僕らの季節

翠川奈緒子

【3】 秋

 中山とクラスメートたちとの間の小さな小競り合いはしょっちゅうあったが、いよいよ中山を取りまく空気が変わってきたのは四年の二学期になってからだった。
 事の起こりは、中山が小林というやつと喧嘩をしたことにある。この小林も結構嫌味なやつで、しかもずるい。何でも人のせいにするようなところがあるやつなので僕はあんまり好きじゃない。あんまり人のことは言えないが、口から先に生まれてきたような男の癖におしゃべりなやつだ。
 で、何かどうでもいいような事で中山と言い争いになり、中山はハサミを持ち出してきた。さすがに小林も見ている僕達もびびった。そして逃げようとする小林をつかまえて、中山は小林の着ていたTシャツを背中からじょきじょき切ったのだ。
 女子たちの悲鳴をききつけて飛んできた先生も、さすがにこれには顔色を変えた。小林はいつもの生意気な様子も消えうせてべそをかいているし、周りの子供達はしんとして中山がこれからどうするか息を呑んで見守っている。
 中山は悪びれた様子もなく平然としている。先生が、
「中山君、ハサミを人に向けたら危ないでしょう? 今すぐしまいなさい」
 と言っても、にやにやしているだけだ。僕はふと、こいつは何かあったら人を刺すんじゃないかという恐怖感に襲われて背中がぞくぞくした。
 先生はいつもより青い顔をして中山を職員室に連れて行ったが、しばらくして戻ってきた中山の顔つきは全然へっちゃらだった。きっと怒られても平気だったんだろう。先生に怒られてもめげないところはちょっとすごいと思う。大きな声では言えないが、僕はちょっとそういう中山の自分を曲げないところを尊敬している。今回はどうかと思うけれど。

   勿論こんな話が穏便に終わるわけがない。
 翌日、小林は学校を休んだ。そして新聞記者だという小林のお父さんが、仕事を半日休んで学校に抗議に来た。僕が見たわけじゃないが、目撃していた友達がいて、「大ニュース!」 と皆に触れ回ったのだ。
 小林のお父さんは校長室で、校長先生と吉岡先生と三人でしばらく話し合っていたらしい。その間僕達のクラスには吉岡先生の代わりに教頭先生が来ていた。そのうちに黙っていられなくなって、誰かが、
「教頭先生、小林君のお父さんは何しにきたんですか?」
 と質問すると、もう定年が近いという髪が白いメガネをかけた怖そうな女の教頭先生は、いつもよりもっと怖そうな顔をした。
「みんなには関係ないでしょ。みんなはいつものように勉強をしていればいいんです」
 こんな状況でいつもどおり勉強できるか、と僕は思った。皆だって同じ事を考えたに違いない。僕達だって部外者じゃない。皆不満そうな顔をしたが、仕方がなく黙った。だが、その日僕達はほとんど上の空だった。でも教頭先生も上の空みたいだったので、授業はスムーズに進んだ。

   だが、先生達が僕達に内緒にしていてもこういうニュースは実に早く伝わる。お母さん達の緊急噂連絡網の威力はすごいものなのだ。僕が学校から帰った時には、既にお母さんは長電話につかまっていて、その夜には僕も詳しい話を知っていた。うちではお母さんは基本的に僕に何も隠さないからだ。
 要するに小林のお父さんが言うには、学校という公的な教育機関におけるこのような反社会的なあるまじき行為を学校側はどう認識しているのか、今後どのように当事者である中山を指導していくのか、そもそも前から問題の多い中山の指導は今までと同じ環境で行えるのか、被害者である小林の受けた心の傷をどうケアしてくれるのか、今後このような事件が起きない保証は誰がしてくれるのか(ああ、疲れる)…… といったところらしい。これを小林のお母さんが里香子のお母さんに相談し、そこから僕の家に相談や報告を兼ねて流れてきた、というところが話の流れらしい。

   ところで、何でうちに電話がかかってきたかというと、里香子のお母さんが中心になって学校側にもっと中山に対する断固とした処分をするよう要求する運動を始めるそうで、その勧誘だという。
「なにそれ。だって里香子のうちは関係ないじゃん」
「そうなのよ。私もそう思う。まあね、小林君のご両親のショックなのはわかるのよ。実際Tシャツで済んだからまだ良かったようなものの、もし体に傷なんかつけていたら傷害事件になっちゃうからね。明日そういうことが起こるかもしれない。起きてからじゃ遅い。何とかしろってことなの」
 話しているうちにお母さんも腹が立ってきたらしく、まるで僕が里香子のお母さんであるかのように怖い顔をして僕を睨みつけた。
「やめてよ、僕のせいじゃないんだから」
「まあ我慢してよ、あんたしか聞いてくれる人いないんだから」
「ちぇっ。迷惑だよなあ、全く」
「まあいいから聞いてよ。…… それで簡単に言うと、安心する為には中山君を追い出してくれって言うのよね」
「追い出すって? だって小学校は退学なんてないんでしょう?」
「うん、退学はないけど特別な例外の場合は出席を差し止めることことはできるのよ。そういう法律があるの」
「へえ、初めて聞いたよ、そんなこと。で、中山をそれにしてくれって言うの?」
「まあ一部のお母さんたちがね、そう学校側に申し入れようとしているわけ」
「で? お母さんの意見は?」
「うーん」
 お母さんは天井を見上げてちょっと考え込んだ。

