「ラ・ターシュ」1961年
その日は某ワイン会の帰り道、弁護士でありながら数々のワインに関する著作を手掛けられている有名な山本博さんと地下鉄までご一緒したのですが、その時「一番印象的なワインは何ですか?」と尋ねたところ、殆ど間を置かず、「ラ・ターシュ」とのお答えが。「今からそのラ・ターシュを飲むんですよ」と言うと、「それは素晴らしい。ラ・ターシュなら、ロマネ・コンティと殆ど変わりません」とのお返事。やはりDRCは別
格なのでしょうか。いずれにしてもなかなか飲む機会には恵まれないワインであります。
最近かなりテイスティング能力が減退していると思うことが多く、やはりここは、ワイン会やパーティで楽しんで飲んでいるばかりではいかんのではないかと反省し始めていたところであります。楽しんで飲む分には、どんなワインでも美味しいし、それはそれでワインの本質には違いありませんが、もう少し一つ一つのワインについてしっかりと向きあう必要があるのかも。毎回なんか知らないがただ酔っ払って美味しかっただけではちょっと進歩がないし。
というわけで、銀座シノワで実施されているプレステージワイン会に一人で参加することにしたのでした。以下のワインを70ccずつテイスティングするというもの。
・「クリュグ・ビンテージ1989年」 Krug 1989
・「エチエンヌ・ソゼ・モンラッシェ1992年」 Etienne Sauzet Montrachet 1992
・「ポール・ジャブレ・エルミタージュ・ラ・シャペル1983年」 Paul Jaboulet
Hermitage La Chapelle 1983
・「シャトー・ラトゥール1979年」 Chateau Latour 1979
・「ラ・ターシュ1961年」 La Tache 1961
・「シャトー・ディケム1983年」 Chateau d'Yquem 1983
口直しの水とパンだけをもらって、誰とも会話をかわさず、カウンターで70cc×6種のワインを3時間かけてじっくりとテイスティング。特に邪魔が入らないのは有り難いのですが、難点なのはやや照明が暗いこと。雰囲気はありますが、ワインの色調を確認するには少々厳しいものがあります。
最初の一杯は「クリュグ・ビンテージ1989年」。淡い色調で、細かい泡が立ち続けています。香りはかなり強く、まず第1に感じられたのがビスケット香。トースト香の様な香ばしさが印象的。意外と酸味が強く、後味には若干の苦み。余韻が長く、通
常のキレが良いタイプのシャンパーニュとは違います。ちなみに1989年物のブレンド比率はピノ・ノワール47%、ピノ・ムニエ24%、シャルドネ29%。ピノ・ノワールは熟成によりビスケット香をもたらすと言われますが、まさしくこれはビスケットの香りそのもの。7年前に同じビンテージの物を飲んだ時は、結構コクのある重いタイプという印象でしたが、今回飲んでみるとむしろ酸のしっかりしたタイプという印象。同じワインでも、飲む時によってイメージが異なるということなのか、7年も経つと同じ物の味が変わるということなのか……やはり飲めば飲むほどワインは奥が深いものであります。
次のグラスは「エチエンヌ・ソゼ・モンラッシェ1992年」。ピーター・ツーストラップ・ラベルのもの。ピュリニーを代表する造り手だった故エチエンヌ・ソゼ氏の相続問題で畑の3分の1が失われた際、足りない分のぶどうは栽培農家から購入することになり、新しくラインナップに加わったのがモンラッシェだったと言われています。従ってこのモンラッシェはソゼ自社畑のものではなく、バロン・テナールのぶどうを購入しているとのこと。マット・クレーマー「ブルゴーニュワインがわかる」(白水社)には、バロン・テナールはもっとも広く行き渡っているモンラッシェで、1985年まではネゴシアンであるルモワスネの専売に近いもので、「ラフォン、ラモネ、DRCのそれに後れをとるが、多くのモンラッシェよりすぐれてはいる」と記されています。
ちなみにエチエンヌ・ソゼは早く飲むようには造られておらず、その濃密さ、繊細さを真似することはまれであるとされています。
