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【小説】梁石日「闇の子供たち」

 タイ北部の山岳地帯で、八歳の少女が男に買われていく。男は自らが幼児期に虐待された記憶を持ち続けており、それ故に少女を従わせる術を知り尽くしている。少女の姉は同じ歳に幼児売春宿へ売られエイズにかかり、生きたままゴミ処理場に捨てられて、それでも命からがら親のところへ逃げ帰るが、少女の破れた皮膚には無数の蟻がたかり、父親は油をまいて少女を焼き殺してしまう。  
 これははした金で売り飛ばされ、大人たちに蹂躙され捨てられる子供らを淡々と描いたこの物語の、ほんの一つのエピソードに過ぎず、同じように買われた妹にはさらに過酷な運命が待ち受けている。社会福祉センターに派遣された主人公の音羽恵子も、新聞記者の南部浩行も、結果 として闇から闇へ葬られる子供を一人として助けることはかなわず、彼らの行く手には苦い結末が待っている。  
 無為に失われていくあまりに幼い命と、無惨に踏みにじられていくあまりに幼い心……作者はしかし視点を子供の側に持って行くことをあえて避けている。音羽も南部も、その他大勢の大人達も、物語らぬ 子供の瞳の奥を永遠に覗き見ることはかなわない。既に大人になってしまった人間は、もう本当の意味で子供の側に立つことはできないのだ。加虐者も救済者も、自らの思惑に基づいて行動する。そして子供らを救おうとする者達も、表情を失った子供らの気持ちを既に知ることはできなくなっているのである。  
 現在、新訳版が百万部売れているというドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」には、登場人物のイワンが、弟のアリョーシャに向かって、有名な大審問官のエピソードの前に、様々な幼児虐待の例を語り聞かせる場面 がある。作者はこの場面を用意するために、数多くの新聞などの記事を収集したというが、もしこの現代で同じテーマの作品を書いたとしたら、当然ながら幼児売春の現実に触れることを避けられなかっただろう。イワンはそれを激しく断罪する。「こんな馬鹿げたことが分かるかい? 一体何のために、こんな犠牲が必要だと言うんだ?」  
 同じテーマは、クラシックな文学だけでなく現代のコミックでも多く取り上げられている。相田裕「GUNSLINGER GIRL」(VOL.4)では、ユーロポールの警官が、児童虐待班の幼児虐待スナッフムービーを観る場面 がある。さらわれてきた15歳くらいの未成年児童は、陵辱され、拷問され、最後に殺される。上司は言う。「お前はこの現場には不向きだよ。こんな物を見て喜ぶ人間を、こんな事が何件も行われていることを、想像できないだろ? お前は幸せに育ち過ぎている。世の中と人間を善いものと信じている。だから現場にはやれんのだ」
 幼児売春は何故起こるか……想像力の欠如か性癖のゆがみか……この作品では、子供らの最大の加虐者が、子供時代に虐待された記憶を抱える人物として描かれており、この悲しい循環がこれからもずっと続いていくことを暗示している。立花隆著「サル学の現在」(文春文庫)によれば、人間に最も近いチンパンジーは飢餓状態にない時にも群の子供をいたぶり食い殺すという。ゴヤの名作「我が子を喰らうサトゥルヌス」は、単なる神話ではなく人間そのものを描くことを目的に描かれたという。子殺しという行為は、戦争や環境破壊と等しく、自らの未来を、可能性を殺すという点で、まさに人間存在の本質そのものなのかも知れない。    
 ちなみに阪田順治監督による映画版では、主人公を南部浩行にして江口洋介が演じ、脇を大河ドラマ本年主役の宮崎あおいと来年主役の妻夫木聡が固める形となっていた。内容的に映画化困難な作品を、実際にタイでロケしてかなりの部分を忠実に再現していた。実際に現地の子供達を起用し、かつ実際のペドフィリアを刺激しないよう子供の容姿や表情にはかなり気を遣ったようだ。映画としてのトーンは終盤まで見事なもので、扱いにくいテーマを見事に映像化していたが、この監督の癖らしく主人公に対して妙な設定を加えて逆に不自然な結末となっている。エンディングで流れる桑田佳祐の曲も、詩の内容にしろ曲調にしろあまりにもミスマッチに思えた。


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