CMWC Relay Novel vol.2
(2004/02/07~2004/06/30)



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最終話 九竜一三

「あなたは美希さんの実の兄。旧姓、滝川……滝川恵介さん。そうですね?」
 縦溝が、ギョッとした表情で佐久間を振り向き、そのまま身体を硬直させた。他の面々は、佐久間が何を言っているのか理解できず、互いに顔を見合わせている。
「何を言ってるんだ、君は?」
 縦溝はバカにしたような笑みを浮かべて見せたが、それは無理矢理作ったようにぎこちなかった。
 佐久間は、ジーンズの尻ポケットから美希の部屋にあった写真を取り出すと、「ご覧ください」と皆に示した。写真には、縦溝によく似た男が警察官の制服を着て、敬礼している姿が写っている。だが、写真はカラーではあるものの色あせが激しく、ひどく古めかしい。着ている制服も、現在の警察官のものではなかった。そしてよく見れば、まだ若いその写真の男は、皆の知っている顔にも似通ったところがあるように思われた。
「誰……なの? まさか……」
 亜矢子がつぶやいた。何かに気づいていながら、恐怖のために言葉を続けられないようだ。
「縦溝さんの父親です。皆さんがよくご存じの方でもある」
「まさか……お爺様?」
 春香が放心したように、震える声で言った。確かに、写真の男の目元には、頑固だった重蔵の面影が見て取れる。しかし、全体の印象は重蔵よりも穏やかな感じがあった。
「重蔵氏ではありません。弟の、重次氏です」
 皆、「あ!」とあげたきり、声が出ない。誰もが、写真の男が重蔵の肉親であることを確信し、同時にその面影を縦溝にオーバーラップさせることが可能だと気づいたからだ。当の縦溝は、唇を真一文字に結んだまま、佐久間を睨みつけている。
「どういう……ことなんだ? この刑事は、滝川家から養子に出されたと、君は言ったじゃないか。それが、なぜ……。美希の兄、ということは、私とも兄弟ということになるが……まさか……」
 志貴が語尾を途切れさせて、首を振った。自分の考えが、あり得ないと思ったのかもしれない。
「つまり……その刑事さんは、信濃重次と滝川時乃の息子だと、そう言うのか? 時乃は重蔵だけでなく、その弟とも不倫をしていたと?」
 大崎が、さすがに呆れたように言った。佐久間の話の荒唐無稽さに呆れたのか、信濃・滝川両家の乱脈ぶりに呆れたのかはわからない。
「元々、時乃さんは重次氏と不倫関係にあったのです。恵介さんが兄であることからも、それは明らかですね。最初は重次氏との関係をネタにして、重蔵氏が彼女に強引に関係を迫ったのかもしれないとも思いましたが……。今では、時乃さんの方から重蔵氏に迫ったのではないかと思っています」
 美希が、口元を両手で覆った。自らの出生がいかに忌まわしいものであるかに思い至り、吐き気を覚えたようだ。
「重次氏が時乃さんと関係を持つようになったのには、重次氏の妻である久美子さんになかなか子供ができない、という事情のあったことが原因だと思われます。後に冬美さんが生まれているので不妊症ではありませんが、当時、久美子さんの身体は、ある物に蝕まれていた……」
 そこで言葉を切ると、佐久間は意味ありげな視線を田沼弁護士に向けた。田沼は腕組みをしたまま、苦虫を噛み潰した、という表現がピッタリの、なんとも言えぬ顔つきになっていた。
「重蔵氏が違法まがいの商売で金儲けに走ったのに対し、重次氏は生真面目な方だったようです。彼は、警察官への道を歩んだ。ところが、ある事件をきっかけにして重次氏は警察を辞し、今度は弁護士としての道を歩むことになる。その辺は、ご同業の田沼さんの方が詳しいのではありませんか?」
 佐久間は再度田沼に話を振ったが、老弁護士は口を開かない。聞く耳を持たないといった田沼の態度に諦めたのか、咳払いをひとつすると、再び佐久間が語り始めた。
「今回の事件の発端は、そもそも、信濃家と滝川家が結びついた、戦争直後の時期にありました。重蔵氏の遺言状は単に引き金を引いたに過ぎず、火種はずっとくすぶり続けていたのです」
 佐久間は、一同を見渡しながら静かに言った。当初、信濃家を訪れたときに見せていた、軽そうでふてぶてしい言動とは趣をガラリと変えた、何かを達観したような口調である。涼しげな響きがあるのだが、それでいて冷淡さとは異なる、暖かみのようなものが感じ取れる。皆、佐久間の口調に引き込まれたように、耳を傾けていた。
「信濃家は、戦後の闇市を起点に、進駐軍のお抱え仕事を転機として、重蔵氏が一代で築き上げたものです。老舗の商家でもなく旧華族でもない、そんな成り上がり的な財産家でありながら、夫人であった多恵さんが『女帝』と呼ばれるほど権限を持っていたのは、なぜだと思われますか?」
 それは、信濃家の面々が今まで考えたこともなかった問題だった。孫の春香はもちろん、息子である康志や志貴、娘である亜矢子も同じだ。物心ついた頃から、重蔵と多恵の、一種独特の主従関係は自然なものだったからだ。だが、言われて考えてみれば、これは非常におかしな話だといえる。入り婿ならばともかく、重蔵は自らの腕ひとつで今の信濃グループを築きあげている。たとえ惚れ込んでいたとしても、妻である多恵に、何の遠慮があるというのだろう? なぜ多恵が、信濃家の中であれだけの支配権を握っていることができたのか。
「そう、普通に考える限り、どこにも多恵さんが信濃家を牛耳るべき要因は見つかりません。表面上は」
「では、表面下では、何か要因があったとでも言うのか? それが例えば、重蔵氏と滝川時乃夫人の不倫であったとでも?」
 田沼が、皮肉めいた口調で佐久間に返した。百戦錬磨の経験を積んだ、冷静な弁護士のはずの田沼だが、心なしか落ち着かないようだ。和卓に置いた指を、小刻みに上下させている。
「もっと根幹的な問題です。さっき、信濃家と滝川家の結びつきの問題だと言いましたが、重蔵氏と多恵さんの結婚が、その第一歩だったとしたらどうでしょう?」
 皆、「え?」と声をあげた。
「お母様が、滝川家と関係があるというの? そんなはずはないわ。お母様の旧姓は……」
「斉藤多恵さん、ですね」
 亜矢子の後を、佐久間が引き取った。
「そう、斉藤よ。滝川に関係があるなんて、一度も聞いたことがない」
「ちょっと待って。斉藤……斉藤って、どこかで……。信代さん……確か、信代さんの姓が斉藤だわ。でも、そんなこと」
「母さんが使用人の家の娘だったというのか。そんな馬鹿な。ただの偶然だ」
「落ち着け。そんなはずはないじゃないか。使用人の家の出なら、『女帝』なんかになれっこない」
 皆が口々に叫ぶのを、志貴が吐き捨てるような口調で制した。かつて、恋人と無理矢理別れさせられた志貴にとってみれば、母親が『使用人の家の出』などであってはならないのかもしれない。苛ついているのか、皆の前では吸わないようにしているパイプに、火をつけようとしている。
「あなた」と美希にたしなめられ、慌ててマッチの火を消した。
「多恵さんは、斉藤家の養女になったのです。一時的にね」
 何事もなかったように、佐久間が話を続けた。
「一時的に養女に……では、本当のお母様の旧姓は」
「滝川……多恵」
 絞り出すような声で応えたのは、今までじっと立ちつくしていた縦溝だった。
「滝川! で、では母さんは滝川家の……」
「次女だった、ということです。当時の滝川家は女系家族で、遼太郎氏は婿養子として滝川家に迎えられています。時乃さんが長女、多恵さんが次女。二人は実の姉妹でした」
「そんな……なんだってそんな、養女に出すなど……」
「昔、まだ身分制度があった頃、士族や華族が町人や農民の女性を娶る場合、一時的に士族や華族の養女となるケースが数多くありました。今回はその逆のケースです。滝川家は、明治時代に当時の当主が華族令公布で伯爵の爵位を受け、古くから一時代を築いてきた旧諸侯華族のひとつです。闇市から成り上がった信濃家とは、明らかにその“格”が違う。ところが、軍需部門の閉鎖と戦火、そして華族制度廃止・財閥解体で、滝川家は崩壊寸前だったのです。滝川グループ、いえ、一族が生き残るためには、どうしても豊富な資金力を持った人間との結びつきが必要で、白羽の矢が立ったのが信濃重蔵氏だった。しかし、いかに重蔵氏が資産を持っているとはいえ、滝川家から見れば、卑しい身分であることに違いはない。そこで滝川家は、次女を平民レベルの家庭に養女として出すことによって、多恵さんの“格”を、一時的に下げたのです。滝川家としては、『滝川多恵』として信濃家に嫁ぐのだけは、なんとしても避けたかったのでしょう。重蔵氏にとっても、否定するべき条件ではなかったでしょう。滝川家とパイプを作るということは、数多くの旧財閥ともパイプができることを意味します。また、滝川家に恩を売ることは、将来の信濃グループの発展のために、大きな貸しになると判断した。事実、信濃グループは、現在のように巨大なコングロマリッドとなりました。かたや滝川グループの方は、三十六年前に時乃さん、遼太郎氏が相次いで亡くなって以降、衰退の一途を辿っています。重蔵氏が、度々資金提供をしていたのは、志貴さんならご存じですね」
「一連の資金提供は、確かに信濃グループにあまり利のないものだったが……。父さんと遼太郎氏との関係だとばかり思っていた。母さんの方だったとは……」
 佐久間の言うことが本当なら、多恵が『女帝』として権限を持っていたのも頷ける話だった。政略結婚とはいえ、多恵にとっては、重蔵は格下の身分の男でしかなかったのだ。
「こうして、信濃家と滝川家のなんとも奇妙な、そして忌まわしい血の絆が生まれ、様々な人の運命を変えることとなりました。縦溝さんも、その一人というわけです」
 縦溝は佐久間の指摘に反論せずに、ただ立っている。下ろされた両の拳は握られていて、何かに耐えているようだった。
「待ってくれ。なんだかわけがわからなくなってきた。そこにいる刑事さんが滝川時乃と信濃重次の息子なんだとしたら、美希さんとは異父兄妹になるってことだな。それで、志貴さんは志貴さんで、美希さんとは異母兄妹ということだ。そうなると、刑事さんと志貴さんも兄弟になるのか、それとも従兄弟なのか? おまけに、父親同士も兄弟ということになれば……こいつは、こいつはどういう関係になるんだ?」
 大崎が口を挟んだ。興味がある、というわけではなく、本当にわけがわからなくなっているのだろう。しきりに頭を撫でて、瞬きを繰り返している。
「それより、なぜ部外者の君が、そんなことまで知っている?」
 志貴がパイプを佐久間に突きつけた。皆も、同じような疑問を持っているだろう。一斉に佐久間を見た。
「これは、僕が調べたわけではありません。寺西勇二さんから、うかがった話です」