見た目には透明感と輝きがあり、香りは上品なヴぁニラ香がありますが、正直なところそれほどインパクトのある香りは感じられず、少々戸惑いながらも口に含むと……これは驚き、ガツンと来る味わい。決して酸が強いわけでも、甘味があるわけでもないのに、とにかく濃厚……うまく表現できませんが、エキスなのかミネラルなのか、密度の濃さをひしひしと感じられます。ワインは香りで楽しむものというイメージがありますが、特級白ワイン……特にこのモンラッシェに関しては、まず何よりも味わいが凄いのだと納得した次第であります。アルコール13.5%は決して極端に高いアルコール濃度ではないはずですが、とにかく余韻が長く、濃いアルコールを口にしているような感覚があります。トップノートよりも含み香の方が強く、とにかく飲むとびっくりするワイン。舌にからみつく感じはねっとりして粘質系ですが、どこか塩っぽくじわっとくる感じは、まさに硬質なミネラルとでも表現するしかないようにも思われます。ミネラル感という言葉は白ワインを表現するのには非常に便利な言葉で、実際石をなめるような感じはあるのですが、科学的には土に含まれるミネラルがそのままワインに移る訳ではないとされています。しかしそうなると、この味の元となるものは一大何なのだろうと不思議に思います。余韻は長く、その長さを表現する際よく「15-20秒程度続く余韻」とか言うわけですが、その意味でなら余韻は一分以上にも続くように思われました。
3杯目は赤ワイン、「ポール・ジャブレ・エルミータジュ・ラ・シャペル1983年」。色合いは明るく、若い印象。鮮やかな赤紫、ルビー色で、やや店内が暗かったとはいえ、25年もの熟成を経ているようには見えません。香りは……これはやはり熟成した赤ワインならではのもの。果
実香というより……これはまさに黒オリーブ。ブラック系のフルーツだけではなく、どこかオイリーなニュアンスが加わり、重みのある香りになっていて、これはやはり黒オリーブかなと。他にレーズンや、カシスなどの香りも混じりますが、フルーティとはやや異なる香り。おそらくは熟成に由来するムスク香とプルーンのようなシラー独特の香りとが加わって、黒オリーブのような複雑な香りが生まれたのではと想像する次第であります。酸味もタンニンもしっかりしていて、非常に若々しい味わい。わずかに香りに熟成感があるものの、バルサミコやブラックベリーのような味わいは良質のシラーならではのものかも知れません。モンラッシェが香りより味にインパクトがあったのに対し、こちらのエルミタージュは味より香りにインパクトがありました。もっとも味が劣るわけではなく、カベルネともピノ・ノワールともつかない、印象の掴みにくさがそう思わせたのかも知れませんが。
4杯目は五大シャトーの一つ、「シャトー・ラトゥール1979年」
。ボルドータイプはある程度飲んではいるものの、70年代となるとなかなか難しく、今とは微妙に評価が異なることもあって、判断も難しいところ。その中でラトゥールの1979年物は、「古きよき時代のスタイル」とされていますが、手元の「ボルドーワイン・ベストセレクション」(小学館)では5点満点中3点。
色調はダーク・ルビー、こちらもどちらかというと若々しい印象。30年前のワインとは思えず、色は落ち着いているもののエッジにはまたパープルのニュアンスが感じられます。香りはやはり非常に特徴的。酸化熟成香、ムスク香、香水のような香りの中にアメリカンチェリーのようなどこか甘酸っぱい香りも。味わいもパワフルで若々しいボルドーの印象で、フルーティ。香りはともかく、味わいにはそれほど熟成感が感じられません。いわゆる枯れた感じがなく、乾燥イチジクや上質なレーズンのような濃密さがあります。下に白い紙を置いて、ライトの元でスワリングすると、グラスの壁面
を伝わるいわゆる「涙」がより明確にチェックできますが、そうやって確認すると、グラス壁面
の涙の動きはまるでアメーバのようで、ただ味わってみるだけよりもよりこのワインのエキス分の多さが納得できました。とにかく「活き活きしている」というのが正直な印象で、これが5点満点中3点のビンテージだというのなら、ベストビンテージはどこまで力強くなるのだろうかと思わずにはいられません。ラトゥールはある程度近年のビンテージを飲んでいるはずなんですが、やはりもっと熟成させてから楽しむべきだったのでしょうか。
