところや、誰かの親が学校に来て先生と何か深刻に話しているところを僕は何回も見かけたことがある。
 ああいう時は先生っていう仕事も大変だなあ、と思う。

   担任の先生は普通二年間変わらない。しかしおそらく中山が手に余ったのだろう、若い木村先生は一年間で担任を交代になった。
 その代わりにバトンタッチした吉岡先生は教師歴十年目という中堅の女の先生だ(これは里香子のお母さんの受け売りだ)。さっぱりしているので、僕はなかなか気に入っている。
 中山に対しても木村先生のようにおろおろしたりヒステリックに怒ったりはしない。吉岡先生は自分の子供もいるからなのだろうか、肝っ玉母さんみたいな感じがする。先生が担任になってから、気のせいか中山の切れる回数が減ったような気もする。
 そうはいっても三年になって席が隣になった時、正直言って僕は落ち込んだ。自慢じゃないが僕は喧嘩に強くない。どうしても自分から手を出すということができないのだ。だけど口なら大抵のヤツには勝つ自信がある。
 しかし中山のようなタイプは問答無用型だ。僕が一言何か言うとすぐパンチが返って来る。僕だけじゃない。皆中山の近くに積極的に近づこうとはしなかった。誰だって痛い目にあったり唾を吐きかけられたりするのはいやだから当たり前だ。だから中山には特別仲良くしている友達はいなかったと思う。

   だけど、中山は僕の隣の席になってしばらくしたら、僕の家へ遊びに行ってもいいか、と言い出した。
「おまえんち、プレイステーション2があるんだろ? やらせてくれよ」
「…… うん」
「おまえ、ゲームうまいんだってな。俺にも教えてくれよ」
 僕が見上げるようなでかい体格の中山に目の前に立ちはだかってそう言われると、情けない事に僕は断ることができなかった。全く気が進まなかったのだけれど。
 中山を初めて家に連れて行ったのは、夏休みに入ってすぐのことだった。お母さんに「中山君だよ」 と紹介すると、お母さんは珍しくまともに振り向いてあいつの顔を見た。それまでにさんざん中山の話は聞いていたので、どんなやつか興味を持ったんだろうと思う。でも普段と全く変わらない態度で中山に接していた。お母さんのそういう偏見のないところは、実は僕が好きなところでもある。

 中山は僕の家では一度も切れたことがない。僕が心配していたような何かを壊されるとかそういうこともなかった。
 ただ不思議だったのは、中山が家の中の細かい事に興味を持っていることだった。たとえば冷蔵庫の中だとか、お母さんの化粧品だとか、薬の置き場所だとか、そういう事を聞きたがるのだ。
 お母さんはよその子供だろうが何だろうが見て見ぬふり、というのをしない人なので、中山がごそごそ勝手にそれらを取り出したりするとぴしっと注意する。なのに中山はすねもせず、おとなしく言う事を聞くのだ。僕にはそれがすごく不思議だった。これが学校で相手が先生だったら、中山は絶対ふてくされるか切れているはずだ。でも中山は「わかった」 と言って、注意されるともう同じ事をしようとはしなかった。お母さんもそういう事があっても根に持つタイプではないので、お互いけろけろしているのが意外と相性がいいのかもしれない。
 いつの間にか、そうして中山は僕の家の常連になった。そしてそれは、そんなに思ったほど悪いことでもなかった。だんだん中山がいることが当たり前のようになっていた。 僕達はいつの間にかただのクラスメートから友達になっていた。相変わらず学校では時々殴られていたけれど。

 その頃になると、三回に一回くらいは僕は中山に誘われて、中山の家へ遊びに行くようになっていた。連れはいなくて、いつも僕一人だけだ。
 中山の家にはいつもお祖母ちゃんがいた。それと中学生のお姉ちゃんがいるらしいが、お姉ちゃんはほとんど家にいなかった。友達と外で遊んでいるらしい。確かに中山とではあまり遊べないんじゃないかと思う。
 お祖母ちゃんは僕が行くと、ひどく喜ぶ。要らないと断っているのに羊羹とかかりんとうとかをお盆に山盛りにして出してくれる。出されると全然食べないのは悪いので少し口にするけれど、口の中にべたべた甘いものが残って僕は苦手だ。でもにこにこしながら僕を見ているお祖母ちゃんの前では、とてもまずいとは言い出せない。
「健太郎のところに友達が来るなんて本当に珍しい。仲良くしてやってね」
 行くたびにお祖母ちゃんは僕にこう言う。中山は煩わしがって、
「いいよもう、ばあちゃんはあっち行っててよ」
 と冷たい事を言うのだが、見ていると二人は仲がいいのだということが何となくわかる。

 ある時その理由がわかった。中山がちょっとトイレに行って席を外している時に、お祖母ちゃんが、こう言ったのだ。
「あの子がね、乱暴な事をしても大目に見てやってね。あの子は幼稚園の時にお母さんを病気で亡くしてるの。だから甘えられる相手がいなくてねえ、ついいらいらして手が出ちゃうこともあると思うの。勘弁してやってね。私じゃお母さんと同じってわけにいかないのでねえ」
 中山のお母さんは死んでしまったのでいない、という事を僕はこのとき初めて知った。だからうちに来たとき、冷蔵庫とかお母さんの化粧品が珍しかったのだろうか。それならわかる。でもだからといって何て返事をしたらいいのか、僕はわからなかった。実際に手を出されるのは僕だし、痛いのも僕だ。それはやはり嫌だ。
「はあ」
「それに健太郎はお父さんと仲が悪くてね。ろくに話もしないんだよ。お父さんはあの子の事を心配してるんだけど、あの子がお父さんを毛嫌いしていてねえ。まあ仕事で忙しいからろくに話もできないんだけど。新しいお母さんでも来てくれればまた違うんだろうけど」
 お祖母ちゃんはそのまま続けて話しかけてくるけれど、僕は何と答えたらいいのかわからなくて困ってしまった。黙ってメロン味のカキ氷を食べていると、
「余計なこと言うな! くそばばあ」
 と、いつの間にか戻った中山が僕のすぐ横で怒鳴った。唇の横に泡のようなものを溜めてお祖母ちゃんを睨んでいる姿は、ちょっと怖いものがあった。だから僕は、
「おまえの部屋行こうよ」
 と言って中山の腕を引っ張って、慌ててお祖母ちゃんの前から退却した。
 すると、今度は中山は僕を睨みつけてきた。
「おまえ、余計なこと皆に言うなよな」
「何にも言わないよ、僕は」
 僕は内心おっかなかったのだが、なるべく平気そうな顔をして笑ってみせた。
「つまんねえ事言うとパンチだかんな」
 中山はしつこく念を押した。よっぽど皆にお母さんがいない事を知られたくないらしい。そんなものだろうか。別に隠すことはないと僕は思うんだけど。

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