「寺西君が?! あの思慮深い男が、君のような若造にペラペラと信濃と滝川の関係を話したというのか?」
 田沼は相当驚いた様子で、身を乗り出した。あまりに驚いたからか、自分が口を滑らせたことに気づいていない。『信濃と滝川の関係』と口にしたことで、佐久間が語ってきたことが真実であることを暴露してしまっていた。最も、一同がそのことに気づいたのは、後々のことだったのだが。
「法律家の彼が、守秘義務のなんたるかを知らぬはずがない。それが……」
「寺西さんは代々法律事務所を経営していらっしゃいますから、その辺は熟知されていますよ。今回は、事情が特殊だったということです。そういえば、重次氏が警察を辞して弁護士の道を進み始めたとき、彼に助力したのは勇二さんの父親である勇作氏と田沼さんだったとか」
 田沼は再び口を閉ざした。今度は、回答を拒否するためではなく、何か考え事をしているようだ。
「重次叔父が元警官だったとは、まるで知らなかった。俺たちが知っている叔父は、温厚な感じの弁護士だったんだが……」
 康志がしみじみした口調で言い、志貴と亜矢子も頷いた。彼ら兄弟にとっては、頑固でクセのある重蔵や厳格で潔癖な多恵より、重次と遊んだ記憶の方が多かったのだ。重次夫妻もまた、自分たちに子供ができなかったためか、康志たちの面倒をよく見た。
 春香もまた、好々爺然とした重次の笑顔をよく覚えている。その笑顔が、一転して変わったのは冬美が生まれ、同時に久美子が亡くなったときだった。笑顔は変わらなかったが、その中に哀しみのようなものが混じるようになった。自分たちが冬美に対して複雑な感情を抱くようになったのは、ひょっとしたらそのせいなのかもしれない、と今さらながら春香は思い至った。
 優しかった叔母と、叔父の笑顔を奪った妹。冬美の責任ではない。叔父夫婦は、自分たちの子供を切望していた。念願の子供ができて、二人は本当に幸せそうだったのだ。それなのに……。
「重次氏が警察を辞したことは、信濃家内で語られることはありませんでした。それはひとつの汚点として、信濃家ではタブー視されていたのです」
「汚点……とは?」
「やめたまえ! 故人の名誉を、無為に貶めるのは!!」
 志貴が聞くのと、田沼が叫ぶのはほぼ同時だった。春香も亜矢子も、呆然とした面もちで田沼を見ている。この老弁護士が、ここまで感情を露わにするのを、皆初めて見たのだ。
「貶めるつもりはありませんよ。僕は、むしろ重次氏の行為は、誇っていいものだと思います。人を救うという観点においては」
「誇る? ばかな。犯罪者を匿ったうえ、その世話をしている内に深い仲になってしまうなどと……。我々弁護士であっても許されん行為だ」
「久美子叔母のことを……言っているの?」
 亜矢子の声は震えていた。普段のわがままぶりは影を潜め、次々に明かされる過去に怯えてるかのようだ。
「久美子さんは当時、ヤクザ者の情婦だったようです。ある組の若頭だったその男は、久美子さんを麻薬漬けにして、彼女に買収を強要していた。一九五六年に売春禁止法が成立する以前、まだ赤線と呼ばれる売春公認地域が残っていた時代のことです」
 久美子は十八年前、五十五歳で亡くなっている。一九五六年以前ということは、彼女はまだ未成年だったはずだ。春香は顔をしかめた。小さな頃から広大な屋敷で暮らし、実社会の荒波をまともに受けていない彼女にとって、麻薬や売春という言葉は、嫌悪感しか抱かせなかった。それが、自分たちの家族に関係していたとは……。
「ところがあるとき、麻薬――当時はヒロポンですが――の幻覚症状で錯乱した久美子さんは、ヒモだった若頭を刺し殺したのです」
「……その久美子さんを、重次氏は保護した。夜の街を、血まみれでフラフラと歩いているところを、パトロール中の重次氏が発見したんだ。だが、彼は職場に報告をせず、自宅に匿ったのだ」
 田沼がぼそりと、佐久間の言葉を継いだ。声を荒げてしまったことで、自分を縛りつけていたものを外してしまったようなつぶやき方だった。
「久美子さんを警察に引き渡してしまうことは、危険だと判断したんでしょう。若頭というヤクザ者の身分を考えれば、乾分たちが彼女に報復するであろうことは、大いに考えられた。久美子さんが逮捕されれば、麻薬を抜くために、まず間違いなく警察病院に収監されます。留置所や刑務所に比べて、病院に入り込んで彼女を襲うことは、非常に容易だったはずです」
「あれは、危険な賭けだったよ。寺西勇作から私に話が回ってきたとき、重蔵氏はいくつもの訴訟を抱えていたのだ。戦後のどさくさで、違法すれすれに他人から土地や金銭を巻き上げていたからな。そこに、犯罪者を匿ったなどという身内のスキャンダルが表沙汰になれば、あらぬ先入観を裁判官に与え、敗訴に追い込まれかねない。そこで重蔵氏は、重次氏と久美子さんを、この屋敷内に隠すことにした。さすがに、ヤクザ者ごときでは簡単に手を出せぬほど、信濃家はすでに力を持っておったからな」
「久美子叔母に……なかなか子供ができなかったというのは、それでは……」
「麻薬が原因の一つだったのでしょう。過去の赤線での辛い経験が、重次氏との性行為を難しくしていたのかもしれません。それが、重次氏と滝川時乃さんとの関係を生むわけですが。……その後、麻薬は完全に身体から抜け、なんとか子供も授かりました。が、今度は彼女の身体が耐えられなかった……」
「私も重次氏も、何度も止めたことがある。それでも、久美子さんは自分たちの子供を強く望んだんだ。自分がどうなるのか、彼女はわかっていたのかもしれん。結局、冬美さんを産むのと引き替えに、久美子さんは息を引き取った……」
 冬美がダウン症を患って産まれてきたのは、高齢出産であったことももちろんだが、久美子自身の身体に原因があったのだろう。その彼女の望みであった冬美も、今はもういない。
「昔の事情はわかった。だが、それが今度の事件とどう関係しているんだ? オヤジやオフクロも、重次叔父や久美子叔母も、滝川の方だって、直接の関係者は、皆故人じゃないか」
 康志が、不審げに問いかける。異常ともいえる家系の構図に半ば放心状態だったのが、ふと気づいた、という感じだ。
「そうよ。なぜ、冬美や夏江や秋季が殺されなければならないの? それに、信代さんまで……」
 信代の名前が出ると、縦溝の顔は大きく歪んだ。その表情は、大いなる苦痛に耐えているようであり、大事なものを失ったようでもあった。
「信代さんもまた、信濃家の家系図に大いに関係しています。縦溝さん、あなたは信代さんの父親が誰であるのか、薄々気づいていたのではないですか?」
 縦溝は立ったまま、大きく息を吐き、肩を落とした。ゆっくりと佐久間の方を向くと、諦めたような口調で語った。
「確証はない。だが、斉藤信代は重蔵の娘だと思う」
「な、なんだって?!」
 康志と志貴が、同時に叫んだ。亜矢子、美希、春香も口を開いたが、声すら出てこないようだ。
「斉藤久代さん、これは信代さんの祖母にあたる方ですが、重蔵氏は彼女を母親のように慕っていたといいます。幼くして両親を亡くした重蔵氏としては、自分が成功するまで仕えてくれた久代さんに、母親のイメージを重ね合わせたのも自然なことでしょう。その娘である紀代さんに対しても、なにがしかの感情を抱いても、おかしくはありません。ましてや、多恵さんとの結婚が政略的なものであるならなおさらです」
「斉藤紀代は愛人、二号さんだったわけか。確かに、あの時代なら……」
 大崎が独り言のように言った。
「彼女は――信代は、“自分には姉がいたらしい”と話していた。“死んだと聞いている”とも。しかし、信代の姉は生きているんだ。信濃亜矢子として……」
「私!」と、亜矢子が両手で口元を覆った。使用人であった信代が自分の妹であったとは、にわかに信じられまい。
「本当のことは、公にできません。久代さんは姉だけでなく、兄が二人いることまでは伝えなかった。そこまで知らせてしまったら、あまりに家族構成が似すぎていることに、信代さんが気づくかもしれないからです。しかし、孫の信代さんには重蔵氏の側にいて欲しいと、そう望んでいたのだと思います」
 今にしてみれば、信濃家の中で信代がいかに優遇されていたかに、亜矢子たちは気づいていた。信代は主に、重蔵の身の回りを任されていたのだ。確かに働き者ではあったが、それだけが理由ではなかったのだ。
「彼女の名前に“信”の文字が使われているのは、信代さんが信濃家の一員であることを、久代さんは暗に示していたのでしょう」
「信代さんが、私の妹……それじゃあ、死んだ四人は、皆私たちの家族だったというの? なんて、なんてこと……」
 亜矢子はかすかに、肩を震わせている。普段はとげとげしい印象のある、そんな彼女の肩を、大崎がやんわりと抱いていた。
「誰なんだ? こんなことをしでかしたのは、一体どこの誰なんだ? 早く手を打たないと、今度は春香が、春香が危険じゃないか!」
 志貴はふらふらと春香の隣、先ほどまで佐久間が座っていた座布団へと移動し、それに呼応するように、美希が春香を抱きしめた。春香は、されるがままになっている。
「縦溝さん、いや滝川恵介さんと呼べばいいのか……とにかく、春香ちゃんの警護を強化してください。これ以上、秋ちゃんの姉妹が殺される姿なんか、見たくない」
 康志が訴えた。だが、縦溝はその場に立ってうつむいたまま動こうとはしない。戸口に立っていた二名の制服警官も、指示が出ないためにどうしていいのかわからず、警部の方を見ている。
「……もう、誰も殺される心配はありません」
 静かに口を開いたのは、やはり佐久間だった。
「そうですよね、縦溝さん」
 佐久間の問いに、縦溝は肩をびくりと痙攣させ、頭を垂れた。そのまま、畳にがくりと膝をつく。
「どういうことなんだ? もう殺されないとは? まさか、まさかその刑事が……」
 感情をむき出しにして、身を乗り出した志貴の腕を掴んで制した者がいる。田沼だった。
「今回の一件、やはり私にも責任の一端があるようだ」
 悲痛な表情で、田沼が言った。
「確かに、田沼さんにも責任はあるでしょうね。ただ、それもこれも重蔵氏の依頼というか、意志に従った結果でしょう」
「どういうこと? お爺様の遺志って……お爺様は、秋ちゃんが言ったように、私たち姉妹を守ろうとしたのではないの?」
「正確には違います」
 春香を痛ましげに見やりながら、佐久間は告げた。
「重蔵氏の遺言状は、あれはいわば、ひとつの賭けのようなものだったと思われます」
「遺言状を巡って、色々な争いが起こるかもしれんとは、重蔵氏も思っておったろう。だが、ここまで事態が急変するとは……」
「田沼さんにお尋ねしたことがありましたね。遺言状の内容を、寺西さんが知っていたのではないかと」
「ん? ああ、私の事務所で君が聞いたんだったな。答えは同じだ。私は見せてなどいないよ」