5本目は待望の「ラ・ターシュ1961年」。92年物は酔っ払った勢いで空けてしまい、03年物はやや風邪気味状態でのテイスティングと、ある意味本当の意味で味わったとは言えません。その意味では今回も昼のワインパーティに参加した後でもありベストではないかも知れませんが、少なくとも今回は体調的にはまだマシなはず……。ジャッキー・リゴー「ブルゴーニュワイン100年のビンテージ」(白水社)によれば、1961年は「偉大な年」を上回る「例外的(exceptional)な年」
であり、「堂々としてバランスが良く、粘りと心地よいテクスチュアを持っているビンテージである。偉大なレベルの活力があり、ミネラルと果
実味を謳わせ、ずば抜けた余韻の長さがある」とあります。開高健の小説「ロマネ・コンティ1935年」には、当時6年しか寝かせていなかった「ラ・ターシュ1966年」が登場し、絶賛されていますがそれより古いし。
さて実際にグラスを頂いてみると……やはり若く見えます。若干落ち着いた、枯れた印象があるものの、奇麗な赤色をしていました。香りは……やはり華やかで、かつ嗅いでみると様々な要素が沢山見られます。熟成したブルゴーニュに見られる独特のムスク香がどちらかというと支配的だったと思いますが、その中にベリーやプラムのような果
実の香り、バラやスミレのような花の香り、そして醤油や味噌のような発酵由来の香りも感じられます。何より驚くのがその香りの強さ。スワリングなどしなくても、旨味のある香りが広がります。まるで香料でも加えているのではと思わせるような、香水のような香り。そして何とも表現しにくいのですが、ある種の暖かさ、柔らかさを感じさせる香りでした。そして味は……高い酸と多いタンニン……そして何より驚くのが舌を締めつけるような凝縮感。これはあのモンラッシェにも通
じるもの。白のモンラッシェが味にインパクトがあり、赤のエルミタージュが香りにインパクトがあったとすれば、ラ・ターシュはまさにその両方を兼ね備えたワイン。ある意味、まさに完璧。先に飲んだラトゥールの印象が消えてしまうほど。ボルドーよりブルゴーニュの方が繊細という印象があるので、ラトゥールよりテ・ターシュの方が後に来ることは少々不思議ではあったのですが、まさに飲んで納得。このブルゴーニュの銘酒は明らかにボリュームでボルドーを上回っています。
先程と同じように、グラスを白い紙にかざして「涙」をチェックすると、アメーバのような動きを見せたラトゥールに比べ、さざ波のように波紋が残り、粘性では明らかにラトゥールの方がありそう。にも関わらずこの味のパワフルさは、確かにラトゥール以上。エキス分の量
の少ないラ・ターシュの方が味わいは上回るということかしら? ブルゴーニュの繊細さと力強さにあらためて驚かされた次第であります。
6本目は「シャトー・ディケム1983年」。8年ほど前に89年物を飲んで非常に満足したことを覚えていますが、こちらもやはり素晴らしい味わい。色はやや琥珀色に近い黄金色で、例によって白い紙にかざすと、涙が複雑に絡み合い、まさに濃厚そのもの。エキス分がずぱ抜けて多いことが分かります。香りもハチミツやヴァニラ、アップルパイとオーク香、甘いイチジク香までもがが複雑に絡み合い、若い貴腐ワインに見られるある種の樹脂香、セメダイン香も感じられてここまで来てもまだ若い印象。凝縮感も強く、まさに上質な貴腐ワインならではの味わいでした。
全体を通して印象的だったのは、やはり一番古いビンテージの「ラ・ターシュ1961年」でしょうか。一番古いのに一番「強い」。これでは皆が希少品のオールド・ビンテージに血眼になるのも納得できてしまいます。今まで飲んだことのあるオールド・ビンテージは、香りこそ複雑で印象的でしたが味わい的にはやや枯れたお茶のようなニュアンスがあって、なるほど古酒とはそういうものかと思うことが多かったのですが、どうもそんなに簡単なものではないらしい……。
高いお金を払えば希少なビンテージワインも入手できますが、それを飲めば皆お金を払った分幸福になれるかというとどうも違うような気がします。この手のワインは飲めればそれで良いという訳ではないからです。あまり飲み慣れていない人の目の前に、1本200万円のロマネ・コンティを出して飲めと言われて、それで幸せになれるかというとむしろ訳が分からず戸惑うだけのように思われますし、経験のある人の場合は逆に知識が邪魔してそれはそれであまり楽しめないのでは? 幸福になるには段取りが必要です。でも、それを求めること自体に喜びかない限り、得られる物は色褪せ、つまらないものとなってしまうのではないでしょうか。