「まずね、大勢で一人を叩く、みたいなのが私は気に入らない。しかも子供達が率先して言い出したのならともかく、言っているのは親だけなんだからね」
「うん、確かにクラスの奴らはあいつを好きじゃないけど、追い出してしまえ、なんて思ってないんじゃないかなあ。僕なんか、どっちかっていうと小林の方が嫌いだけどね」
「ただね、これは気をつけなきゃいけない。何か被害を受けた人がいる場合、“やられた方にも何か原因があるんだ”という考え方。これは危険よ。本当のいじめがあった時なんか、これが免罪符みたいに使われる場合がある。責任は五分五分、みたいにね。免罪符って意味、わかる?」
「わかってるよ、馬鹿にするなよ」
 僕はむっとした。お母さんは僕のことを一人前としてほとんど対等に扱ってくれるので好きだが、時々急に子ども扱いするときがある。
「まあ、それは今は置いといて。…… あのね、私は甘いかもしれないけど、彼が次は本当にやるかもしれないって思えないんだよね。だって見ていてわかるでしょう? うちではあの子、とてもそんな風に見えない。だから芯からの危険人物だなんてとても思えないし追い出すなんて賛成できない。彼のやっと事を認めているんじゃなくてよ。悪い事は悪い」
 僕もお母さんの話を聞きながら考え込んだ。
「お母さんがいないって事は関係あるのかな?」
「そうね、ないとは言えないかもしれない。でもそれは言い訳にはならないわよ。その点は私はそんなに大きく考慮しなくていいと思う」
「厳しいね」
「だって彼はこれから一生そうなのよ? それが原因だからといってこれからずっと何でもありなんて通用すると思う? 中山君はそれは認識した方がいいわね。でもあんたの話からすると、それを言い訳にはしてないよね、彼は」
「うん、そんな事一言も言ってない。それどころか僕が喋ったらきっと半殺しにされちゃうよ」
「そう、そこは彼の偉いところかもしれない。だから私も永山さんたちにその事を言ってないの。ま、逆に言った方が皆は可哀想がって大目に見るようになるかもしれないけど、そういうのも賛成できないんだな、私は」

 少し間をおいてから僕は訊ねた。
「で、どうなりそうなの?」
「永山さんたちは皆で吉岡先生に面会して申し入れをしたいんだって。たとえば念書を取るとか」
「念書って? 誰から?」
「たとえば中山君のお父さんからとか、校長先生からとかよ。今度同じような事を起こしたら転校します、とかね」
 僕には里香子のお母さんが先頭に立って校長室に入っていくのが見えるような気がした。
「で、お母さんも一緒にやりませんかっていうの?」
「そう、それでちょっと喧嘩しちゃった。私はやりたくありませんってはっきり言ったからね」
 お母さんはいたずらっぽい顔をして笑った。
「ある意味では弱いものいじめみたいじゃない? そういうの嫌いなんだよね」
「まあ、あんまり弱いってイメージじゃないけどね、あいつ」
「あとね、なんて言うのかなあ、正義感をふりかざすみたいな、権利だけを主張するみたいなの、賛成できないの。良くあるでしょう、マスコミなんかで何かが起きるとよってたかって非難するみたいなの。しかもそれに付和雷同するなんて絶対いや」
「里香子のお母さん、何て言ってた?」
「手遅れになるかもしれませんが、構わないんですね、だって。だから私も言ったの、『うちには中山君は何回も遊びに来ているけれど、ただの一度も問題を起こしたことはありません』って」
「そうしたら何だって?」
「自分のうちさえよければいいんですね、だって。何か言ってること逆だと思わない?」
 それに、大体里香子は中山にぶん殴られたことなんかないはずだ。里香子のお母さんが先頭になって抗議に行くというのはどうも変だと思う。僕がそう言うとお母さんも同意見だと言った。
「まあね、学校だってそんな甘くないわよ。学校の味方をする気なんかこれっぽっちもないけど、いちいち保護者の抗議を真剣に検討している余裕なんかあると思う? 勿論建前はそれじゃいけないんだけどね」
「でもそれじゃ、本当のいじめがあった時なんかどうなるの? 学校がちゃんと調べなかったから余計悪くさせて自殺しちゃった、みたいな話も聞くよね」
 お母さんはうんうん、と何度も頷いた。
「でも今回のケースはそうじゃないでしょう。私は小林さんと中山君の一対一で話し合うべきだと思ってるの。先生がいろいろ考えるのはいいし、必要だけど、他の保護者が騒ぎ立てる話じゃない」
 何だか話が難しくて僕の頭もこんがらがってきたので、それと察したお母さんはそこでこの話を打ち切った。

 結果としてはお母さんの予想通りだったらしい。
 小林と中山の親同士の間で話し合いが行われてとりあえず収まったらしく、吉岡先生も気のせいか明るくなったような気がする。
 里香子のお母さんたちのグループは小林の家抜きで先生に掛け合ったらしいが、「当事者同士でとりあえず解決しておりますので」 とやんわりと介入を断られたらしい。一時期毎日のように里香子のお母さんたちを学校で見かけたが、そのうちにハサミ事件そのもの自体の衝撃性も薄れ、何となく下火になっていったようだ。他のお母さんたちもいつまでもその事を考えている暇はない、ということなのだろう、とお母さんは言った。

   けれど何もかもなかったように元通りと言うわけにはいかなかったようだ。
 この“参加しない宣言”によって、僕のお母さんはすっかり里香子のお母さんには嫌われてしまったらしい。それ以来ぴたっと電話がかかってこなくなった。でもお母さんはもともと井戸端会議が好きではなかったので、「せいせいしたわ」 と言って全く気にしていないようだった。
 ただ中山の事は気になるらしく、時々お母さんは僕に様子を聞いた。でも僕の目から見た中山はそう変わったようには見えなかった。相変わらず平気な顔をして登校して、たまに誰かを泣かせていたが、特に大きな問題も起きていなかった。

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