「しかし事実、寺西さんは知っていました。だとしたら、別の誰かが遺言状の内容を、事前に寺西さんに知らせていたのです。寺西さんは答えてくれませんでしたが、その相手は重蔵氏ではなかったかと、僕は思っています」
「な、そんなばかな。遺言内容を、自ら第三者に知らせたというのか?!」
「寺西さんが冬美の法定代理人であったことを認識していたのは、重蔵氏、田沼さん、あとは父親の重次氏ぐらいでしょう。田沼さんが伝えていないのであれば、重蔵氏が伝えたという可能性が一番高いと思われます。おそらく、田沼さんがこの居間で遺言状を公開されたのと同時刻に、開封を指定されていた書面か何かが残されていたのでしょう。でなければ、寺西さんがあれだけ迅速に冬美さんの危機を察し、相続放棄手続きを進められた説明がつきません。もっとも、それを上回る早さで事件が起こってしまったわけですが」
 田沼は黙り込んでしまった。しきりに顎のあたりを撫でさすり、何かを考え込んでいる。目の焦点が、ふっと虚ろになり、即座に戻った。驚愕の表情になっていた。
「そうか……そういうことなのか。だから賭けなんだな? 信濃と滝川の一族が絶えるのか、それとも存続するのか……」
 そのまま、再び田沼が黙ってしまったので、後を佐久間が引き取った。
「遺言状が公開されれば、それを引き金として相続争いが起きるであろうことは、重蔵氏は十分承知していました。いえ、むしろ争いを起こすべくして書かれた遺言状だと言っていいでしょう。田沼さんは、死人が出るとまでは思っていなかったでしょうが、重蔵氏は惨劇も起こり得るだろうと予感していた。そうなればそれでよかった。あまりに複雑に混じりすぎた、信濃家の血、滝川家の血を清算するために」
「血の……清算? わ、我々の中に流れる両家の血を断とうと? オヤジが……私たちを皆殺しにしようとしていたと言いたいのか?」
「いえ、死人が出ずに終わる可能性も十分ありました。だから賭けだったのです。が、事態は悪い方向へと転がりました。寺西さんも、この危険さに気づいたのです。残念ながら、遅きに失したのですが……」
「お爺様が、私たちに殺し合いを望んだというの? そんなはずない! だって、だって秋ちゃんは“私たちを守るために書かれた”って」
「本当にそう思えますか?」
 佐久間の問いに、「それは……」と春香は詰まった。
 確かに考えてみれば、自分たち三姉妹にとっての相続条件は非常に厳しい。今までは、秋季の言葉を鵜呑みにしていたのだが。
「重蔵氏の遺言内容は、あまりに受取人がコロコロと変わりすぎる。しかも、かなり厳しい条件付きだ。特に、春香さん、夏江さん、秋季さんの三人が『共に六十日以内に結婚しなければならない』という条件は、普通に考えれば不可能でしょう。秋季さんに限り、康志さんと結婚するチャンスがありましたが、いくら重蔵氏でも、お二人の関係を知っていたとは思えません」
「あ、当たり前だ。秋ちゃんとの関係がバレていたら、オヤジに家を追い出されているところだ」
「逆に考えれば、今回の遺言は、康志さんにとって非常に有利だったと言えます。結婚相手を捜すふりをして家族をごまかしておけば、結婚の準備を進めることは難しくなかったでしょう。康志さんに関して言えば、動機面では最も薄いと見ていいでしょう。次に、春香さんについてですが、夏江さんが亡くなった時点で、相続対象からは完全に外れていますね。動機としては薄いでしょう。次は……」
 佐久間の語りは、ようやく本題に入ったのか、容疑者を絞り込むような内容になってきていた。しかし、動機面から容疑者を消去していくということは、やはりこの中に犯人がいるというのだろうか……。
「次は、志貴さんと美希さんです。お二人に関しては、遺言状にはいかなる条件も書かれていませんね。つまり、どのような結果になろうと、お二人には法定分の遺産しか入らないことになるのですが、考えてみれば、これは相続争いに巻き込まれる心配のない、一番安全な立場にあったとも言えます」
 志貴と美希は、春香を挟んで顔を見合わせ、お互いに複雑な表情を浮かべた。母親が違うとはいえ、兄妹であることは間違いがない。思えばこの三年間、寝室を別にするまでになった決定的な原因を、二人は思い浮かべることができないでいた。ただなんとなく違和感を抱いて、お互いを避けているうちに、二人の間の溝が大きく開いていった。その違和感が、近親憎悪ともいうべきものであることに、ようやく気づいたのだ。
「志貴さんの場合、事業部門を生前贈与されており、現在は信濃グループの会長にあります。そして、重蔵氏が退陣して以降も、その手腕で業績を伸ばされている。遺産が入らずとも、独自の資産が相当額あるでしょうから、重蔵氏も遺言状に組み入れなかったのだと考えられます。また、お二人が兄妹であることを知っていた重蔵氏としては、特に美希さんを争いに巻き込みたくなかったのかもしれません。いずれにしろ、お二人の動機は薄いと言えるでしょう」
「ちょ、ちょっと待ってよ。それじゃあ、私しか残ってないじゃない! 冗談じゃないわ!」
 今までうなだれていた亜矢子が、驚いて顔を上げた。大崎がその方をしっかり押さえていなければ、佐久間に突っかかっていきそうな勢いだった。
「そうですね。遺産がらみという点では、一番動機が強い。実際には、冬美さんを殺したところで、相続放棄とはみなされないわけですが、そのあたりはご存じなかったようですから、短絡的な考えを持っても、決しておかしくはないでしょう」
「いやいや、待ってくれ。冬美ちゃんが落下したとき、亜矢子は僕や春香ちゃんたちと一緒にいた。夏江ちゃんのときはいなかったが……いや、あのときは夏江ちゃん以外の足跡がなかったんだ。少なくとも亜矢子は、洋館にはいなかったはずだ。後から、母屋の方から志貴さんたちと駆けつけてきた」
 大崎が亜矢子をかばう。普段は軽薄そうな男だが、今は真剣な表情だ。
「あなたが協力すれば、犯行は可能かもしれません」
「な?!」
 亜矢子と大崎が共犯なら――。春香は身体を震わせた。あのとき、夏江が倒れていると春香を呼びに来たとき、大崎が夏江を殺害した直後なのだとしたら……。いや、共犯でなくとも、亜矢子に財産が流れるよう、大崎が単独で犯行を重ねたとも考えることができる。我が強いとはいえ、亜矢子に歳の離れた従姉妹である冬美、姪である秋季や夏江が殺せるとは思えない。家族以外の大崎を疑えるなら、まだ気が楽というものだ。
「実際、先刻まで僕は、その考えを捨て切れずにいました。しかし……」
 しかし? 二人は犯人ではないと、佐久間は言うのだろうか。
「亜矢子さんも大崎さんも、犯人である可能性は低いと思います。先ほどまで、お二人は康志さんと秋季さんの関係をご存じなかった。亜矢子さんの驚き方がウソだとは、僕には思えません。康志さんたちの関係を知らなかったのであれば、秋季さんの殺害は無意味です」
「あ」と、春香は思わず口にした。確かにそうだ。山茶花を持った冬美が死に、向日葵を持った夏江が殺されたから、秋季も――季違いではあったが――四季の花に見立てて殺されたのだと、単純に思っていた。桜の花びらを使った落とし穴があったことで、次は自分の番だと思っていた。
 しかし。
 遺産目的の犯行であるなら、秋季や春香を殺すことは意味を持たない。夏江が死んだ時点で、秋季も春香も相続権を失うからだ。だとしたら、秋季はなぜ殺される必要があったのか。考えられるのは、康志との関係である。康志の結婚を阻止するために、恋仲である秋季を殺すという考え方だ。だが、なぜ康志の方を殺さずに秋季を殺すのか。
「犯人は……あくまで見立てにこだわったということなの? それとも、女の方が殺しやすいと思ったから? でも桜は……あの桜は……」
 混乱しかけている春香の問いかけに、やや沈痛な表情を向けて、佐久間は答えた。
「見立てはこだわりではありません。あれは、犯人のトリックのひとつでした。そして春香さん、あなたもやはり、命を狙われていたんです」
 春香がビクッ、と反応した。志貴と美希も、心配そうな顔を春香に向ける。
「僕が、この事件が遺産目的ではないと最終的に判断したのは、その点です。秋季さんの秋桜は本人が購入しているので置いておくとしても、春香さんには桜が用意されていた。春香さんを殺害するということは、相続には何ら影響を与えないばかりか、容疑者の幅が、さらに絞られてしまう」
「つまりは……犯人は、遺産が手に入ろうが入るまいが、四人とも殺すつもりだったのか……」
 頭を抱えた志貴には答えず、佐久間は続けた。
「遺産目的でないなら、犯人の動機は何なのか? 何らかの怨恨なのか、あるいは復讐なのか。もちろん、遺産目的以外の動機なら、今まで除外された人たちも、再びリストに加えなければなりませんが……」
 信濃家の面々が再び、身体を硬直させて佐久間を見た。佐久間はわずかに苦笑しながら、「それでも、皆さんの中に犯人がいるとは思えません」と続けた。
「春香さんは命を狙われる側、志貴さんと美希さんは春香さんたちの両親、康志さんは本当に秋季さんを愛しておられた。亜矢子さん、大崎さんは、遺産の件を除けば、逆に動機らしきものが無くなってしまいます。結婚されたらあの洋館に住みたいということでしたが、その程度で家族を殺すというのも、現実的ではありません。つまり、ここにいらっしゃる信濃家の皆さんは、犯人ではある可能性は低い。ゼロというわけではありませんが、僕はそう思います」
 皆、安堵した表情になったが、そこには漠とした不安もある。自分たちの中に犯人がいないのなら、誰が犯人なのだろう? 残る関係者から見ると、弁護士である田沼か、それとも警官である縦溝、いや滝川恵介か、それとも、この場にいない第三者か。
「秋季さんの殺したのは、縦溝さん、あなたですね」
 佐久間が簡単に、しかし静かに告げた。
 居間全体を、無音が支配した。次の瞬間、叫び声を上げて縦溝に掴みかかった者がある。康志だった。普段の彼からは思いもよらない、素早い動きだった。拳で、膝をついている縦溝の左頬を殴りつける。縦溝はわずかに身体をぐらつかせたが、されるがままになっている。戸口に立っていた警官たちが走り寄り、背後から抱えるようにして康志を引き離した。それでも康志は泣き叫び、手足を振り回している。田沼も大崎も、彼を止めようと足を踏み出したまま固まってしまっていた。康志がそれほどまでに秋季を慕っていたのか、と今さらながらに気づいたのだろうか。志貴も拳を握っていたのが、機先を制されて唖然としている。美希は春香の頭を抱きしめ、春香は康志ではなく、殴られるままの縦溝を見つめていた。
「殺した、というのは言い過ぎかもしれませんね。追いつめてしまったと言うべきでしょうか」
 切れた口元を拭い、縦溝は佐久間を見やった。素人の康志に殴られたぐらいでは、大したダメージを受けていないらしい。
