「ビールの歴史は酔っ払い達の談論の歴史」Part-4.ドイツのビール


 これはバイエルン州立図書館にある「ビール純粋令」の最初の法令文です。「ビール純粋令」は「ビールは麦芽とホップと水で作ること」、すなわち麦芽100%のものしかビールとは認めない、というわけなんですが、はてさて、その実態は……?


●ドイツビール市場の特徴
 
・生産量世界第三位、約8億9000万函
・一人当り年間消費量世界第三位、127.2L
・ピルス 63.2%(前年比99.7%)、ヴァイツェン 8.0%(前年比121.3%)
・瓶56%、缶24%、樽20%
・リサイクルシステムの発達
・CVSは少ない。スーパーでの6本パック、瓶・缶のバラ売りが主体    

 ドイツのビールの生産量は世界第三位。一位がアメリカ、二位が中国と人口も国土もケタ違いに大きい国であることを思えば、世界三位 って凄いですよね。ちなみに一人当たりの消費量でも一位のチェコ、二位のアイルランドに次いで三位 。いわゆるピルスナータイプの淡色ビール「ピルス」が市場の六割以上を占めていますが、近年白ビールことヴァイツェンの人気が高まりつつあります。リサイクルの徹底した国で、瓶の比率が五割以上となっています。



●ビール純粋令

・1156年フリードリヒ1世の条例
・1447年ミュンヘン市参事会の条例
1516年バイエルン候ヴィルヘルム4世「ビールは大麦ホップの三つの原料以外を使用してはならない」
・宮廷醸造所では小麦を使ったヴァイツェンを独占的に醸造
・ミュンヘンの小都市ベルナウの奇妙な検査法
・1919年ワイマール共和国への条件
・1987年純粋令の非合法化

 「ワインの歴史」にも書きましたが、中世のミュンヘン地方はもっぱらワインが主流で、ビールは質の低いまがい物が横行していました。諸侯は自家消費用に北ドイツのアインベック・ビールなどを高い金を払って取り寄せるしかなかったわけです。経費削減も考えたうえで、地元バイエルンのビールの質を上げようとしたのがそもそも「純粋令」の始まりだとされています。
 不正なビール業者に立ち向かった最初の人物が「赤髭皇帝」ことフリードリヒ一世です。1156年の「アウクスブルク市条例」で、質の悪いビールを醸造した業者を罰することにしました。1447年ミュンヘン市参事会もビールの品質に関する条例を策定します。「ビールは大麦、ホップ、そして水からだけで作るべし」これが純粋令のひな形となりました。1516年、バイエルン候ヴィルヘルム四世によって「大麦、ホップ、水の三つの原料以外を使用してはならない」というビール純粋令が公布されました。ちなみに、ここには「酵母」の記載はありません。当時は自然発酵だったので酵母の存在自体を知らなかったのです。後の1551年の「改訂版」では、新たに「Hepffen(酵母Hefeの古語)」なる言葉が追加されました。発酵桶の底に残った沈殿物を回収することを知っていたのです。
 ちなみに近年人気の白ビール「ヴァイツェン」は、小麦を使用しています。この場合純粋令の「原料は大麦」と矛盾するようですが……。実はヴァイツェンは純粋令が公布される以前からバイエルンで造られていました。純粋令公布以降は宮廷醸造所と一部の修道院で造るようになったのです。特に17世紀はじめにバイエルン候を継承したマキシミリアン一世は、この宮廷がほぼ独占したヴァイスビールの販売による収益によって三十年戦争の軍費をまかなったといいます。「純粋令」で小麦の使用を禁止しておきながら、財源確保のために宮廷がヴアイツェンの醸造を独占したわけです。
 さて、当時は北ドイツのビールの品質に追いつくために、官能テストの徹底などの品質向上が工夫されましたが、中には奇妙なものもありました。15〜16世紀にベルナウで行われた検査法などは変っています。「三人の検査員が皮のズボンを履き、表面 をビールで覆った木製の長椅子に座る。二時間経過後一斉に立ち上がり、椅子がズボンにくっついて上がればビールは合格」というものです。濃いビールが良い、ということなのでしょうが、もっと奇妙なことに英国では同じような検査法が行われていて、そちらの方ではくっついた場合は発酵不良により不合格とされたというからケッサクです。
 後にバイエルンがワイマール共和国に参加することを迫られたとき、条件として出されたのが「全ドイツ共和国内で純粋令が採択されること」だったといいますから、いかにバイエルンがこの法令にこだわりを持っていたかが知れようというものです。もっとも戦後フランスから物言いがつきます。ドイツだけがビールの原料を限定するのはEC内の貿易の公平さを阻害するというのです。結局1987年に純粋令は非合法化されました。