「だが、殺したのと同じかもしれない……。彼女を追うとき、明らかに私には殺意があった」
「じゃあ……本当にあんたがやったのか」
 今度は志貴が前に出ようとし、大崎に止められた。娘が二人死んでからも感情を乱さず、冷淡ともいえる態度を貫いてきた志貴だが、ここにきて、その仮面が剥がれ落ちていた。彼もまた、父親なのだった。
「縦溝さん、あなたが秋季さんを追いつめてしまったのはなぜです? 美希さんを守るためですか? それとも、信代さんの復讐のためですか?」
 一同が凍りついた。縦溝は目を閉じて、何かを噛みしめるように唇を震わせている。康志と志貴は、惚けた表情のまま、それぞれ警官と大崎に支えられている。亜矢子も美希も、わけがわからないという表情だ。春香もまた、同じような状態だったが、それでも美希の手を振り払って身を乗り出すと、「佐久間さん……何を、何を言ってるの?」と、佐久間の言動をとがめるように口を開いた。だが、そこから先は続かなかった。
「縦溝さん、あなたは今回の事件が起こる以前から、信濃家に出入りされていましたね。斉藤信代さんのもとへ。妹である美希さんの様子を窺うためですね。重蔵氏が病に倒れて以降、何かあれば美希さんを助けようとしていたのではありませんか? そのために、信代さんに近づいたのでは?」
「違う……いや、美希を守るという点はその通りだが、信代に近づくつもりなどなかった。あれは、偶然だったんだ……」
 縦溝は遠い目になって、「信濃家の周囲を、窺っていたときだ」と、話を続けた。
「勝手口から出てきた信代に、ばったり会ってしまった。私は、身分を証明したうえで、この山中に窃盗犯が逃げ込んだという名目をでっち上げて、敷地内に入れてもらった」
「本来なら、県警強行班の警部であるあなたが、単独で捜査するなどあり得ない話ですが、信代さんにそのあたりの知識はなかった、というわけですね」
 何度か信代のもとを訪れるうち、彼女と縦溝は深い仲になった。それも、どちらかといえば、信代の方から縦溝にアプローチしたのだという。真面目な使用人、という普段の信代からは考えられないような話ではあるが、彼女の出生の秘密が明らかになった今では、何となく理解できる、と春香は思う。縦溝には、父親である重次の面影がある。ということは、重蔵の面影もあるということだ。信代は無意識のうちに、父親である重蔵と似た縦溝に――本人は知らなかったにせよ――惹かれたのではないだろうか? 同時に春香は、縦溝と信代にも血の繋がりがあったことに慄然としている。なんという交わりなのだろう、信濃家と滝川家は。
 そして――。
 そして、佐久間が示唆しているのは、秋季が犯人であるということなのだ。
 冬ちゃん、夏ちゃん、信代さんを、秋ちゃんが殺した?
 どうしてそういうことになるのだろう? 秋季はまだ、大学院に通う院生だった。二十代前半の娘が、三人もの人間を殺したというのか。
「秋ちゃんが人殺し? そんなの、信じられない。そんなこと、あるはずがない!」
 あの夜――秋季が生きていた最後の夜、二人して昔の思い出を語り合ったあの時間、あれは決して虚構ではないはずだ。互いに本当の姉妹として、幼い頃からの記憶を探り合い、笑い、泣き、じゃれ合った。それが……。
「今回の事件、動機は遺産ではなく、信濃・滝川両家の隠れた確執にあると言いました。滝川家の娘である多恵さんに、一番覚えがよかったのはどなたですか?」
「それは……」
 秋季であることは間違いない。将来、志貴がグループの会長を退くことになったら、次の座に納まるのは秋季かもしれないという、漠とした予感を皆持っていた。幼少の頃から『女帝』である多恵より、直々に帝王学を聞かされて育ったのが秋季だった。
 佐久間が言いたいのはつまり、秋季が多恵の遺志を継ぐように、遺産も含めて自分の邪魔になる人間を、次々に殺していったということなのだろうか。冬美は、その存在自体が足枷になりかねなかった。夏江や春香は互いの立場を主張して、秋季の行く手を阻むだろう。夏江が春香より先に殺されたのは、『探偵を呼ぶ』ようなまねをしたからかもしれない。信代は……“身代わり”なのだろうか。 死体の側にそれぞれ季節に合わせた花を残したのは、『四季=志貴』、あるいは実の娘の数『三季=美希』などという、ジョークのような見立てではなく……。
「自分が殺されたと見せかけるために、焼却炉に放り込んで信代さんの顔を焼き、秋桜を置いたんでしょうね。容疑者の圏外に、自分を置くために。皮肉にも、その直後に自分の仕掛けた罠に落ちてしまい、一連の事件の続きと見られてしまったわけですが」
「バカな!! オフクロが死んだとき、秋ちゃんはまだ十六歳だぞ!」
 警官に抱えられたまま、康志が震える声で叫んだ。無理もない。恋仲だった秋季が、被害者だけではなく、加害者だとも告げられたのでは……。
「思春期の、一番様々な影響を受けやすい年代だ。小学生の頃から多恵さんに教育を受けていた秋季さんなら、あるいは……」
 黙り込んでいた田沼が、ぼそりと言った。先ほどからずっと黙り込んでいた弁護士は、一気に老けたように見える。
「志貴さん。多恵さんが亡くなった後、秋季さんはあなたに、滝川グループへの資金提供について問いかけたことはありませんか?」
「え……いや。待てよ。確か、経済学部でのレポートがどうとかで……」
「その頃はすでに、資金提供は凍結されていましたね」
「ああ、返ってくる見込みがなくなって、父さんに相談のうえ凍結した。あっさり決めてくれたんで、私の方が拍子抜けした。あれは……七年ほど前か」
 多恵が亡くなって、一年経過した時点だ。喪が明けたから、重蔵も滝川を切るのに躊躇しなかったのかもしれない。
「秋季さんは、多恵さんから全てを受け継いでいたのかもしれない。多恵さん自身の出自だけでなく、美希さんの出自についても」
「秋季が……私の出生の秘密を? 私も知らなかったのに……どうして、お義母様が……」
「重蔵氏も、多恵さんは知らないと思いこんでいたでしょうね」
「まさか……まさか君は、重蔵と時乃の関係を、多恵が仕組んだとでもいうのか? そんなバカな!」
 縦溝も、さすがに驚いている。
「そうではありません。おそらくは、時乃さんの方が仕組んだのでしょう。滝川家としては、信濃家の財産の全てを、いずれは取り込もうと計画していた。多恵さんがその第一歩、時乃さんとの関係が第二段階だった。信濃グループから滝川グループへ資金が流れ始めたのは、この時期からのはずです。第三段階は、滝川の遺志を継いだ後継者を育てること。本来なら、娘である亜矢子さんが担うべき役割だったかもしれませんが、適正がないと判断されたのでしょう。そこで、多恵さんは、美希さんをこの家に迎え入れた。孫に、役割を引き継ぐために。選ばれたのが、秋季さんだった……」
「私……私、何も知らない! そんなこと、聞かされてもいない!!」
 うろたえる美希のもとに、志貴が戻って肩に手を置いた。立っている志貴を見つめ、「あなた……」と涙声で訴える。
「ええ、時乃さんは、美希さんに意志を伝えられる年齢になるより前に、亡くなってしまった。美希さんがご存じないのも、無理はありません。僕は、この時乃さんの死後、遼太郎氏が続けざまに亡くなっていることにも疑問を持っています。確かめる術はありませんが……」
 ひょっとしたら佐久間は、滝川遼太郎が時乃を殺したと思っているのではないだろうか? そして、それを苦にして遼太郎は……。
「多恵さんは、全てを秋季さんに託して亡くなった。だが、多恵さんが亡くなって一年しか経たないのに、重蔵氏は滝川グループへの資金提供を凍結した。秋季さんにとって、この重蔵氏の判断は裏切り行為に思えたことでしょう。そこから秋季さんは、様々なことを考え始めたのではないでしょうか?」
 祖母の意志を継いだ秋季、滝川の意志を継いだ秋季……。それが、姉妹や家族を殺す動機に、なりうるのか……。
「秋季さんは事前に、いくつかの準備を行っています。康志さんと関係し、そして重蔵氏の日記を、康志さんに見せること。地下倉庫の鍵を手に入れて、合い鍵を作ること……」
 康志との関係は、偽りだったのか? 秋季が春香に見せた、あの幸せそうな顔も、偽りだったのか?
 康志が、がっくりと頭を垂れた。全身の力が抜けてしまったように、畳に両膝をつく。警官たちが支えていなければ、そのまま倒れ込んでしまいそうな状態だった。
「遺言状が公開された後、秋季さんはいよいよ計画を実行するときがきたと、そう判断したのでしょう」
 計画――それは、秋季という娘を表現するのに、あいふさわしい言葉なのかもしれない。いつも冷静で、状況判断を怠らなかった秋季。たとえ危険で無謀だと思える行動を起こしたときも、その裏には冷静な計算があった。信濃家では異例ともいえる大学院に進んだのも、秋季なりの計画があったのだろう。その結果が――。
「でも……でも、待って。冬ちゃんが落ちたとき、秋ちゃんも私たちと一緒にリビングにいたわ。冬ちゃんを殺すことなんか、不可能よ。夏ちゃんのときだって……」
 夏江の殺害現場には、秋季どころか誰も近づけなかったのではないだろうか。
「どちらも、トリックを使うことによって成されたものです。春香さん、冬美さんが亡くなられた日、あなたは警告を受けていましたね」
「え、ええ。『二十一時になる前に、冬美以外の人物を、すべて洋館から外へ連れ出せ。さもないと……』と」
 あの、押し殺したような奇妙な声、書かれた台本を棒読みしているような無感情な声も、秋季のものだったというのだろうか。
「春香さんの携帯番号や、造花のある場所を知っているという時点で、身近な人間だと疑ってもよかったと、僕は思うんですが。それはともかく、春香さんは警告に従わなかった」
「だって、そんなの無理よ。ただのいたずらかもしれないし、あのときは、亜矢子叔母様と大崎さんがいらっしゃったし……。それに、冬ちゃんだけ残すなんて」
 仲のよい姉妹ではなかったかもしれない。実の妹ではないのに加え、呂律の回らない冬美の話し方は、春香たちをときに苛立たせた。遺言状が公開されて以降、冬美に対しては冷淡に接していたと、春香は自分でも思う。だが、決して憎んでいたわけではないのだ。冬美の危うげな姿は、春香たちの保護欲をかきたてるものがあり、どちらかといえば、彼女を守ろうとする気持ちの方が強かった。優しかった叔父や叔母の、忘れ形見でもあったのだから。
「その警告の電話は、春香さんだけではなく、夏江さんや秋季さんにもかかっていたはずです」
「え?」
「その警告の電話をかけたのは、おそらく冬美さん自身だったのだと、僕は思います」
「ど、どうして? なんだって冬ちゃんが!」
 冬美が、自らの危険を警告した? わけがわからない、と春香は思った。あれは、警告ではなかったのか?
「冬美さんは、逃げ出したかったのでしょうね。自分の置かれている状況から。遺言状が公開されて以降、自分に対する周囲の視線が、明らかに敵意に満ちていることを、冬美さんは敏感に感じ取っていたんでしょう。ずっと自室に閉じこもってなんとか耐えていたのでしょうが、それにも限界がきた。もうこの家にいることができないと思ったのか、寺西さんに相談しようとしたのか、そのあたりはわかりませんが、とにかく洋館を抜け出そうとした。そのためには、春香さんたちが洋館にいては困る……」
 自分がこっそりと家を抜け出すために、他人を洋館から遠ざけたかった、ということか。車を運転できない冬美は、この山の中腹に建つ信濃家から、徒歩で降りて行かねばならない。確かに、冬場の気温や終電の時間等を考えれば、あの二十一時という時間帯は、街へ降りるにはギリギリの線かもしれない。
 あの電話の声が、冬美の声……。春香は呆然としながら考える。あのセリフは……あれだけの分量でも、冬美には辛かったはずだ。冬美は、あのセリフを言うために、自分がしゃべっていると悟られないために、どれだけ練習したのだろう? それを考えると、春香は胸が締めつけられた。
「秋季さんはその電話を受けて、冬美さんのものからだと気づいたのではないでしょうか。そして、事を急がなければならないと考えた。逆に、冬美さんの警告を利用しようと考えたかもしれません。冬美さんが死亡した際、自らのアリバイを確保することができますからね。秋季さんは冬美さんの部屋を訪れ、話を聞くふりをし、隙を見て彼女を気絶させた。おそらく、ある理由でスタンガンを使ったのではないかと僕は思いますが、これはまだ見つかっていません。さて――気絶した冬美さんを、二階の踊り場まで運び、山茶花を握らせたうえで、ある細工をしておいた。花瓶を階段で割り、他の方が階段を登るのを躊躇わせるために、破片を散らばらせておいたのです」
 冬美が降りられないようにではなく、誰も登らないようにとは――。実際、春香は二階に上がろうとし、一階に引き返している。では、あのとき、二階の踊り場のどこかに、冬美は横たわっていたのか。
「でも、細工って……」
「秋季さんは、事前にシャンデリアにピアノ線を絡めていました。このピアノ線をAとしましょうか。Aの両端は結んで輪を作り、シャンデリアの下方へと垂らし、中央部はシャンデリア上部の鎖を通して、踊り場へと伸ばしておきます。ピアノ線Aは、強度の問題で複数本であったかもしれません。運んできた冬美さんの両手首の間に、ピアノ線Aを持ってきます。別のピアノ線Bで、冬美さんの片方の手首を巻き、ピアノ線Aの間を通し、冬美さんのもう片方の手首に巻き、またピアノ線Aの間を通します。これを繰り返していって、冬美さんの両手首を結びつけて固定します。両の手首に線条痕がなるだけつかないよう、服の上からピアノ線を巻いたのでしょう。このとき、ピアノ線Aを少したぐって、シャンデリアを踊り場側に少し傾けたかもしれません。また、シャンデリアの鎖部分は、あらかじめペンチか何かで少し開いてあったのだと思います」
「ピアノ線なんか、なかったと思うんだが……。いくらなんでも、そんなものがぶら下がっていれば、僕が気づくんじゃないか?」
 そうだ。亜矢子はピアノを弾いていたからともかくとして、大崎はピアノ脇に立っていた。シャンデリアからピアノ線が垂れ下がっていたとして、百八十センチを越える長身の彼なら、いくらなんでもわかるのではないだろうか。
「ピアノ線はもっと上でいいんです。そう、床から三メートル少しのところなら、目に付きにくいのではないでしょうか?」
「そんな高い場所、秋ちゃんは届かないだろう?」
「ピアノに乗って、少しジャンプすれば、十分に届くはずですよ」
「乗るって……スタインウエイに乗ったのか?!」
 大崎は唖然として叫んだ。音楽に造詣の深い彼にしてみれば、高価なピアノに土足で乗るなど、信じられない行為らしい。
「リビングから一番最後に外に出た人物だけが、あのピアノ線を引っ張れたはずです」
 あのとき、外へと飛び出した順番は、大崎、亜矢子、春香、夏江、そして最後は――秋季。
「ピアノ線を引いたら、どうなるんだ?」
 これは縦溝だった。純粋に、警察官として興味を引かれたらしい。
「ただ引くのではなく、ピアノの上からピアノ線に飛びつき、そのまま床へと飛び降りたのです。秋季さんは、怪我をせぬよう手にハンカチか何かを巻いていたんでしょう。飛び降りた勢いと秋季さんの全体重によって、あらかじめ開かれていた鎖は耐えきれずに外れ、シャンデリアは天井から落下します。シャンデリアは踊り場側に振られていましたから、それとは逆側に反動で流れることになります。ピアノ線で結びつけられていた冬美さんと一緒に。あの百キロはある重いシャンデリアに、さらに秋季さんの体重がかかり、反動もついている。冬美さんも気づいて、できるだけ踏ん張ろうとしたかもしれませんが、ついに力尽きて、身体が踊り場の手すりを越えてしまった」
 外に飛び出してから、落下音が響くまでの時間差は、そのためだったのか。その空白の時間は、秋季にアリバイを与え、冬美の生と死を決定づけた。
「でも、冬ちゃんの死体にピアノ線なんて……あ!」
 春香の脳裏に、長い弦に血が伝い流れるイメージが甦る。木の葉は森へ、ピアノ線はピアノへ。シャンデリアと冬美の身体で破壊されたグランドピアノからは、鍵盤や金具はもちろん、ちぎれ飛んだピアノ線が周囲に散らばっていたではないか。
「秋季さんは、ピアノ線を引っぱるタイミングを計ればよかった。ただ、亜矢子さんたちが現れてピアノを弾き始めたのには、焦ったかもしれません。いかに目に付きにくい高さにあるとはいえ、ピアノ線に気づかれるおそれは十分にあります。また、時間が経てば、冬美さんの意識も戻ってしまうかもしれません。大崎さんがタバコを吸ってくれたからよかったものの、そうでなければ早々に自分で口実を設けて、窓を開ける必要があった」
「あ、あの白い……。あれは、何だったの?」
 ひらひらと宙を舞っていた白い塊のようなもの。あれがなければ、皆外に飛び出さなかったはずだ。
「片側を白く、片側を黒く塗った布か紙のようなものでしょう。それが黒い風船に吊られていた。そこから伸ばされた糸――これもピアノ線かもしれませんが――それが窓に挟み込まれていたんです。洋館の外側に向かっては黒を、内側には白を見せる形で」
 窓を開ければ風船は舞い上がり、布あるいは紙は白い面を、窓を開けた春香たちに見せつつ飛び去っていく。なんとも単純な仕掛けだったのだ。舞い降りてきたと見えたのは風のいたずらか、あるいは錯覚だったのだろう。
「冬美さんをもっとよく観察していれば、手首に巻かれたピアノ線に気づいたかもしれません。しかし、動揺している春香さんたちは気づかなかった。シャンデリアが落ちたことで、部屋が暗くなったこともありますが、秋季さんはピアノ線が気づかれないための細工をしています」
 そうだ。あのとき、春香と夏江は冬美の身体を揺り動かし、抱き起こそうとさえした。だが、赤いものが、冬美の流す血と、山茶花の赤い花びらが、視界を覆っていた。
「秋季さんは、ここで実に大胆な発言をしています。それによって、皆さんを試したともいえる」
 秋季は何と言ったのだったか? 大崎が『あそこからこのシャンデリアに飛び移ったんじゃないかな』と自説を述べたのに対し、『いくらあの子でも、右手にあんな物を持ったまま、鎖に飛びついたりしない』と、右手の山茶花を指し示した。その手首には、ピアノ線が巻かれていたはずなのに……。
「秋季さんは、山茶花に皆さんの目を集中させることによって、ピアノ線を消したのです。“見えているのに見ていない”状態に置いた。また、冬美さんの着ていたワンピースの白、血と山茶花の赤、ピアノの黒、ピアノ内部とシャンデリアの金、これら強烈な色のコントラストの中に、ピアノ線は溶け込んでしまった。秋季さんは、ピアノ線が誰にも気づかれておらず、再度冬美さんに近づく方もいないのを見て、安心して電話をかけに行ったのです。と、いっても、おそらく秋季さんは携帯電話を持っていたはずで、警察と母屋には、それで連絡をしたと思われます」
 そうだ、そういえば、あの場では春香も携帯電話を持ち歩いていたことに、後で気づいた。夏江も持っていたかもしれない。パニックになったために、最も身近な電話に気づかなかった。
「秋季さんにはやり残したことがありました。二階踊り場の手すりには、真新しい冬美さんの指紋がついているかもしれない。自殺か事故という方向に持っていくためには、手すりや床に、踏ん張ったような跡が残っていてはまずい。それを確認し、消し去る必要があったのです」
 それではあのとき、冬美を囲んで呆然としている春香たちの頭上に、秋季はいたのか。携帯電話を片手に、春香たちを見下ろしていたと。春香は、我知らずゾクリ、と身体を震わせた。
「あとは、母屋に戻る際、秋季さんが最後に残って、手首のピアノ線を切り、手首に巻いていた部分だけ回収すればよかった。それ以外の部分は、ピアノに元々仕込まれていたピアノ線と混じっても、あまり支障はなかったでしょう。あの状態では、警察はまず殺人事件という判断は下さないでしょうから」
 事実、冬美はあくまで行政解剖に回されただけだった。
「冬美さんの死因は転落による脳挫傷と頚椎破損ですが、シャンデリアがショートしたことによる火傷も、少なからず見られたはずです。スタンガンによる火傷も、それに紛れてしまったのでしょう」
 先ほど佐久間が『ある理由』と言ったのは、このことか。
「……なんてこと」
 美希が、額に手を当てた。そのまま、ふらりと倒れそうになる。慌てて志貴が、春香の前を回って美希の身体を支えた。縦溝も、心配そうな表情を美希に向けている。
「次は夏江さんです。ここでも秋季さんは、大胆な発言を行っています。“ハンマーのようなもので殴って逃げた”と、まさに秋季さんが行ったそのままを」
「いや、それはどうかな。夏江さんのときは、洋館には秋季さんはいなかったと思うんだが。僕が二階の客間にいた以外は、春香さんと夏江さんだけだった」
 秋季は、夏江が倒れているのが発見されてから、母屋の方から駆けつけたはずではなかったか。
「夏江さんは、洋館で殴られたのではありません。倒れていたあの場所で、殴られたのです」