●ホフブロイハウス

・1589年、バイエルンのヴィルヘルム5世、ホフブロイハウス開設
・1590年、北独のアインベック・ビールを宮廷醸造所で醸造する
・1614年、ホフブロイハウスにてアインベック・ビールを再現
・1920年、ヒトラーのナチス大集会

 前述の通り、14〜15世紀のドイツでは、北ドイツのアインベック市のビール・ギルドが作る「アインベック・ビール」の評価が高く、ヨーロッパ全土に輸出されていました。かのマルチン・ルターもこのアインベック・ビールを一気飲みしてからウォルムス帝国議会へと向かったといいます。バイエルン候ヴィルヘルム5世はバイエルンでアインベック・ビールを作るために、1589年にミュンヘンにホフブロイハウスを作ります。最も、最初からうまく作ることができたわけではないようで、ヴィルヘルム5世の息子マキシミリアン一世がアインベックから醸造技師を連れてきた結果 、本家と同等レベルにまで再現できたのは1614年のことでした。ミュンヘンで作られたアインベック・ビールは、「ボックビール」と改名して今に至ります。ボックビールは原麦汁エキスが16%、アルコールが7%でホップの苦味も強い、濃厚なビールです。
 当初宮廷醸造所として出発したホフブロイハウスは、1610年以降一般民衆へもビールの販売を行っていました。いわば市民醸造所だったのです。それでも第一次大戦でハプスブルクのオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊するまでは、ホフブロイハウスの客はバイエルン王室の格式に従って自分でジョッキを洗ってビールを注がなくてはならなかったそうです。
 1920年2月24日にヒトラーはこのホフブロイハウスでナチスの大集会を開催しました。これが大成功を収め、ある意味ナチスの旗揚げとなったとされています。ホフブロイハウスは今もビアホールとして機能しており、観光客でにぎわっています。


●オクトーバーフェスト

・9月中旬の土曜日から10月の最初の日曜日まで、全てのミュンヘンの醸造業者が参加する祭典
・1800年頃、ウィーンビール誕生
・1810年、バイエルンの皇太子ルートヴィッヒの結婚式典(競馬)
・1830年頃、メルツェンビール誕生(3月に仕込んだビールを秋には空にする)

 オクトーバーフェストはミュンヘンで開催される世界を代表するビールの祭典で、世界中の人々がこの時期にミュンヘンを訪れます。会期は二週間で10月の最初の日曜日が最終日と決まっているので、オクトーバーといいながら実質的には9月の後半が開催期間となっています。会場にテントを出せるのはミュンヘンの六大メーカー、すなわちパウラナー、シュパーテン、レーヴェン、アウグスティーナ、ハッカー・プショール、ホフブロイハウスに限定されています。一日の入場者数は約50万人、約500万リットルのビールが飲まれるそうです。
 もともとは1810年、時の国王マキシミリアン一世の皇太子ルートヴィッヒ(後のルートヴィッヒ一世)とザクセンからの皇太子妃テレジアとの結婚を祝賀して、この地で競馬を開催したのが始まりとされています。最初はビールと無関係でしたが、四年後には陶製ジョッキのビールを販売する小屋が林立するようになり、数年でビール祭に変貌してしまったようです。
 さて、オクトーバーフェストのビールはメルツェンビールと決まっていました。夏ビールの最後の仕込みが三月(メルツェン)であったことに由来しています。当時はビールが酸敗してしまうことも多かったので、幸運にも秋まで持ちこたえたビールは感謝を込めてオクトーバーフェストで飲み干すことになったとされています。メルツェンビールはウィンナー麦芽を使ったアルコール5%程度のダークビールで、1839年にミュンヘンのライスト醸造所のガブリエルがウイーンビールの開祖アントン・ドレアーの元でビール作りを学び、それを応用して1871年にオクトーバーフェストで売り出して以来大評判となり、改良を重ねて今に至っています。



●ピルスナーの誕生

・冬仕込みのメルツェンの成功(下面 発酵ビール)
・1840年、ミュンヘンにて下面酵母分離
・1842年、チェコのピルゼンにて、ピルゼンの水(軟水)とミュンヘンの酵母からピルスナーを醸造
・1845年、英国にてガラス税撤廃