「でも、足跡が……。犯人の足跡がないから、家の中で殴られて逃げ出したって……」
 いや。そう示唆したのは、他ならぬ秋季だったではないか。
「夏江さんは、後頭部からかなりの出血があったといいます。ですが、雪の上には足跡だけで、血痕はなかった。その辺は、警察の方でもわかっていたのではないですか?」
「……そうだ。夏江さんは、即死に近い状態だったろうと、鑑識からの報告にはある。歩けたとしても二〜三歩、意識も数十秒あったかどうかだそうだ」
「よって、犯人はあの場所で、夏江さんの後頭部を殴りつけたという結論になります」
 しかし、あの場所は、洋館から十五メートルは離れている空き地であり、周囲の雪面には足跡ひとつなかったではないか。夏江の右手の先に、拳大の石が転がっていた程度だ。
「警察では犯人の侵入・逃走経路について、見当をつけていたのではないかと思いますが。どうですか、縦溝さん?」
「確かに……見当はつけていたが、大きな矛盾がある。そんなことはあり得ないという、な」
「あの拳大――実際にはもう少し大きいようですが――の石ですね。それが、犯人が出入りしたと思われる経路を塞いでいた」
 縦溝は、意外そうに佐久間を見つめた。なぜそんなことまで知っているのか、不思議がっている様子でもある。ふっとため息を吐くと、「そうだ。あの石さえなければ、簡単なことなんだが」と自嘲気味に言った。
「どういうことだ? 何を言っているのか、私には……」
 田沼が、皆を代表する形で質問しようとしたのと、同時に、春香が「あっ!」と叫んだ。
「マンホール! あそこには、コンクリート製のマンホールがあったのよ!」
「マンホール? そんなもの、あったかな?」
「洋館と空き地の向こう側を流れる川の間には、下水道が通っています。もちろん、洋館側から下水道には入れませんが、川側からマンホール部分へは、点検のために人が入れるだけのスペースがあるのです」
「なんと……我々は車でしか、あの辺りは利用しないからな。まるで気づきもしなかったが……」
「でも、川に下水が流れ込んでいるというのは、考えてみれば当たり前かもしれないな」
 大崎がつぶやく。山の中腹に建つこの信濃家では、トイレ以外の生活排水は浄化槽を通したうえで川に排水するしかない。それが、犯人の侵入・逃走経路になっていたというのだ。
「私たち、小さい頃、その下水道の中で探検ごっこをしたことがあるわ。あのときはまだ新しくて、煉瓦造りのアーチ型の空間が、とても魅力的だった……」
 長方形のマンホールには真ん中に丸い穴がひとつ、両端に半円の穴がひとつずつ開けられていて、そこから陽の光が射し込んで、なんとも幻想的な雰囲気に包まれることがあったのを、春香は思い出していた。当然、春香と共に夏江や秋季も探検に加わっていた。多恵に見つかり、こっぴどく叱られてからは、二度と近づくこともなかったのだが。
「秋季さんは、夏江さんをあの場所に呼び出しました。その直前、夏江さんと春香さんが密談を交わしていたのは偶然かもしれませんし、密談をすること自体、秋季さんとの相談の結果かもしれません。今となっては確かめようのないことですが――とにかく、秋季さんの誘いに乗って、夏江さんは現場まで歩いてきました。そこで、秋季さんは夏江さんに電話をかけたか、あるいは、夏江さんが秋季さんにかける手はずになっていたのでしょう。この辺は通話記録を調べてもらうとして、秋季さんは夏江さんに、適当な口実で洋館の方を向くように指示します。夏江さんが洋館の方を向いた瞬間、秋季さんはマンホールを開いて飛び出し、ハンマーで夏江さんを殴りつけたのです。驚いた夏江さんは、秋季さんの方を振り向き、彼女に手を伸ばそうとしますが、そこで倒れ込んでしまった。秋季さんは手早く、向日葵と夏江さんが右手に持っていた携帯電話を差し替え、マンホールに戻りました」
「僕が見たのは、その後の光景か」
 春香は、風に乗って聞こえてきた、奇妙な連続音を思い出す。夏江のものらしい悲鳴と、倒れ込む音、固い物同士がぶつかったような音は、あれはマンホールを閉めたときの音だろうか。液体の跳ねる音は、下水道内に秋季が飛び降りたときの――。
「確かに、それだとつじつまは合う。我々の捜査でも、あの下水道内に最近誰かが侵入した形跡が認められた。しかし、マンホールの上にはかなり大きな石が置かれていた。もし、マンホールが開かれていれば、その周囲の雪が落ちて、マンホールの形がくっきりと現れたはずだ。それが残っていなかったために、我々は行き詰まった」
 そういえばそうだ。春香が見たときも、マンホールの形が浮き出てはいなかった。石は目立ったが、まさかマンホールを見落とすとは思えない。ちゃんと雪は積もっていた。だから春香も、マンホールがあることを思い出さなかったのだ。
「雪が降り積もったのはあくまで不確定要素であって、秋季さんにとっても憂慮すべき事でした。雪は確実に、犯人の侵入・逃走経路を知らせてしまう。いや、結果として知られるのはかまわないのですが、時間をある程度稼ぎたい。そう思っていたはずです。そこで、秋季さんはあらかじめ考えていた細工に少し工夫をプラスして、利用することにした。それがあの石です」
 即座に侵入・逃走経路がわかってしまったら、逃げ切れぬまま捕まってしまう危険性がある。石をマンホールに乗せることによって、一時的に除外させておけば、逃げ切るのは難しくなかっただろう。
「ここで、再びピアノ線が登場します。かなり長いピアノ線をあの石に一巻きします。石の周囲に雪を貼り付けて、大きな雪玉を作ります。固めた雪玉に、もう少しピアノ線を巻いておくと、その両端をマンホールに開いた中央の穴に垂らしておき、雪玉の方は、マンホールの側に転がしておきます。これで準備は整いました。夏江さんを殴り、携帯電話を回収し、向日葵を握らせる。素早くマンホールに戻って蓋を閉める。穴を通って垂れ下がっていたピアノ線を引くと、雪玉が転がって移動します。雪玉がマンホール上に移動したら、今度は強く、両手で糸鋸のようにピアノ線を引っぱります。すると雪玉は周囲に崩れて、マンホールを開いた跡を、カモフラージュしてくれるというわけです。あとは、ピアノ線の片方を離し、もう一方を引っぱれば、これを回収できるでしょう」
 その後は下水道から川に抜け、川沿いに母屋の方へと戻ったのだろう。
「石周辺の雪の積もり方が、多少不自然になるとは思いますが、石自体は凶器ではありませんから、あまり気に留められないだろうと、秋季さんは踏んでいたと思います。母屋から駆けつけた際、それとなく足で雪をならしたかもしれませんね」
「……なるほど、糸を使って、後からマンホールに石を乗せたか。探偵小説の、密室の応用みたいだな……」
 大崎は、素直に感心していた。
「携帯を持っていったのは、なぜ?」
「直前に、夏江さんと秋季さんの間で通話があったことを知らせないためです。まだ息のある夏江さんが、誰かに電話するのを防ぐ意味もあります。しかし、この行為が、秋季さんのミスに繋がりました」
「ミス? 通話記録を調べれば、秋季と夏江の間に通話があったことを知られてしまうからか?」
「いえ、通話自体は何とでも言い訳ができるでしょう。通話状態にはなったけれども、相手が何も答えなかったとでもしておけばいいのです。問題は、“春香さんに連絡する手はずになっていたのに、夏江さんが携帯電話を持っていない状態にしてしまった”ことです。そのために、春香さんに不審を抱かせてしまった。また、向日葵は見立てに見せかけるためには必要なアイテムでしたが、あれはその場に残すべきではなかった。向日葵があることで、夏江さんが館内で殴られて逃げたという線が、完全に消えるからです。向日葵を片手に逃げるなど、冬美さんの時以上に考えにくいですからね。僕が、今回の事件の構造を読み解くヒントになったのが、この向日葵の一件だったのです」
 確かに、あの向日葵は不自然だった。しかし、そこから一連のトリックまでを解読してしまうとは――。佐久間公一という、この青年の思考力・推理力は、常人のそれを遙かに越えているのではないか?
「信代さんの事件に関しては、それほど難しい手順を必要とはしません。信代さんを誘い出し、殴り殺して焼却炉に放り込み、秋桜を置いただけです」
 春香の脳裏に、焼却炉から覗く二本の足のイメージが甦る。誰であるか判別できないほど、焼けただれ、炭化した上半身と、裂けた肉の赤。それに何より、臭いが――肉の焦げるあの香ばしい臭いが――吐き気を喚起する。
「おい、君は確か、死体を焼却炉に放り込むのは、女性では無理だと言ってなかったか?」
 田沼がまぜっかえすように言う。
「そうですね」と、佐久間は苦笑いしたが、すぐに真剣な顔つきになった。
「でも、あれは実は、縦溝さんに対する布石というか、試金石だったんです。僕はあのとき、一連の事件の犯人が縦溝さんである可能性も捨て切れていなかった。縦溝さんの言動には、かなり不自然なところがありましたから」
「不自然? 私がか?」
「焼却炉から死体が見つかった後のことです。確か、亜矢子さんがDNA鑑定の件を質問しましたね。それに対して縦溝さんは、“DNA鑑定というものは時間もお金もかかるものなんですよ”と返された。僕は『おや?』と思いましたよ。被害者の家族に対して、およそ警察官の言うべき言葉ではありません。お金といっても捜査上の必要経費ですし、時間についても同一人物かどうかの判定程度なら、現在では短時間で判断できるはずです。だから僕は、縦溝さんが何か捜査以上のことを知っていて隠している、また、何かに対して苛つき焦っている、そう感じたんです」
 縦溝はグッタリと床に座り込むと、「そうか……」とつぶやいた。
「それで犯人は男だろう、と言ったわけか」
「それまで縦溝さんは、一度として僕の話には無関心でした。ところが、その意見にだけは反応されましたね」
「あの『犯人=男』説は疑似餌だったわけだ。あんたもなかなか人が悪い」
 かすかに、縦溝が笑ったように見えた。何かを諦めたような、そんな笑みだった。
「女性でも、焼却炉に信代さんを放り込むことはできます。あそこは庭の奥の部分で、すぐ側まで林が迫っている。その木を利用すれば、信代さんの死体を吊り上げることができるでしょう」
 吊り上げる?