 前述のウィーンビール、メルツェンビールは共に下面発酵ビールです。冬の寒い時期に仕込んだビールがうまくできることをバイエルンの醸造業者は経験的に知っており、既に15世紀にそれを実用化していました。山に横穴を掘って氷で室を作り、若ビールを貯蔵しておいたのです。その結果 従来の上面発酵以上の高い成功を収めることができたのです。冬仕込みの最後のビール、すなわちメルツェンは秋までもたせることができるビールとして市場の評判も良かったわけです。
 1840年、ミュンヘンのシュパーテン醸造所のガブリエル・ゼードルマイル2世は、ウィーンのシュヴィチェット醸造所のアントン・ドレアーと協力して下面 酵母の分離に成功します。そしてバイエルンの醸造技師がピルゼンに派遣されて、ボヘミア産の麦芽・ホップ、そしてピルゼンの水と、先に分離したミュンヘンの酵母を使ってピルゼンビールを作りました。ここで初めて、明るい黄金色のピルスナーが誕生したのです。ポイントはピルゼンの水にありました。硬度の高い水はダークビールに向いていますが、淡色ビールを作るには硬度の低い軟水が必要だったのです。折しも1845年にガラス税が撤廃されてガラス容器が広く出回るようになると、ビールの香味だけでなく外観も注目されるようになり、ピルスナーの評判は一気にヨーロッパ全土に伝わりました。



●アンモニア式冷却機

・1873年、リンデのアンモニア式冷却機
・ミュンヘンのシュパーテン醸造所に第一号機設置
・1890年代末、ミュンヘンにて淡色のミュンヒナー誕生(ピルゼン側は抗議)→「ピルス」と呼称
ラガービール〜「貯蔵」の意


 上面発酵ビールが常温で発酵するのに対し、下面発酵ビールは低温化で発酵が行われるため大量 の氷を必要とします。1キロリットルのビールの製造に1トンの氷が必要だとされていました。その問題点も1873年にカール・フォン・リンデがアンモニア式冷凍機が発明されることによって解決します。先のシュパーテン醸造所のガブリエル・ゼードルマイル二世は冷凍機の第一号機をシュパーテンに設置しました。これにより世界中いつでもどこでも製造が可能となったのです。ちなみに、下面 発酵ビールは「ラガービール」と呼ばれますが、そもそもは低温で貯蔵されたことに由来しています。
 当時のヨーロッパでは、 ミュンヘンビール、ウィーンビール、ピルゼンビールが三大ビールとうたわれましたが、次第に明るい黄金色のピルゼンビールが他を圧倒し、ウィーンビールはハプスブルク家と共に消滅してしまいます。ミュンヘンのパウラナー醸造所とシュパーテン醸造所は、ピルゼンの人気にあやかるために1890年代に淡色ビールを開発し、「ピルスナー」と称して販売します。しかしこれに対しビルゼン側が抗議、裁判の結果 ピルゼンの異議申し立ては却下されたものの、ドイツではピルゼンタイプのビールを「ピルス」と呼ぶようになりました。下面 発酵の発祥の地ミュンヘンは名を残すことができず、ピルスナーがいわゆるラガービールの代表となって今に至っています。


●カールスバーグ

・1846年、ヤコブセン、ミュンヘンから下面酵母を入手しデンマークで初のラガービールを製造
・1847年、ヤコブセン、カールスバーグ社設立(息子カール+ベルビーの丘)
・1875年、カールスバーグ研究所
・1883年、ハンセン、下面酵母純粋培養 →Saccharomyces carlsbergensis


 1845年、ヤコブ・クリスチャン・ヤコブセンはシュパーテン醸造所から二本の小瓶入りの下面 酵母を入手し、コペンハーゲンへと馬車を走らせました。途中ヤコブセンは何度も馬車を止めて冷たい井戸水で瓶を冷やしたといいます。そのかいあって翌1846年、デンマークで初めてラガービールが発売されました。翌1847年にはコペンハーゲン郊外の水質の良いベルビーの丘に工場を建設し、息子カールの名を取ってカールスバーグと名付けました。
 1875年にはカールスバーグ研究所が設立され、微生物部門のエミール・クリスチアン・ハンセンは酵母の純粋培養法を確立します。汚染のないクリーンなビール作りはここから始まりました。ハンセンは純粋に分離された下面 酵母に工場の名を取ってSaccharomyces carlsbergensis(サッカロミセス・カールスベルゲンシス)と名付けたのです。


(Part-5.「アメリカのビール」へ続く……)




◆トップページに戻る。
◆「宇都宮斉プロフィール」のコーナーへ。
◆「一杯のお酒でくつろごう」のコーナーへ。
◆「漫画・映画・小説・その他もろもろ」のコーナーへ。
◆「オリジナル・イラスト」のコーナーへ。
◆「短編小説」のコーナーへ。