「冬美さんのときの応用です。まず、焼却炉に一番近い木の枝に、滑車を上向けに取り付け、そこに長いロープAを通しておきます。信代さんの足首にロープBを巻き付けます。ロープAの片側をロープBと交差させて結びつけます。枝に取り付けられた滑車を支点として、焼却炉に近い側に死体、もう片側にロープAの先端があるという位置関係です。秋季さんはこのロープAの先端を、死体と反対側に引っぱっていきます。滑車があるために、通常より少ない力で死体は持ち上げることができるでしょう。秋季さんは手近な木の周囲を一周し、死体が落ちないようにロープを結んで、幹に固定します。あとは、ぶら下がった信代さんの身体を押して、焼却炉の口へと運ぶだけです。上半身を焼却炉の中に押し込んで、足首を縛っていたロープを切れば……」
 焼却炉に死体がそのまま落ちる、ということだろう。あとは、滑車とロープを回収すればいい。まさに、冬美を殺害したときのピアノ線の応用だ。
「だけど、滑車なんて……。秋季ちゃんに用意できたの?」
 亜矢子が、久々に口を開いた。
「重蔵氏が入れあげていたという役者の、『娘道成寺』をご存じですか?」
 いきなり、何を言い出すのだろう、と亜矢子は面食らったが、それでも記憶をたぐるような顔つきになると、「そういえば――」と口を開いた。
「兄さんたちは興味がなかったでしょうけれど、私はお父様に連れて行ってもらったことがある。あれはどれぐらい前かしら……。確か、前段と後段に分かれていて、前段には『安珍・清姫』のダイジェスト版を挟み込んでいたと思う。三代目菊三郎が、安珍と清姫の二役を早変わりで演じていたわ。こう、安珍が吊り下げられた鐘を落として中に隠れると、次の瞬間には清姫に変わって、鐘に絡みつき始めるの……鐘……あれは……」
「張り子の鐘を吊り下げ、それを上下させる。一文字に隠れた部分に滑車を取り付け、ロープを使って見せる仕掛けです。僕は康志さんに許可をもらって、地下の倉庫を調べてみました。滑車もロープも、そこにありましたよ。しかも、滑車には油が差してあって、いつでも使えるようになっていました。随分昔の物ですから、張り子の鐘もボロボロだし、他の金具類も完全に錆びついていたというのに」
 そのとき、縦溝が低くうめいて両手で頭を抱えた。「……守れなかったんだ。私は」と、絞り出すように語り始める。
「あの夜、私は信代の部屋へと行ってみた。信代が殺される側のリストに入っているとは思っていなかったんだが、明け方になっても彼女が帰ってこないので、さすがに心配になった。何気なく部屋の戸棚を見ると、少し開いているのに気づいた。几帳面な信代にしては不用心だな、と思って開けてみると、中に携帯電話が入っていたんだ」
「信代さんのものではなかったんですね?」
「ああ、違う。そして、私が部屋に潜り込む直前の時間帯に、その携帯に着信があったようだった。私はリダイヤルしてみた。そうしたら……」
「秋季さんが出たんですね。寝起きの状態で、彼女も油断していた。思わず返事をしてしまったんでしょう」
「そのとき、悟った。信代が殺されたことも、犯人が誰であるかも。だから今度は、私の方から秋季を呼び出した。真実を聞くために」
 明け方に鳴り響いた『ラ・カンパネラ』は、縦溝がかけたときのものだったのか。春香は顔を上げた。
「その携帯……ひょっとして夏ちゃんの?」
「おそらくそうでしょう。タイミングを見て信代さんを呼び出すため、秋季さんが部屋に忍ばせておいたのだと思います」
「でも、あの夜は……。私と秋ちゃんは二人して部屋に閉じこもって、ずっと話し込んでいたのよ。どうやって信代さんを……」
「ずっと、といっても、ひとときも部屋から出なかったというわけではないでしょう?」
「それは……」
 それは確かにそうだ。二度ほど、秋季がお茶を入れに出ていった。春香も手洗いには何度か立ったし、交替で風呂にも入った。春香たちの部屋には個別のシャワー室があるのだが、冬場は洋館一階の右翼にあるジャグジーを使うのが日課になっている。あの夜も、春香がまず入浴し、入れ替わる形で秋季が部屋を出ていった。
「可能性の高いのは、その入浴の時間でしょうね。一人で三十分かもう少し、二人合わせれば一時間ほど時間を見ることができます。殺人と運搬を、二分したかもしれません。春香さんが入浴している間に信代さんを殺害し、変わって入浴すると見せかけて、信代さんの死体を焼却炉に放り込んだ。そのあと、何喰わぬ顔で汗を流して、戻ってきた――」
 春香が入浴のため部屋を出たあと、秋季は信代のもとにある、夏江の携帯に電話をかけたのだろうか。
 あの、姉妹の語らいの合間に、秋季が信代を殺していた。そんな気配など、春香には微塵も感じられなかった。あのまま、自分が殺されていてもおかしくはない状況にあった事に気づき、今さらながらゾッとする。
「縦溝さん、あなたは秋季さんを問いつめた。それで、何が起こったんです?」
「秋季に問うた。信代を殺したのか、と。全ての殺人は、おまえの仕業なのか、と。そして、私自身の正体を明かしたんだ。すると、彼女は逃げ出した。おそらく私の中に……」
「殺意があったのを感じ取ったのだろう」と、縦溝は言った。冬美や夏江を殺したとき、秋季にも殺意があったに違いない。それと同じようなモノを、秋季は縦溝から感じ取ったのかもしれない、と春香は思った。だから逃げた。まだ、殺されるわけにはいかなかったから。まだ、春香が生きているから――。
「私は秋季を追いかけた。もう、刑事としてなのか、滝川恵介としてなのか、それとも信代の愛人としてなのか、自分でもわからなかった。そのときだ。あの桜の木の間で、私の視界から彼女は消えた」
「秋季さんは、自らの仕掛けた罠に落ちてしまった。さすがの彼女も、あなたに追われてパニックになっていたのか。あるいは……」
 あるいは? 何が言いたいのだろう? と春香は佐久間に目を向けた。しかし、佐久間の口からその言葉の続きが語られることはなかった。
「私は一時的に彼女を隠すため、もう一度桜の花びらと雪で、穴を覆い隠した。まさか、春香さんに危険が及んでしまうとは、そのときは思わなかったよ。秋季の携帯電話は回収して、叩き壊した。通話記録を調べれば、壊したところで意味はないんだが、何度も着信があったので、残しておくのはまずいと思ってな。しかし……捨ててしまったはずなんだが……」
「穴の近くで、僕が見つけて拾ってきました。もうひとつ、あの写真もです。写真はどうやら、信代さんが落としたものであるらしい。彼女は、あなたが本当は滝川恵介であると、知っていたんですね?」
「あの写真は私が渡した。唯一手元に残っている、実の父親の写真だ。信代には全てを話したよ。美希のことも。信代に、それとなく美希や館内の様子を見ておいてくれと、そう頼んでいたんだ。……美希の部屋に電話や写真を置いたのは、私を引っかけるためか?」
「少しばかり、動揺してもらおうと思っただけです。そうでもしないと、語ってくれないと思ったもので」
「確かにな……」
 縦溝は口を閉じた。そして、康志の背後にいる警官二人を手招きすると、「手錠を出せ」と言って立ち上がった。
 顔を見合わせる警官を促し手錠を出させると、それを自らの手首にかけた。カチャリという金属音が、静かな居間に響いた。
「秋季の犯行を立証するのは難しいかもしれん。夏江の携帯電話は私の手元にあるが、それだけでは物証として弱いだろう」
 縦溝の言葉に、佐久間は「そうかもしれませんね」とうなずいた。
 ふっ、と笑みを見せて、縦溝は警官たちと共に、居間を出ていこうとした。
「兄……さん」
 今まで黙っていた美希が、口を開いた。だが、それ以上言葉が続かない。縦溝のことを何と呼べばいいか、何を語ればいいか、わからないのだろう。そんな美希に振り返った縦溝は、初めて暖かみのある笑みを浮かべた。
「おまえだけは、悲しませたくなかったんだがな。……ごめん」
 秋季は、美希の娘だった。縦溝にとっても、姪の関係にあたる。その秋季を……。
 なんて哀しいことなんだろう、と春香は思う。私たちは信濃と滝川という家族の中で、互いに殺し合ったことになる。私たちの家系は、やはりどこかで呪われているのかもしれない。お爺様や秋季は互いに、そんな呪われた血を清算しようとしていたのかもしれないが、それは悲劇を拡大させただけだった。そんなことを感じ、死んでいった妹たち、そして義理の叔母であったという信代のことを考えた。いや、今回の事件以前に亡くなった重蔵や多恵、重次、久美子、滝川時乃、遼太郎、斉藤久代、紀代を。自然と、涙が浮かんできた。
 縦溝と警官たちが出ていった後も、美希や亜矢子のすすり泣き以外、何も聞こえない。康志や志貴はもちろん、饒舌な大崎も田沼も黙り込んだままだ。
 気づくと、佐久間の姿がなかった。いつの間に出ていったのか、まだ、何かを語り残しているようだったが……。それも、なんとなく彼らしい気がした。
 彼も、心のどこかに傷を負っているのだろうか。
 春香はそんなことを考えながら、かつて四姉妹が仲のよかった、子供の頃に思いを馳せた――。



 二週間後――。
 佐久間が訪ねてきたというので、春香は出迎えるために、いそいそと正門へと向かった。
 縦溝が逮捕された直後はマスコミ陣がつめかけて、ひと騒動あったのだが、今週に入ってからは別の事件に興味が移ったのか、ほとんど見かけることがなくなった。今のところ、秋季が殺人犯であるという報道は成されていないが、そのあたりは何らかの圧力が、信濃・滝川両グループから警察およびマスコミにかけられたのではないかと、春香は見ている。
 葬儀は合同で、盛大に行われた。冬美、夏江、秋季だけでなく、信代も信濃家の者として同等の扱いを受け、一緒に信濃の墓に収まることとなった。向こうでは、仲良くしてくれればいいのだけれど、と、黒いワンピースを着た春香は思った。
 正門前に立つ佐久間を見て、春香は自分の目を疑った。
 よれよれのセーターにジーンズ、よれたコートという貧相な身なりだった、あの佐久間とは思えない。髪はきっちりと撫で上げて無精ひげも剃り、黒いスーツを着ている。喪服代わりなのだろうが、それがピシリと決まっているのだ。
「随分……印象が変わったわね」
「いやあ……」
 照れくさそうに頭をかくと、佐久間は頭を下げた。
 故人への焼香を済ませた後、春香は佐久間を伴って、母屋の庭を散策した。まだ寒いが、木々には新しい芽が顔を覗かせて、確実に次の季節へ変わろうとしている。
「どうですか? 皆さんの様子は」
「そうね……。お父様とお母様は離婚することになりそう。でもね、なんだか逆に、仲が良くなったみたいなのよ。夫婦というより、友達か兄妹みたい。まあ、本当の兄妹なんだけど……。離婚しても、お母様は信濃美希として、この家に住むんだって。何か変よねぇ」
 心なしか、春香の口調は明るい。春香もまた、変わりつつあるのだろう。
「おかしいのが、亜矢子叔母様と大崎さん。私たちは大崎さんを、何というか、ずっと好きじゃなかったのよ。どうせ財産目当てだと思っていたから。でも、どうも大崎さんは叔母様のことが本当に好きみたい。どうしてあんなオバサンを、って思っていたんだけど。事件以降、叔母様はカドが取れたというか弱々しくなったというか、見ていてなんだか可愛いの。逆に、大崎さんは妙に頼もしくなっちゃって、もう。ごたごたが一段落したら、結婚するみたいよ。一番かわいそうなのは、康志伯父様かな。まだ、秋ちゃんのことを忘れられないみたい。今でも毎日、遺影に向かって話しかけてるわ。まあ、遊び人だった伯父様には、いい薬なのかも」
「そうですか。遺産の方はどうなるんです?」
「さあ……。田沼先生と寺西さんが何かやってるみたいだけど、私は関係ないし、もう興味もないわ。まだ六十日が過ぎたわけじゃないから、康志伯父様にも亜矢子叔母様にもチャンスがあるんだけど、今はあまり関心がないみたい」
「なるほど……」
 何がなるほどなのか、佐久間は空を見上げるようにして、二度うなずいた。
「ね、佐久間さん。いくつかお尋ねしたいことがあるんだけど」
 眩しいものでも見るように、佐久間を見上げて春香が言った。
「ええ、実は僕も、話さなければならないことがあったのです」
 なぜか、どきりとして、春香は「え?」と応えた。
「ひとつだけ、今回の事件でひとつだけ、僕にはわからないことがあったんです。それをずっと考えていました」
「何でしょう?」
「カーネーションです」
 そういえば、と春香は思い出した。四姉妹に対応する花、桜、向日葵、秋桜、山茶花の他にもう一種類、この事件には花が登場していたのだった。美希の部屋に置かれていた、しおれた黄色いカーネーション。
「あれも、あなたが置いたのではないの?」
「ええ、置くには置いたんですが……。あの花の意味するところが、僕にはわからなかった。見立てに使われるでもなく、殺人に絡んだわけでもない。秋季さんが生きていた場合に、あるいは次の殺人で使うのかと思ったのですが、それにも意味を感じ取ることができませんでした」
 確かに、奇妙といえば奇妙だろう。カーネーションの花が咲くのは五月から六月。季節的にも春と夏の間で、非常に曖昧だ。
「では何だったのか。ひょっとしたらあれは、秋季さんの心の叫びだったのではないか。そう思うようになりました。なぜなら、あのカーネーションは、亡くなった秋季さんが手に持っていたからです」
「え?! あなた、それを勝手に持ち出したの?」
「いや、なんというか……僕には理解できなかったんです。直前まで、僕は秋季さんが犯人である可能性が、かなり高いと思っていました。彼女がすでに死んでいるのではないか、とも。しかし、カーネーションを手にしているとは思ってもみなかった。まるで筋が通らない。僕は、縦溝さんによる何らかのカモフラージュではないかと思い、咄嗟にカーネーションを失敬したんです」
 春香は、怒るというより呆れた。自分が気を失っている間に、この男はそんなことをしていたのだ。
「しかし縦溝さんは、カーネーションには何の反応も示さなかった。全てを告白した後も、カーネーションには一言も触れなかった。だからこれは違うと。やはり用意したのは秋季さんだと、そう思い直して、ずっと考えていたんです」
 秋季が用意したカーネーション。カーネーションといえば……。
「まさか……母の日の……」
「そのまさかです。カーネーションの花言葉は『母への愛』が、一番広く知られています」
 本来、母の日のカーネーションは、“母への恩を忘れないために”子供が自らの胸につけるものだったという。それがいつの間にか、母に贈る花になってしまった。
「じゃあ……お母様を殺すつもりで?」
 そこまで、秋季の心は歪んでしまっていたのか。実の母親を殺すまでに……。
「いえ、そうではなく、対象は美希さんではなく、多恵さんだったのではないかと思います。帝王学、信濃と滝川の関係、そして、家系と血に対する憎悪。全てを教えてくれたという意味での“母”です。しかし、同時に秋季さんの心の中には、家族を失いたくないという想いもあったのではないでしょうか。黄色いカーネーションには『愛情の揺らぎ』という花言葉もあるんです」
「愛情の揺らぎ……。それじゃあ、あのとき、秋季はひょっとしたら……」
 二週間前、佐久間が秋季の最期について、「あるいは」と何かを言いかけたまま、口をつぐんだことがある。あれはもしかしたら――。
「ええ。あのときは、あまりにも可能性が低いと思っていたので、口にしませんでしたが……。秋季さんは縦溝さんに追われながらも、冷静であったかもしれません。罠がどこにあるのか、彼女は十分に認識していた」
 考えてみれば――二本の桜に挟まれたあの場所は、仕掛けた本人には非常にわかりやすかったのではないだろうか。
 秋季は、自ら自分の仕掛けた罠に飛び込んだと、佐久間はそう言うのか。
「秋季なら……秋季ならあるいは……」
 春香は言葉に詰まり、その場に立ちつくした。
 あのとき――。
『春姉ちゃん、そこに入っちゃ駄目!』と聞こえた秋季の声――。ずっと幻聴だと思っていた。だが、あれは本当に秋季の心の叫びだったのかもしれない。死んで初めて、秋季は自分の本心に気づいたのではないだろうか。
 多恵の教え込んだ過去と現在、多恵の語る理想と現実の板挟みになっていた秋季。それに気づいてやることのできなかった姉や家族。なんて愚かな、なんて哀しい……。
「それで。春香さんの方の話というのは?」
 さりげなく、佐久間が話を切り替えた。
「……冬美のこと。冬美の、子供のこと」
「そのことですか――」
 佐久間の表情が暗くなる。話を切り替えたはいいが、その先は――。語るべきか黙るべきか、佐久間は迷っているようだった。
「あの子供の父親は、やはりお爺様なの?」
 驚いた顔で春香を振り返る佐久間は、「どうして……それを」とつぶやいた。
「バカにしないで。私だって、考えることぐらいできるんですから。冬美がなついていたのは、唯一お爺様だけだった。誰か他の相手なんて、考えられない。秋ちゃんは無理矢理、なんてことも言ってたけど、それなら冬美は絶対お爺様に話すはず。それに、それならあの遺言状も、なぜ冬美が最初の相続人に指定されていたのかが納得できるもの。お爺様は、自分と冬美の子に遺産を残そうとした。そしてそれとは逆に、その忌まわしい血の流れを、どこかで断たなければならないとも感じていた……」
 死亡したとき、冬美の胎児は三ヶ月だったという。遺言状で指定されていた六十日という期日。あれは、冬美のお腹が目立ち始める五ヶ月という期間を想定したものではなかったろうか?
「驚いたな。他の方はそれを?」
「話していません。佐久間さんが黙っていたのは、これ以上私たちを苦しめないためでしょう? 私もこれは、話さない方がいいと思ったの。死んでしまった子供には、何の罪もないもの」
 静かに、春香が言った。
 静寂が満ちた。事件に関する謎には、佐久間によってひと通りの解釈がつけられた。だが、犯人である秋季はすでに死亡し、真実は結局わからぬままだ。
 今回の事件で、本当に裁かれるべきなのは――裁かれるべきは、残された私たちなのかもしれない。
 これから先、スキャンダルによるグループ会社の損失を、建て直していかなければならない。春香自身も火の粉を被ることになるだろう。それでも耐えて生き、前に進むことが贖罪になるのではないだろうか。
「最後に、ひとつ聞いてもいいですか?」
 佐久間の横顔を窺うように、春香が口を開いた。
「なんです? もう事件の謎は残っていないと思うんですが……」
「佐久間さん、あなたは一体、何者なの?」
 ヒョッ、という声が、佐久間の喉から漏れた。
「何の、ことです?」
「ごまかさないで。あれから私、夏江のブティックにも顔を出しているの。佐久間公一なんて雑用係は、存在しないわ」
「考えてみれば……」と、春香は続けた。
「なんだかおかしいと思ったの。夏ちゃんから聞いた話だと、その素人探偵は知り合いの友達だって言ってた。つまり、夏ちゃんは会ったことがないの。その探偵が、夏ちゃんのブティックにいるなんて、どう考えても変よね」
「まいったな。そこまではあまり考えてなかったんですが……調べたんですか? 僕のこと」
「そ、そうね。あまりに変だから」
 佐久間個人に興味があったからとは、さすがに春香も口にできない。
「さ、答えてください。あなたの正体を。あなたは何者?」
 鼻の頭をしばらく掻いていた佐久間は、「ま、いいか」とつぶやくと「これは秘密にしてくださいよ」と念を押した。
「僕は、寺西勇二さんに雇われた、本職の探偵です」
「寺西さんて、冬ちゃんの法定代理人の? どうして……」
「この間言ったように、寺西さんには重蔵氏の遺言内容が伝えられていました。寺西さんは事態を重く見て、僕に調査を依頼したんです。残念ながら、僕たち以上に犯人の行動が早かったのですが……」
 あの、よれた姿は、信濃家の面々を油断させるための、変装の一種だったのだろうか。あれはあれで、板に付いていたのだが。
「夏江さんの知り合いの友達、本当の佐久間公一は、まだ卒論に追われているはずですよ」
「本当のって……名前も偽名?!」
 なんだか、馬鹿にされたような気分だ、と春香は思ったが、不思議と腹は立たなかった。どことなく、ふてぶてしく感じた最初の話し方とは異なり、謎解き以降の語り口は、非常にスマートなものに変わっていた。話し方もまた、意識的に変えていたということだろう。
 あのときも感じたことだが、今の探偵の語り口には、どこか人を魅了する涼やかさと、暖かみがある。
「それじゃあ、またどこかで。……いや、探偵なんて人種に、そう何度も会うもんじゃありませんね。では、失礼します」
 踵を返し、黒スーツの探偵は庭を正門の方へと歩いていく。後を追いたい衝動に駆られ、春香は自分自身に驚いた。が、それは春香にとっては嬉しい驚きだったといえる。
「また会いましょう、探偵さん。――絶対よ」
 密かに探偵の後ろ姿に語りかけ、春香は微笑んだ。
 来る春を思わせる、爽やかな微笑みだった――。




(了)




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